「Unsaid」ウィルスを消毒するデザイン

 別名キラー通り周辺で信号待ちをしていると、日曜日の午前中には、式場へ移動中の花婿花嫁が信号を渡るのに遭遇することもあった。私がクラクションを鳴らして祝福を送ると、周囲の車もそれに続いた。花婿は羞かしさをごまかそうとする速足で、花嫁を引っ張っていった。二人身体を寄せて、祝福の車列に笑顔を返すくらいの余裕があっても良かったのに。

 どうしてだか外苑西通り好きで、建築好きの自分としては、通り沿いの国立競技場の建て替え問題が、マスメディアが注目する前から気になっていた。ただ情勢は二転三転して、ネット上では問題全体を俯瞰できるサイトが、簡単には見つからない。下の新書で確認するしかなさそうだ。 

新国立競技場問題の真実 無責任国家・日本の縮図 (幻冬舎新書)
 

きっと、ロシア在住が長く、最終的に暗殺されてしまった政治家のいう「日本病」の病巣が、そこにはまざまざと露出しているにちがいない。 

 その新国立競技場のコンペを最初に勝ち取ったのが、ザハ・ハディドという脱構築主義系の女流建築家だった。「アンビルトの女王」の異名をとるのは、大規模なプロジェクトのコンペは次々に優勝するものの、実際の竣工に至らない建築が多いからだ。しかし、カーディフ・オペラ・ハウスが賛否両論を巻き起こしつつ実現しなかったせいで、Unbuild の称号が囁かれるようになったのは、20年以上前の話。

 ザハの建築リストを確認してみると、テクノロジーの進歩によって、実現している建築の方が圧倒的に多い。もはや「偉大な空想家」との蔑称は相当しないのではないだろうか。

となれば、ここで「Unbuild の帝王」を召喚しないわけにはいかないだろう。ザハよりはるかに実建築の少ないレベウス・ウッズは、建築そのものよりもSF的なドローイングで知られている。

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レベウス・ウッズ自身も、かつては脱構築系建築家のカテゴリーにいたが、どう見ても強烈なオリジナリティーのある唯一無二の建築家だ。

 メビウスバンドデシネ)→レベウス・ウッズ(建築)→アキラ、甲殻機動隊(マンガ、アニメ)→ニール・ディナーリ(建築)→フィフスエレメント、マトリックス(映画)→ヘルゾーグ&ムーロン(鳥の巣)といったように、世界中に様々な表現形式、メディアを通じて循環していくものなのです。
 そういった意味で、アンビルドアーキテクトの役割は構想や妄想と現実をつなぎ、再度現実から妄想を生み出すデザインビジョンの錬金術師として重要な位置をもっていると思われるのです。

日本語で最も詳しい解説をつけているこのブログの運営者は、新国立競技場問題に先頭に立って警鐘を鳴らした建築エコノミストだ。建築関係の知見がふんだんに詰まっている。上記の引用部分にある意匠の文化的循環は、とても面白い。自分にはとてもここまで見えない。

 ただ、もしエピソードとして付け加えるなら、この「Unbuild の帝王」が『12モンキーズ』という映画をめぐって裁判沙汰になったことだろうか。

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左が『12モンキーズ』に出てきたセットで、右がレベウス・ウッズの手によるもの。尤も、本気で知的著作権を争いたかったわけではないらしく、ウッズは勝訴しても作品内のその映像が残ることを許し、金銭的和解に達したのだとか。詳しくは上記の英語ブログを読んでほしい。

12モンキーズ(Blu-ray Disc)

12モンキーズ(Blu-ray Disc)

 

意外だったのは、ブラピの怪演が光っていた『12モンキーズ』の日本語予告編が You Tube にないこと。監督はテリー・ギリアムで、下の記事で言及した『未来世紀ブラジル』に次ぐ傑作だと自分は感じていた。

テリー・ギリアムは、そののちも、アーサー王伝説に代表される聖杯物語をモチーフにした『フィッシャー・キング』を撮った。現代の複雑性の高い高度情報社会を、「魔法昔話」の物語駆動力で動かそうとする姿勢は、継続されたようだ。

上の記事ではあのように書いたが、『12モンキーズ』はテリー・ギリアムの力のこもった新境地が見られる。典型的な時間ループものになっているのだ。

(「時間ループ論」については上の記事で書いた)。

未来世紀ブラジル」のT・ギリアムが、クリス・マルケルの短編映画「ラ・ジュテ」(62)を基に作り上げた時空SFの異色作。1996年に発生した謎のウィルスにより、全人類の約99パーセントは死滅した。そして2035年、地下に住んでいた人間たちはその原因を探るため、一人の囚人を過去へと送り出す。糸口はたったひとつ、“12モンキーズ”という謎の言葉のみだった……。

