時空のかなめには青と緑の滝が

ただ自分の感情をぶちまける「表出」と、相手を動かすためのの「表現」は大きく異なるという考え方を学生時代か学んできたせいで、深い考えなしに怒りを表出するタイプの表現者があまり好きではない。

昨晩、上の記事でまたしてもイギリスの中規模都市に言及してしまったので、ブリストルのトリップ・ホップの一角トリッキーについて書こうかと考えた。でも、トリッキーは怒りっぽいので、あんまり好きじゃない。気が進まない。

ところが、各種の音楽本を引っくり返しているうちに、トリッキーが自殺した母親の姓を冠した処女アルバム『Maxinquaye』をリリースする前、ビョークと交際していた事実を発見してしまった。トリッキーがまだ Massive Attack に加わっていた頃の話だ。トリッキーの仕事の中では、ソロデビュー以前の上記の「Karmacoma」が一番好きだ。

そのビョークが、人口30万人のアイスランドの歌姫から世界の歌姫になったのは、2004年のアテネ・オリンピック開会式だろう。Radioheadトム・ヨークとのデュエットも懐かしい『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以上に、世界にその魅惑的すぎるパフォーマンスを衛星中継で見せつけた。

ちなみに、ヒップホップとの融合を厭わない新時代のジャズ・ミュージシャンは、どういうわけか RadioheadBjork を好んで聴いて、演奏までしたりする。ロバート・グラスパー以降のジャズが大好きな自分が、もともと RadioheadBjork が大好きなのも、単なる偶然とは思えない。スピリチュアルの世界でいう「一人一宇宙」(自分の想念が自分の宇宙を作る)という考え方に、どこかの空想好きの綺想ではない真実味を感じてしまう。

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(画像引用元:http://www.kanazawa21.jp/exhibit/barney/prof.htm

ビョークは、才能ある男たちの上を渡り歩く恋愛遍歴の持ち主でもある。アーティストのマシュー・バーニーが金沢の21世紀美術館で個展をひらいたときには、和服姿のコラボ写真まで披露した。しかし、ビョークと最も関わり深い日本人と言えば、コム・デ・ギャルソン川久保玲になるのではないだろうか。

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コム・デ・ギャルソンのドレスを身にまとうビョーク

    I remember going to the London Comme des Garçons store with Nellee Hooper in about 1992. It was definitely the most sacred store I’d been in yet. I was tiptoeing around and found it uncomfortable to speak to the personnel. They might catch the greedy look in my eye. In person, Rei reminded me of my grandmother — a much younger, Japanese version.

 1992年ごろに、ネリーフーパーと一緒に、ロンドンのコム・デ・ギャルソンの店に行ったのを覚えている。間違いなくそれまで入った中で、いちばん神聖な店だったわ。私は緊張してつま先で歩いた。店員たちには話しかけにくかった。彼らが私の目に強欲さを読み取るんじゃないかと感じたから。川久保玲は私の祖母を思い出させた。祖母をずっと若くして、日本人にしたような人だと感じたの。

幼少期のビョークに最も深い影響を与えたのは、アマチュア画家だった祖母だった。パレットに青と緑の絵具だけ載せて、青と緑の抽象画を描いていたのだという。その祖母のことを歌った曲が、処女アルバムに収録されている。

BBCでのライブでは、青と緑で演出された空間で、歌姫と楽隊が花々のようなファンタジックな衣装を身にまとっている。この美術コンセプトのいくらかに、川久保玲からのインスピレーションが交じっているのかもしれない。

i live by the ocean
and during the night
i dive into it
down to the bottom
underneath all currents
and drop my anchor

and this is where i'm staying

this is my home

私は海のそばに住んでいる
夜のあいだは海に飛びこんで
海底まで潜るの
そして碇を落とす
すべてが流れていくのを上に見ながら

ここが私が生きている場所だと感じる

ここが私のおうち

 歌詞は何を歌っているのだろう? 芸術家がしばしば沈潜する「魂の水底」を歌っているのではないだろうか。無宗教ビョークにとって、氷と火山の小島アイスランドの自然自体が神なのだという。演奏を聴いていると、芸術家が時空をこえて stay できる幸福な創造の泉を、ちらりと見てしまったような気分になる。 

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

 

けれど、世には不幸せな Home もあるのだ。巷でよく話題にのぼる「DVカップルの共依存」のホームが気になっていた。自分から暴力を振るうことはありえないにしても、DV共依存の一歩手前、ラブ依存症なるものに感染している疑いがあると、最近しばしば診断されることがあったからだ。まいったな。自分でもそういう傾向がないではない気もしていたので、思い切って自分で調べて、自分で診断してみることにした。

もうぼくは子供じゃないんだよ! 靴下だって自分で履けるもん!

