短編小説「雪原にあるダイヤル式黒電話」

 どすん、どすん、どすん。

 森の中のホテルに泊まりに来ていた。その一室の扉から音がしている。

 最初は鉄製の扉に人の身体がぶつかったのだと思った。ぼくが振り向いて見つめていると、また身体が扉にぶちあたる音。二人が扉に身体を預けて、柔道の組み手をしているようにも聞こえる。誰がどうしてそんなことをしているのだろう。

 怖くなって凝視していると、不思議なことに鉄製のベージュの扉が透きとおりはじめた。扉に女の身体を押し当てて、男が女の唇を吸っていた。二人は激しく抱擁しあっていた。まるで互いが互いにしがみついていないと、どこかへ転落してしまうかのように。

 扉を透きとおったといっても、透過率は半分くらいなので、二人の熱い抱擁の様子は朧ろげだ。自分と須磨子との初夜のように見えないこともない。

 結婚した五年前、ぼくは須磨子と愛し合っていた。日本舞踊の家元のお嬢様で、いつも上品な和服姿でしとやかに振る舞っていた須磨子は、しかし、結婚すると豹変した。少しでも気に入らないことがあると、手当たり次第にぼくに物を投げつけた。ぼくが平凡なサラリーマンであることを、ことあるごとに悪しざまに罵った。仕事帰りのぼくに、料理と洗濯と掃除の役務が課せられた。須磨子の横暴に五年間耐えたあと、ぼくはとうとう電話に相談することにした。

 現代の相談ダイヤルのリストをみると、誰もがその種類の多さに驚くのではないだろうか。自殺相談、いじめ相談はもとより、料理相談、ファッション相談、家電相談など、数十の相談ダイヤルがずらっと並んでいる。ぼくがかけたのは、離婚相談ダイヤル。

「相談者さんのケースは、即離婚したほうがいいです」と離婚相談カウンセラーは即答した。

 子供がいないこと、須磨子の高飛車な性格が生来のものであること、須磨子の側がぼくの側へ歩み寄る動機づけがないことを、カウンセラーの男は手際よく理由に挙げた。

 言われてみれば、確かにそうだ。反論のしようがない。

 さらに続いて、スムーズに離婚するための秘訣が語られた。カウンセラーは饒舌だった。まずは別居… 絆を再結束するイベントは回避… 連絡は弁護士を介して…

 ところが、須磨子を溺愛している義父が、ぼくに夫婦で最後の一泊旅行へ行くようねじ込んできたのだ。義父は苦労して、数年に一回しか予約の取れない北国の高級旅館を押さえたのだという。

 須磨子がどれほど扱いの難しい娘か、義父はよく知っている。だから、この五年間、恐縮するぼくに、義父はいつも至れり尽くせりの気遣いをしてくれた。スムーズに離婚したいなら、ここはむしろ義父の申し出を義理で受け入れるところだろう。

 ぼくと須磨子は、北国の高級旅館へとふたり最後の旅に出た。

 しかし、散々迷子になった挙句、旅館に到着すると、ぼくはすっかり拍子抜けしてしまった。そこはどこか昭和の野暮ったさの残る平凡な旅館で、受付に置いてある電話は、ドラマでしか見たことのないダイヤル式の黒電話だった。その黒電話がジリリリリと無神経な音を立てて鳴ると、和服姿の老婆がのそのそと身を乗り出して電話を取る。そして、こう言うのだ。

「もしもし、和食相談ダイヤルです」

「もしもし、着付け相談ダイヤルです」

 エントランスのラウンジでぶらぶらしていると、老婆がさまざまな相談係を名乗って、電話の問い合わせに答えているのが聞こえる。どうやら足元の配線ランプを見て、どの回線にかかってきた電話なのかを判別しているらしい。

