短編小説「渦巻く水に愛を囁かれて」

 休日の湖畔のカフェは、湖遊びに来た若者たちの行列ができていた。私は大学生はじめての夏休みを、ひとり旅しながら実家まで帰る途中だった。

 綺麗な大人の女性と相席になった。私が会釈すると、女性は読んでいた雑誌から顔をあげて微笑した。女性は30代後半できれいな肌をしていた。細い指でカップの取っ手をつまむと、夏に似つかわしくないホットコーヒーをひと口飲んだ。

「あなた、いくつ?」

 18歳と私は答えた。女性は表情を豊かに変えながら、いくつか言葉を返した。あら、そう、とか、もっと大人に見えたわ、とか、でも私の半分ね、とか。

 彼女は指輪をつけていなかった。

 おかわりの珈琲が届くと、彼女は先にマドラーを入れて珈琲をぐるぐるかき混ぜはじめた。それから、カップの中の珈琲の茶色の渦にミルクを垂らして、つかのまのマーブル模様を描いた。彼女はそのマドラーを紙ナプキンで包むと、ハンドバッグにしまった。

 私は胸の中で好奇心が弾みはじめるのを感じた。

「そのマドラーはご自分のものなんですか?」

「そうよ。よく気が付いたわね」

 女性はマドラーを取り出し直して、私に見せてくれた。金細工の棒が伸びた先に「I LOVE YOU」と小さく刻まれている。

「ちょうどあなたくらいの年齢のときにもらったの」

 私も笑顔になった。こんなに綺麗な女性が20歳の頃にどんな恋をしたのか、知りたくなった。

「恋人からの贈り物ですか?」

 女性は小首をかしげた。

「まあ、そういうところ。一度も逢ったことはないけれど」

 戸惑っている私を見て、女性はフランクにこう言った。

「聞きたい、私の初恋物語? 可笑しい話だけど、笑わずに聞いてね。結局会えなかったから、数分くらいの短い話よ。ちょうど、この珈琲を飲み終わるくらいまでの」

 私は勢いよく頷いた。それからの数分間、彼女が聞かせてくれた不思議な恋の話を、私は一生忘れないと思う。

 私があなたくらいの頃、毎日やっている美容法があった。使うのは、化粧品ではなく水。お湯で洗顔することよ。洗面台にお湯をためて、泡立てた石鹸で顔を洗う。それから、溜めてあるお湯をすくって何度もばしゃばしゃ洗うの。そして、栓を抜いて、泡まみれのお湯を流す。

 やがて、お湯は渦になって、真ん中に小さな口を開ける。その口を空気が抜けるとき、喋っているみたいな声を出すのを、聞いたことがあるでしょう?

 20歳のある日、私は顔を洗い終えた。洗面台の栓を抜くと、揺らめいている泡まみれの水面に人の顔が浮かび上がってきたの。私は思わず叫んじゃったわ。誰? 泡の白のあいだに浮かんでいるのは、同じくらいの年齢の男の子の顔。彼をひと目見たとき、私の背筋を甘い衝撃が走り抜けた。彼が私にとって100%の男の子にちがいないと確信したの。

 それに、向こうにいる彼も、私をロミオの瞳で見つめているのがわかった。お湯が少なくなるにつれて、大きな瞳をした少年らしい彼の顔が、みるみる縮んでいく。お湯の真ん中に、小さな口が開く。すると、水に開いた口が喋ったの!

「I love you.」

 私は有頂天になって、毎朝浮き浮きしながら洗顔をするようになった。茶色い髪をした外国人の美少年と水面越しに会えるのは、洗面台の栓を抜いてから、お湯がすべて流れるまでの十数秒だけ。言葉を伝えられるのは、お湯の真ん中に口が開いてからの数秒だけ。

 私も思い切ってこう伝えた。

「I love you, too」

 すると、こんな言葉が返ってきた。

「You're beautiful.」

 毎朝、私たちはひとことずつ、愛の言葉を交わし合った。先に彼のひとことを聞いてから、私が返事するのが習慣になった。

「You're a perfect girl for me.」「You, too. You're 100% perfect for me.」

「I want to meet you right now.」「I can't believe you're not here with me.」

「I dream of you every night.」「Kiss me in my dream tonight.」

 そうやって愛を囁き合っているうちに、半月が過ぎた。すると、彼の呼びかける声に、悲痛なニュアンスが加わるようになったの。

「きみと会えないなら、生きていく意味はない」「すぐに会って、二人で生きていきましょう」

「クリスマスはお休みかい?」「あなたのために空けておくわ」

「逢えなくなる前にどうしてもきみに逢いたい」「あなたと逢えない世界は嫌い、あなたが好き」

「どこに行けばきみに逢える?」「日本のY…町」

「美しいきみが待っていてくれる場所は?」「街一番の教会の前」

 待ち合わせのやりとりを交わしたのが、クリスマス前日だった。クリスマス当日、彼が私に初めて会いに来てくれるかもしれない日。この街の湖が、私たちを祝福するかのように、数年ぶりにその冬はじめて氷結していた。

