短編小説「ピーチ豚が説く逆転の発想」

 或る真夜中、ぼくは会社の机に派手に突っ伏して動かなくなった。働き盛りの四十才独身とはいえ、深夜までの残業が連夜つづけば、疲労困憊してしまう。身体を休めるべく、家からオットマンを持ち込んで足を伸ばせるようにしたが、蓄積疲労には焼け石に水だった。今やオットマンは荷物置き場に横倒し。田舎の両親が仕事を断れないぼくの性格を心配して、留守番電話にメッセージを残してくれるが、かけ直す暇もない。ぼくは今にも自分が天に召されそうな気がしていた。 

  今週いっぱいで仕上げなくてはならない企画書が難航している。眠っている間に夢を見れば、夢の中で自分のハイヤーセルフがヒントをくれると聞いたことがある。藁にも縋りたい心地だったので、ぼくは仮眠をとることにした。

 しかも、ハードワークと不摂生が祟って、ぼくは不眠がちだった。机に突っ伏したまま、いつものように羊を数え始めた。ふわふわした白い羊たちが、牧場の柵を一匹ずつ跳び越えていくのをイメージした。

「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……」

 羊を数え慣れているせいで、ぼくはカウントしながら、いつのまにか器用に別の空想に思いを馳せていた。それは一か月前のこと。東京駅の新幹線ホームで同僚と出張に出かけるときのことだった。新幹線の乗降口からは、修学旅行で移動する女子高生たちがぞろぞろ降りてきた。全員が降りるのを待ちながら、気が付くとぼくはいつもの癖を発動させていた。

 仔猫ちゃんが一匹、仔猫ちゃんが二匹、仔猫ちゃんが三匹……。全員が車両を降りた最後の一匹で、ぼくははっと我れに返った。たぶん18匹目の仔猫ちゃんだったと思う。同じ制服を着ているのに、見ているこちらが震えるほど、美しい髪をした眉目秀麗な美少女が降りて通り過ぎていったのだ。

 ぼくが彼女の方を振り返ると、彼女もぼくの方を振り返っていた。彼女は苦しそうな表情をしていた。ぼくに何かを言いたいけれど、禁じられているので言えないというような表情だった。ぼくは運命の出会いだと感じた。発車ベルに促されて、ぼくは同僚と新幹線に乗り込んだ。同僚は美少女には気付かなかったらしい。

 最寄り駅の近くに、深夜まで「辻占」の行燈を灯している五十がらみの背の高い男性がいる。ぼくはその占い師に、美少女との運命の出会いを話してみた。

「あなたが美少女を見たことではなく、美少女があなたを見たことが決定的に大事です」

 そして、占い師は厳粛な口調でこう断言した。「いつか必ず、あなたは彼女に再会します」

「といういうことは、ぼくは…」「羊が一二一匹、羊が一二二匹、羊が一二三匹……」

 おや? いま羊に紛れて、ピンクの動物が柵を跳び越えたのが見えたような気がした。

「ちょっと待って、ピンクのきみ!」

 ぼくは頭の中の牧場で、大声で呼びかけてみた。すると、ふわふわした白い羊の群れをかきわけて、一頭のピンクの豚が出てきた。

「あ、美少女に夢中だったのに、バレちゃいましたか。ピンクより肌色に近いから、ピーチ豚って仲間からは呼ばれてるブー、コマンタレブー? おしゃべり羊の皆、これからもピーチクパーチクよろしく頼むぜ! Thank you, Tokyo!

 すると、向こうの羊の群れから、口々にメェーという鳴き声があがった。ピーチ豚の振る舞いには、どこか無駄なロック・スター気取りがあった。

「おれたちアニマルズに言わせりゃ、恋して『きみにここにいてほしい』と思うなら、突っ走っちゃいなってことよ。をぶち破って、出たとこ勝負、踊ってなんぼ。狂気のサタデーナイト次第ってこと」 

Animals (Remastered Discovery Edition)

Animals (Remastered Discovery Edition)

 
Wish You Were Here

Wish You Were Here

 
Wall (Remastered Discovery Edition)

Wall (Remastered Discovery Edition)

 
狂気

狂気

 

