短編小説「テリーマンの跡継ぎのためのスープ」

 人生で一番の喜びとは何だろう。
 ことが、妻と10年前に離婚し、当時16歳のひとり娘の親権を取られて音信不通となった50代の男にとっては、別れた娘からの連絡できまりだろう。
 何の前触れもなく、メールボックスに舞い込んできた娘からのメールを、私は信じられない思いで見つめた。件名には「パパ、元気にしている?」と書かれていた。その件名を、「太陽と死はまっすぐに見つめることができない」という警句と同じくらい、何度も何度も読み返して味わった。数分経ってようやく、私は娘からのメールを開いた。

大好きなパパへ。

 

このメールを読んでいるということは、パパに逢えなくなってから10年がたったということね。これはメールのタイムカプセル。これを書いている今から10年後に、パパへ届くように設定したの。

 

パパに訊きたかったことがあるの。どうしてママにもっと優しくしてあげられなかったの? 性格の不一致で離婚する夫婦は多いのは知っている。でも本当は、ママにはパパしかいなかったんだよ。どうしてそれをわかってあげられなかったの?

 

16歳の私でもわかることがある。それは暴力って最低だということ。私自身は殴られたり蹴られたりしなかったけれど、家庭の中に暴力があるだけで、私もとても傷ついたんだよ。

 

もう一度、背が高くてがっしりとしたパパと、小柄で華奢なママに、どれくらいの体格の差があったかを思い出して。

 

身体の大きなパパが、床にうずくまって、ママに殴る蹴るの暴力を振るわれている姿は、娘が一番見たくなかった姿よ! ママには決して暴力を振るわないパパの優しさを、私がいつも涙目で見ていたのに気づいていた? 私はパパの子よ。

 

でも、ある程度ママに殴らせてストレスを発散させると、上目遣いで子犬の真似をして、ママの足元に「くぅん」とすりよっていくパパが好きだった。それでもまだ蹴りが飛んでくるときは、ニャンとたちまち猫に化けてソファーに飛び乗り、四つん這いの背中を高くして、シャーッて威嚇していたね。暴力と同じ次元に立たない勇気って、きっとああいうことだと思うニャン。

 

 それでもおさまらずに、ママが箒を持ち出してパパを叩き始めたら、パパは箒を奪い取る。そのあと箒に跨って、魔女のふりをして家中を走り回る姿が、目に焼き付いて忘れられないわ。サリーって誰だったの?

 

少しも飛べない魔法使い。男として愛する妻にまったく魔法をかけられないのを気にして、クリーニング屋のアラフィフの女性と甘い会話の練習をしていたの、ママにばれていたよ。ママと同じく小柄な女性だったから、「これまでの人生で、何回くらいお姫様抱っこされましたか?」って訊いたそうね。あんなに人脈の濃いところで、ストロベリートークの練習なんかしないでよ! クラスで噂になって、本当に恥ずかしかったんだから!

 

ママのヒステリー持ちを知っていて結婚したのなら、パパはもっと我慢しても良かったと思う。一度だけ、パパがママに怒ってしまったことがあった。アレは本当にあんなに怒るほどのことだったの? チェストの上に飾っておいたキン肉マン消しゴムが、チェストを使うたびに落ちてくるのにイライラしたママが、キン消しを全部ミキサーにかけて、ミキサーごと捨てたときのこと。ああいうときだけ、パパが本気で涙を流して怒ったから、ママは淋しさを募らせたんだと思う。

 

「何てことしてくれたんだ! この勇者たちの消しゴムの間には、かけがえのない熱い友情があったのに!」

 それを聞いたママが、激昂して言った悲痛な台詞は、ママの魂の叫びだったと思う。

「結婚した頃の熱い愛情はどこへ行ったの? ねえ、すべてこのキン消しが消してしまったっていうの?」

「いや、キン消しはゴム製だけど、文字を消すことはできない」

「そういうことを言っているんじゃないの! 小さなゴムのフィギュアと、今ここであなたに向かって泣き叫んでいる生身の妻と、どっちが大事なのって訊いているの!」

 あのとき、すぐにママを抱きしめなかったパパ、ちらっとミキサーの中の粉々のゴムの粒を振り返ったパパは、世界一莫迦だったと思う。

 