 老婆の声がひときわ明るくなった。

「あ、お待ちしておりました。それでしたら、ぜひぜひ北国の宿に一泊なさることをお勧めします。人生で最高の思い出になりますよ。先日いらっしゃったお客様も大喜び…」

 電話は切れたようだ。どうやら、悪戯電話だったらしい。ぼくは高級旅館との触れ込みに騙された思いがして、副業中の女将を横目に、部屋へ戻った。

 そして、しばらくベッドで休んでいるところに、激しい物音がしたというわけだ。

 どすん、どすん、どすん。

 いつのまにか、鉄製の扉の向こうで抱擁を交わしていた男女の姿は消えていた。扉への体当たりの激しさは尋常ではなく、大男がぶち破ろうとして、渾身の体当たりを繰り返しているようにも感じられる。

 鉄製の扉は早くも湾曲し始めている。折れ曲がったせいで、戸口との間に隙間ができてしまっている。こちらからは光で明るく見えていたその隙間が、黒い霧のようなもので覆われはじめた。扉に体当たりしていたのは魔物だったのだ。黒い霧のように見える魔物は、たちまち濃さを増して、黒い液体になって、隙間から室内へだらだらと垂れて、侵入しはじめた。

 ぼくはわっと叫んで、ベッドの上に飛び上がり、逃げ場所を探した。須磨子の姿は見当たらない。旅館に到着してからも距離を取っていたので、気付かないうちに部屋から離れていたのだろう。しかし、いないならいないで、それは良かったのだ。

 ぼくは自分の逃げ場所を探したが、不思議なことにその部屋には窓がなかった。黒い液体となった魔物は、床を黒く覆いつくしたあと、壁を闇の奔流となってじゃぶじゃぶと流れのぼり、今にもぼくへ襲いかかってきそうな勢いだ。

 窓のない部屋でも、火災に備えた換気窓がある場合もある。ぼくが必死になって壁際を目で探していると、壁に人の頭が入るほどの小さな穴が開いているのに気がついた。穴の向こうは真っ暗で、奥に何があるのかわからない。

 すでにホテルの室内は、黒い液体となった魔物が床一面を浸しきって、荒れた海のように液面を波打たせている。ぼくは壁際のベッドへ飛び移って、壁の穴に腕を突き入れた。腕の先が届くか届かないかのいちばん奥で、何かが手に触れた。固くない。柔らかいものだ。スイッチや鍵でもなさそうだ。

 腕を突き入れた向こうにあったのは、雪だった。

 その雪に何かが隠れているかもしれないと思って、肩口まで穴に身体を押しつけながら、ぼくは雪をまさぐりつづけた。すると、指先が小石に当たったような感触がした。

 小石をつかもうとして指先を動かしていると、その小石に何か柔らかいものがつながっているのがわかった。これは… そうだ、手だ。そう閃いた瞬間、ぼくは身体を思いっきり壁にぶつけて、その手をつかみに行った。

 最初は雪の中で死んでいるようだった手が、ありありと生きている動きが伝わってきた。ぼくは夢中でその手をつかんだ。雪の中の手もぼくの手を握り返してきた。二度とその手を離さないとの思い入れを込めて、ぼくは雪の中の手を強く握った。華奢で細い指の感触から、雪の中の手が須磨子の手だと確信したからだ。

 その瞬間、ぼくは目を覚ました。悪夢を見ていたのだろうか。しかし、ぼくの右手の先は雪の中にあった。雪の中にありながら、しっかりときつく女の手を握っていた。

 ぼくは手をつないだまま身を起こした。ぼくは雪原のなかに倒れていたのだった。積雪は1メートルほどもある。自分の身体が雪の上につくった人型を、ぼくは振り返った。おや、すぐそばにもう一つの人型がある。ぼくは雪の中に埋没している人の身体を見おろしにいった。そこにあったのは、雪に埋もれた須磨子の寝顔だった。いつもなら黒目のよく動く勝ち気な表情をしているのに、寝顔はあっけないほど少女みたいだったので、ぼくはしばらく見惚れてしまった。