 どうやらピーチ豚は、ぼくにアドバイスをくれているらしかった。

「ごめん、豚くん、言っている意味がよくわからないんだけど」

「じゃあ、全国のリスナーのためにわかりやすく言い直すぜ。あんたは大事なことを忘れている。マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっているぜ、ベイビー。逆に、逆ってこと。逆転させる発想さ。月の暗い側面じゃなくて、明るい側面をしっかり見よ、模様、毎夜。Thank you, Tokyo! 夜眠れないなら、その夜を自分で自分を愛するためにフィーバーさせちゃいなよ。年齢なんて関係ないよ、そこから変えていこうよ、弾けちゃいなよ」 

Dark Side of the Moon

Dark Side of the Moon

 

 ロック・スターには似つかわしくない全裸の桃色の肌を紅潮させて、ピーチ豚は暑苦しいほど熱烈に、ぼくの固定観念を壊そうとしてくれた。牧場の羊たちは大喜びして、メェーメェー鳴きながら跳びはねた。これじゃ羊を数えられない。当分眠れないなと感じたところで、目が覚めた。

 目覚めた直後、今の夢が、仕事の壁を越えるヒントになっているかもしれないと感じて、ぼくは慌ててメモを取った。

  • 恋に突っ走れ
  • マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっている
  • 逆転の発想が大切
  • 眠れないなら、その夜を自分のために生かせ 

 ぼくはメモを読み返して頭を抱えた。どの助言も、締め切り間際の難しい仕事をこなすのに役立ちそうになかったのだ。とりわけ「マンが旦那様でウーマンが奥様なのに…」というメッセージは、まったく意味不明だった。ぼくは憂鬱なまま会社を出た。

 帰り道、ぼくは深夜まで街角で座っている占い師に、夢に出てきたピーチ豚の話をしてみた。

「結論から言うと、そのピーチ豚とやらは、あなた自身ですよ。豚が裸なのは当たり前なのに、それが気になったということは、あれはあなたの身体からのメッセージということです。過労で身体を潰すな、恋にしろ何にしろ、世界をもっと楽しめということでしょうな」

 ぼくは一応頷いて見せたが、まだ釈然としない思いが残った。今や古典となったフロイドの夢判断ですら、これよりはるかに複雑だ。何より、あの無駄なロック・スター気取りは何だったのだろう?

 占い師は時計を見た。料金外で話したいことがあるのだという。

「実は私も、あなたが話していた絶世の美少女に偶然出会ったんです。吉祥寺の家具屋さんで。すっかり心を奪われて、話しかけちゃいました」

「え? どんな話をしたんですか?」

「二言三言だけですよ。綺麗ですねと私が褒めると、彼女は嬉しそうに笑って、近々また偶然会いますからねって」

「先生は、ぼくもあの美少女と必ず再会するとおっしゃいましたね。そして、彼女が先生とまた再会すると自ら言った。これはどういう意味なんでしょうか?」

「たぶん神様が競争させようとしているんですよ。私とあなたのどちらかが、彼女の運命の男です。ひとつここは、恋敵としてフェアに競争しようじゃありませんか」

 そういって差し出した占い師と、ぼくは固い握手を交わした。聞けば占い師は昼間は普通の会社員で、深夜までこうして副業の辻占いをしているのだという。ぼくたちはすっかり仲良くなって、互いのハードワークを慰め合って、頑張って身体を大事にしようと励まし合った。立ち上がると、占い師の背丈の高さが目立った。ぼくたちは手を振って別れた。

 残業だらけの灰色の日々に、思いがけない色恋沙汰が侵入してきたせいで、ぼくは毎日ほんの少しだけ、笑う回数が多くなった。目の前に山積している仕事のほかは見えなかったぼくが、占い師に競争だと言われてから、闘争心が湧き上がってくるのを感じた。

 いつ絶世の美少女に再会してもかまわないように、ぼくは女子高生トークの研究に精を出した。ひとりっ子だったせいで、丁寧に言葉遣いを躾けられてきたぼくには、いまどきの女子高生用語は外国語のように感じられた、ゆめゆめ恋敵の勝ちを許すまじ卍。
 仕事が捗りそうにない夜は、思い切ってひとりで遊びに出かけた。仕事が過酷な会社員でも、自分で自分をいたわる時間も必要だろう。

 ある晩、以前から行きたかった京浜工業地帯の夜景クルーズ船に、ぼくは乗り込んだ。飾り立てようとはしていないのに、東京湾に広がる運河や埠頭や発電所や工場の夜景は、とても綺麗だった。飛行機の航行の安全のために、巨大な建築物の体躯を光が点々と縁取っていた。その光の破線の立体の向こうを、深夜発着の飛行機が赤の光を明滅させながら通り過ぎて行った。

