短編小説「ぼくは人喰い鬼じゃない」

 天涯孤独と自分のことを言うと、知人は「嘘だろう?」と好奇心で質問してくる。嘘だったらどれほど楽だろう。両親を知らずに孤児院で生きてきたぼくには、残念ながらそれは、嘘の言葉じゃない。

 物心ついてから15才まで暮らした児童養護施設は、いつも問題児であふれていて、いつも職員が人不足で悲鳴をあげていた。

 だから、15才の誕生日の次の4/1が近づいてきたとき、ぼくは嬉しくてたまらなかった。やっと働ける年齢になって、自分で生きていける。その年齢になると児童養護施設を出る決まりだった。嫌がる子供もいたが、ぼくは社会で働きたかった。

「時々ここを手伝いに来てちょうだいね」

 別れ際、寮母さんにそう声を掛けられたので、ぼくは笑って頷いた。寮母さんは感動屋なので、ここの「先輩」が社会で大成したら、どれほど子供たちの希望になるか、という話をくどくどと語った。

「まかせてください」といってぼくがウィンクすると、小柄で円い形の寮母さんが飛びついてきて、抱きしめてくれた。周りの下級生たちがいたから、ぼくは少し恥ずかしかった。寮母さんが耳元で「あなたはきっとうまくいくわ。厭なことを忘れるのが、誰よりも上手だから」と囁いた。心の底からぼくに向けてもらった言葉は、あれが最後だったと思う。

 田舎町の個人経営のコンビニが、ぼくをアルバイトで雇ってくれた。店の奥にあるシャワールームつきの仮眠室が、ぼくの仮の宿になった。主食はコンビニの余った弁当やパンが多かったが、オーナー家族がよく食事に呼んでくれたので、栄養バランスは辛うじて保たれていた。

 いちばん戸惑ったのは、夜勤明けの正午くらいに起き出したあとの果てしなく感じられる孤独だ。何もすることがないのだ。テレビもパソコンも買うお金がなかったので、部屋の隅でじっとしているしかない。じっとしていると鬱々としてしまう。休日はさらに悲惨だ。睡眠サイクルが夜型になっているので、起きてすぐに、田舎町を真っ暗な夜が包んでしまう。困った。何もやることがない上に、ひとりぼっちだ。淋しくて、胸がずきんずきんと痛くなってきた。

 電気代がもったいない気がしたので、天井の蛍光灯を消して間接照明にした。窓の外のの闇とつながると、部屋が暗々と広く見えた。ぼくは背筋に厭な何かが走るのを感じた。

 案の定、闇の中から、鬼が現れた。

「何だ、驚かないのか」

「あ、いや、絵に描いてあるのとそっくりだし、初対面であまり驚くのも失礼かなと思って」

「それはそれは。気を遣ってもらって悪かったな。オイラの方は気を遣わないぜ。それっと!」

 鬼はぼくの身体めがけて、透明な投網を投げるような仕草をした。そして、獲物を手に入れようとするかのように、自分の側へ握った手を引き寄せた。その途端、ぼくの心臓がわしづかみにされた感じがして、ぼくは悲鳴を上げて前へ倒れた。

「やっぱりお前は鬼だったな。この心臓つかみの技は鬼にしか効かないんだ。今日からオイラがお前を一人前の鬼にしてやるから、しっかり修行に励むんだぞ」

「ふざけるな。ぼくは鬼なんかじゃない」

 ぼくは床に這いつくばったまま、鬼をにらんだ。すると、尾には今度はつかんだ心臓を投げつけるような仕草をした。ぼくの身体はふわっと浮き上がって、背後の壁へ叩きつけられてしまった。

「はっはっはっ。お前は鬼なんだよ。どうして自分で自分のことがわからないんだ。忘れっぽいのか?」

 ぼくは壁に背をつけて、肩で息をしていた。そのとき、懐かしい記憶がよみがえってきた。児童養護施設の遊び場で、女の子がぼくに向かって「鬼! 鬼!」と叫びつづけている声が、蘇ってきたのだった。どうして自分が「鬼!」と言われているのか頭の中を探ったが、それらしい記憶はなかった。ぼくには厭なことをすぐに忘れてしまう癖がある。施設で女の子を酷く虐めたりしたのかもしれない。ぼくは自分で自分が信じられなくなってしまった。涙目になった。

