短編小説「ドアノーの裏のキス写真」

 半地下の凝った空間デザインとか、コンクリート打ちっぱなしとか、白木蓮のシンボル・ツリーとか。両親に子供の頃によく連れて行ってもらったおかげで、街一番のフレンチ・レストランは、見覚えのある馴染みの店だ。といっても、大学院で経営学修士号をとって、父の建設会社に取締役として入社してからは、一度も訪れてはいない。

 ひとり暮らしを始めたのだから、羽根を伸ばして遊び回っても良いはず。なのに浮かない顔をして部屋で膝を抱えていることが多いのは、地元のエステ会社を経営する美女に一目惚れしてしまったからだ。知り合いの結婚式の二次会で実也美と出逢ったとき、彼女は華やかな取り巻きに囲まれていたので、ぼくはひと言も話しかけられなかった。ぼくは何度も彼女の美しい唇を盗み見た。

 それから一か月。仕事が急に手につかなくなったぼくは、実也美と付き合いのある知人に、相談に乗ってもらうことにした。景浦という名の男がつかまったのは幸運だった。海外を飛び回るイベント・プロモーターなので、この街にいないことも多いのだという。やけに陽気な40代独身だった。

「それで、直樹くんは実也美ちゃんとどうなりたいの?」

 のっけから景浦さんは単刀直入に訊いてきた。

「どうって… 実也美さんはぼくより6歳年上ですし、まずは知り合うところから始めて…」

「ははは。要するに、ドアノーのパリの写真みたいになりたいんだろう?」 

ロベール・ドアノー (アイコン・シリーズ)

ロベール・ドアノー (アイコン・シリーズ)

 

「あ、見たことある写真です。この瞬間の二人は素敵ですね。でもぼくは、道端でキスなんてできる気がしません」

「固い、固い。食べ忘れた一週間前のバゲットか、きみは。真面目すぎるんだよ。実也美ちゃんは、かなりの仏蘭西好きなんだぜ。もっと俺みたいにフランスかぶれにならなきゃ。だからこうやって、今晩はフレンチ・レストランの個室で話し込んでいるというわけ。メルシー、ぼく」

「いま誰に『ありがとう』をいったんですか?」

「もちろん、この素敵なディナーを設定した『ぼく』にさ。さすがはぼく!っていう感じ。実也美ちゃんのことが大好きなら、他のものへ脇目を振らずに、彼女が好きなものに一緒にのめりこむのが鉄則だ。いわば、見ざる、聞かざる、マドモワゼルだ」

 景浦さんは大声で笑った。少しも可笑しくなかったが、ぼくも何とか愛想笑いをした。

「OK。フランス文化に疎いのなら、ビジネスの話を先にしよう。実也美ちゃんは安い女じゃないぜ。直樹くんが交際費に計上できるのは、最大いくらだ」

 ぼくの役職は取締役だったが、社長の父に頼めば、交際費の融通は利きそうだった。

「最大で、月に100万円くらいでしょうか」

「!」

 口に含んでいたペリエがむせたらしく、景浦さんはナプキンで口を拭いた。

「そんなに使えるのか! 会社で経理計算をしているだけなのに?」

「両親が裕福なところだけが、ぼくの取り柄です。こんなぼくでも、実也美さんと釣り合いますか?」

「大丈夫だ。やり方次第では、Ca va, ca va. これは転がるぞ。全額つぎこめば、ドアノーばりのキスまでは行けそうな気がしてきた」

「え? 本当ですか? 実也美さんとキスできるかもしれないんですか?」

「軍資金は充分だ。あとはきみの心の準備さえ整えばね」

「心の準備なら、死ぬ気で整えます」

「死ぬ気とは、いい言葉を聞かせてもらった。今の言葉を忘れるなよ」

「景浦さん、教えてください! どうすれば、最短でキスまで辿り着けますか?」

「いいか、基本設定はたったの二つだ。相手が世界で一番イイ女だと前提したときに、自然な言葉を言う。自分が世界で一番イイ男だと前提したときに、自然な言葉を言う。たったのこれだけだ」

「せ、世界一ですか」

「大事なのは心意気よ。よし、俺が実也美ちゃん役をやってやるから、今から早速練習しようじゃないか」

 景浦さんが人差し指の先を自分の顎にあてて、しなを作った。

「ねえ、私の時間を三日あなたにあげるっていったら、直樹くんは私にどんな三日間をプレゼントしてくれるの?」

「海外に飛ぼう。バーバリー一生懸命仕事したあとは、国内でグッチをこぼすんじゃなくて、南の島の海の自然美ィトンおいしい食事にありついて、よっシャ寝ルぞ!と快眠したいね。ベッドはツインじゃなくてダブルガ理想さ。翌朝は高級ブティック街を街プラダ
「素敵! 私が好きなものなら何でも買ってくれる?」
「もちろんさ。ぼくが選んだきみだもの。きみがあまりにも臨機応変ディー他の男に目移りしなければね」
「酷い! 何それ? 私が男を手当たり次第に乗り換えるような、心ブサイクな女だっていうの?」
「ごめん。もういイ、『ブサイク論』はいラン! きみが美しすぎて不安で、心が白から黒エ、行ったり来たりしちゃうんだ」
「さっきみたいな酷いことをいうんなら、私はもうあなたとは二度と遊んであげないから」
「そんなドルチェ&バッカーナ!」
「私の機嫌が直るように、可愛く謝ってよ」
「吾輩は猫ディオール許してニャン!」

 

