短編小説「幸福になるにはキウイがいい」

 新聞社を40歳で辞めて、フリーランスになってから、日本のあちこちへ飛び回って、いろいろな記事を書くようになった。受注先の要望で思い通りに書けないこともよくあるが、それは大手新聞の社会部にいた時も同じ。各地を自由に旅して回れるだけでも、ぼくはセミリタイヤしてよかったと思っている。

 早朝の新幹線に乗って熱海で下車すると、ぼくは高台にある通称「猫屋敷」へと向かった。そこの女主人が猫好きで有名な美容家なのだ。新幹線の中で復習した本によると、その美容家は自然体の心と身体が美人をつくると考えているようだ。

 約束の時刻にドアベルを鳴らすと、美容家みずから扉を開けてくれた。

「こんにちは。すぐに中へ入ってちょうだい。猫が飛び出しちゃうから」

 ぼくが玄関へすべり込むと、十匹以上のいろいろな種類の猫が、思い思いの仕草でこちらへ近づいてきた。噂通りの猫屋敷だった。吹き抜けのリビングの高い壁には、キャットウォークがはりめぐらされていて、猫たちが活発に行き来している。天窓の真下には猫用のガラスの廊下があり、そこでは数匹のネコがしどけなく寝転がって、日向ぼっこをしていた。

 雑誌の編集部から依頼された主題は「美人の条件」。編集長の知り合いが、どうしても書いてほしいと熱心に依頼してきたのだそうだ。美人は嫌いではないから、ぼくもぜひとも「美人の条件」を調べたくなった。

 美容家は、本と同じく自然体が美人を生むという話をしている。いちいち丁寧に相槌を打ちながら、ぼくは美人の定義を訊いてみた。

「内面はともかく、女性の外面の美は、もう定義ができているの」

「美人の定義! ぜひともお聞かせください」

 そう言って、まともに美容家の顔を見上げたとき、五十歳を過ぎているはずの彼女の顔が、ひどく美人に見えた。モデル顔でも女優顔でもないので、世間一般の男性なら支持しないだろう。しかし、ひたいから眉にかけての白い神々しさが、鼻筋へすっと下りてくる顔立ちの美しさに、ぼくは圧倒されてしまった。たぶん、美人の定義なんて忘れさせてしまうのが、美人の条件なのではないだろうか。

「いま私に見惚れていたでしょう?」

「おっしゃる通りです。これが世で『美人を作っている美人』と言われる方の顔だと思うと、つい感謝で胸がいっぱいになって…」

「うふふ。私の影響を受けて美人が増えるのは嬉しいわ」

 美容家は勉強家だった。美にまつわる欧米の研究論文のスクラップを見せてくれた。

「美人の定義だったら、これなんて面白いわよ」

 それは「平均顔」に関する研究論文だった。『進化論』のダーウィンの従兄弟が、凶悪犯罪者の「平均顔」を作ると、犯罪者一人一人より、はるかに魅力的ないい顔になったというのである。犯罪者に美男子がいるのではない。「平均顔」にして均整がとれると、美しく見えるのだ。

「平均顔にすると美しくなるのは、男も女も同じ。ただし、世にいう美人だけを集めて平均顔を作ると、二つだけ美人特有の要素が出てくるの」

「その二つが美人の定義と呼ばれているわけですね」

「ずいぶん呑み込みが早いのね。眼が大きいこと、顎が細くて短いこと。わかりやすく言い換えると、男性の平均顔から遠ざかること、少女の平均顔に近づくこと」

 そこまで説明すると、美容家はぼくの顔を見て微笑んだ。危うくまた見惚れてしまいそうになった。

「何かに気付かない? 美人の顔は何に似ていると思う?」

「……。わかりました。猫!」

「その通りよ」

 面白い。ぼくがノートに急いでメモのペンを走らせていると、キッチンから美容家がアイスクリームを持ってきた。5月らしくない茶菓子ではあるが、彼女が好きなのだろう。マンゴーとキウイのキャンディーアイスをぼくに向かってかざして、こう訊いてきた。

