短編小説「歪んだ真珠のつくりかた」

 部屋には沈黙が張りつめていた。私はこの沈黙の意味を考えていた。それは銃声を待っている沈黙かもしれなかった。

 バロックとは「歪んだ真珠」という意味だ。酒場に来た男が、得意げにそう私に語った。「きみはバロック的に美しい」とも。青山の本屋に行って、バロックの美術書をめくると、少年が凸面鏡に映っている絵が紹介されていた。その絵をじっくり眺めたが、私には少しも似ていなかった。

 酒場の男に心が揺れたのには理由がある。彼の言葉通り、私は絵に描いたような美人で、下絵が歪んでいたので、麻酔とメスで何度も書き直してもらった美人だった。

 18歳で夜に男たちの酒の相手をするようになって10年。夜の日本列島を見下ろしたとき、輝かしい砂金が凝集している点から点へと、都市を渡り歩いてきた。旅が終わらなかったのは、お金を貯めては整形してきた過去を隠すためだった。今では鏡に映った自分に見惚れてしまうこともある。鏡の中の私は、ちょうど手を伸ばせば届きそうな距離にいる。

 部屋には沈黙が張りつめていた。私はこの沈黙の意味を考えていた。それは銃声を待っている沈黙かもしれなかった。ちょうど手の届きそうな距離に美しい私がいて、私の顔にピストルの銃口を狙い定めていた。旅は今日で終わりなのかもしれない。

 というのは、目の前に立っている私は、鏡の中にいるわけではなかったからだ。つい先ほど、私が帰宅したら私がいた。そして銃をこちらに向けてきたのだ。

「驚いた顔も綺麗ね。私は、あなたの生きている今日から数えて、三日後からやってきた私よ」

「何のご用事でいらっしゃったの?」

 三日後の美女は、首をかしげて微笑した。小寝室の方を見て、私に視線を戻した。

「私たちのチワワを殺してきたの」

 三日後の美女は唇を歪めてそう言った。「バロック的に美しい」と男に褒められたのを、私は思い出した。そして次の言葉を待った。

「驚かないの?」

「あまり驚かないわ。そうしたくなったことが、私にも何度かあったから」

 チワワと呼んでいるのは、身長が155cmしかない私のボーイフレンドだった。二人で街を歩くと、見知らぬ人々に指を差して笑われたものだ。身長が170cmの私とは、可笑しいくらいアンバランスに見えるらしい。「おまえのせいでまた笑われたわよ」と私はチワワをなじって、いくつも命令を押し付けた。チワワは何度もぺこぺこ謝って、私のために料理や洗濯や掃除のすべてを引き受けた。

「どうしてこんなに冷たく当たる私と一緒にいるの?」

 そう訊くと、チワワは私を見上げて「きみはとても美しいから、ずっとそばにいたい」と優しい顔で言った。その顔が気に入らなくて、私はチワワの頬を平手打ちした。

 誰もが私を口説こうとしたが、誰を選んでも、男はこう言って去っていった。「きみはとても美しいけれど、ずっとそばにいたい女性ではない」。作られた美貌はすぐに飽きられ、おまけに私の中身は空っぽだった。その淋しい男遍歴にあてつけて言ったのかと、私はチワワを問い詰めた。チワワはぺこぺこ謝った。

「そうだった。あなたは三日前の私だったわね。明日には、あなたがどうしてもチワワを殺したくなる事件が起きるわ。チワワがあのシーズーと二人でデートするのよ」

 三日後の美女の言う通り、私の心に熱い怒りがやってきた。シーズーとはチワワがSNSで知り合った小柄な女。職業は知らないが、写真を見せてもらったことがあった。目が小さいので、私はシーズーと呼んでいた。「ぼくには一生きみしかいない」。そう口癖のように囁いておいて、あんな小型犬のような女と浮気をしてくれるのか。周囲に知られたら、どれほど私が恥ずかしいか考えたことがあるのだろうか。ただでさえ…

 しかし、怒りは急に萎んだ。私の代わりに、三日後の美女がすべてを始末してくれたからだった。私は遅すぎるのを承知で、静かにそろりそろりと両腕をあげて、武器を持っていないことを彼女に示した。

「それは喜びを表すポーズ?」と三日後の美女が訊いてきた。

 私はイエスともノーとも取れるように、曖昧に笑った。よく酒場の男たちに見せている媚態だ。それを見ると、いきなり三日後の美女は天井へ向けて銃を放った。私は両手を差し上げたまま、跳びあがった。

「チワワを殺したことをとても後悔しているの、私は。殺した後にチワワの日記を見つけたのよ」

 そう言うと、三日後の美女は懐から小さなノートを取り出して、私に渡した。

 日記には愛と喜びにあふれた私への賛辞が書かれていた。私が言った小さな「ありがとう」や、チワワが選んだレストランで楽しそうにしていること、チワワのマッサージに気持ち良さそうに目を閉じている様子などが、嬉し気な筆致で書かれていた。毎日の記述は、「明日はきみの心の中でもっと背が高くなるよ」という決まり文句で締め括られていた。

