ルンバのリズムでシティー!

セリーヌなら、逃亡の旅を『城から城』と言うだろう。自分も追われるように日々「図書館から図書館へ」移動している。それだけの生活なのに、やけに街角で年少の友人たちに会う。

上の記事に登場してもらったメロンパンアイスの女の子とか、「ラヴじゃこ天」ラブの女の子とか、他にも数人とばったり会ってしまうのは、天の配剤なのだろうか。皆が元気そうなのが嬉しい。

本当はちょっとしたアイスクリームでもご馳走してあげたいのだけれど、あいにく財布の中身が四桁を切る日々が続いている。またどこかで、それまで元気で。

いくら窮乏状態にあっても、「俺がme」な自分軸をしっかり維持していれば、何とかなるさ。そう信じていると、確かに午後のティータイムは何とかなった。自宅のフードストッカーから、オリガミが見つかったのだ。しばし、コーヒータイム。 

 BGMはこの曲が良さそうだ。

自分が生まれる前の曲。そういえば、個人的な「双数姉妹」好きを生かして、ロシアでザ・ピーナッツが流行している記事も書いたことがあった。

 

確かに、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」のカバーに吸い寄せられるように、隕石が眩い光を放ち、視野を横切っていく。

ロシアでは、半世紀ほど前に東京特派員が持ち帰ったザ・ピーナッツの数曲が、今でも国民的な人気曲になっているのだという。 歌番組でも皆がハッスルして踊っている。  

珈琲のおともに desert でもあればよいのだが、と呟いたとき、デザートを勘違いしていることに気付いた。「s」がひとつのデザートは「砂漠」という意味の英単語だった。 

フードデザート問題―無縁社会が生む「食の砂漠」

フードデザート問題―無縁社会が生む「食の砂漠」

 

暗い。

どれくらい暗いかというと、歌唱とキャラクターがぴったりハマっているこのカバー曲くらい暗い。知られているように、「食の砂漠」は都市でも巻き起こっているのだ。 

今日は数年ぶりに農学部大学図書館へ向かった。そこに、フードデザート(食の砂漠)問題を農林水産政策研究所が論じた報告書があったからだ。

あれ? こんなに分厚い大判の二分冊なのに、まったくソリューションが書かれていないのは、どうしてなのだろう? 最も対策について積極的に進言しているのは、上記の著者である岩間信之だ。積極的に進言したとはいっても、こんな感じだ。

 問題解決の糸口は何かと、これは私ごときがどうこう言えるような問題ではないです。非常に難しい問題で、しかも根が深く、いろいろな問題が重なっていますので、1つ解決すればそれで済むという話ではどうやらなさそうだということが私の感想です。ただ、その中で1つ、希薄化されていると言われていますけれども、コミュニティの活性化というのも重要なのではないかと思っています。http://www.maff.go.jp/primaff/kanko/project/attach/pdf/120330_24sup1_1_06_02.pdf

「腰が引けている」とはこういうときに使う慣用句だろう。官僚のお膝元に呼ばれて、緊張してしまったのかもしれない。

「言えば、癒える」だぜ、本当の自分を出しちゃいなよ、とは、最近の自分がよく投げかけてもらっている助言だ。イギリスの研究論文に最も精通している著者なら、フードデザート対策先進国のイギリスで、大型店舗の出店を規制緩和したのち慌てて規制を再強化したら、フードデザートが改善した事実に、本に書いてある調子で言及するべきだろう。

内気な思春期男子にかけがちな声、「告っちゃいなよ!」「決めどころでは、男らしく行かんと!」という言葉が思い浮かんできたのは、カント研究者はやはり違うとの思いを新たにしたからだった。

「効果的な利他主義者」のムーブメントが流行していることは知らなかった。

(…)

昨晩、騙されて腎臓提供を強いられる人身売買の話をしたばかりだ。まさか、ボランティアで腎臓を提供するブームがアメリカで来ているとは!