「あなたがどちらが好きか当ててもいい? 圧倒的にキウイでしょう?」

「その通りです! キウイがフルーツの中で一番好きです! どうしてわかったんですか?」

「そんな気がしただけ。ちょうど良かったわ。今日は秘書のミイコちゃんが手伝いに来てくれる日なの。彼女をあなたに紹介するわ」

 奥から、春めいたスーツ姿の若い女性が姿を現した。正視するのがつらいほどの、飛びっきりの美人だった。

「ちょうど良かった。ミイコちゃん。取材はいま終わったから、駅まで送って行ってあげなさいな」

 高台から駅へとくだっていく道が、思いのほか不安定で動悸がしたのは、若い美人と一緒に歩いたからにちがいない。本名の美穂子をもじってミイコと呼ばれているのだと、彼女は説明した。ミイコの美しい顔立ちは、今日取材した美人の定義を完全に満たしていた。つまりは、可愛らしいネコ顔だったのだ。

 ぼくが思い切って駅前のカフェに誘うと、意外にもにっこり笑ってミイコは承諾してくれた。ぼくは、先に自分の身の上話から始めた。多忙に嫌気がさして大手新聞社を辞めたこと、未婚で花嫁候補を探していること、楽しく自由に生きていきたいこと。

 ミイコに乞われて、取材で世界を飛び回った旅の話もした。やがて、さらに踏み込んで、両親に捨てられて、孤児院で育ったことも話した。

「まだ、きみの人生のあれこれは話さなくていいです。ひとつだけ教えてくれませんか。また逢ってもらえますか?」

 ミイコは微笑んで頷いた。

 それから、ぼくは何度も新幹線に乗って、ミイコに逢いに行った。彼女よりひとまわり以上年齢が上のぼくは、ミイコを喜ばせるためなら何でもするつもりでいた。

 あえて好みを訊かずに連れていった寿司屋は、彼女も気に入ったくれたようだった。駿河湾の鮮魚は、嘘のように美味かった。

「きみはきっと魚好きだと思ったんだ」

「うふふ。当たっています。どうしてそう思ったんですか?」

 まさか、ミイコが猫顔だからだとは言えなかった。

「勘なら勘でいいんです。一緒にお魚の美味しさを思い出せたのが嬉しいです」

 ミイコは謎めいていた。どれほどこちらが心を開いて話しても、自分の話をしたがらなかった。いつまでも、猫をかぶっていたいのだろうか。ぼくはますますミイコの気を引こうとあれこれ試みるようになった。

 いろいろと試してみてわかったのは、猫に合うものは、ミイコにも合うということだった。夜の海の見えるバーでは、アルコールよりもチーズの盛り合わせに大喜びした。瀟洒なイタリアンレストランでは、パスタよりもクラムチャウダーのスープを嬉しそうに口へ運んでいた。チーズも生クリームも帆立も、猫の好物なのだ。ミイコの喜んでいる姿を見ていると、自分まで嬉しくなって、ぼくは普段からチーズを食べるようになった。

 三度目のデートのとき、夜の公園のベンチで、ミイコはぼくのくびに腕を巻きつけた。

「あなたといると、とても楽しいの。あなたのことがとても愛らしいと感じる」

 そういうと、ミイコの手がぼくの頬や首筋を撫でていったが、ぼくの手が彼女の身体に伸びていくと、その手の動きは禁じられた。時期を待って、と彼女はぼくの耳に囁いた。

 五度目のデートのときに、ぼくは彼女にこう訊いた。

「それくらい若くて美人だったら、東京でモデルや女優の仕事があるんじゃない?」

「そんな。私くらいの美人では、業界では通用しないの。通用するのは、ああいう人たちだけ」

 ミイコがああいう人たちと呼んだのは、例の熱海の美容家を崇拝している女優やモデルたちのことだった。その誰もが美しく、そのだれもが猫顔だった。ぼくはずっと訊きたくてたまらなかった質問を、ミイコに投げた。

「ひょっとして、あの美容家の先生は、あそこで飼っている猫を美人に化けさせて、業界に送り出しているんじゃないかな」

 その言葉を訊くと、ミイコははっとした表情になって、ぼくの顔を見つめた。見つめ合っているうちに、彼女の表情に悲しみが満ちてくるのがわかった。

「とうとう… あなたは真実の扉の前まで来てしまった…」

 食事の途中なのに、ミイコはぱっと敏捷に席を立つと、レストランの外へ駆け出した。ぼくも財布から抜いた一万円札をレジに投げると、ミイコの後を追った。

 彼女に追いつくと、夜の道端でぼくはミイコを後ろから抱きしめた。はじめてきつく抱きしめて、ぼくはミイコの背筋がとても柔らかいのを感じた。ぼくには、何かがわかりはじめているような気がしていた。