 最新の日記は、私に似合いそうな有名なネイリストをやっと探し当てたというもの。チワワは私がシーズーと呼んでいた小柄なネイリストと、どんなネイルをプレゼントするかを打ち合わせていたらしかった。同棲していたのに、私は少しも気づいていなかった。チワワがこんなに背の高い男だったことに。

「私が殺した後にね」と三日後の美女が話し始めた。「悪魔が現れたのよ」

「悪魔?」

「寝室にぼうっと煙のように現れて、このチワワの日記を差し出したわ。そして、私が半狂乱になって泣きじゃくっているのを満足そうに眺めると、魂を売ってくれるなら三つの願いを叶えようと持ち掛けてきたの」

「あなた、つまり三日後の私は、魂を売ってここへ来たというわけね」

 三日後の美女は、悲しみに取りつかれたように急に震えて、ピストルを握った手を下ろした。

「悪魔に魂を売った代わりに、私は第一のお願いとして、チワワを殺した三日前に戻してほしいとお願いした。だから、今ここにいる。そして、第二のお願いとして、あなたがチワワを殺すのをやめさせてほしいとお願いした」

「止めに来てくれて本当に嬉しい。あんな愛情あふれる日記を読んでチワワを殺したら、一生苦しむことになるわ。助けてくれてありがとう」

 私がほっと胸を撫で下ろして、嬉しそうにそう言うと、三日後の美女はピストルを足元に投げ捨てた。わっという泣き声をあげて、両手で顔を覆った。

 私は何かがおかしいことに気が付いた。タイムトラベルを使って、三日後の美女が現在の私に殺人をやめさせたら、三日後の美女も三日前に同じ説得を受けて殺人をやめさえられていた取りやめたことになるのではないだろうか。頭がこんがらがってきた。

「違うのよ。エヴェレットの多世界解釈では、無数の並行宇宙が並んでいることになっている。いわば何億本もある繊維の糸が束にまとめられている感じ。タイムトラベルは同じ一本のタイムラインの過去には戻れないらしいの。隣のタイムラインの過去へしか戻れない。私はよくわかってゐなかったの。あなたはこの意味が分かる?」

 三日後の美女が、どうしてこれほど動転しているのか、私にはわからなかった。犯すべきでなかった殺人をやめられたのなら、幸福な結末しか見えないはずなのに。私は黙っていた。

「隣り合っている並行宇宙の周波数はほとんど同じ。つまり、似たような現象が起こるのよ。私がこのタイムラインに到着したきには、もうチワワは誰かに殺されていたわ」

「嘘! 誰にあんな優しいチワワを殺す動機があるっていうの?」

「考えられるとしたら、この宇宙にひとりだけ。悪魔よ」

 そういうなり、三日後の美女は弾かれたように床に飛んで、ピストルを拾い上げた。そして、出逢ったときのように、銃口を私に狙い定めた。

「待って。どうしたの? 私は何もしていないわ。何もしていない私を殺すの?」

 三日後の美女は、能面のような無表情のまま沈黙していた。部屋には沈黙が張りつめていた。私はこの沈黙の意味を考えていた。それは銃声を待っている沈黙かもしれなかった。

 私は最後に訊いてみたい問いがあるのに気づいた。

「あなたが悪魔にした三つ目のお願いは何だったの?」

 三日後の美女は、悲しみのあまり気が触れたかのように、急に悪人じみた笑いを響かせた。

「三つ目の願いは、たったいま頼まれたばかりだ」

「たったいま頼まれた?」

「さっきからきみは誰と話していると思っているんだい?」

「三日後の未来から来た私」

「確かに身体はそうだが、いまこの身体を動かしている魂はワシのものだ」

「ワシとは?」

「悪魔だよ。悪魔に魂を売るということは、いつでも悪魔の好きなときに悪魔に取りつかれるということだ」

「やめて、撃たないで!」

そう叫んだ自分の声が、うわずっているのに気づいた。逃げ出そうとしたが、金縛りにあったかのように身動きできない。

「いまワシに乗っ取られて声は出せんが、三日後のきみは、こんな三つ目のお願いをワシに懇願しておる」

 そこまで言うと、悪魔は咳払いをして声帯を整えた。次に発されたのは、聞き慣れた私の声だった。

「あなたを殺さないようお願いしたわ。悪魔から逃げ出して、あなたの世界から愛を見つけて、あなたの人生を生きて」

 私は一瞬だけそのままの姿勢で、その言葉の意味を考えた。あらゆる男が私を通り過ぎていく中、ただひとり私のそばにずっといてくれた働き者のチワワ。自分の心の中で、チワワとの思い出が、急に鉛のような重さで膨らんでくるのを感じた。この鉛のような痛みを自分は引き受けて生きていくのだろう。その痛みを後悔と愛で大事にくるんで私は生きていくのだろうと思った。そうできたときなら、私は心身ともにバロック的に美しくなれるかもしれない。たとえそれが歪んでいたとしても、美しい真珠を生み出せるのは、刺し貫かれた痛みだけなのだから。

 そこまでで私は考えるのをやめた。急いで駆け出して、玄関のドアに身体をぶつけて開けると、そのまま屋外の光に満ちた世界へと飛び出していった。

 

 

 

あかちゃんシリーズ チワワ

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