とりとめもなく書き流してきたかに見えるこの記事を、ここで整理しよう。

ウィルスの伝染で多くの人々が落命する世界に、脱構築主義系で 「Unbuild の帝王」の建築家レベウス・ウッズの特異空間が現れるというわけだ。

この連想を昨晩思い浮かべながら、「上の方にある記事でロシアについては書いた。明日はインドについて書くしかないな」と感じていた。こういう星座線が見えてしまう自分が幸福なのかどうかは、よくわからない。ただ、最後まで書いてみたい気がするのだ。

ウィルスの伝染で多くの子供たちが落命するインドで、脱構築主義系で 「Unsaid の女王」の思想家スピヴァクから語り始めなければ。  

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

 

 スピヴァクカルカッタ大学卒業後にアメリカへ留学し、そこでポール・ド・マンの指導を受けた。脱構築主義の領袖であるデリダの『グラマトロジーについて』を英訳したことで、一挙に盛名を馳せ、この『サバルタンは語ることができるか』でポスト・コロニアリズムの思想的リーダーとなったのだった。

サバルタンの定義はこちら。

スピヴァクによって広く知られる用語となった。「自らを語ることができない者」であり,たとえ語っても,それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者のことをいう。一方でサバルタンを語る人々の側には、無機質な透明性がつくり出され、語る側の権力と欲望は見えなくされているのだとか。 

スピヴァクの本書は昔読んだことがある。どういうわけか、自分は下記記事のような難解な文章を読むのが比較的得意で、スピヴァクが書いていることも理解できる。久々に本を開くと、懐かしいデリダ調の難解な文体で書かれていた。引用は最小限にしようと思う。 

そんなこともあって、今晩はインドの陋習にまつわる三つの事件を、列挙してみたい。

1. 残忍な女学生レイプ殺人

昨年12月16日夜、首都ニューデリー。当時23歳の女子学生は、28歳の恋人の男性と映画鑑賞後に帰宅しようとしていた。帰宅時間が予定より遅くなり、三輪タクシーもつかまらなかった。そこへ、未成年の容疑者が彼らを私営のバスに乗るように誘い込んだ。多少のためらいはあったものの、私営の乗り合いバスに乗車。あとで分かったことだったが、実は過去に事件を数件起こしたこともあるという、無認可のバスだった。

 乗車後、運転手の男が猥褻な言葉を投げかけ、同乗の仲間もからかいながら言いがかりをつけてきた。

 恋人の男性はバスを止めるように要求した。が、すでにカギはロックされていた。男らは金属の棒で男性を殴り、女性の衣服を刃物で裂いて集団でレイプし始める。男性は暴行を阻止しようとしたが、金属の棒でメッタ打ちにされた。

 男らは、代わる代わる暴行しただけでなく、金属の棒で女性を殴り、局部に鉄の棒を突き刺して腸を引っ掻き回し、なんと素手で腸を引きずり出すという蛮行にまで及んだのだ。

 男らは、2人の身元がわからないように、持ち物、携帯電話を奪い、服も全部剥がした。そして、全裸の2人をバスの外に放り投げたうえ、証拠隠滅のため、バスで轢き殺そうとしたのだった。そして、男性は自ら重傷を追いながらも、女性をバスの下からひきずり出し救った。 

2. カーストを越えた恋をした少年が惨殺される

 インドで自分よりも下位のカーストに属する少女にラブレターを書いた15歳の少年が、登校途中に相手カーストのメンバーに拉致され、髪を刈られて市中を引 き回された挙げ句、少年の母親が命乞いをする声も空しく、線路に投げ込まれて轢死するという何とも痛ましい事件が起きた。

3. サティー(寡婦焚死=亡夫の後追い自殺を事実上強要する風習)

 サティー、は、ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることである。日本語では「寡婦焚死」または「寡婦殉死」と訳されている。本来は「貞淑な女性」を意味する言葉であった。

 7世紀のムガル帝国で支配者層であったムスリムは、サティーを野蛮な風習として反対していたが、被支配者層の絶対多数であるヒンドゥー教徒に配慮し、完全に禁じていたわけではなかった。その代わり、サティーを自ら望む女性は太守に許可を申し出るよう義務付け、ムスリムの女性たちを使って可能な限り説得を行い、それでもなお希望する者にのみ許可を与えた。