ここから、倫理学の話をしたい。西洋の倫理学は次の3つの潮流に文類できる。

 

徳の倫理学(Virtue ethics)
功利主義倫理学 (Utilitarian Ethics)
カントの義務論(Kantian Deontology)

西洋倫理学の3つの伝統:Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

  

自分の気質はさておくとして、「カントの義務論」はもう流行ることはないだろうな、と感じていた。「定言命法」という一種の絶対的な命令なのだ。

 

君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

 

ちょっと暑苦しくはないだろうか。これでは、テーブルの上のお菓子を好きなだけ食べられなくなってしまう。実際、哲学者のバーナード・ウィリアムズは、人間は「宇宙の視点」を持てない日常生活に属する生き物だと主張して、カント的義務論を批判した。

 

ところが、上記の記事で自分が推した徳倫理学に続いて、カント的義務論のブームが来ているのだという。正確には、カント的義務論をベースにした「効果的な利他主義」が広まりつつあるらしい。その種族が利他行為をする理由は、徳倫理学に深い関わりのある愛や共感からではない。「宇宙の視点」から見た理性だというのだ!  

宇宙視点のスピリチュアリズムの興隆と「効果的な利他主義者」ブームが同時に発生しているのは、偶然ではなく何らかの相関関係があるからだと、自分は考えている。

「決めどころでは、男らしく行かんと!」というカントで結ばれる定言命法を果敢に実践しているのが、上の記事で紹介した杉田聡だ。カント研究者にして、カント主義実践者。「買い物難民」問題の最良の書は、現時点では下の新書で決まりだ。 

昨晩の上の記事で、簡単に概要を紹介した。

買い物難民問題を、上記の規制緩和と関連付けて論じているジャーナリズム本は、恐ろしいことにこの著者によるものしかない。

飲食料品店が最も多かった1982年と比べると、2009年にはほぼ半減している。半減だ! それは全国平均値にすぎず、群馬県渋川市では飲食料品店の数は1/4に減ったという。1/4!

日本の風景が変わってしまったはずだ。買い物難民は、日本国民の約1/10。全国に1000万人をはるかに超える難民がいるのだという。 

頭の切れるアカデミシャンが官僚の作文を読むと、「東大話法」の馬脚が鮮やかに現れてくる。基本線は、このブログの中心主題である「永続敗戦論」にある。

 今日の事態を生んだ本質的な要因とは何か。アメリカ政府は、一九八〇年代末から、「日本位は大店法があるからアメリカ資本が日本の市場に入り込めない」などと主張してきた。だが自民党政府は、その実両者にどれだけ優位な関連性があるかどうかも満足に検討しないまま、アメリカ政府の要求を受け入れて(というよりうのみにして)、大店法に対するなし崩し的な規制緩和に乗り出す方向を決め、そして九〇年代に規制緩和を実際に強力に推し進め、ひいては大店法に引導を渡した。そして、これを担ったのが経産省(かつての通産省)なのである。 

 もちろん、経産省はその非を一切認めようとせず、買い物難民が1000万人を超えた事態に対して、「少子高齢化だから」とか「モータリゼーションが進んだから」とか「中小の飲食料店に競争力がなかったから」とか、副次的な要因を列挙して、国民を煙に巻こうとしている。

その「煙」の代表例が、経産省の報告書におまけで書き加えられたコラムだ。コラムは「規制緩和による大型店の大量出店は、中小の飲食料店に何の影響ももたらさなかった」(!)という研究を取り上げている。どのロが言うのか。

しかし、その研究では「大型店」と「中小小売店」の定義を恣意的に操作して、実態としては「大型店」と「大型店」を比較して「影響はなかった」と結論しているのである。官僚作文のテクニックは相変わらず凄まじいぜ! 開いたロが塞がらない、と書いた「ロ」が「口(くち)」として検索されないよう、カタカナにすり替えるくらい凄まじい。

「火力発電」「水力発電」でも、「力」をカタカナの「カ」に置き換えて検索したら、原子力のときと同様にPDFファイルが多く表示されたとの報告もある。原発関連の検索に限らずに起きる現象、という主張だ。ただ、PDF文書の中身を読むと「当て字」で書かれた語句が見当たらず、検索結果で表示される見出しだけ一部文字が置き換えられているのは謎、という人もいた。

(強調は引用者による)

真っ当にも「大型店舗への規制強化」を唱える杉田聡は、好評の移動スーパーとくし丸についても、巨大流通資本がつぶしにかかる可能性を指摘している。鋭い着眼だと思う。

とくし丸の生命線は、「ドブ板」調査にある。買い物難民の住む地域を、元政治家らしく一軒一軒アンケートを取り、ルート選定とニーズ把握をした知的財産が、最大の企業価値なのだ。

