オオズに魔法がかかりますように

昨晩はどこか吹っ切れた気分になれたので、真夜中のドライブに出かけた。海岸沿いの好きな道で、かつてこの曲とともに、ひとり毎週ドライブしていたのを思い出せるほど、馴染みの道だ。 

神なび 新88カ所お遍路紀行

神なび 新88カ所お遍路紀行

 

 ところが、地元の霊能者のお墨付きのパワースポットは、先日来の大豪雨による土砂崩れのせいで、通行止めで辿り着けず。伊予のストーンヘンジともよばれる「白石ノ鼻」を、真夜中の海上で見つめたかったのに。

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(画像引用元:http://www.ritoumeguri.com/12200/

しょうがないので、「白石ノ鼻」の類似タレントを眺めていた。こちらも鼻筋がすっと通っていて綺麗だし、2018年度上半期のCM女王に輝くほどのパワースポットになっているのだそうだ。

(ちなみに、アイドルに疎い自分は、乃木坂と欅坂を混同して笑われたことがある。ただし、東京の坂には一家言があるので、淑女路線の乃木坂の対極に、セクシー路線に「最大傾斜」した「のぞき坂48」を結成することを提言したい)。

真夜中なのにライトを振っている交通誘導員に、港の前で引き返すように言われた。引き返すしかなかった。この記事で取り上げた高浜駅の横を通って、海沿いの駅で車を停めた。

この海沿いの駅は、最終回で視聴率32.3%を叩きだした国民的ドラマのロケ地だ。13:07から有名な「時刻表トリック」の別れの場面を見られる。思春期男子らしく、粋がってトレンディー・ドラマを遠ざけていた自分は、この名場面を初めて見た。

地元民の目で見ると、場面のつなぎの方向性がところどころ虚構化されているのがわかる。ヒロインの乗った電車は松山市街ではなく、なぜか広島へ行く港方面の電車だ。しかし、車窓の風景から判断すると、車内の撮影は松山市街方面の電車で撮られている。タイムリミットが近づいて、主人公が慌てて梅津寺駅まで走る場面は、梅の林の中を通ることはありえない。入場料を払って、遠回りしなければならないからだ。

不惑の年齢を過ぎた恋愛心理を知った目で見ると、女心を上手く描き出した別れの場面だと感じられる。

男はデータ重視で、女はイメージ重視。男は合理性重視で、女は感情重視。このコントラストが効いているので、女性の視聴者は感情移入しやすいのだろう。

脚本家の思う壺だと知りつつも、14:00以降の伊予の男の煮え切らなさには、心がダークみきゃんになってしまうのをとどめようもなかった。

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(画像引用元:https://www.pref.ehime.jp/h12200/mican-kanzume/darkmican.html

「駅で48分の電車まで待っているから、自分を追いかけるのなら追いかけてきて」とヒロインに言われて、本当に48分ぎりぎりまで考える男は、男としてなっちゃいないぜ。

あんな台詞を言われたら、男は傷ついた顔をして怒らなきゃいけない場面だ。

: どうしてだよ。どうして、あと30分も時間を取って、どこかへ行こうとするんだよ。そんな時間はいらないから、そばにいろよ。俺は今ここで言えるぜ。俺にはお前しかいない!

ルールやデータに従うことを望みがちな男に対して、女は男がルールを越えてでも自分を愛することを望みがちだ。どうしてそんなこともわからないのか。

追いかけてこない男に、ヒロインが未練を断ち切ろうとして、33分の電車で立ち去っていくのも当然だろう。駅のフェンスに結ばれたハンカチは、男を愛しているヒロインが、心で流している涙の象徴だ。

いけない、いけない。相思相愛の男女をどうすれ違わせるかが、ドラマの脚本家の腕の見せどころ。なのに、ドラマなのを忘れて、ついつい熱くなってしまった。

むしろ忘れてはいけないのが、ドラマの主人公が愛媛県松山市ではなく、南予大洲市の出身であることだろう。7:30くらいから、大洲での少年時代を、男はこう回想している。

: そいでさ、一年で一番俺たちが盛り上がるのが、台風の日なんだよ。

: 盛り上がるの?