 必ずしも寡婦の全てがサティーを望んだわけではない。また、全ての土地にムスリムの太守がいるわけではなく、説得が行われていない地域もあった。中にはヨーロッパ人や家族の説得に応じて寸前で思いとどまった者もいたが、ほとんどの志願者は夫と共に焼け死ぬ貞淑な女性として自ら炎に包まれた。炎を前に怖気づいた者は、周りを囲むバラモンに無理やり押し戻されるか、仮に逃げたとしてもそれを目的に見物に集まっていた異教徒たちに襲われ、その餌食となった。 

思想上の強度と主題上の強度は、しばしば混同される。例えばホロコーストのような主題で、最も迫害された人々を論じれば、思想上の強度が高まったかのように見えやすい。けれど、スピヴァクの『サバルタンはは語ることができるか』は、このサティー(寡婦焚死)という陋習を扱いながら、現代思想の一流の水準の思考が繰り広げられている。

(…)抑圧を単なる刑罰の法によって維持されているもろもろの禁止(prohibition)と区別するものはなにかといえば、(…)それはそういうことすべてについてはなにも言うべきこと、見るべきこと、知るべきことはない、と言明するのだ。 

 インドの下層階級の女性(サバルタン)は、単にサティー(寡婦焚死)という陋習を背負わされるだけでなく、それについて「何も言えなくなる(unsaid)」状態に追い込まれているというのが、ごく簡単に要約した『サバルタンはは語ることができるか』の主張だ。

声をあげるべきマイノリティーたちが言葉を持っていないこと。その実態を、スピヴァクよりもはるかに簡明な文体で私たち教えてくれるのが、ティナ・ローゼンバーグ。ピューリッツァー賞受賞歴のあるアメリカの一流ジャーナリストだ。 ソーシャルデザインとは(商業的デザインとは対極にある)「地域社会にある人や資源や技術を使って、地域社会の問題や生活を改善するデザイン」のことだ。 

クール革命―貧困・教育・独裁を解決する「ソーシャル・キュア」

クール革命―貧困・教育・独裁を解決する「ソーシャル・キュア」

 

 ティナがレポートしているCRHPという団体の活動が、とても興味深い。ネット上では「ピア・プレッシャー」の活用法の本だと受け止められている人もいるようだが、本当はそこにあるのは、地域社会の人や物や資源の関係を改善するソーシャルデザインだ。

(言い換えれば、ここからの内容は昨日の記事の続きだとも言える)

CRHPとは「Comprehensive Rural Health Project(総合的地域医療プロジェクト)」のこと。日本語の紹介サイトもある。

CRHP Jamkhed, India

CRHPが設立された70年代当時、インドの田舎の地方には医者がいなかった。田舎に送り込むための医者や看護師ももちろんいない。

そこでCRHPは貧しい村の女性に医師や看護師の代わりに働いてもらうことにした。そのときの条件がかなり衝撃的だ。

  1. 読み書きできなくてもいい
  2. 医療知識がなくてもいい
  3. ダリット(最下層の不可触民)であってもいい
  4. ただし、貧しい村人へ共感できる能力が高いことを重視

1.はともかく、2.がなければ医療行為なんてできるわけがない。そう感じるのが常識だろう。しかし、そこにインドの田舎の特殊事情がある。田舎の医療衛生問題には、複雑な医療知識がほとんど必要ないのである。食事や水や衛生環境や生活態度を適切にあらためるだけで、多くの病気が改善したり治ったりするのだという。いわば『12モンキーズ』において近未来に殺人ウィルスが大流行する以前に、世界の発展途上国の各所では、すでに死に至るウィルスが蔓延しているというわけだ。

では、上記の条件を満たしたヘルスワーカーはどんな人々なのだろうか。彼女たちの素性を記した文章に、どうしても「Unsaid」なサバルタンの肖像を重ねずにはいられない。

 私が出会ったヘルスワーカーは全員が十三歳までに結婚しており、もっと幼いケースもめずらしくなかった。そして女の子を出産した後やけがで重労働ができなくなた後に、夫から捨てられた女性も多かった。さらにヘルスワーカーに選ばれた女性のほとんど全員が、読み書きの能力を持っていなかった。

