短編小説「青空に描いた眉毛」

 高層建築の窓から東京の夜景を見下ろすと、夜景の中心に深淵が真っ黒な口を開けているのがわかる。皇居だ。地下鉄で5駅ほど離れているこの場所から、東京の黒い虚焦点が眺められるのは、高層ホテルの最上階にいるからだ。 

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

 

 大学を卒業したばかりで、司法試験準備中のぼくが、高級ホテルの豪奢なスイートルームに滞在しているのには訳がある。大学から付き合いはじめて、無二の親友となった孝明が、このホテルチェーンのオーナーの息子なのだ。そのホテルチェーンは外注を最小化した大家族的経営でも有名で、それもあって御曹司の孝明の顔パスがやすやすと利くのだった。

 ぼくはパノラマ型の大開口の夜景から、後ずさりして離れた。絢爛たる仏蘭西風のインテリアに気圧されたせいもあったが、何より眼前に広がる街と夜空が広々としすぎていて、転落してしまいそうな気がしたのだ。ぼくと妹が暮らすマンションの二階からは、東京の空はほとんど見えない。

 ぼくは大学を卒業して、ホテルチェーンの要職に就いた孝明に、もう一度同じ質問をした。

「本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫さ。ホテルの従業員は全員がオレの緘口令に従う。それに、スイートルームからの隠し出口は、上層部の一角とウチが抱えている建設部門の数人しか知らないんだ。ばれようがない」

「ありがとう。恩に着るよ、孝明」

「なんだその言い草は、水くさいな。知り合ってからまだ五年だけど、お前とは刎頸の友だと誓い合ったじゃないか」

 大学でワンダーフォーゲル部だったぼくと孝明は、生涯で百名山制覇を誓い合った仲間だ。日本アルプスを縦走していた夏、足を痛めた孝明を、ぼくが二時間背負って下山したことがあった。あのとき、背中越しに語り合って、一生お互いに刎頚の友でいようと誓い合ったのだ。

「まあな。奈津子のこともある。それこそ、一生仲良く付き合っていこうぜ」

 奈津子はぼくの妹で、同じ東京の私立大学にまだ在学中だ。福井の両親の意向で、東京のマンションでぼくと二人暮らしをしている。「変な虫がつかないように守ってあげて」と母に何度も念を押されたが、もともと根が純粋で真面目なので、羽目を外すような派手な付き合いはない。二回生のときに大学の準ミスに選ばれてから、多少は生活は変わったようだが、屈託のない奈津子の笑顔は、レンゲ草の咲く道端を一緒に走った幼少時と変わらない。これからも、きっと奈津子は奈津子のままだろう。

なっちゃんは、小さい頃はどんな子だったの?」と孝明がぼくに訊いた。

 準ミスになってからの奈津子の最大の変化は、ぼくの親友の御曹司に見初められたことだ。孝明は「悪い虫」から一番遠い種族の男だった。いつも華やかな女たちに囲まれてはいたが、上流階級の出身を少しも鼻にかけるところがなく、友人や仲間のためなら、涼しい顔で自分の時間や労力を犠牲にした。今晩だって、頼みがあると持ちかけたぼくのために、最上階のスイートルームを貸してくれているのだ。

「どんな子って、あのままだよ。活発だけど、話すより聞く方が好き。真面目だけど、純粋で好奇心いっぱい」

「オレの前でずいぶん兄貴のことを褒めてたぜ。地味だけど、力を蓄えていて、いつか大跳躍をするタイプだとさ」

「そういうのが奈津子なりの兄貴操縦術なんだ。そう伝わるよう仕組んでおけば、俺が何も言わずに風呂掃除をするのを知っているから」

 ぼくと孝明は心置きなく笑った。そうでなくても、ほろ酔いで口元がほぐれて来ていた。二杯目の酒とフルーツ盛り合わせがルームサービスで届いた。自分のホテルでは、孝明は惜しまずにチップをはずむ。ボーイが嬉しそうな表情で引き下がる。

 二杯目を傾けながら、孝明がぼくに訊いた。

「本気なのか?」

 心臓が高鳴った。声が上ずらないように注意しながら、ぼくは答えた。

「本気だ、困ったことに。このオレが不倫の恋に本気になってしまっている」

 ぼくは自嘲気味に笑った。弁護士事務所を手伝いながら、司法試験準備中の身分だ。不倫の恋なんてしている場合ではなかった。それが、社会人向けのロースクールで宝石商の女性に声を掛けられて、一緒に勉強しているうちに、みるみるうちに深みにはまってしまったのだ。