「そうだ。いいぞ。早速ずいぶん鬼らしい表情になったじゃないか。その調子だ。鬼の最終的な仕事は、人間の魂を食べることじゃ。見習い期間中のお前は、まずは人を喰った行動をとるのが仕事になる」

「人を喰う?」

「平気な顔をして人を騙して遊ぶんじゃ」

「人を騙すなんて、ぼくは厭です!」

「まあよく聞け。最初のミッションは、平気な顔で人を騙したあと、相手が『そいつはずいぶん人を喰った話だね』と言ったらクリアだ。うまく誘導することだ」

「そんな修行はやりたくないです」

「心臓を抜いてほしいなら、今すぐ抜いてやってもいいぜ。そうなったら、悲しむだろうな。親でもないのに、きみを育ててきた多くの人々が」

「脅すんですか?」

「オイラはそんな怖い顔でにらまれるのは厭だな。考えてもみろ。人をうまく笑わせるだけでミッション・クリアだぞ。死ぬ気でやれば、すぐにできることさ」

 鬼は愉快そうに笑っていた。ぼくに選択肢はなかった。

 次の日の晩、ぼくは個人経営のコンビニのレジに立った。最初の客は、40代くらいの派手な女性だった。水商売の安い雰囲気はなかったが、化粧の感じがどこか愛人風だった。

「ポイントカードをお持ちですか?」

「あ、はい」と答えて、女性はハンドバッグの中を探しまわっている。

「ぼくも持っているんですよ。少しずつでも、ポイントがたまっていくのが嬉しいですよね。おや、奥さん、こつこつチャーム・ポイントを溜め込んじゃって、塵も積もれば大和撫子、美人の作り方を教えてくださいよ。うちの女房にも聞かしてやりたい」

 15歳のぼくが、「うちの女房」という昭和の古い言い回しを使うギャップが面白いはずだった。ところが、愛人風の女性は、ぼくを悠々と無視して店を出て行った。

 ぼくは溜息をついた。この調子だと、客は永遠に「そいつはずいぶん人を喰った話だね」なんて言ってくれそうにない。ぼくはレジの会話パターンを練り直した。

 深夜に弁当を買いに来た20代の男性には、こう訊いた。

「お弁当をあたためますか?」

「お願いします」

 ぼくは弁当のプラスチックの表面を、手のひらでこすり始めた。

「信長さま、温めております。あと5時間くらいお待ちを」

「そこのレンジで温めてもらえませんか?」

「ぬお、ありがたき幸せ。レンジで加熱すると油分が発がん性物質に変異するので、ロシアでは80年代まで使用が禁止されていました。綺麗なお姉さんと発がん性物質はどちらが好きですか?」

「……。」

「あら、嬉しいわ。やっぱり私の方が好きなのね。私が温めてあげるから、あと5時間待ってて」

 そこまで言うと、ぼくは再び弁当の表面を手のひらでこすり始める。そしてこう訊くのだ。

「というこの話を、あなたはどう思いますか?」

「その弁当買うのをやめます」

 そう言って立ち去る人もいれば、「綺麗なお姉さん」に化けたタイミングで、「淀君でいらっしゃいますか?」などと、よくわからない世界観で話をふくらませてくる客もいた。

 バックヤードに呼び出されたとき、オーナーは苦り切った表情をしていた。

「真面目な子だと思ったのに、急にお客さんと変な会話をしはじめたのは、どうしてなんだい?」

 説明はとても難しかった。強いて言うなら、ぼくが鬼だったからだろう。身寄りのない少年を働かせてくれているオーナーのことが、ぼくは好きだった。ペコペコ頭を下げて謝って、淋しいので人と会話をしたいのだと嘘をついた。胸がずきんずきんと痛かった。

