短編小説「真ん中がとびっきり美味しいドーナツ」

 同級生の葉子に、高校の廊下で声をかけられたとき、私は少し驚いた。私はチアリーダー部で、葉子は茶道部。文化圏の違う女子なので、これまでほとんど話をしたことがなかったのだ。葉子は私にお願いがあるのだという。

「ごめんなさい。今日からテスト週間で部活はお休みでしょう? うちの兄貴があなたと、30分でいいから話をしたいって言っているの。好きな飲み物をヴェンティで頼んでいいから、駅前のスタバでお話に付き合ってあげてくれない?」

 葉子に去年同じ高校を卒業した兄がいることは初耳だった。きっと目立たない性格の男子だったのだろう。私は葉子にどういう人なのかを訊いた。

「大人しいけれど、多趣味で面白くて、喋るのは好きみたい。欠点は、ちょっと前置きが長いことかな」

 私の脳裡に、緑のストローが刺さったマンゴー・フラペチーノが浮かんだ。スターバックスはテイクアウトだってできる。気に入らなければ、マンゴーフラペチーノを片手に店を出ればいいだけのことだろう。

 スターバックスの待ち合わせ場所には、眼鏡をかけた大学生のお兄さんが立っていた。私たちは自己紹介を済ませると、注文の列に並んだ。すると、さっそくお兄さんが喋り出した。

「ス… ス… あれ?何て言ったかな。スイスイ… そうだ。スイスイスーダララッタスラスラスイスイスイ」

「スーダラ節がどうかしたんですか?」

「スイスイ… というわけで、水分補給は大事ですね。ぼくたちの身体の半分以上は水でできているから。飲み物は何にする?」

 私は笑いを噛み殺しきれなくなって、手で口を覆って隠した。葉子が言っていた「前置きが長い」というのは、こういうことなのか。稀に見る不思議くんに遭遇してしまったのかもしれない。私は人間観察欲求が疼きはじめるのを感じた。

 お兄さんの独特すぎる前置き癖は、席に着いてからも続いた。

「ス… ス… スカイ・ラブ・ハリケーンって知っている? いや、ワールドカップを観戦していて、日本のサッカーアニメで育った選手がいっぱいいるのに、誰もスカイ・ラブ・ハリケーンをやろうとしないのが、少し淋しいなと思って。最近のサッカー選手が重視するのはアジリティー(敏捷性)らしい。ビッチにはアジリティーを、社会にはアジール(避難所)を。きみがこの街角のアジールにいられる時間は、あとどれくらい?」

 それにしても不思議な会話スタイルだ。お兄さんは前置きが長い性格なのではなく、単刀直入にズバッと言うのが苦手なのではないだろうか。私はお兄さんが会話の端々で、私に気付かれないように、左手の手のひらをちらちら見るのに気づいていた。手のひらに会話の鍵言葉がメモしてあるのだろう。かなり奥手の男性に見えた。

「そうか。30分しかないなら、急がなきゃ。本題に入るよ。このあいだ、従兄弟の結婚式に参列したとき、教会で合唱隊が讃美歌を歌うのを聞いたんだ。アカペラじゃなくて、弦楽器とピアノの生演奏も入っていたから、心に響いた。すると、新郎新婦を見つめているぼくの視野に、透明な数字が明滅し始めた。筆算の足し算や引き算がうっすらと浮かんでは消える感じ。ぼくは自分で自分を疑ったよ。従兄弟の結婚式で、ぼくの潜在意識は何を計算しはじめたのだろうって。不思議で仕方なかったんだ。

 生演奏の歌が続いている間じゃなきゃ、思い出せない気がしたので、ぼくは必死に記憶を掘り起こそうとした。その記憶は深いところで見つかった。

 ぼくが小学校三年生のときの話。公文式の数学教室に通っていたぼくは、自宅兼教室をやっていた阿部先生のお嬢さんのことを好きになった。小学校三年生くらいだと、まだ親に何でも話す時期だ。友達のネットワークと母親のネットワークが連動して、すぐに噂は広まってしまった。小学校三年生のくせに、お互いがお互いを意識し始めた。

 最大の影響は、ぼくが公文式の算数に真剣に打ち込み始めたことだろう。教室で阿部先生に認められれば、お嬢さんの繭子ちゃんに近づけるような気がしたんだ。ぼくは公文式のプリントを凝視した。並んでいる問題をただ順番に解くのではなく、計算問題の相互間に法則性があることを見抜いて、いつも教室で一番に解き終えた。その初恋がぼくにメタ問題認知を教えてくれたというわけさ。

 阿部先生は成績抜群のぼくに好感を持ってくれたようだった。何と、ぼくは生まれて初めてのラブレターを、友人づてに繭子ちゃんからもらったのだ。それが、小学生のぼくが初めて母親に隠した秘密だった。