「こういう気持ちは生まれて初めてなんだ。毎晩彼女に逢いにいきたい。彼女もそう言ってくれる」

 孝明は心の底から愉快そうだった。

「人生ってわからないものだな。まさか堅物のお前が、勉強を放り出して人妻に夢中とはね」

「放り出しちゃいないさ。前より熱心なくらいだ。早く独立して事務所を構えたくてたまらない。最近じゃ、旦那が浮気を疑って探偵をつけているから、早くけじめをつけたいんだ」

「お前が本気なら、ここは刎頚の友の出番だな。俺も本気でひと肌脱いでやろうっていう気になった。そのアンティークの飾り棚の向こうに、隠し扉がある。小さなエレベーターで1階へ降りると、ホテルのゴミ搬出口に出る。ホテルへの帰りも、そこから女と部屋に戻れ。監視カメラはないから何の記録も残らない。従業員たちには、俺から緘口令を敷いておく。ホテルの敷地に入ってから部屋までの間だけ、女にはスーツケースに入ってもらってくれ。念のためだ」

 同じ隠しルートを孝明がどのように利用しているのかを、訊こうとしてやめた。知らない方がいいことだって、世にはあるのだ。

「ありがとう、孝明。恩に着るよ」

 孝明は飲みかけのグラスの軸を握って、ぼくに向かって掲げた。二人で二杯目を空けている間に、女が身を隠すための黒いスーツケースをボーイが運んできた。準備万端。ぼくは何度でも乾杯できそうな幸福な心地だった。持つべきものは、やはり信頼できる友人なのだ。

 孝明が退室すると、再びぼくの胸は高鳴り始めた。このパノラマの東京の夜空を見たら、彼女はきっと大喜びするにちがいない。女は「すぐに逢える」とテキストメッセージを返してきた。

 ぼくはアンティークの飾り棚を動かした。キャスターがついているので、飾り棚はすいすい動いた。その背面にあった壁には、人がくぐれるくらいの小さな扉が付いている。しゃがんで扉をくぐると、下階へ小さな階段が続いていのが見えた。ぼくは黒のスーツケースを苦労して下階まで降ろすと、そこから業務用エレベーターに乗り込んだ。そして、一階まで降りて、ゴミ搬出口を走って抜けると、夜の東京の街路へ飛び出した。

 ところが、「すぐに逢える」と断言した不倫相手が、待てども待てども、待ち合わせ場所にやって来ないのだ。何か特別な事情でもできたのだろうか。電話にも出ない。

 ぼくはすっかり意気消沈して、カクテルの悪酔いと睡魔でいっぱいになった頭を揺すりながら、高級ホテルのスイートルームへ戻った。午前三時の東京の夜景は、やや光が失われて、色褪せて見えた。

 翌朝のチェックアウト時、フロント係が確認に手間取ってかなり待たされたものの、一泊数十万のスイートルームは、やがて全額支払い済だと判明した。打ち合わせ通りだ。

 ところが、エントランスの回転扉を抜けたところで、ぼくはたちまち四人のホテルマンたちに囲まれてしまった。

 ひとりが慇懃無礼にこう言った。

「お客様、スイートルームに忘れ物がございますので、一緒にご確認いただけますか?」

 残る三人は黙ってぼくを取り囲んでいる。異様な気配が感じられたが、万一何かがあっても、孝明がうまく取りなしてくれるにちがいない。

 ホテルマンたちに囲まれて最上階へあがると、廊下に支配人らしき男の姿が見えた。どうやら何か事故があったらしい。支配人が丁寧な口調でぼくに質問した。

「或る探偵業の方から通報があったので、確認しています。昨日の19時から今日の9時まで、お客様がこちらのスイートルームをご利用なさいましたね。お一人でしたか?」

「大学時代の友人と1時間ほど話し込みました」

「それ以外には?」

「それ以外は一人です」

「それを証明できる方はいらっしゃいますか?」

「一人なので証明は困難ですが、ホテルの廊下の監視カメラを確認してください」

「大変良いお答えをいただきました。ありがとうございます。ただいま警察を呼んでおりますので、ご安心ください」

 支配人がひとりホテルマンに合図した。彼に手招きされたので、ぼくは再びスイートルームへ入った。数歩踏み込んだ眼前、パノラマの窓の向こうは、高層建築からだけ見える都会の青空が、広々と晴れ渡っている。そのスイートルームには寝室が二つもあった。ぼくが昨晩使わなかった方の寝室に、ぼくは手招きされた。寝室へ入った途端、左右から屈強なホテルマンにはさまれて、ぼくは身動きが取れなくなった。