その知的財産は、法的に保護されていないので、コストなしに模倣可能だ。しかも、とくし丸の涙ぐましい良心的ポリシー「半径300m以内に地元スーパーがある場所では営業しない」ですら、裏目に出る可能性がある。

巨大流通資本が本腰を入れて、地元スーパーの立地に関係なく、買い物難民にとってより利便性の高いルート選定をして、競合するとくし丸を追い落とすために、本部負担で価格競争を仕掛ければ、零細自営業者の移動スーパーはたちまち苦境に追い込まれるだろう。

このようなありうる悪夢を想定したとき、大型店舗を出店するなら、同時に周辺に(できれば地域住民と共同運営の)小型店舗の出店を義務付けるべきだとする著者の主張は、強い輝きを放っている。他にほとんど方法はない。他にほとんどないのに、そこに著者以外に問題意識が届く人がいないのは、淋しい限りだ。

「大規模店舗の出店を規制するべきだ」と同じ主張をしている識者の中に、元福島県知事の佐藤栄佐久がいる。その功績を記録した論文が見つかった。

福島県は、「広域のまちづくりの観点から特定小売商業施設を適正に配置するとともに、地域貢献活動を促進する」ことを目的として、2005年、大型店に対する出店規制の条例である「商業まちづくりの推進に関する条例」を全国で初めて制定している。 

http://www.dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9222371_po_vol_5_3.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 

ノーベル平和賞受賞者とは別人。しかし、元福島県知事の佐藤栄佐久の方が、日本を蝕んでいる病巣をより鮮明に国民に印象づけたという意味では、功績が上だと思う。

何だか悲しくなってきた。どの分野を引っくり返しても「永続敗戦論」だ。

にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった

加藤治郎

ふと秀歌を思い出した。占領政策の新字新仮名で、日本国民が古典を失ったことを、旧字の「ゑ」を使って視覚的に印象づけてくる短歌。旧字旧かな世代は、2017年現在ほとんど生き残っていないだろう。ほとんどの国民は「ひどい戦争だった」ことも知らなければ、その「ひどい戦争」が永続していることも知らないままだ。

こんな現実におさらばしたい気がして、福島の隣県の別れのバラードを聴いてしまった。

これが現実、これが本当だから、つらい。せめて、本ダけでも、希望のある物を読みたいと思っていたら、ホンダの明るい曲が流れてきた。

CITY! 小学校の頃に遊んだムカデ・ウォークの記憶がよみがえってきた。そうだ、CITYだ!

というわけで、今晩は『買い物難民をなくせ!』の先に、私見では「都市農業」と「IT農業」が見えているという話をしたい。今夜はシティー農業の巻。 

シティ・ファーマー: 世界の都市で始まる食料自給革命

シティ・ファーマー: 世界の都市で始まる食料自給革命

 

著者のジェニファーはカナダのフードライター。実は、スローフード運動を深く受容した料理研究家の中に、優れた都市論の持ち主がいることが、日本でも証明されている。 

スローシティ 世界の均質化と闘うイタリアの小さな町 (光文社新書)

スローシティ 世界の均質化と闘うイタリアの小さな町 (光文社新書)

 

 むしろ面白いのは、イタリアの小さな町を取材し終えた著者が、幾分かの主観を交えながらスローシティーを作り上げるのに必須の8項目を列挙しているところだろう。

  1. 交流の場をどんどん増やそう。
  2. 魅力的な個人店は、意地でも買い支えよう。
  3. 散歩をしながら地元のあるもの探しをしよう。
  4. ゆっくり歩いて楽しめる町を育てよう!
  5. どうせやるなら、あっと驚く奇抜な祭りを!
  6. 水がただで出てくるありがたさを今、噛みしめよう!
  7. エネルギー問題は長い長いスパンで考えてみよう。
  8. そろそろ、人を惹きつけるような美しい街を創ろう。

ここにしかない固有の場所、この場所で生きていく固有の人々、徒歩の速さで見える風景、歩けば歩くほど新発見が生まれること、人々同士が話し合う場があること、多様性が次々に生まれること、巨大システムに依存しないこと。