私がパパとママの間に入って、私のお願いで、三人でハグしあった。あれが私たち三人家族の最後の最高の思い出だわ。 

嘘みたいに子供っぽくて、心が広いけれど不器用で、よく笑っていたパパ。そんなパパのことが、私は今でも大好きだよ。小さい頃、私がポニーに乗りたいって言ったら、すぐに肩車して連れていってくれたのを今でも覚えている。大きくなったらアンソニーも見つけてくれるって言ってくれた。でも、落馬して死んじゃうから、アンソニーでは駄目ね。

 

パパ、今どうしている? 10年たった今も、パパは私のこと思い出してくれている? 好きでいてくれている? ねえ、羞かしいけれど書いてしまうね。私はパパのそばで生きていきたい。同居はしなくていいから、スープの冷めない距離で、一緒に暮らしたいの。

 

いつか新しく生まれてくる私の子供のためにも、パパがそばにいてくれたら、どんなに心強いかと思うの。パパを愛する気持ちは、10年経っても同じよ。パパ、育ててくれて、ありがとう。

 

連絡を待っているわ。だって私はパパの子だから。 

 

 年を取ると涙腺が緩むのは本当だ。娘が「決して暴力を振るわないパパの優しさを、いつも涙目で見ていた」と書いていたのを読んだとき、私の視界は涙で霞んでしまった。さらに、「この勇者たちの消しゴムの間には、かけがえのない熱い友情があったのに!」という懐かしい喧嘩の台詞を読んだところで、私の涙は最高潮に達してあふれやまなくなった。
 あのとき無残に粉々にされたゴムフィギュアの粒は、ガラスの瓶に埋葬して、カラフルなサンドアートに変えて、今でも部屋に飾ってある。瓶の真ん中くらいの高さにある薄い黄色の層は、勇敢で義侠心の強いテリーマンの遺骸だ。 

  しばらくの間、私は迷っていた。けれど、「連絡を待っているわ。だって私はパパの子だから」というメールの末尾に感動して、私は心を決めた。

「もしもし。え? パパ?」

「もしもし。そうだよ。10年前のおまえから、今日メールが届いたんだ。とても感動したよ。ありがとう」

「え? 私、10年前にメールなんか送ってないけれど」

「メールには、離婚して10年たったら、近くで一緒に暮らしたいって書いてあったよ」

「ああ、アレックスがそういう設定で書いたのね。さすがの発想力ね、アレックスは!」

「男に頼んで、あんなメールを書かせたのか」

「アレックスは、私のプライベート人工知能よ。何でも相談に乗ってくれて、何でも対処してくれるの」

「あのメールは人工知能が書いたものだということ?」

「そうよ。私にインタビューを取って、文章をまとめてもらったの。涙も笑いもあるようにお願いしたんだけれど、どうだった?」

「なんだか、複雑な気分だ。感動して泣いてしまったパパが、莫迦みたいだ」

「がっかりしたみたいね。でも、そうやってすぐに泣いてしまうのが、パパの良いところ。…黙らないでよ。いい知らせもあるのよ」

「いい知らせ?」

「いま私のお腹の中に、男の子がいるの!」

「本当かい! いつ? 結婚はいつするんだい?」

「それがね… 相手がアンソニーだったの。あるとき急に逃げられちゃったから、結婚せずにひとりで育てることにしたわ」 

「オーマイゴッド。何て酷い男だ」

テリーマンみたいな口調で言わないでよ。でも、彼と結婚したとしても、長続きしなかった気がするから…。だから、パパに近くで暮らそうと誘うメールを送ったの」

「どうして結婚しても続かないと思ったんだい?」

「ふふふ。だって、私はパパの子よ」