そして、何とかヘルスワーカーに選ばれて、都会へ研修に来た女の子たちは、完全に委縮してフリーズしてしまったらしい。

(…)センターでほかの女性たちと一緒に着席したラレンバイは、すっかり動転してしまった。これまでダリットの彼女は高いカーストの人たちとカーペットを共有することを禁じられていたからだ。(…)体を丸く縮め、顔をサリーですぽっと覆った。

研修を手伝っていたCRHPの主催者の娘は、読み書きできないダリットの彼女たちの様子をこう語っている。

『名前を教えてください』と訊ねても、出身の村とカーストの身分を言うだけ。身元を明かさないんです。顔をベールですっぽり覆い、相手の目を見もしなければ話しかけもしません。女性にも知性があるなんて、考えられなかったみたい。『女性とネズミとどちらが賢いかしら』と母が訊ねれば、『ネズミ』という答えが返ってきたぐらいですもの。

セルフイメージが「ネズミ以下」だったヘルスワーカーたちを、無報酬で働かせていると聞くとCRHPは血も涙もない団体のように聞こえてしまう。しかし、それは大きな間違いだ。給与を支払う資金的余裕がない代わりに、CRHPは彼女たちにマイクロビジネスの方法を教えるのだ。

 実際、日収3ルピーだった或るヘルスワーカーは、ガラス製のブレスレットを売るノウハウを習得してから、日収は50倍になったという。かといって、彼女たちがヘルスワーカーの仕事を放棄して、儲かるマイクロビジネスに専念してしまうことはないのだそうだ。

 それはヘルスワーカーの仕事から自尊感情を得られるからだ。これまで不可触民として忌み嫌われていた自分たちが、村の隣人を助けることができ、尊敬を得られることが、何にも代えがたい喜びなのだという。

 そして、CRHPの活動の成果の中で、最も感動的なのは、上記の三事件を引き起こす元となっているカースト制度を、底辺から解体していく様子だ。

 あるヘルスワーカーは、高いカーストの知人宅へ出産の手伝いに行ったとき、わざわざダリット専用の欠けたカップを持ち出されて、お茶を出されたのだという。

 そんな待遇を受けながら、私は安全な出産の手助けをしました。妊娠中は訪問検診を続け、必要な知識を伝えました。でも知識よりも大切なのは、相手に対する愛情や思いやりではないかしら。いよいよ出産の段階になると、家族みんなが私の作った食事を食べてくれるようになりました。しかも、私にもみんなとお同じカップでお茶を出してくれて、一緒に食べようと誘ってくれるの。こうしてカーストの壁は少しずつ取り払われていくんです。 

 ティナ・ローゼンバーグは同書で、「良いピア・プレッシャー」を旗印に、社会資本の重要性を強調している。指摘できるとしたら、CRHPの事例にはさらに複雑で見事なソーシャルデザインが機能していることだろう。

もう一度整理しておこう。

インドの田舎には医師がいない。

 医師や看護師を育成したり常駐させたりする資本はどこにもない。

インドの地方の病気の原因のほとんどは食事や水や衛生環境が原因だ。

高度な医療知識は必要ないので、村で棄てられているに等しいダリット(不可触民)をヘルスワーカーに育成する。

 ダリットの女性たちに、自身にふさわしい自尊感情と女性の権利を教える。

ダリットの女性たちに、きわめて少額でできるマイクロ・ビジネスのノウハウも教える。

高いカーストの村人たちが、ダリットなのに基礎的な衛生知識で病気を治し、副収入も充分にあるヘルスワーカーを尊敬しはじめる。

これまで村で棄てられているに等しい存在だったヘルスワーカーが、他人に喜びを与え、尊敬をもらうことに生きがいを感じるので、ほぼ無給なのに喜んで仕事を続けられる。

この循環によって、差別的な カースト制度が崩壊しはじめる。

これはピア・プレッシャーというより、まさしくソーシャルデザインそのものだろう。ソーシャルデザインとは(商業的デザインとは対極にある)「地域社会にある人や資源や技術を使って、地域社会の問題や生活を改善するデザイン」だと昨日自分の言葉で定義したところだった。

 付け加えるなら、それが最下層の女性たちが「Unsaid」から脱け出すことで、インドの陋習を底辺から突き崩していく感動的なソーシャルデザインであることだろうか。

 ウィルスの伝染で多くの子供たちが落命するインドで、脱構築主義系で 「Unsaid の女王」の思想家スピヴァクから語り始めなければ。  

そう自分に呼びかけて書き始めたこの記事の後半を、愛聴するノラ・ジョーンズがインドにいる異母姉妹と共演した「Unsaid」という曲で締め括ることにしたい。