「ただいま警察を呼んでおりますので、ご安心ください」と、支配人が先ほどと同じ台詞を繰り返した。

 ぼくはただならぬ気配に恐怖を覚えた。一方、恐怖する自分を他人のように見ている自分もいて、目前にある破局寸前の自分の人生をぼんやりと眺めながら、窓の向こうを飛んでいくヘリコプターの音に気を取られたりしていた。

 寝室のツインベッドの四隅にホテルマンたちが立った。掛け声を合わせて、男たちがいっせいにベッドを持ち上げて、隅へと移動させる。

 ベッドの下から、いつになくコントラスト鮮やかな化粧をした奈津子の顔が現れた。海外の18才がプロムに来ていきそうな青の若いドレスを着た奈津子の身体が現れた。奈津子の右手には拳銃が握らされていて、撃ち抜いた頭からは、まだじくじくと出血が垂れていた。

 ぼくが腹の底から声を絞って絶叫するのと、左右の二人が怪力でぼくを地面に組み伏せようとするのは同時だった。ぼくは男たちの腕の中で、もんどりうって暴れ回り、男たちと床の上に崩れ落ちた。自由になった左手で、奈津子の方へ這い寄ると、ぼくは奈津子の血まみれの手から拳銃を奪った。男たちは急に怯んで、逃げたり隠れたりした。

 ぼくは拳銃を自分のこめかみに当てて、迷わず引き金を引いた。

 

 

 銃倉に銃弾が入っていなかったことが、ぼくにとって幸運だったのか不運だったのかはわからない。

 気が付くと、病院のベッドの上にぼくはいた。病室のベッドには鉄格子が嵌められていた。国選弁護人の代理人と称する男が、ベッドの隣の椅子に座って、尊属殺人の罪が重いこと、両親が絶縁するといっていること、妹の殺害を素直に自白すれば情状酌量がありうることを説明した。そのあいだ、ぼくはずっと鉄格子で裁断された矩形の青空を見つめていた。

 あれから何日が経ったのだろう。ホテルお抱えの内装屋は、きっと仕事が早いことだろう。ましてや、材料があらかじめ揃っていて、それが何度目かの手慣れた仕事なら。

 スイートルームのチェックアウト時に、不自然に待たされたことを、ぼくは思い出していた。お待たせするお詫びとして、レストランから食べきれないほどの豪奢な朝食が運ばれてきたのだった。

 あのアンティークの飾り棚には、もはやキャスターはついていないだろう。背後の壁はあとかたもなく一面の壁に施工されているにちがいない。

 警察病院から独房へ移されたあと、驚くべきことに、孝明が面会にやってきた。透明なアクリルガラス越しに、孝明は熱意を帯びた口調でこう話した。

「こんなことになって実に残念だ。残念だけど、どう手を尽くしても、なっちゃんがもう戻ってこないことは事実だ。オレは、できることなら、親友のお前を救いたい」

 ぼくは黙っていた。反証の余地のない尊属殺人犯の前で、最後まで善人面をぶら下げたがる男を、珍しい昆虫を見るように、まじまじと見つめた。しかし、孝明は孝明で、シナリオの続きを考えていたらしかった。

「一生の親友だから言うぜ。最近のお前は、ちょっと精神的に参っているような感じがした。ここ数か月、柄にもなく人妻と恋に落ちたりしてからは、特に」

 最終電車が終わった閑散とした駅前で、人妻が自宅を忍び抜けてくるのをずっと待っていた夜を、ぼくは思い出した。自分には不釣り合いな美女が、高級ホテルのスイートルームを駆け回って大喜びするのを想像しながら、じっと佇んで待っていた夜を思い出した。そんな夜が、そもそもそんな恋が、ぼくにありうるはずなかったのだ。ぼくは震えている自分の膝がしらをじっと見下ろした。

