短編小説「芸術的な完全犯罪者のキス」

 会ったことのない男同士が合う場所は、どこが良いのだろうか。

 絵画のバイヤーをやっている知人が、小説家のぼくに会いたいと電話をかけてきた。事件に巻き込まれているかもしれないので、催眠をかけて調べてほしいという依頼だった。

 最初は断った。事件に小説家が関わるのは虚構の中だけの話だ。それに、催眠術をかけられるといっても、ぼくにできるのはお遊び程。小説を書くための取材で、見よう見まねで覚えた程度でしかない。ほんのわずかの霊感もあるが、それも同じくヒヨコ程度。事件に巻き込まれている知人の役には立てそうもない。

 それでも熱心にぼくに話を聴いてほしいというので、個室のあるホテルのバーを指定した。酒で人が変わる人間ならたくさんいる。結論から言うと、この日の酒で、ぼくの人生は大きく変わってしまったのだ。

 絵画バイヤーの知人は50歳前後。確か、奥さんのほかに中学生の娘さんがいたはず。バーの暗い個室に着席したあと、彼に確認するとぼくの記憶は正確だった。

 ひととおり、絵画の売れ行きがいかに景況感に左右されるか愚痴をこぼしたあと、絵画バイヤーはぼくの近況を訊いてきた。長髪の遊び人風に見えて、彼は律義な性格なのだ。滅多に会わないが年齢が近いので、同級生口調で話すのが慣例になっている。

「霊感の訓練に凝っているんだ。月に数回は聞こえてくるから、気になってしょうがなくて。その言葉が合っているかどうかも確かめようがないけれど、それが高級霊の言葉か、低級霊の言葉かは区別する方法があるそうだ。何だと思う?」

「あ、それ、聞いたことがある。痛い、苦しい、淋しいの不定愁訴を訴えたり、ああしろ、こうしろと、命令で振り回したりしたがるのが、低級霊らしいね」

「そうそう。幸い、ぼくにはそういう霊言は降りてきたことはない。もっとわかりやすい違いは、霊言がシンクロニシティーと連動しているかどうからしいぜ」

シンクロニシティー?」

「偶然とは思えない偶然の一致のこと。音楽に例えてもいいかい。ポリリズムの楽曲では、複数のリズムが同時進行している。けれど、或るタイミングで、その複数のリズムが重なる瞬間があるんだ。聞いているこちらまで、その瞬間にシンコペーションの快美感を感じてしまう。それが目下のぼくにとってのシンクロニシティーの意味合いだ」

「そうか。そうなら、今晩のぼくの話にも、シンクロニシティーがあると言えるかもしれない」

 絵画バイヤーは長髪を手早くポニーテールにまとめると、彼の身の上に起きた不思議話を語りはじめた。

 …ぼくがこの完全犯罪に巻き込まれたのは、ヨーロッパでの買い付けが一段落した数か月前、成田に帰国したときのことだ。上着のポケットを探ると、指輪が出てきた。それも祭りの屋台で売っているような安い指輪じゃない。裏面にカルティエと刻印されている。試しに指に嵌めてみると、ぼくの小指にしか嵌まらなかった。ほら、これ。本物だろう? 女物の婚約指輪だ。

 どうしてぼくの上着のポケットにそんな高価な指輪が入っていたのか、まったく心当たりがないんだ。海外でも、カルティエの宝石売り場やブティックには出入りしていない。海外で商談した相手は全員男性だったし、行き帰りの飛行機の隣も男ばかりだった。

 ふふふ、そうだね。神様からの贈り物かもしれない。それもありうる。当時から、絵画の売れ行きは絶不調で、家計が苦しかったからな。ぼくは事情を内緒にして、妻にプレゼントしようと決めた。

 ところが、東京の自宅の玄関を開けると、中はもぬけの殻。自分の所有物があるばかりで、妻と娘は荷物をまとめて実家へ帰ってしまっていたんだ。妻は一切電話に出ようとしなかった。ぼくはやむなく家賃の低いマンションへ引っ越して、仕事を続けた。