: うん。この川なんかも決壊しちゃってさ、街中にサイレンが鳴り響いて、大人たちはみんな真っ青な顔してんだけど、俺たちはワクワクしちゃってさ。

: ふうん。

: 麦わら帽子なんか、ヒマワリにかぶせてさ、朝から晩まで駈けずりまわっていたんだ。

男のいう「この川」とは肱川のこと。ドラマでは他愛のない思い出話だが、数日前の豪雨で肱川は過去最高水位を記録したという。ニュース動画の道路冠水は控え目だが、検索すればはるかに水位の高い動画が見つかる。

市街地にある「大動脈」が床上浸水してしまったのも、衝撃度の高いニュースだ。大洲市は伊予の小京都とも言われる盆地の町。中心を走る56号線沿いに、生活用品を売る店が集中している。そこが床上浸水したとなると、例えるなら、サッカーの日本代表11人のうち8人が退場になったくらいの壊滅度なのだ。

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大洲市だけでなく、南予一帯に甚大な被害が出ているので、馴染みのある街が壊滅してしまった写真を見て、涙を流す知人もいた。一日も早い復旧を祈りたい。 

さて、大雨の被害と「類似タレント」で始まったこの記事は、自分の「類似論客」の紹介へとつなぎたいと思って書き出した。類似は主観的な判断なので、深読みはしないでいただけるとありがたい。ちなみに、これを書いている自分でも信じられないが、自分史を振り返ると「ディカプリオに似ている」とか「天使に似ている」とか、JKに言われたことがある。主観的印象論は人それぞれだ。  

 コミュニティー・デザイナーを名乗る山崎亮と、このブログの記事群に深い関わりがあるのだ。山崎亮の著書か経由で記事にしたのは、ブックガイド付きの充実した54の事例集のうち2つ。

 ソーシャルデザインは発展途上国だけに必要なものではない。私がお気に入りなのは、公衆電話ボックスをアートギャラリーにしたソーシャルデザイン。

 

 携帯電話の普及で不要になった電話ボックスを、電話会社がほとんど無料で地域住民に払い下げ、電話ボックスの中を「貸し切り写真画廊」にしてしまったのだ。 

 記事の中ほどまでスクロ―ルすると、QUEEN の名ギタリストのブライアン・メイも、このソーシャルデザインに賛同して、自身のお気に入りの写真を展示するギャラリーとして使ったのだとか。たかだかひとつの電話ボックスを生かしたことによって、そこが地域の観光名所となり、地元民の誇りの共有財産となり、地域経済も潤ったというわけだ。

 ソーシャル・デザインというと、最初は誰もが社会的なグラフィック・デザインを思い浮かべることだろう。その系統では、イ・ジェスキの反戦広告のブリリアントネスが光っているのは間違いない。

 

 上のようにの横長の長方形の反戦ポスターは、電柱に貼ると下のように銃口が自分へ向くようにデザインされている。そして英文も左右から貼り合わされて、この一文になる。

 

What goes around comes around.
自分がしたことは最終的に自分に帰ってくる

 

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広告で錯視によるインパクトを追及するジェスキらしい傑作だ。他に、手榴弾バージョンや戦車バージョンもある。 

残りは、特に意識していない問題意識の共有になるのだが、その数が半端ではない。

二人とも、というか、日本について考える全員が共有する出発点は、急速な少子高齢化と人口減少だ。

人口減少警告本三冊を斜め読みしたのが下の記事。河合雅司の問題意識が一番鋭い。ブログ史的に云うと、この記事から大衆の耳目を引くユーモアや言葉遊びを頻用しはじめた。

続くこの記事は、フランスの少子化対策の輝かしい成功の陰に、「人口≒国力」の国家間戦争があったことを指摘して、河合雅司の著書を足掛かりに日本の少子化の淵源がアメリカの占領政策にあるという「永続敗戦論」でまとめたもの。 