 ぼくが甲板の欄干にもたれてひととおり写真を撮ったあと、東京湾の方へと振り返ると、そちらには茫洋とした暗い闇が立ち込めていた。

 そして… その闇の中に、白い垂直な筋のようなものが立ち迷っているのが見えた。人だった。その人が、制服を着た絶世の美少女だったのだ。

 ぼくはしばらく茫然と立ち尽くしたまま、美少女に見惚れていた。それから、この夜をずっと待っていたことを思い出して、彼女に近づいて話しかけた。

「こんばんは。確か、以前東京駅でお見かけしたはずです。とても可愛らしかったので、忘れられなくて」

「ありがとうございます。私もあなたのことをよく覚えていますよ」

「え? そんなの聞いたら秒でテンアゲです。とりま、ぼくにもワンチャンあるっていうことですよね。わあ、野原一面に草生える春が来た。マジで朝飲みたいのはスムージー卍」

https://jikitourai.net/schoolgirl-use-expression

 できた! ぼくは心の中で小さなガッツポーズをした。努力は裏切らない。猛練習すれば、人にできないことはないのだ。

「あの…、その若者言葉はいろいろと間違っている気がしますよ。誤解させたくないから、はっきり言いますね。私、もうあなたとはお会いしたくないんです」

 鋭利な刃物で胸が裂かれていくような心地がした。それでもぼくは勇気を出して訊いた。

「どうしてですか?」

 美少女は何かを言おうとして唇をひらいた。けれど、言葉を飲み込んで、また黙りこくてしまった。言うことを禁じられている何かが、彼女の心の中にはあるようだった。

 華奢な手首を裏返して、彼女が時計を見た。

「行かなきゃ。もう追いかけてこないでくださいね」

 海風にロングヘアを乱されながら、美少女は足早に立ち去った。ぼくは訳がわからなくなった。ぼくに会いたくないなら、どうして東京駅で振り返って、意味深にぼくを見つめたのだろう?

 やりきれなくて、諦めきれなくて、ぼくは船の左手に広がる夜景には目もくれず、考え事をしながら、船内を散歩した。乗客全員が甲板の右舷に立って、夜景を撮影していた。船内にはほとんど人がいなかった。思索を深めるにはうってつけだった。

 左舷側の廊下へ降りたとき、美少女が髪をなびかせているのが遠くに見えた。彼女は父親くらいの年齢の男と一緒にいた。背の高い父親の身体を親密そうに叩きながら、大笑いしていた。父親も笑って振り返った。

 ぼくは急に胸が痛くなった。あばら骨の奥にある臓器が、ゆっくりと燃え落ちていくような悲しみを感じた。その男は美少女の父親ではなく、ぼくがの知人の占い師だったのだ。

 どうしてこの時刻のこのクルーズに乗ったら、彼女に逢えるとわかったのだろう。自分と同じように偶然なのか、それとも自分で自分の占いを当てたのか、ぼくの失恋が確定した今、それはどうでもいいような気がした。

 占い師は満面の笑みを浮かべていた。それはそうだろう。彼は彼で恐ろしいほどの苦労を重ねて、ようやく幸せの尻尾をつかんだのだった。ぼくはあの苦労人の笑顔なら、自分の悲しみを埋め合わせられるような気がした。

 と、ふいに占い師の顔が歪んだ。苦しげな表情になってふらつくと、激しく欄干にぶつかった。そのまま、高すぎる重心が災いして、船から海へ落下してしまった。

 誰かの悲鳴が聞こえた。乱雑に階段を下りる足音がして、船員たちが入り乱れた。

 その様子にも、美少女はまったく動じる気配がなかった。船員の誰もが目撃者の彼女に気を留めようとしなかった。美少女がゆっくりとぼくに近づいてきた。

心筋梗塞だったの」

 彼女はひとことだけ、そうぼくに伝えた。すぐそばにいた人間が亡くなったというのに、どうしてこの女の子は平然としているのだろう。彼女が言葉の代わりに何かを伝えようとして、ぼくに右手を差し出した。ぼくは右手でそれを握って、握手をした。美少女の手は雪の中にある小枝のように冷たかった。ぼくは彼女が冷淡な理由がわかったような気がした。