 ……やりきった。世界一イイ女を、それにふさわしい絢爛豪華な煌びやかさでもてなすことができた。きっと実也美さんも気に入ってくれるにちがいない。いずれにしろ、男は最後までやりきることが大事なのだ。

 景浦さんが立ち上がって、ぼくに握手を求めてきた。

「素晴らしい状況対応能力だった。まさかきみがここまでやるとはね。間違いなく、ドアノーばりのキスまで到達する逸材だよ、きみは」

「え? そんなに良かったですか?」

「完璧だった。いや、むしろフランス語でパフェと言い直すべきだろうな。さらにもう少し言葉を足そうか。ちなみにカフェオレは『coffee to milk』という意味のフランス語だ。少しアレンジしよう」

「パフェ俺!」

「その通り! 勘まで冴えてきたじゃないか。まさしく言うことなしだ」

 景浦さんは満面の笑みを浮かべて、ぼくに着席するよう促した。そして、最後に印象的な逸話を付け加えたのだった。 

セーヌ左岸の恋

セーヌ左岸の恋

 

 あのドアノーのキスの写真には裏がある。同じ時代に、ドアノーの裏にはエルスケンという写真家がいたんだ。エルスケンが夢中になって撮ったのは、ホームレスの踊り子メイヤースの写真。アイシャドーの女王の異名をとる女だった。無数の恋人がいて、写真家のエルスケンもそのひとり。エルスケンはメイヤースにぞっこんで、彼女が他の男とデートしているときも、飼い犬のようについていった。ただ、彼女がアメリカ人水兵と遊ぶのだけは気に入らなくて、二人がレストランで食事をしているとき、隣の席で暴飲暴食して、勘定書きを水兵に回そうとした。そのまま無銭飲食でつかまって投獄されたんだ。
 女王の犬だったその写真家が撮ったキスが、これだ。 

 なあ、今の話でいちばん大事なことが何かわかるか?

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(画像引用元:http://www.editions-treville.com/artbooks/blog/archives/cat3/index.html


 ……ドアノーの写真には、街角でキスするカップルが写っていた。エルスケンの写真に写っていたのは、鏡にキスをする踊り子の姿だった。ぼくは上機嫌の余韻の中ですらすらとこう答えた。

「ホームレスの踊り子が、自分しか愛せない女だったということでしょう」

「残念ながら、はずれだ。正解はじきにわかるよ」

 景浦さんがそう言い終わるか終わらないかのうちに、他に客のいなかったフレンチ・レストランに、十数名の酔客が雪崩れこんできた。集団にはアコーディオン弾きも交じっていて、酔客たちががなりちらしたので、静かだった空間はあっという間に騒然となった。

 酔客たちの中から、屈強な若者が二人現れて、ぼくを左右から羽交い絞めにした。誰もが酔った赤ら顔で大笑いしている。左右の若者がぼくの身体を抑え込んでいるのとは逆の手で、ぼくの脇腹をくすぐりはじめた。

「はは! ははは! やめてくれ。くすぐったい!」

 しかし、男たちは一向にくすぐるのをやめようとしない。ぼくは気がふれたように笑いつづけた。ふと、男たちのくすぐりが止まった。ぼくが肩で息をして呼吸を整えていると、向こうから綺麗な身なりをした美女が、ぼくの方へ向かって歩いてきた。実也美さんだった。彼女はぼくに向かって艶然と微笑みかけると、ぼくにこう訊いた。

「私にキスしてもらいたい?」

 ぼくは魔物に魅入られたかのように、こくりと頷いた。

 実也美さんが帽子を取った。そして、まとめていたロングヘアをほどいた。魅惑的な香水の香りが漂ってきて、ぼくの鼻腔をひくつかせた。実也美さんがぼくへ向かって顔を近づけた。そして不意に酔いが回ってきたかのように、うっとりと目を閉じた。

 次の瞬間、左右の若者が猛然とくすぐりを再開した。ぼくはひいひい言いながら、やめてくれと何度も叫んだ。

 景浦さんが実也美さんに「まだ心の準備ができていないようです」と報告しているのが聞こえた。それを聞いても、実也美さんはあくまでも優しかった。くすぐりを止めるよう左右の若者に合図を出すと、もう一度ぼくに質問した。

「本当に私とキスしたいの?」

 過呼吸のせいで声が出せなくなっているぼくは、性急に何度も頷いて見せた。

「いいわよ。目を瞑って」

 実也美さんの美しい顔が、ぼくの目の前に迫ってくるのが見えた。ぼくは陶然として目を閉じた。次の瞬間、左右の男たちが猛然とくすぐりを再開したので、ぼくはのたうち回って悶絶しそうになった。

 レストランの中の誰もが笑っていた。給仕たちですら笑っていた。酒や料理が次々に運ばれてくるのが見えた。実也美さんは、何度もぼくのそばへ来て、酒を呑ませてくれたり、ピザの切れはしを食べさせてくれたりした。くすぐりが一段落して、落ち着きを取り戻したぼくが、彼女に求愛しようとするたびに、くすぐりが再開された。ぼくはドアノーの裏側にいた写真家が無銭飲食をした逸話を思い出していた。この宴会を丸抱えしたら、いくらになるのだろう。

 朦朧とする意識の中で、どうしてだかぼくは幸福だった。自分がこれほどたくさん笑った夜はないような気がしていた。笑って、笑って、笑っている間に、夢にまで見た美しい女性が、笑っているぼくを見て笑いながら、ぼくに美酒を呑ませてくれるのだった。

 朝まで続いたどんちゃん騒ぎの中で、ぼくが最後に言った台詞は、きっとこれだったと思う。

「パフェ俺!」