 現在、山崎亮の最重要の著書は、人口減少社会をどう豊かに生きていくかを示した『縮充する日本』だろう。

「参加」を鍵言葉にして、縮小していく都市を社会資本の充実で豊かにしていこうとする新書の主旨は、自分のブログではこの記事に近い。

 日本の各都市は、テクノロジーの進化に伴うスマート・シティ化と、人口減少によるコンパクト・シティ化の二つを、同時に進めていかねばならない。しかし、都市計画家という肩書の専門家をほとんど持っていないこの国は、あるべき都市像について、さほど多くの蓄積を持っていないように感じられる。新しい都市計画の立案とその実行は gdgd な緩慢さでしか進まないだろう。

 

 そう語るのは、都市計画に詳しい建築家の書いたこの本。一息で要約すると、 人口増加時代、日本の都市はスプロール状(虫食い状)に農地を都市化していったので、これから来る人口減少時代でも、都市はスポンジ状(虫食い状)に商業地や住宅地を低密化していくだろう。そのスポンジ状の穴のひとつひとつを、周囲の住民の社会資本とすべくコミュニティ機能を持たせた再開発をする(空き家再利用などの)スポンジ活用化が、長期間かかるコンパクト・シティ化の手前で進行するだろう、といった感じか。  

地元のアーケード街の再開発計画を枕にして、「多世代共生」「無縁社会」の鍵言葉で都市計画とコミュニティーを考えたのがこの記事。

そして、そのエリアマネジメントで重要視されるのは、成長期のような「商業施設としての最大収益化」ではなく、「社会資本と協働」だ。これらを施設完成によって供給するのではなく、街づくりそのものを通して培っていくことに、エリアマネジメントの主眼がある。

 

都市の再開発と社会資本が掛け算された領域を、一番短い言葉で呼ぶと「コミュニティ」ということになるだろう。

 

コミュニティは外的環境の変化に対応して、常に自身を変化させて、組み替えていかなくてはならない。コミュニティをどう変化させるかの方向性が、「多世代共生」というキーワードで語られることが多くなった。

 

その背景を語ることは、それほど難しくない。一つには、人口減少社会が単に人口が減っているだけでなく、凄い勢いで非婚化が進んでいることだ。「無縁社会」という言葉が流行したのは、2010年のこと。 

内閣官房オープンデータ伝道師の関治之(Code for Japan代表)に大注目して、彼の著書を待望しつつ、不正選挙を不可能とする投票計数機の開発を祈願した記事も書いた。公的機関のオープンデータへの注目は、まるかぶりだ。

これは以前から抱いている私自身の欲望でもある。彼の著書をどうしても読みたいのだ。

 

もしこのブログを読んでいる出版人の方がおられたら、「時代の最先端を行く」「実行力無限大」「実践経験豊富」「NASAで活躍なさった」「震災後の新しい生き方の体現者」関治之の新書をプロデュースして、世に送り出してもらえないだろうか。

 

愛読希望者でありながら、いきなり交換条件を提示してしまうようで恐縮だが、その出版によって関治之の真価が世に知られる幸福が訪れた暁には、彼主宰のハッカソンで、内閣官房オープンデータ伝道師の立場を最大限に生かしつつ、例えばブロックチェーン技術を用いて、選挙の投票計数機のソースコードが検証可能となるような「ベスト・ソリューション」を生み出してほしい。 

医療分野への住民参加という意味では、広島県呉市のデータヘルスの取り組みを紹介した。この事例はむしろ『縮充する日本』の第八章にあった方が良かったような気さえする。

昨晩「オープンデータ伝道師」という珍しい職業を見つけたので、どんな仕事をする職業なのか、調べてみたくなった。

 

すると、厳密にいえばオープンデータとは異なるものの、「各所に散らばっていた情報を標準化して集約し、データマイニングを通じて行政の向上を図る」という同じ方向性の取り組みをしている市が見つかった。それが、隣県なので何度も訪れたことのある呉市だった。

 

あれ? ネット上にはほとんど記事がない。実は、呉市はデータヘルス先進自治体なのだ。 

コミュニティデザインの源流 イギリス篇

コミュニティデザインの源流 イギリス篇

 