「言わなくてもいい。きっときみは酷い病気で苦しんでいるんだね。たとえきみの余命がどれほど短くても、ぼくはきみのそばにいたい。きみのそばにいて、ずっと世界の中心で愛を叫んでみせるよ、マジ卍」

「いいわよ」

 彼女はそう言って、握手に力を込めた。

「え? 本当にいいの? ぼくと付き合ってくれるの?」

 美少女は握手の手を離して、両手で口を隠した。大笑いした。

「違うわよ。卍の使い方がさっきよりずっといいわよ、って言いたかったの。ねえ、まだおわかりにならないかしら。私、死神なのよ。あなたには、まだ人生を回復する力が残っている。当分お逢いしたくないわ。さようなら」

 そう言って、ぼくの方へ愛嬌のある手の振り方をすると、彼女は右舷の欄干を透き通って、東京湾の暗い夜の海上を歩き始めた。彼女の紺の制服姿は、すぐに夜の闇に紛れて見えなくなった。ぼくは長いあいだ海の上にある暗さを見つめていた。

 工場夜景クルーズはクライマックスを迎えていた。発電所のそばを通るのだ。ぼくは階段をのぼって、甲板の右舷側へ歩いて行った。

 夜の発電所はとても綺麗だった。いつもの癖で、発電所を縁取っている灯りを、ぼくは数えていた。

「光がひとつ、光がふたつ、光が三つ……」

 発電所の光を数えながら、ぼくはどうして工場夜景クルーズで、偶然美少女に再会できたのかを考えていた。そして、「光が七八……」まで数えたとき、その理由に気が付いたのだった。

 この工場夜景のきらめく発電所に出会うまで、ぼくの記憶の中にあったのは、ロンドン南部の発電所だった。クラシック・ロック好きのぼくは、そのジャケット写真をよく覚えていたのだ。 

Animals (Remastered Discovery Edition)

Animals (Remastered Discovery Edition)

 

 ぼくは急に可笑しさがこみあげてきて、ひとりでくすくす笑いはじめた。ぼくが夢に見たピーチ豚の出身地が、ピンク・フロイドのジャケット写真にあったことに思い至ったのだった。

 写真の火力発電所の4本の煙突の間を、ピンクの風船豚が飛んでいる。あの風船豚は撮影後に銃撃されて落下する予定だったのに、強い上昇気流に係留装置を切られて、上へ上へと舞い上がっていったのだった。当時上空を飛んでいたいくつもの旅客機が、上空をふわふわと浮遊する風船豚の飛び具合を、ヒースロー空港の管制に伝えたのだという。

 ぼくは自嘲気味にもう一度笑った。ピーチ豚の言うことは、神様のお告げではなかったのだ。昔の古い記憶をフックにして、ぼくが荒唐無稽な綺想を膨らませただけだったのだ。そんなふうにあの日の夢をまとめて、船を降りた。

 船を降りてから、ぼくは何かに弾かれたように、走って駅まで移動した。いや、話はもうひとひねりあるにちがいない。そんな気がしてならなくなったのだ。

 ピンク・フロイドが出典なら、夢の中のピーチ豚がロック・スター気取りなのはわかる。では、あの不可解なアドバイスの意味は?

「マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっている」

 ぼくは慌てて会社に戻った。職場の荷物置き場には、使わなくなったオットマンが横倒しになっていた。どうして忘れていたのだろう。あのロンドンの発電所ほど、ひっくり返ったオットマンに似ている建築は、世界にまたとないにちがいない。 

 ぼくは丁寧に自宅で愛用していたオットマンを起こすと、座面を開いて、中にしまっておいた七福神の宝船の置物を、机の上に置いた。それは就職祝いに両親からもらった宝物のはずだった。ハードワークと過労に押し潰されそうになって、そんな大事なものをしまっていたことすら忘れていたのだ。 

宝船 七福神 S217

宝船 七福神 S217

 

 ロンドンの発電所がひっくり返ったオットマンだと気付くまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。ぼくはすっかり遠近法を見失っていたのだと思う。何を遠くにおいて、何をそばに置いて大事にしたらよいのか。ハードワークと過労で潰されそうになったら、転職してもいいし、帰郷してもいい。選択肢は、目の前に山積している仕事のほかにも存在するのだ。上空のピーチ豚にヒントをもらって、ぼくは自分の人生の鳥瞰図を取り戻したような幸福な気分を感じていた。 

 ぼくは携帯電話を取り出した。そして、数か月ぶりに田舎の両親に電話をかけじはじめた。