短編小説「激しい雨の中でも全存在を信じる」

 激しい雨が降っていた。防衛庁の敷地の一角に、小さな簡素な施設がある。一見したところ、電気設備や水道設備を集約した業者点検用の設備室のように見える。実際、電気や水道の計器が所狭しと立ち並んでいるのだが、その奥にコンクリートで囲まれた車一台分ほどの秘密空間があるのだ。

 その空間では、重厚な艶を放つ円卓を三つの革製のひじ掛け椅子が取り囲んでいる。秘密会議が始まった。

 上官が会議の開始を厳かに宣言した。私とエビデンス・ベースが「はい」と粛然たる返事をした。エビデンス・ベースとは、私たち秘密警察の当部局の同僚だ。私のコードネームはワンネス・デースという。上官の肩書きも名前も私たちには知らされていない。かなりの給与が上官から私たちに直接手渡されていることが、上官の立場を物語る唯一のエピソードだ。

「例のアダムとイブ問題だが…」と上官が話し始めた。しかし、雨音が激しすぎて、よく聞き取れない。テクノロジーの発達は目覚ましい。今や100メートルほど離れた場所からでも、窓ガラスの微細な振動で室内の話し声を盗聴できる。したがって、この秘密空間には窓がない。窓がなくても雨の気配を感じてしまうのは、それだけ屋外の雨が激しいということだ。

「上官、アダムに新しい事実が発見されました。マンション上階からの盗聴音声を解析した結果、時々アダムは、入浴後に全裸のまま皿洗いをすることが判明しました! まさしくエデンの園にいたときの習慣が残存していると言えるでしょう。彼がアダムであることは間違いありません」

異議あり。アダム候補は『気障ですわ=ピザですわ』を含めて、太宰治の『斜陽』をしばしばブログで引用しています。彼の行動は『姉さん、ぼくは貴族です』のパロディーを実践していると解釈すべきでしょう。つまり…」

「つまり、『姉さん、ぼくは裸族です』というメッセージだということかな?」と上官が言葉をうまく引き取った。

 私は厳かに頷いた。そしてひとこと付け加えた。「彼がアダムかどうか確定する以前に、彼の人権を侵害することには反対です」

 すると、エビデンス・ベースが高らかな笑い声をあげた。

「はっはっは。裸族ならアダムで間違いないじゃないですか。援護射撃をどうもありがとうございます、ワンネス殿」

 エビデンス・ベースは極度の負けず嫌いだった。自説を補強するためなら、ありえない法外な関連付けや、ありえない法外な諜報活動も厭わないのだった。

 私はそんなエビデンスのことが、どうしても好きになれなかった。対抗軸を確立すべく、あらゆる分野の学術領域を踏査して、近年文献の数が急伸しているスピリチュアリズムの研究に没頭した。誰もがひとつの宇宙存在とつながっているとする考え、つまりは「ワンネス」がコードネームになったのには、そのような由来がある。

「ということは、世界のすべての未開民族のすべての男性がアダムだというご主張なのですね」

 私のこの台詞を聞き終わらないうちに、エビデンス・ベースは宙に視線を彷徨わせて、急に立ち上がってぱんと手を叩いた。それから、両手を開いて手のひらに蚊の死骸が付いていないことを確認した。逃げられちゃったなという自嘲の微笑みを浮かべて、ゆっくりと着席した。エビデンスは、自分のプライドを守るためなら、どんな小芝居でもやってのける男なのだ。

 上官が私とエビデンスを見比べたあと、話題を変えた。

「それで、イヴは見つかったのか?」

「まだです」とエビデンスが機先を制して答えた。「アダムのブログを見張って、常に必要なジャッジをしていますが、イヴが誰なのかはわかっていません」

 たとえゼロ回答であっても、先に報告してポイントを稼ぎたがるのが、エビデンスの習性。私はなるべく中身のある発言を心がけた。

「アダム候補のブログにイヴのテレパシーを受けたらしい記述があります。イヴとテレパシーで通じているらしいことは間違いなさそうです。そして、最新の記事では、あまり世に知られていないこの曲を引用しています。こういうときのアダム候補は歌詞にメッセージを込めたがるんです。『イヴ、きみを心の底から信じている』と伝えたがっているのではないでしょうか。あくまで一つの解釈ですが」 

