短編小説「ダイアモンド製のオリオン座」

 ぼくは四十歳の誕生日をひとりで迎えた。四十才といえば不惑の年齢だから、祝福のない孤独な夜に涙したりはしなかった。けれど、両親と久しぶりに電話で話すくらいのことは、あってもよかったのではないかと思う。

 母はぼくが十歳のとき、心臓病で亡くなった。四十九日が過ぎると、幼心にもあれと驚くほどすぐ、同じ年齢のきれいな後妻がやってきた。実母の命日から八年間、ぼくは父と継母と暮らした。父と継母との間には子供ができなかった。その八年間、二人がぼくを見る目まなざしには、どこか恨めし気な心残りがあるように感じられた。ぼくが別の誰かであればと、ふたりが考えているような気がしたことが、何度もあった。

 ぼくを許してくれないだろうか、おふたりさん。(他に呼びようがないので、ぼくは父と継母をそう呼んでいる)。ぼくはおふたりさんの人生のどの分岐点でも、何も選んでないのだ。

 誕生日の翌日の仕事帰り、ぼくはまたしてもそんなことを考えながら、最寄り駅のホームを歩いていた。人並みと同じ速度で歩くのが、やけに面倒くさく感じられた。WATCH YOUR STEP(足元注意)、MIND THE GAP(段差注意)。いつのまにか、山手線の駅にも外国語の標識が目立つようになった。目白駅の改札を出ると、駅の外は雨が降り込めていた。ぼくは意味もなくスーツのすべてのポケットを、上から手でぽんぽんと叩いた。電車の中に傘を忘れてしまったのだ。

 慌てて引き返して、駅の事務室で忘れ物をしたことを告げた。当然のことながら、ぼくが乗っていた電車は目白駅をすでに離れている。山手線は全列車が各駅停車なので、特急や急行で追いつくことはできない。駅員は奥の書棚から分厚い大判の冊子を取り出すと、机の上に開いた。ページ一面が、細かい幾何学的な線図形で覆われている。それがダイアグラムと呼ばれる列車の運行計画図だと知ったのは、後になってからのこと。駅員は素早く幾何学模様の無数の線から二本の線を選び出した。そして、指揮者のように両人差し指を、幾何学模様の左端と右端に置いて、線をなぞりだした。鳴り響いていた交響曲が静まっていくように、タクトの二つの指先はみるみるうちに近づいて、とうとうぶつかった。

秋葉原ですね」と、駅員は顔を上げて言った。「次に停まる上り列車に乗って秋葉原で降りれば、ホームのすぐ向かいにあなたが忘れ物をした電車が停まっているはずです。ダイヤが乱れなければ」

 ぼくは駅員に礼を言って、駆け出した。

「何号車に乗っていたか、覚えていますか?」

 背後から飛んできた声に振り向くと、ぼくは頷いて礼を言った。

「ありがとうございました」

 20時すぎの山手線は、それなりに混雑している。各駅で降りては、隣の車両に移って、ぼくはホームのいつもの乗り口に着く車両まで、ようやく辿りついた。

 そこから秋葉原までの十数分、ぼくは電車に忘れた傘のことを考えていた。あれは実母が父に贈った傘だった。母は由緒ある優雅な逸品を長いあいだ使うのが好きな女性だった。あの傘を父に贈った当時、十六本骨の和傘はまだ稀少だった。強い風雨で歪みがちな八本骨の傘とは違って、頑丈で壊れにくいのでずっと使えるのだと、母は説明した。使おうと思えば、あなたの代まで使えるから、安い買い物なのよ。そういって、和服のたもとで口を隠して笑った。

 あの父の和傘は、母が亡くなってすぐにぼくのものになった。実母が家に残したものを、継母が厭がって、ことごとく新しい物に買い替えたがったからだ。ぼくは実母の着物を売ろうとした継母を制止した。ひと竿の桐箪笥に、母の形見の品のあれこれをすべてを仕舞いこんで、それを自分の部屋へ引き取った。継母にはその桐箪笥に触らせなかった。父はそういうこと一切に無頓着だった。

 東京の大学へ進学してひとり暮らしをはじめたとき、ぼくは実母の桐箪笥を狭い六畳のアパートへ引き取った。勝手に棄てられるのが怖かったからだ。今や四十才になった独身のマンションの一室にも、まだあの桐箪笥は置いてある。近寄ると、母の着物が帯びていたのと同じ微かな樟脳の匂い。……

「次は、秋葉原秋葉原

 秋葉原に電車がついて扉がひらいたとたん、ぼくは短距離走者のようにホームへ駆け出して、反対側に停車していた上り列車に駈けこんだ。ホーム横断記録は約3秒。車両にぼくが駆け込んだのと、扉が閉まりはじめたのは、ほぼ同時だったと思う。

 電車が動き出すと、ぼくは自分が傘を忘れた場所に目を向けた。

 幸運なことに、母の形見の紺色の和傘は、角に立てかけられてそのまま残っていた。

 ぼくは喜びいさんで、和傘を手に取った。

 しかし、奇妙なことが起こった。ぼくが和傘を手で取り上げると、まったく同じ種類の同じ傘がその奥に立てかけられていたのだ。

 どちらが母の形見の和傘だろう? ぼくはもう一本も手に取って見比べたが、そっくり同じなので区別がつかない。

 上野でがらがらになった座席に腰かけて、ぼくは長いあいだ二本の紺の和傘を検品していた。仔細に見ると、最初に手に取った表側に立てかけてあった和傘の方が、若干古びて年季が入っている。取っ手の部分が少しぐらついている。裏側にあった方の和傘は、同じ紺絣の意匠でも、張り布の色に鮮明さがあって、新しさが感じられる。