 ところが、阿部先生の一家が仕事でアメリカへ引っ越すことになってしまった。ラブレターはアメリカからも届いた。手紙の中身に阿部先生の検閲は入っていなかったようだ。なにしろ「いつか日本へ帰って、ぼくと結婚したい」と書いてあったから。ぼくも「結婚しよう」と返事を送った。

 アメリカへ移住した当初は、一年間だと聞いていたのに、繭子ちゃんが帰国したのは、二年後。ぼくたちが小学校六年生になってからだった。待ちに待った再会のその日、ぼくは衝撃を受けて気分が悪くなって、帰宅して寝込んでしまった。小柄で可憐な細面だった繭子ちゃんは、身長も体重もぼくより巨大化して、やたら活発で声の大きなドラえもんみたいになっていたのだ。同級生の誰もが、その変貌ぶりに驚いた。「アメリカ人にすり替えられた」と囁く男子もいた。

 小学生のぼくは幻想を打ち砕かれて、酷く傷ついた。国際線が飛ぶほどの遠距離は、人の運命を変えてしまうこともあるんだと思い知ったんだ。

 かといって、変わってしまったその運命が、むしろ幸運へとつづくことだってあると思うんだ。あの時のショックでしばらく本気の恋から遠ざかったからこそ、19歳の今、本気の恋に出逢えたのかもしれない。そんなことを考えながら、ぼくは従兄弟の結婚式で「アベ・マリア」を聞いていたというわけさ。

 国際線が飛ぶ遠距離が人の運命を変えてしまうといえば、面白い話があるんだ。ボサノバはブラジル発祥だというのが定説のようだけど、厳密にはアメリカ西海岸にルーツがある。サンバに飽き足らないブラジル気鋭の若手ミュージシャンたちが、ジェリー・マリガンチェット・ベイカーを聴き漁ったのが発端さ。どうして西海岸のジャズだったと思う? いや、時代は50年代半ばだ。コタh\絵は意外なところにある。

 当時すでに、西海岸とブラジルを結ぶ空の直行便があったからなんだ。このアルメイダのドーナツ盤も、帰省者の手荷物で25枚も空輸されて、ブラジルの音楽家たちに行き渡ったらしい。マイルドでリラックスできる素敵な曲だろう? ボサノバを生んだのは空飛ぶドーナツ盤というわけ。そこから世界的なボサノバ・ブームが始まった。国際線が飛ぶほどの遠距離は、やはり人の運命を変えてしまうんだね。

 ……お兄さんの長広舌を何とか無事に聞き終えた私は、こう訊かずにはいられなかった。

「今のが、本題? 今日私を呼び出したのは『空飛ぶドーナツ盤』のことを話すためだったんですか?」

「ごめん、厳密に言うと、本題はまだ終わっていない。きみに訊きたかったのは、この質問だ」

 そう言うと、お兄さんは軽く咳払いして、喉の調子を整えた。

「どう? 夏になったら、どこかへ遊びに行かない?」

 私は虚を突かれて絶句してしまった。

 ここまでの長話のすべてが「どう?夏」を呼び出すための前置きだったらしいのだ。この人は不思議な感性の持ち主だ。私は呆れるのを通り越して、お兄さんに興味を感じはじめた。

「本当ですか? 実は今のも前置きなんじゃないですか? そうだ。私は手相がわかるんです。その左手を見せてくださいよ」

 お兄さんは一瞬たじろいで、左手を引込めようとした。私は何も意地悪をしようとしたわけではない。手のひらにカンペのメモ書きがあるなら、それを話のきっかけにして、もっと面白い話を聞かせてもらおうと思ったのだ。

「私、女の子の手も握れないような男性は、好きじゃないかもしれません」

 お兄さんはうつむいたまま、観念したかのように、マジック書きのある左手を私に示した。ところが、手のひらに書かれていたのは、話の種になる鍵言葉ではなかった。マジックでこう書かれていたのだ。

はい。ぼくは決断力と行動力のある男の子です! 好きな人には必ず好きだと言えます!

 スーダラ節やスカイ・ラブ・ハリケーンがどうして話題にのぼったのかを、私は理解した。年上のお兄さんがすっかり可愛らしく感じられて、彼の手のひらのマジック書きが見えなくなるように、その上に私の手のひらを重ねて握った。

「素敵な手相ですね。特に運命線がとても良いみたい」

 お兄さんは、ほっと安堵したようだった。私の手を握り返して、何か言おうとした。けれど、言葉が見つからない。私が言葉をつづけた。

「夏になったら、どこかへ一緒に遊びに行きましょう。その代わり、真ん中がとびっきり美味しいドーナツをご馳走してくださいね」

 私が笑うと、お兄さんも笑った。謎めいたお願いをしておけば、きっとこの人なら、また夏に面白い話を聞かせてくれるだろう。それを想像すると、私のくすくす笑いはなかなか終わりそうもなかった。

 

 

[参考文献]