 そして、同じように絵画の買い付けを終えて帰国すると、成田で今度はブルガリのネックレスがポケットから出てきた。次の海外主張の帰りには、子供向けのエルメスの靴下が出てきた。

 神経の図太いぼくも、さすがに悩み始めた。渡航先は、イギリス、フランス、イタリアとばらばらだ。妻子に去られた淋しさで、盗癖を発病したのかとも考えたが、最初のカルティアの指輪がポケットから見つかったのは、妻子が失踪する前の話だ。いわば、因果関係ではなく、シンクロニシティーだと考えるべきなんだ。鈍感なことに、それまでぼくは、家庭でストレスをまったく感じていなかった。それに、盗んだにしても、記憶がさっぱりないなんてことはあるのだろうか。

 ぼくが出した結論は、「芸術的な完全犯罪」だ。ぼくの記憶を毎回吹っ飛ばすほどの国際犯罪集団が関わっているにちがいない。小説家のきみなら、どう推理する?

「きみの言う通りだったとして、きみに宝飾品をプレゼントして、犯罪集団が何の得になるんだ?」

 ぼくは愉快になって、笑いながら絵画バイヤーに訊いた。

「そこだよ、さっぱりわからないのは。それこそが、いかにも『芸術的な完全犯罪』らしいところだと言っておこうか。受け取った本人にもさっぱりわからないけれどね」

 そう冗談で混ぜ返すと、絵画バイヤーは、ゴールを決めたサッカー選手がするように、左手小指のカルティエの指輪にキスをしてみせた。家族を失った男にしては、彼はいささか陽気すぎる。彼をこれ以上孤独にしないために、ぼくもにっこりと微笑んでみせた。

「きみの海外出張で何が起きていたのか、ひとつだけ確認する方法があるよ。念のため、自白剤を持ってきてある。簡単な催眠術とあわせて、きみ自身が何を目撃したか聞き出すことができるかもしれない」

「ぜひともそれを頼みたい。宝飾品ならまだしも、知らず知らずのうちに麻薬を運んでいたりしたら、人生が完全に終わってしまうからな」

 こういうときにバーの個室は便利だ。絵画バイヤーに自白剤を服用させてから、ソファーに横にならせた。そこからの小一時間で、ぼくが見聞したのは驚くべき窃盗の実態だった。絵画バイヤーが「芸術的な完全犯罪」だと冗談めかして言ったのは、本当だったのだ。絵画バイヤーが習得して駆使していたのは、集団催眠法。宝飾店の店員と客を同時に集団催眠にかけて、欲しい宝飾品を差し出させていたのだ。しかも、犯行直後に彼らから記憶を綺麗に消し去っていた。それだけではない。大魔術を使える絵画バイヤーは、ご丁寧にも自分の記憶まで綺麗に消し去っていたのだ。

 ぼくは興奮して、その集団催眠法について、根掘り葉掘り彼に聞いた。意外なことに、その集団催眠法は催眠術初心者の自分でも、訓練すれば使えるような代物だった。ぼくは自分が試みたときに壁になりそうな箇所を、すべて聞き出してメモをとった。集団催眠さえ使えれば、50過ぎの売れない独身小説家という人生を、大逆転できるような気がしたのだ。心臓が高鳴って、ワクワクする気持ちがとまらなくなった。

 と、そのワクワクの動悸に揺さぶられて、ぼくは自宅のベッドで目を覚ましてしまった。時計の針は正午を回っている。ちぇっ、夢だったのか。夢の最後で、喜びと希望に満ちあふれて幸福だったので、夢落ちの落胆は大きかった。せっかくの休日なのだから、もう少しあの至福のひとときを味わっていたかった。ぼくはのろのろと立ち上がって、顔を洗うために、洗面所へ向かった。