「あなたのことは好きだけれど… ごめんなさい… 楽しかったわ…」

 ミイコは途切れ途切れに、そんな言葉を呟いている。ぼくは彼女の身体を抱きしめる腕に、力を込めた。

「いいんだよ。きみが誰でもかまわないし、きみがネコでもかまわない。ぼくだって魚やチーズは好きなんだ。一緒に好きなものを食べて、楽しく暮らそうよ」

 ミイコは身体に巻きついたぼくの腕をほどこうとした。ぼくは抱きしめた腕をほどきたくなかった。わかってほしい。きみがぼくに謝らなきゃいけないことなんて、何もないことを。

「ごめんなさい。あなたとは結ばれてはいけない種族なの。さよなら」

 そう言うと、ミイコはするりとぼくの腕の中をすり抜けて、夜の道を一散に走っていた。

 その晩からミイコの携帯電話はつながらなくなった。一週間、音信不通が続いた。ぼくは居ても立てもいられなくなって、熱海の高台にある美容家の家をアポイントメントなしで訪れた。

 玄関の扉を開けたのは、美容家本人だった。

「あなたね、お待ちしていました。ミイコちゃんも、あなたが来るのを、ずっと待っていてくれたのよ」

 不可解な言葉を浴びせられて、ぼくはほとんど茫然自失のまま、リビングのソファーに腰かけた。美容家はにこやかな表情で恐ろしい話を切り出した。

「ご推察の通り、私が猫を美しい人間にして世に送り出しているのは本当よ」

 ぼくは黙っていた。そんな危険すぎる告白を、フリージャーナリストにするのは不自然だと感じたからだ。

「前回いらっしゃったとき、美人の定義をお話ししましたね。要するに、猫顔であること。美人には小さな必要条件もあるのよ」

 そこまで言うと、美容家は美しい顔に、ぼくを試すような微笑をしばらく湛えた。

「その条件とは、生後二か月までに、何度も人間の顔を見ること。その経験がないと、誰の顔か、どういう顔が美人かわからなくなるの」

「お話がよくわかりません。ミイコさんに逢わせていただけないでしょうか」

「憶えていないのも無理はないわ」

「ミイコさんのことは片時も忘れたことはありません」

 美容家は笑いながら肩をすくめて、ミイコを呼んだ。

 ミイコがリビングへ入ってきた。相変わらず猫顔の美人だった。カットしたキウイの入ったガラス皿をぼくの方へ運んでくる。

 ぼくは息せき切って、ミイコにこう言った。

「逢いたかった。また逢えてうれしいです」

 ミイコの顔を見て、即座にそう言ってしまったのが、不注意だったことは否めない。ミイコがキウイの入ったガラス皿を、テーブルではなく床に置いたことに、ぼくは注意を払うべきだったのだ。

 ぼくは初対面の美容家と会って、その顔に強く惹かれたことを思い出した。美容家は微笑みながら、ぼくにこう言った。

「ミイコは私のアドバイス通りに美人顔に整形した人間なの。こういう事実を、すらすら言うことからわかると思う。…オスだからって、無思慮な捨て方をしてごめんなさい。反省しているわ。これからずっとあなたはミイコに逢えるのよ。あなたはもう猫をかぶらなくてもいいの」

 ぼくは床に置かれたキウイの皿を見下ろした。そういえば、マタタビの代わりにキウイを使って猫を酔わせる愛猫家の話を聞いたことがあった。

 ぼくはニャーとひと声、口に出してみた。不思議なことに、まったく違和感がなかった。ぼくが猫をかぶっているのではなく、猫がぼくをかぶっているのがわかった。

 ニャーともうひと声鳴くと、ぼくは床にあるキウイの皿に飛びついた。すぐに、美味しすぎる果実のしたたりに、ぼくはほとんど夢見心地になった。そばにきたミイコに首筋や喉元をくすぐられて、その夢見心地は完全に至福そのものになった。

 

 

 

 

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