自分の内側に住んでいる moon child が、何やら抗議の声をあげている。あとでアイスクリームでも買って自愛してあげなきゃ。

というわけで、上の記事でも引用した心理学者の本を、再び参照することとなった。第八章が「LOVE依存の心理療法」の説明に充てられている。

その前後も含めて、自分の言葉でまとめてみたい。

  1. セラピストがクライアントに優しすぎると、クライアントが過剰依存してトラブルになりやすい。
  2. 幼少期の体験はスルーできるようならスルーするのがベスト。
  3. 言葉にしにくい小さな感情の断片を、言葉にして記録させる。
  4. 恋愛相手に対する「最高評価⇔最低評価」の両極を大揺れするのではなく、恋愛相手が自分に愛情表現をしにくい「第三の状況」がありうることを理解してもらう。
  5. 相手に対する漠然とした共感ではなく、相手の立場に自分を置いて考えられる能力を訓練する。(シンパシーではなくエンパシー)。
  6. 共依存の対人関係を理解してもらう。
  7. クライアントが「洞察した」「理解した」地点でとまらず、あるべき言動へと変化させていく地点まで、トレーニングする必要がある。

読んでいて印象的だったのは、ラブ依存のクライアントたちは、相手を「最高の異性 ⇔ 最低の異性」という両極端な認識しか持てず、相手に対して「恍惚 ⇔ 恐怖」の感情を同時に抱えていることだ。

これは、乳児が母の乳房に対して抱く分裂意識と同じだ。授乳してくれる場合と、(いろいろな事情から)授乳してくれない場合があると、赤ちゃんは前者が「良い乳房」で後者が「悪い乳房」だというように、別人格の乳房だと認識すると、メラニー・クラインが書いていたような記憶がある。

4. 5. をまとめながら、思わず膝を打ってしまった。

自分がしばしば「帰属の基本的エラー」として、「(人の)本質ではなく状況に原因がある」と脱偏見を説いてきたのと、まったく同じだったのだ。

実際の苛烈なラブ依存症患者の実態を読んで、自分には罹患している可能性がないことがわかったのは、大きな収穫だった。これまで、どういうわけか自分が、性的マイノリティー(ゲイ)だとか、社会的マイノリティー(引きこもり)だとか、人種的マイノリティ―(在日外国人)だとか、無根拠な言いがかりをつけられることが多かったのは、きっと状況のせいだったにちがいない。最近しばしばラベリングされた「ラブ依存症患者」も、無事エビデンス・ベースにて手離すことができて嬉しい。解消できる誤解は解消した方がすっきりするものだ。

不愉快にも「レイプは被害女性に責任がある」という女性政治家の発言など、社会の各所には数々の「(誤った)支配的な物語」が蔓延している。いちおう文学部を卒業したらしき自分は、「物語」と名のつく本なら、ほとんど読んできた経歴がある。

(↑『物語批判序説』の除雪はお済みですか?↑)。

その中で最も難解な本(『物語批判序説』)にも、自分なりに解説を加えておいた。あの著者の権威を笠に着て、「反物語」を唱えるエピゴーネンたち(ハスミムシ)にも、ずいぶん遭遇してきた。

(↑「ハスミムシの追い払い方」を紹介した記事↑)

けれど、ハスミムシたちのプライドを満足させるべく、聞き役の「教えてくん」に回って、「物語ではないとすると、その外側で追及すべきものは何?」と反問すると、彼らはほとんど言葉を持っていなかった。

自分は多少なりともそれについて考えてきたつもりだ。おそらく「物語批判」の文脈で最も体系的な学問を形成しているのは、物語療法の分野だ。 

ナラティヴ・セラピーの会話術―ディスコースとエイジェンシーという視点

ナラティヴ・セラピーの会話術―ディスコースとエイジェンシーという視点

 

 正直に言うと、ナラティブ・セラピーについて、自分は大きく誤解していた。どこでどう間違えたのか、統合失調患者に世界の統覚を再付与するために物語原型を用いるのだと思い込んでいたのだ。

結論からいうと、ナラティブ・セラピーはとても面白い。例えば、「誰とでもうまくやっていけるコミュニケーション能力が大事」という「支配的な物語」が世にはある。それは真実を含んではいるが、その「支配的な物語」にうまく乗れずに心が潰れてしまいそうなクライアントには、その支配を解体してあげる必要がある。

ナラティブ・セラピーの代表的な手法は、三つある。

  1. 問題の外在化
  2. 影響の相対化
  3. 脱構築

1.の問題の外在化では、リストカット癖のある女子中学生に、リストカットの原因を自分や親に帰属させるのではなく、状況に帰属させるのだ。自分の例で説明すると、擬人法で「リスカちゃん」を登場させる。質問はこうなる。

いつくらいから、あなたにリスカちゃんが忍び込んできたの?