 私は教会の前で、朝から晩まで待ちつづけた。時々、ホットコーヒーでかじかむ指先と身体を温めながら。でも、結論から言うと、彼は来なかったの。

 冷え切った身体で自宅に帰ると、郵便受けに小さな小包みがちょこんと入っていたわ。そのプレゼントの中身が、このマドラーだったというわけ。

 私は不思議で不思議でたまらなかった。日本のY…町だとまでは伝えたけれど、私は自分の住所を彼に伝えていなかった。どうして住所がわかったのかしら?

 悲しいけれど、私にとって100%の彼との恋は、それっきり。小包に書いてあった住所へ手紙を送ったけれど、音沙汰なし。アルバイトでお金を貯めて、半年後にオーストラリアへ行って彼の住所を訪ねたけれど、そこには真新しい大きな幹線道路が伸びているきり。

 地元の人々に訊くと、そのハイウェイは竣工したばかりで、半年くらい前に地域住民の立ち退きがあったそうなの。

 ねえ、あなたは若いから頭が柔軟でしょう? どうして私と彼とが、あんな風に言葉が通じ合ったと思う? わからない? 当時20歳だった私も、さっぱりわからなかったわ。異国の街のネットカフェで、その街のあれこれを徹底的に調べて、ようやく或る事実に辿り着いたの。

 不思議な話よ。私の住む日本のY…町と彼の住むオーストラリアの街は、赤道を挟んでちょうど線対象の位置にあったの。

 そして、あなたはこれは知っているかしら。水は、北半球では反時計回り、南半球では時計回りに渦を巻くのよ。そう、そう。真上から見ると、ちょうど正反対よね。でも、こちらが反時計回りの渦を見下ろしているとき、水面の裏から同じ渦を見ると、時計回りに巻いているように見えるでしょう?

 私がはっきり憶えているのは、20歳の私が100%の完全な男の子と愛を囁きあっていたときの沸き立つような喜び。そして、凍てつくような寒さの中、氷結した湖のそばの教会で、逢いに来ない彼を待ちつづけていたときの淋しさ。

 あのときは、100%の彼なら絶対に逢いに来てくれると信じ切っていて、唇の中で何度もこの曲を口ずさんでいたわ。

 

 

 冬になって川が凍ったら、スケートしてあなたに会いに行けるのに、という歌詞のクリスマス・ソング。歌っている女性は心が子供ね。きっと本当の恋の意味をわかっていないのよ。

 南半球が真夏でも、同じ日の北半球は真冬。水の渦巻きの不思議な力で、あと少しで逢えそうだったのに100%の男の子に、私が逢えなかったのは、きっとあの日あの湖が氷結したせい。響き合い、通じ合っていた水の片側が、あの日は凍っていた。

 たぶん、たぶんでしかないけれど、ねじれの位置にいた私たちには、温もりが通じるだけの、あと少しの引かれ合いが足りなかったのよ。

 ね、可笑しな話でしょう? 

 そこまで話すと、彼女は珈琲を飲みほして立ち上がった。彼女が暑さを厭わずに、ホットコーヒーをマドラーでかき混ぜていた理由が、私にはわかったような気がした。

「ほら、ちょうど珈琲一杯分の話だった。見ず知らずの女の話を聞いてくれてありがとう」

 私はまだ聞き足りないことがあるような気がした。この恋物語は、本当に数分で終わってしまう話だったのだろうか。

「それから、その人は、本当に本当に逢いに来てくれなかったんですか?」

「…そこからは、18歳の子供には内緒よ」

 女性は微笑んでハンドバッグを片腕に持ち直してた。そして、気持ちの良い声音で、先に立ち去る理由を私に説明した。

「ごめんなさい、このあと、街の教会でバザーの片づけをしなければいけないの。お先に」

 

 

 

 

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