 するとエビデンスが、裁判ドラマのように、怒気を発して立ち上がった。

異議あり! ワンネス殿、『心の底から』というのは余計な装飾ですね。無根拠な拡大解釈はお控えください!」

エビデンス殿、歌詞が believe ではなく believe in となっていることにご注意を。これは存在全体を肯定するときに使う表現です」

「いやいやいや。そこのところはどちらの解釈をしてもイインです! はっはっは。会心の駄洒落!」

 上官は苦り切った表情をした。良かった。どんな手を使ってでも、自分の失点を隠そうとするエビデンスの奇癖に閉口しているのは、自分だけではなかったのだ。

「あの曲には、もうひとつ気になる文脈があります。お聞きのように、女性ヴォーカルはかなりの粗削りです。この曲をリードしているのは、最初のカットインを聞けばドラマーだとわかるはず。彼は知る人ぞ知る有名ドラマーで、例えばこのボブ・ディランの曲でもドラムを叩いているのです」

「ほう。ボブ・ディランノーベル文学賞受賞は意外だったが…」

「そこです。誰もが見ているニュース上での『ノーベル文学賞』つながりは、水面下でも、作品中でもつながっていることが判明しました。ボブ・ディランは世界的作家のこの作品にも登場するんです。いま降っているのと同じく、激しい雨を歌った曲です」

異議あり!」とエビデンスがまた立ち上がった。

エビデンス殿、最後まで聞いてください」

 上官がテーブルの上に両手を握り直して置いた。「何か出てくるかもしれん。その微かな脈絡は興味深いな」

 すると、エビデンスは着席すると、茶坊主よろしく拍手を送ってきた。「さっきからずっと私も興味深いと感じていたところです!」

 それを無視して、私は話を続けた。

「アダム候補のブログには、その作品への言及もあります。その言及の仕方を読むと、彼はイヴを熱烈に探し回っているようにも読めます。ただし、ここで注目すべきは、その小説と彼の記事タイトルの両方に、特定の語句が含まれていることです」 

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 「『世界の終わり』だね。ワンネス君の言いたいことがわかってきたぞ。彼がアダムかどうかより、彼がアダムだとして、彼が送ろうとしているメッセージの方が重要だということだな」

「ご理解いただけて嬉しいです」

異議あり! ワンネス殿は何もわかっておられない。現代にアダムとイヴがやってきているという極秘情報を我々が分析しているのは、近未来の核戦争後に備えてのことですぞ。アダムとイヴが生き残って、『世界の終わり』のあと新世界を作るにちがいないので、先取りして生き残り方を探るのが我々の任務なのです。出発点すらお忘れとはみっともない!」

「私が申し上げたのは、ひとつの解釈にすぎません。多数の事実から生起する多数の解釈を、人類のより良い well being へつなげるのが私たちの使命です」

 上官が重々しく口を開いた。

「では、ちょうどその話も出たところだ。最後の議題であるボタン問題に移る。今日の午前中、例のボタンをこの秘密空間に移設してもらった。実際に見てもらいたい」

 上官がテーブルの下のスイッチを入れると、円卓の真ん中に、赤いボタンがひとつ自動でせりあがってきた。ボタンの周囲には、透明なアクリルで囲いがされている。警備網を突破して、よほどの重量物で破壊しない限り、ボタンは押せない仕組みになっている。

 私は緊張して上官に訊いた。

「まさか… 本物ですか?」

 上官は黙って頷いた。今日の秘密会議が始まって以来、上官の口調がずっと重々しかったのは、このせいだったのか。私は緊張のあまり生唾を呑み込んだ。

 上官は厳しい口調で説明した。

「このボタンが何につながっているボタンなのか、わしも詳しい説明を受けておらん。『絶対に押すな』とだけは、繰り返し命じられた。絶対に押すなよ」

 私とエビデンスは頷いた。事がきわめて重大であることが察せられた。事柄の曖昧さのせいで、近々打ち切りになるかもしれないと言われていた「アダムとイヴ」調査も、風向きが変わって、上の上が本腰を入れ始めたようだ。

 私は自分の口調が熱を帯びてくるのを感じた。

「もう一つの解釈を説明させてください。現代のアダムとイヴを、近未来の核戦争後の最初のカップルと考えるのは、誤った解釈かもしれないのです。アダム候補がイメージしているのは、左から右へ流れる単線的な時間ではないかもしれません。彼が見ているのは、こちらの時計かもしれないのです。…