 山崎亮の著作を読んでいて良いなと感じるのは、背景にある社会思想のアカデミックな蓄積がしっかりしているところだ。彼が「師匠」と呼ぶラスキンの思想から、アクチュアリティーのある部分を引き出して、わかりやすくまとめている著作もある。

ラスキンから抽出した「人とモノの固有の価値を生かすこと、その仕事をする喜び」は反グローバリズムそのもので、時代の要請にぴったりと合った思想だ。

さらに、分厚めの『縮充する日本』で語られている事例研究の数の多さ、これまで踏んできた場数の多さが、山崎亮を信頼のおけるコミュニティー・デザイナーにしていることは間違いない。、最大限に広く取った同時代的視野から、衰退する地方都市の活性化を中心に、芸術祭や教育問題まで、よくぞここまで見聞を広めてきたなという研究蓄積への感動を感じさせてくれる。

日本では、今もこれからも、少子高齢化と人口減少と一億総シングル化が急速に進んでいる。ひとりアイディアソン・ランナーにも似た実力・経験ともに豊かな山崎亮が、次の四半世紀、社会のグランドデザインの方向性を打ち出していく中心となるのは、間違いないだろう。

もし自分が、その中心人物を遠くから見つめながら、その中心のそばにいくつか重要論点を書き加えることが許されるなら、①技術決定論への意識づけと、②グローバル ⇔ ローカルの二極への選択的アプローチの重要性だろうか。

山崎亮が参照しているシェアリング・エコノミーの参照項は、(有名な UBERAir bn b以外は)、wikipedia や 「伽藍とバザールLinux)」など、2016年の著作にしては、ひと昔のものに偏っているような印象がある。 

伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

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ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか (ハヤカワ新書juice)

ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか (ハヤカワ新書juice)

 

それらの事例が古いから駄目というのではない。「wikipedia / Linux」と「UBER / Air bnb」の間に大きな差があることを、コミュニティー・デザイナーとして、いずれ視野に入れざるをえなくなると予想しているのだ。「wikipedia / Linux」がオンライン・オンリーなのに対して、「UBER / Air bnb」は都市に直結しているサービスだということだ。そして、付け加えるなら、「UBER / Air bnb」が外資の民間企業だという事実だ。

根拠のない外資脅威論を煽りたいわけではない。グローバリストたちが喉から手が出るほど欲しがっている外国国民へのラスト1マイルは、今や本当にすぐそばまで迫っている。

では、地方銀行はどうなるのか。昨晩も書いたように、地方銀行がどうなるというより、私たちの住む町全体、生活の基盤にある都市計画にまで、巨大企業は二度と引き剥がせない触手を伸ばそうとしている。

 

「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

(…)

よう、AMIGO! 落ち込みたくなくて、無理に陽気を装って快活に話しかけてはみたものの、相手が私たちを尊重した友人になってくれるとは限らない。AMIGOとは、Amazon, Microsoft, Intel, Google の頭文字をとったアメリカ発のグローバル企業の総称だ。

 

それに、AMIGO と話しかける相手がいない場合だってある。 仮に Amazon にサービスプラットホームを奪取された場合、私たちの日常生活はこんな感じになりそうだ。

Amazon 購入商品を無人店舗 Amazon Go で受け取れる、なんていうありふれた話ではない。話は消費者の生活の利便性向上にとどまらないのだ。顧客とのインタラクティブ・フェイス(双方向性の高まったインターフェイスのこと。いま造語した)をどれだけ拡大できるかに勝負をかけられて、上記のような生鮮食品販売に Amazon が進出した場合、Amazon がさらに取引業者の業種を拡大できることがポイントだと、泉田良輔は言う。

 

Amazonクラウド上で各社の経理処理を提供した場合、仕入れや売上等の経営データが集約され、人工知能により(かつてトヨタの誇った)ジャスト・イン・システムをいともたやすく実現してしまう。当然のことながら、設備投資や資金繰りに対して自動ローン機能が付与されることだろう。

 