 古い方の和傘の取っ手を確認していたとき、思いがけないあっけなさで、ふいに取っ手が外れてしまった。一瞬慌てたが、こちらを自分の傘だと解釈して持ち帰れば、問題なさそうだ。しかし、どうして急に取っ手が外れてしまったのか。木製の柄の穴を覗くと、穴の奥には、ぐらつかないように調整用の紙が挟んでいるようだった。

 あ、とぼくは小さな声をあげた。

 むしろ、その紙のせいで傘の柄がぐらついていたのだ。ぼくは和傘の芯棒の先で、穴の奥をつついた。苦労して紙を取り出すと、それは何度も濡れてボロボロになった一万円札だった。

 ぼくは貴重な古文書を触るように、そっと折り畳まれた一万円札を広げはじめた。折り畳んだ紙の厚みの稜角が、こすれて破れている。それでも、濡れやすい穴の中に押し込まれていた紙幣は、ぼくの膝の上で一万円札らしい長方形になった。ぼくは紙幣のふちの無地の部分に目を向けた。そこに鉛筆書きで小さな文字が書かれていたのだ。

 車内の空調に揺れないよう、丁寧に両手で支えながら、ぼくはぼろぼろの一万円札を顔のすぐそばへもってきて、小さな声を出して判読しはじめた。

いつも戯れをできなくてごめんなさい。困ったとき、これをあなたの好きなことに使ってちょうだい。

 筆跡はたぶん実母のものだと感じられた。

 ぼくは十歳まで母と一緒に過ごした少年時代を思い出した。母は心臓の病気のせいで、長時間の外出や激しい運動を医者に禁じられていた。野球少年だったぼくは、母に一度も野球の試合を観にきてもらったことがない。

「明日はきっと雨だね」と、野球の試合の前日、母がぼくに声をかけることがあった。野球をしたくてたまらなかったぼくは、その母の声に交じっている嬉しそうな声を、うっすらと憎んでいた。皆ががっかりする試合当日の雨を、どうしてお母さんは嬉しそうに予告するのだろう。

 小学生はどうしようもない莫迦なので、そんなこともわからないのだ。

 雨が降ると、ぼくは母の枕もとで、玩具や本で遊んだり、母と長話をしたりする習慣になっていた。母は何でも聞きたがった。小学校の何が面白くて、先生がどんなことを喋るのか。クラスにどんないろいろな友達がいて、どんな給食が出るのか。母は普通の会話好きというより、ぼくに喋らせるのが好きなようだった。

 野球の試合が雨天順延になったときだけの母との密やかな共有時間。「いつも戯れをできなくてごめんなさい」とは、父のおさがりで、和傘がぼくのものになるのを見越して、母がぼくに宛てたメッセージだったのだろうか。雨の日、小学生のぼくとデートするのが母はきっと好きだったのだ。

 電車が目白駅に着いた。ぼくは二本の和傘を携えて、改札口を出た。屋外では、まだしとしとと雨が降りつづていた。「明日はきっと雨だね」。そう嬉しそうに呟いていた母の声が、ふと耳の渦巻きの中で蘇るような気がした。

 柄がぐらぐらしている古い方の和傘をさして、ぼくは住宅街の濡れそぼったアスファルトの上を歩いた。閑静な家並みの見慣れた曲がり角にさしかかったとき、曲がり角の向こうに自宅マンションへつづく道が伸びているのが見えたとき、きらきらとした悲しみが、ぼくの脊髄を昇ってくるのを感じた。ぼくは歩けなくなった。母の形見の和傘をさしたまま、茫然と立ち尽くした。

 あの瞬間のことを、ぼくは今でもよく覚えている。もともとは「事故でダイヤが乱れた」というときの「ダイヤ」とは何なのだろうと、人生の中で何度か疑問に思っていたのだ。あの日それが、ダイヤグラムという電車の運行計画予定だと知った。目白駅で駅員が確認していたあの幾何学模様だ。

 そして、少年時代の雨の日、母と長時間交わした会話。会話を意味するダイアローグにもダイヤモンドが含まれている。

 さらには、ぼくが40歳までに知ったベッド上の快楽は、しばしば脊髄をダイヤモンドが駆け抜けるという比喩で語られたりもする。

 その三つが、ふいにオリオン座のようにぼくの頭の中でつながったのだった。

 ぼくは誰も通らない雨夜の街路に立ち尽くして、「いつも戯れをできなくてごめんなさい」という母の言葉にある悲哀を反芻していた。ぼくが十歳の時に母が亡くなったので、考えたことがなかったのだ。そういえば、母は心臓の病気のせいで、長時間の外出や激しい運動を医者に禁じられていた。……

 帰る場所を忘れた人のように、ぼくは茫然として、和傘の張り布をたたく雨音を聴いていた。そして、孤独な誕生日の翌日、ぼくの目の前に同じ和傘が出現したことの意味を、ぼくは何とかして理解したいと考えていた。

 母が亡くなり、継母が来て、父が亡くなった。ぼくは40歳で独り暮らし。誰に何を訊こうにも、もはや何かを語ってくれる人はいないのだ。ぼくの脊髄には、まだきらきらとした母の悲しみが垂直に立っているような気がした。荷物として手に握っている新しい方の和傘を、ぼくは見下ろした。早々と四人が二人になってしまった。自宅へ帰ってすぐに寝て、明日になったら、七十代後半になっている継母に、連絡を取ってみようと思った。

 そして、実母の懐かしい口真似をして、「明日はきっと雨ね」と声に出して呟くと、和傘を打つ雨音を聴きながら、帰り道を再び歩きはじめた。

 

 

(「遺失物取扱所」の意味を持つアルバムより。大好きな曲) 

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