 それから、こうやって須磨子の寝顔を見おろすのが、新婚旅行以来、五年ぶりであることに気付いた。その美貌を誰もが知っていた須磨子に、遠くから思いを寄せ、憧れ抜いて、ようやく辿り着いた結婚だった。

 エベレストで遭難した登山家が、数年後に雪の中で生きているような眠っているような姿で発見された話を、ぼくは思い出していた。

 結婚当初、やったことのない料理に須磨子が一生懸命取り組んで、あどけない失敗をしては二人で笑って、食卓を囲んでいた日々。笑いながら「あなた、ごめんなさい」というときの須磨子の笑くぼが、ぼくはどんな料理よりも好きだった。

 そんな新婚時代の他愛ない思い出が、雪原に埋もれつつも、あのままの形でまざまざと残っているのが、ぼくにはわかった。雪の中に横たわっている須磨子の寝顔を、ぼくは形の変わらない宝石を見るように、しばらくじっと見つめていた。

 握っている手が温かみを増してきた気がした。須磨子が目を覚ました。

「あなた、そばにいてくれたの。良かった」

 須磨子がそう言ったとき、ぼくは自分が「あなた」という二人称で呼ばれるのが、五年ぶりだということに気付いた。須磨子が身体を起こした。

「とても怖かったの。黒い魔物が部屋のドアを突き破ろうとしてくるから、私が壁の穴に手を突き入れて、助けを呼ぼうと…」

「知っている。知っているから、もう話さなくていいよ」

 二人が黙ると、雪原を駈ける風の音があたりを支配した。須磨子が不思議そうに周囲を見回した。

「旅館はどこへ行っちゃったの?」

「たぶん、来たときと同じく、ここにある」

 須磨子はぼくの言った台詞の意味がわからないようだった。

 そのとき、雪原のどこかでジリリリリと無神経な音を立てて、黒電話が鳴るのが聞こえた。須磨子が驚いてきょろきょろ周囲を見回したが、あたりはどこまでも白一色の雪景色だ。

「あ、お待ちしておりました。それでしたら、ぜひぜひ北国の宿に一泊なさることをお勧めします。人生で最高の思い出になりますよ。先日いらっしゃったお客様も大喜びでお亡くなりになって…」

 あの老婆の女将の声が、雪原のどこかからはっきり聞こえてきた。

 握っているぼくの手を離して、須磨子が左手の薬指を自分の右手で触った。

「石よ。きっとこの指輪の石が、あなたと私の絆をもう一度つなげてくれたのよ」

 ぼくは曖昧に笑って見せた。須磨子はまだわかっていないようだった。永遠にわからない方が幸せなのかもしれない。

 きっと須磨子を溺愛している義父は、復縁相談ダイヤルに相談したのだろう。その電話はあの昭和めいた黒電話につながり、あの女将の老婆が相談に乗ったのにちがいない。そして、同じ黒電話が、別の相談ダイヤルの相談も引き受けたのだろう。そうして、今回の雪国へのぼくたちの小旅行の手筈が整ったのだろう。

 ぼくは立ち上がると、須磨子の手を取って彼女を雪の上に立たせた。須磨子はわっと抱き着いてきて、ぼくの胸に顔を埋めた。彼女は繰り返し小さな声で「怖かったの」と呟いていた。雪原の上に、ぼくたちが惹かれあい、愛しあっていた五年前の新婚の日々が、嘘のように蘇っていた。

 ぼくと須磨子が宿泊する前の晩、同じ部屋にどんな男女が泊まっていたのか、ぼくは想像がついた。二人はきっと、鉄製のお扉越しで愛し合っていた男女にちがいない。しかもあの二人は、心中相談ダイヤルに電話した二人だったのだろう。死後も決して離れたがらない二人の情念が、ぼくたちの絆をこのように再結束してくれたのだろう。

 須磨子が指輪をしている左手を、ぼくは手に取ってしっかりと握りしめた。それから、この手を決して離すまいと固く決意して、夕暮れはじめた雪原を、二人でくだっていった。