入店時のドア開閉も自動、顧客認識も自動、決済も自動、品揃え選択も自動。すべて、自動、自動、自動だ。

 

そうなったとき、地方銀行は太刀打ちできるのだろうか? 未来遠視力の高さ随一のテクノロジーアナリストは、そんな恐ろしい問いを問うているのである。 

「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

 

ここでいう「下層採鉱」とはいま自分が作った造語だ。マルクスが、経済という下部構造が上部にある社会の諸要素を決定するとしたように、その市場を決定している基底層がある。垂直統合がゆっくりと崩壊し始め、上位層がオープン・サービス・マネジメントによって、解放されてしまったあとでは、より基底に近い下層を独占したものが市場競争に勝利することになる。

 

次の20年の名勝負になるだろう「Google vs トヨタ」では、泉田良輔はその「下層採鉱」が数層も下まで深化して、最終的に都市計画(!)にまで及ぶことになると主張する。自動運転車が安全に走るとかまだ走らないとか、全然そんなレベルの話ではない遠大な将来ビジョンを、 40歳代の GoogleCEO やテスラCEOやウォーレン・バフェットのような投資家たちが見据えていると警告するのだ。 

おそらく、地方自治体などの公共部門との連携は、コミュニティー・デザインが最も無難に成果を挙げられる領域だろうし、すでに成果も上がっている。

問題は、民間の領域に AMIGO な多国籍企業が進出してきて、都市の基盤部分を寡占しようとしはじめたとき、私たちがどうやって地域社会を守っていけるかという(グローバリズム下の)持続可能性を重視した社会デザインだと思う。

自分には明確なイメージが描けていないが、そこに農業や漁業や林業などの第一次産業が関わること、(オンラインのICT技術をフル活用しつつも)、地域内で資源や人材や労働を循環させるセミクローズなコミュニティー・デザインになることだけは、はっきりしているのではないかと思う。

信じられないことに、自分は連日連夜この記事を、集めてきた本をほとんど読まずに書いている。熟読してしっかりとした発言をしたいのだが、粗製乱造が目下の「使命」のようなので、批評眼に間違いやブレがあったとしたら、ご容赦願いたい。

 

 

あの歴史的名ドラマは見ていなかったものの、主人公が「カンチ」という名前だということは知っていた。最後に「ぼくの名前を呼んでくれよ!」とでも呼びかけて、

完治!

と、快気祝いへ持っていこうと思っていた。ところがドラマの原作を調べていると、「完治(カンジ)」という名前を駄洒落でズラして「カンチ」と呼んでいたらしい。他人の洒落に乗っかるのは、Stray Dazyarer として不本意だ。

急遽いまから、別の締め括りを考えることにしよう。

いや、正直に言ってしまおう。マリオとルイージの類似について駄洒落を書こうと思ったものの、あまりにもつまらないので辞めた。もう無理。

と、弱音をおずおずと差し出そうとした瞬間、インスピレーションが魔法のように降りてきた。

そうだ。エメラルドの都にいるオオズの魔法使いなら、志のあるミキャンの大器の人々に、災害の街が元通りになるような魔法をかけてくれるのではないだろうか。オオズの魔法使いが、真っ先にあの人たちの街に魔法をかけてくれますように。

そう祈っている自分は、あの名曲をもう一度耳にするだけで、気分が楽になれるから。

 

 

 

Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
虹の向こうのどこか 空の高みに
ある国が浮かんでいる
昔 子守歌でそう聞いたことがある


Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
虹の向こうのどこかに
空が真っ青で
本気で信じた夢が
本当に叶う場所がある


Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
いつか星に願おう
すると目を覚ますと
わたしは雲を遠く下に見おろしていて
悩みのあれこれがレモンの雫のように
煙突や屋根の上へぽつりぽつりと溶け落ちていく
そういう場所でわたしはあなたとめぐりあう


Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?
虹の向こうのどこかへ
青い鳥が飛んでいく
虹を越えて飛んでいく二羽の青い鳥
そうならどうして、どうしてわたしたちが
二人で虹を越えられないことがあるだろう