 上機嫌なのは鬼だけだった。ぼくの一人暮らしの部屋に現れては、乱暴にぼくの心臓をつかんだ。このミッションは必ずやり遂げろと、毎晩のように脅しに来た。

 けれど、数日そうしているうちに、潮目が変わったような気がした。

 深夜に若い男が煙草を買いに来た。ぼくは店員として年齢を確認する必要があった。

「お客様、年齢を確認するスクール水着はお持ちですか?」

「持ってねえよ。鞄にスクール水着入れて持ち歩いている奴がいるわけないだろ!」

「まさか… 着用中?」

「そうそう、着替えるのが大変だから、水着を着たあと、上から私服を着てきたんだ… てなわけないだろ! だいたい、スクール水着を見て何がわかるんだよ?」

スクール水着のゼッケンのお名前と免許証のお名前を照合します?」

「無駄が多くねえ? 免許証だけでよくねえ?」

 ぼくが一瞬、シナリオ通りの台詞に詰まると、相手が助け舟を出してくれるようにまでなった。

「あ? 店員さんふざけないでよ、タバコのこと何もわかってないんじゃないの?」

「はい、吸いません」

 やがて、この個人経営のコンビニが、田舎町のちょっとした名物店になったようだった。隣県から30分かけて、遊びに来る客まで現れはじめた。苦虫を噛み潰したようだったオーナーの表情が、手のひらを返したように、にこにこの恵比寿顔になった。けれど、ぼくの心の霧は晴れなかった。いつになったら客に『そいつはずいぶん人を喰った話だね』と言ってもらえるのだろうか。

 今晩も隣県からの客がやってきた。両親と中学生くらいの娘の三人が、買い物かごにいろいろと入れて、レジカウンターに並んだ。

「温かいものと袋は一緒でもよろしいでしょうか」

 ぼくがそう訊いたのは、財布を取り出して準備していた母親に向かってだった。母親が頷いたので、ぼくは「人を喰ったシナリオ」を喋りはじめた。

「ありがとうございます。何といっても、『温かいおふくろと一緒』。それにまさるものはありませんものなあ。結婚式でもよく言うじゃないですか……」

 シナリオはこう流れる予定だった。昭和の結婚式スピ―チによくある「三つの大事な袋」(堪忍袋、給料袋、おふくろ)のパロディーをやると見せかけて、「ほら、東京の駅にありますよね」と前フリをする。きっと「池袋」と言うだろうと思わせておいてからの、「中目黒」「双羽黒」「カズオ・イシグロ」という謎めいた展開。かなり自信はあった。

 しかし、そのとき事件は起こった。

 向こうから、追加のお菓子を持ってレジへ歩み寄ってきた女子中学生が、ぼくの顔を見るなり、「鬼! 鬼!」と大声で叫んだのだった。その叫び声は、心なしか夢で聞いた思い出の声に似ているような気がした。

 ぼくは女子中学生の顔をまじまじと見つめた。眉が手入れされて細くなっていたが、それは紛れもなく妹の顔だった。

「お兄ぃ! お兄ぃ!」と叫んで、妹はカウンターを越えて、ぼくに抱きついてきた。ぼくも生き別れた妹をきつく抱きしめた。

 めったに見つからない里親が、妹ひとりならという条件で見つかったとき、それでもぼくはとても嬉しかった。けれど、里親の経済的な理由で、兄のぼくまでもたれかかってきたら困るからという理由で、ぼくには連絡先を教えてもらえなかったとき、胸がずきんずきんと痛んだ。

 ぼくは厭でたまらないその記憶を、心から消し去ってしまったのだった。

 働き先に恵まれて収入のできたぼくを、妹の里親は快く迎え入れてくれた。ぼくは隣の県へ引っ越した。

 今でも、電気の点っていない暗闇に遭遇すると、15歳の春、ぼくの心臓をつかんで脅した鬼のことを思い出す。あんなにも絵に描いてあるのとそっくりの鬼なんて、本当は鬼じゃなかったのだと思う。

 どんなにひとりぼっちの孤独の中にいても、神様は決してきみを見捨てない。たぶん、そういうことを神様はぼくに伝えたかったんだと思う。というわけで、この話はぼくの心の一番深い底にある温かい愛の話なんだ。ぼくはこの話を「人を喰った話」ではなく「神様が人に愛を送った話」と呼んでいる。だから、天涯孤独という言葉には、嘘がある気がしてならないんだ。

 

 

 

 

 

 

And the blood will dry
Underneath my nails
And the wind will rise up
To fill my sails

 

So you can doubt
And you can hate
But I know
No matter what it takes

 

I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home
Let the rain
Wash away
All the pain of yesterday
I know my kingdom awaits
And they've forgiven my mistakes
I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming

 

Still far away
From where I belong
But it's always darkest
Before the dawn

 

So you can doubt
And you can hate
But I know
No matter what it takes

 

I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home
Let the rain
Wash away
All the pain of yesterday
I know my kingdom awaits
And they've forgiven my mistakes
I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming

 

I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home
Let the rain
Wash away
All the pain of yesterday
I know my kingdom awaits
And they've forgiven my mistakes
I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home 

Don't Look Down

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