…そう、世界終末時計。『世界の終わり』まで、とうとう二分を切ってしまいました。これだけ秘密警察が手を尽くして探しても、イヴが見つからないのには、別の理由があるような気がするんです。彼は最初からイヴがいないことを知りつつ、イヴを探し回っている姿を私たちに見せようとしている気さえします。彼の描くイヴはいつも天使的すぎる。実在感に乏しいのです」

 上官が背もたれから身体を起こして、身を乗り出してきた。エビデンスは苛々して頭をかきむしっていた。私は身体の向きを上官に正対させて、二人だけで話す態勢を示した。上官もこちらを向いた。

「面白い仮説だ。では、アダム候補は何のためにイヴ探しを見せつけているんだ?」

「イヴという名の日本語訳はんなんでしょう? 『前夜』と訳せることにお気づきですか?」

「おお、そうじゃった!」

「あの世界終末時計と同じく、アダム候補は現在が核戦争『前夜』であることを伝えようとしている可能性があります」

「となると、最新記事の『I believe in you』はどういう意味なのじゃ?」

「『you』という二人称は『あなた』でもあり、『あなたがた』でもあります。彼は核戦争を回避できる理性があるとして、『あなたがた』、つまりは人類を信じているとメッセージを送っているのかもしれません」

「ぬおっ! 何という鮮やかな解釈だ! ワンネス君、きみの分析力は一級品だ!」

 上官は勢いよく立ち上がって、満面の笑みで拍手をくれた。エビデンスも真似をして、立ち上がって盛大な拍手をした。それだけでなく、近づいてきて握手を求めた。

 私もどこか高揚していたせいで、何となくエビデンスを遠ざけたい気持ちが過剰に働いてしまった。私はそのことを、このあと数秒間だけ、心の底から後悔することになる。

「おい、仲間の握手を避けようとするなんて、お前も偉くなったもんだな。なんだよ、お前は。どこの中学校の人間だよ、あ?」

 どうして中学校の話が出てくるのか。こんな幼稚な人間とは一緒に仕事をしたくない。急にそんな強い衝動が胸へ突き上げてきたので、私も思わず乱暴な口調で答えてしまった。私はそのことを、このあと数秒間だけ、心の底から後悔することになる。

「この場所から消えろ」

 一瞬、エビデンスは虚を突かれたような不思議な表情をした。それから、顔面にたちまち血をのぼらせると、こちらへ背中を向けて、円卓の中央に身体を乗り出した。赤いボタンはアクリルケースで守られているので、簡単には押せないようになっている。

 エビデンスは顔だけこちらを振り返りながら、「押すなよ。押すなってば」と繰り返し大声をあげている。上官の顔色が変わった。私も上官も、この瞬間まで、自分の劣位を隠すためなら、どんなことでもやってのけるエビデンスの性格を、過小評価していたのだ。

「だから押すなってば! 嗚呼!」と絶叫すると、エビデンスは思いっきり身体を反って反動をつけると、頭蓋骨をアクリルケースの上へ振り下ろした。血まみれになったエビデンスのおでこが、赤いボタンを押し切ったはずだが、私はその瞬間を目撃できなかった。

「この場所から消えろ」と言い返した私の言葉が、思いがけない事態を引き寄せてしまったのだ。私は一瞬であれ、ワンネスを忘れてしまったことを後悔した。しかし、その後悔も一秒未満のことだった。

 結論から言うと、「世界の終わり」はやってこなかった。

 ボタンに結線されていたコードを電流が走り、秘密空間の円卓の下に設置されていた巨大な爆弾が起爆して、私たち三人の身体をバラバラにして、設備室を粉々に吹き飛ばしたのだった。

 

 

 

 

From where I was standing
It was hard to see, hard to see
But what has always been
Will forever be, forever be

私の立っている地点からは
あまり見えない よく見えない
でもこれまでずっとあったものは
永遠にありつづけるはず

 

And now you're running down my spine
Like a waterfall, like a waterfall
I want to write your name
On every wall, on every wall

あなたの存在が背骨を駈け下りていく
滝のように 流れ落ちる水のように
あなたの名前を あらゆる壁に書きたい
世界中の壁に

I believe in you
I believe in you
I believe in you, yes, I do
I believe in you

あなたの全存在を信じている
あなたの全存在を信じている
そう、全存在を

(…)