2. の影響相対化法は、そのような心理的問題がしばしば恐怖に根差していることから、その恐怖を相対化することに力点が置かれる。クライアントがリスカちゃんの侵入にどのように抵抗して、リスカちゃんと「遊んだ」あとどんな感情になったかを確認していくのだ。

3.の脱構築デリダのそれというより、「支配的な物語」の「前提はずし」に近い。「誰とでもうまくやっていけるコミュニケーション能力が大事」というドミナント・ストーリーなら、「知っている人の全員とうまくいかなくてもいいよね?」「一生ずっと上手くいかなくてもいいよね?」「上手くいかなくても怖いことは起きないよね?」といった問いかけになりそうだ。

ナラティブ・セラピーが面白いのは、現代思想の知見がふんだんに生きているからだ。上記のデリダ由来の脱構築だけでなく、フーコー由来のディスコース、バトラー由来のエイジェンシーなど、現代思想が臨床現場で生きている稀有の分野に触れられて、とても懐かしかった。

何より、しばしば「(誤った)支配的な物語」でラベリングされる自分が、「人の本質」より「状況」に原因を帰属させる心理療法が確立されていることに、強く勇気づけられたことを記しておきたい。

幼い頃、どうしても淋しくなると、電話をかけてしまう癖があった。リカちゃん電話はいつも元気な明るい声で、自分の幸せな家庭について話してくれた。ネットのなかった少年時代、自分はすでにリカちゃんに双子の妹がいること、その下のゲンくん・カコちゃん・ミクちゃんという三つ子が「現在 / 過去 / 未来」を現わしていることを、リカちゃんに教えてもらっていたのだ。

ゲンくんの自分が、カコちゃんの少年時代に思い描いていたミクちゃんにいるとは、とても思えない。どんな困難が降りかかってきても、脱け出す道は必ずあるよ。リスカちゃんの可愛らしいお友達に、そんなメッセージを送りたい気分だ。

ユリイカ

不意に叫んでしまった。上でちょっと厳しい口調で書きつけた「物語」の内実を、とうとう自分は発見してしまった気がしているのだ。人間の脳が世界を物語形式で把握してしまう理由は、脳の時間空間認識のスタイルにあると、自分は推定している。

ラットの脳に、場所を認識する場所細胞が存在することはすでに明らかになっている。この場所細胞の発見だけで、ノーベル賞に値する凄い発見だ。 

ちょうど、トム・クルーズに対応するひとつの「トム・クルーズ細胞」があるように、1つの場所には1つの場所細胞がある。

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ラットが「場所1→場所2→場所3→場所4→場所5」へ走ったとする。すると、バックグラウンドのシータ波上で、整然と下に凸のグラフを描きながら、神経細胞が連続して発火していくのが、図のように観測される。重ね合わせると、まさしく「場所1→場所2→場所3→場所4→場所5」の記録となるのだ! 

 上記のグラフから明らかなように、人間は生存に必要な記憶を「時系列に空間軸が交差した物語」だと把握しているのだ。となると、若かりし頃にハスミムシたちが把握しそこなっていた「反物語」の実態が、うっすらと見えてはこないだろうか。

それは、スピリチュアリズムでいう時空を超えた「今ココ」でしかありえないだろう。

きっとビョークが画家の祖母を歌った「青と緑の海底」も、歌姫にとって創造の源泉となる「今ここ」だったのにちがいない。そんなことを考えながら、自分もビョークの真似をして「青と緑の空間」を見つめていた。

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青と緑のライン滝の写真。空間しか写ってないように見えて、実は時間も写っていることを面老いだした。この写真には時間が流れている。正確には、この滝から時間が流れはじめたと言った方が良いだろうか。

実は、スイス国内のドイツ語圏にあるシャフハウゼンは、このライン滝を利用して水力発電したおかげで、19世紀に高級腕時計IWCの生産地となったのだ。公式HPのトップページでは、今もライン滝が美しく流れているのが見られる。 

ただ、はじめて高級腕時計発祥のライン滝を見たとき、日本の川を初めてみたオランダ人土木技師のように、滝なのか、川なのか、判断に迷ったのも事実だ。

私の考えでは、あのライン滝が、滝に見えるか、川に見えるかで、ラブ依存症かどうか判別できるのではないかと思う。

ラブ依存症患者なら、あの滝を擬人化して、こう呼びかけるだろう。

瀧くん、瀧くん、瀧くん…… 

 ラブ依存症でないなら、ひとこと「川くん」と呼ぶのではないだろうか。そして心が川くんなら、自分で自分を満たして行動をとるだろう。

という具合に、怒りに駆られやすいトリッキーで始まったこの記事に、ビョークの「Anchor Song」で碇をおろして、「青と緑の今ここ」で締め括ったのは、いささかトリッキー過ぎたかもしれないが、これを書き終えた自分がご機嫌なので良しとしたい。

 

 

 

 

 

Radiohead を Mehldau がジャジーに弾きこなしている)