「黙っているつもりなら、俺だけが喋りつづけよう。親友として、お前を救いたいんだ。司法試験に二回落ちて、お前は自分がどこか精神的におかしくなったと感じたことはないか?」

 奈津子は交際するなら真剣に交際して、真剣な交際がしばしばそうなるように、その相手と結婚したがるような女の子だった。あの青いドレスは、奈津子が掛け持ちでピアノの家庭教師をして貯めたお金で、やっと買ったドレスだったのだ。

 「そんな派手な服をどこに来ていくのさ」と訊くと、「大人の女性には秘密の交際があるものなのよ」とか何とかいって誤魔化した。それでも、若い男性代表としてぼくに熱心に意見を求めてくるので、誰に見せるつもりで青いドレスを試着しているのか、兄には一目瞭然だった。兄妹の照れもあったので、「綺麗だよ」とひとことしか言えなかった。

「いいか、ここが人生の分水嶺だぞ。お前がもし当時の自分をおかしかったと感じることができたら、俺は敏腕弁護士を1ダースつけて、権威ある精神科医の鑑定をとってきてやる。よく考えろ、ここがお前の人生の分水嶺だ」

 ぼくは独房に帰って、貸し出してもらっている紙の辞書で「刎頚の友」という言葉の意味を調べた。「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」であるらしかった。

 ぼくは自分が、両親も、妹も、恋人も、親友も、仕事も、気がつくとすべてきれいさっぱり失っていることに、ようやく気が付いた。他に道は残されていなかった。

 紙と鉛筆を手に取った。それから、孝明に震える手で熱烈な礼状を書き始めた。書きながら、しきりに涙が流れてしょうがなかった。書いた文字を、それが本当にその言葉で良いのか、声に出して確認しながら、それでもぼくは鉛筆を動かした。

 自分で自分がおかしかった。そう思えてなりません。どうして、あんなに純真で真面目な妹を射殺してしまったのでしょう。私はほとんど何も覚えていないのです。悪魔に取りつかれたとしか思えません。

 

 妹は小中学校ではバスケ部で、離れた地点から打つスリーポイント・シュートが絶品でした。三つ上の私も、中学までバスケ部だったので、近くの公園でいつも二人で練習したものです。「青空にどんな眉毛を描こうと思うかが大事」というのが、妹の口癖。妹が青空に描く均整の取れた弧が、私は大好きでした。

 

 もう一度、あの故郷の青空をこの目で見てみたいです。そして、妹がしたように、均整の取れた綺麗な弧を、青空に描く練習をしたいのです。

 

 私の親友であり、しかも妹を誰よりも大切にしてくださった孝明さまのホテルで、ぼくは死んでも償いきれないような酷い罪を犯しました。孝明さま、申し訳ございません、申し訳ございません。罪深き私を、どうか悪魔に魅入られた哀れな民草と思し召して、どうか、どうか、私めをお救いください。

 

 孝明さまは私にとって最高の刎頚の友です。ありがとうございます! ありがとうございます! 心から、刎頚の友のあなたさまを愛しております!

 …書き終えると、ぼくは独房の床に身体を投げ出して、大の字になった。独房は辛うじて大の字になれるほどの広さしかなかった。

 世界は狂っている。世界はあまりにもオーウェル的だ。ならば、ぼくひとりが狂って、それと引き換えに世界が全肯定されても、同じことではないだろうか。いやむしろ、世界全体か、ぼくひとりか、どちらかが狂っていることにしてしまえば、妹の奈津子が嘘のようにどこかでぴんぴんと生きている可能性が高まるのではないだろうか。

 ならば、狂おう。

 

 

 東京の青空は狭い。独房からは、青空は一切見えない。ぼくは目を閉じた。奈津子と二人でシュート練習をした公園の青空を思い出そうとした。空の青みをまるくなぞるように、彼女のスリーポイントシュートが弧を描いていく。見事にシュートが決まる。ゴール下まで走ってボールを取りに行った妹が、こちらを振り向いて何か言っているような気がする。

 きっと「凄いでしょう?」とか「どうだった、私のシュート」とかいった台詞だろう。

 どうやらコメントを求められているらしい。口下手なぼくは、一瞬だけ故郷の青空を見上げて、妹に向かってひとことこう言った。

「綺麗だよ」

 

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)