 顔を洗おうとしたとき、自分の左手の小指に、指輪が嵌まっているのに気付いた。昨晩のバーの個室で、絵画バイヤーからもらったのだろうか。いくら記憶を探っても思い出せない。指輪を外して仔細に眺めていると、重要なことが判明した。

 その女ものの婚約指輪は、カルティエではなくティファニーだったのだ。ぼくは自分の鞄や持ち物を、丁寧に調べまわった。すると、鞄から買った覚えのない外国製の紅茶の缶が出てきた。

 ようやくぼくにも事情が呑み込めてきた。自分で自分の記憶を消しただけで、午前中にぼくはひと盗みやってしまったのかもしれない。

 しかし、どうして指輪と紅茶を盗んだのか、自分でもよくわからなかった。珈琲党のぼくは、茶葉から紅茶を飲む習慣がないし、ティファニーの指輪を渡すような交際女性もいないのだ。

 ぼくはふと思い当たる何かを感じて、絵画バイヤーに電話をした。絵画バイヤーは意外にも長野へ移動していた。

「ああ、昨日はどうもありがとう。悩んでいた話を聞いてもらえて良かったよ」

「催眠術はどうだった?」と、ぼくは探りを入れた。自分では、催眠術をかけてからの記憶が、どこまでが現実で、どこからか夢なのか、よくわからなかったのだ。

「その話をする? きみの催眠術には全然かからなかったから、結局あの不思議話の原因はわからずじまいさ。そんなことより、あのあとすぐ今日の午前中に電話があって、妻と娘が逢いたいって言ってきてくれたんだ。カルティエの指輪とブルガリのネックレスとエルメスの靴下で、今や長野の妻の実家は大盛り上がりだよ」

「そうかい、それは良かった。実は、そうなったらいいなと思って、そういう催眠をかけておいたんだ」

 通話口の向こうで、携帯電話のマイクから口を離して、絵画バイヤーが大声で笑う声が聞こえた。

「そういうことにしておこうか。いずれにしろ、きみに会ってから、憑きものが落ちたような爽快な心地だ。これもきみのおかげだ。とても感謝しているよ。サンキュー!」

 通話を切ったあと、ぼくはポリリズムの好きな曲を思い出していた。

 速いリズムと遅いリズムが混在していて、最初はズレていたリズム同士が、どこかでピタッと合う瞬間が来る。それがシンクロニシティーなのだと、ぼくは例え話をした。

逆にいうと、シンクロニシティーが揃うまで、タイムラグがあるということだ。

 絵画バイヤーがイギリスで指輪を盗んだ当日と、彼の妻子が連絡不通になって失踪した日はシンクロしている。そこから、彼が盗んだ宝飾品で妻子を大喜びさせるまでの数か月で、び二つのリズムは再びシンクロしたのだろう。

 再びシンクロしたきっかけは… 何だったのだろう?

 記憶にはないものの、午前中に自分が「芸術的な完全犯罪」を犯したという確信を、ぼくはまだ心中で持て余していた。ぼくが都内のティファニーで「芸術的な完全犯罪」をしていたまさにその瞬間、長野では憑きものが落ちたような幸福が出現していたという事実を、どう考えれば良いのだろうか?

 「芸術的完全犯罪」

 ぼくは声に出して呟いた。それから、すぐに電話帳リストを開いて、小説関係、絵画関係の下にある、音楽関係の知人の電話番号リストを眺めた。そして、ポリリズムを駆使して現代音楽をやっている遠い知り合いに、電話をかけ始めた。

 まだ、電話の向こうでは、呼び出し音が繰り返し鳴り響いている。その音が繰り返す心地良い反復のリズムに耳を傾けながら、ぼくは左手の小指のティファニーを見つめた。そして、まだ見ぬその未来の指輪の持ち主を想像して、指輪に軽くキスをした。

 

 

 

 

 

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