自分なりにキーワードを拾っていくとそんな感じだろうか。 

英語が聴ける / 自動生成英語字幕を読める人は、下の動画が彼女の主張をうまく要約している。原題の「Food and the City」は全米大ヒットドラマをもじっているのだろう。

ジェニファーの本の中で面白いのは、「食の変動」ムーブメントが三つの波で形成されているという見取り図だ。自分の言葉に直しつつ、まとめてみたい。

1. フードマイルで食をローカルへ→スローフード運動へ(第一波)

日付は1992年11月なのだそうだ。フードマイルの提唱者がテレビ出演して、流れが生まれたのだという。フードマイルは今や日本の中高生の教科書でも取り上げられている。

スローフード運動については、食のグローバル化への抵抗運動だという点を、必ず理解しておきたいところ。

1986年、ローマ中心部に「マクドナルド」が出店することに対して起きた反対運動が原点。安い輸入品やグローバル企業に「食」を委ねず、地元の農家から食材を直接買うことなどで地域経済を守る活動を続ける。それが伝統の文化や暮らし方を守ることにもつながると考える。

2. 地産地消の波及が食料品業界を変えて「消費者」は「共同生産者」に

地産地消が世界的なブームになったために、食品業界ではなく消費者が食品選択の主導権を取るようになった。

スローフードは、おいしく健康的で (GOOD)、環境に負荷を与えず (CLEAN)、生産者が正当に評価される (FAIR) 食文化と、食の生物多様性を守っていく社会運動です。


スローフードでは、消費者という言葉ではなく「共同生産者」という言葉を使います。自分たちの食がどのように生産されるのかという情報をきちんと得ることで、生産する人々を積極的に応援することで、私たちは生産プロセスの一部となります。つまり、知識を持ち違いのわかる消費者は生産プロセスの最終地点に立つ、共同生産者です。

http://www.miyazaki-aya-slowfood.jp/wp-content/themes/slowfood/images/slowfoodguide.pdf 

3. 世界人口の2/3が都市住民に→「都市計画に食料生産を内包せよ」

2008年に初めて、世界の都市人口が地方人口を上回った。2030年には世界人口の2/3が都市人口となる。そこで、都市計画や都市政策を、食料生産も含めて再設計する必要が出てきたのだ。

 

ジェニファーが取り上げているヨーロッパの事例を、かなり楽しんでしまった。

世紀末の1999年、パリ市街にゲリラ農家が出現したのだという。彼らは殊勝なことに、都市の虫食いの穴になっていた空き地に、無許可で農作物を栽培しはじめたのだ。このゲリラ的農地化がパリ市に認められて、彼らは公認の「コニュニティー・ガーデン支援団体」になったのだ! こうしてパリの都市農業は盛り上がり始めた。

日本人にはわかりにくい感覚かもしれないが、ヨーロッパには都市は国家のものではなく、住民のものだという意識が強い。スクォッターという不法占拠系のアクティビストについては、下の記事でこう言及した。

ではヨーロッパに目を転じよう。饗庭伸は、都市の虫食い状の低密化に抵抗して、周辺住民が空き家を社会資本の生まれる場として再活用すべきと主張していた。人口増加の鈍化が数十年早かったヨーロッパでは、 そのような空き家を社会資本が「占拠」する現象が横行していることも、知識として頭に入れておくべきだろう。

 

この映画では、スクォッター(英: Squatter, 独: Hausbesetzer)の活動を大きく取り上げています。スクォッティングとは日本ではあまり聞きなれない言葉ですが、60年代に始まった社会運動の一つで、(大抵の場合は不法に)都市の空き家を、政治的メッセージの発信やアート・文化活動などのために、自分たちの「ねじろ」に作り変えて住み着く事を指します。

(…)

アムステルダムのスクォッターは占拠した空間をアトリエ、ギャラリー、飲み屋、ライブハウス、舞台などに作り変え、独自の文化を発信してきました。映画を見ていくと、スクウォッターのこのような活動が、グローバル資本主義に飲み込まれていく都市空間に抗い、人々が自由に使える空間を確保するための運動としての側面がある事が浮かび上がってきます。

興味深い点は、そもそもは不法占拠をベースにした運動だったにもかかわらず、現在ではスクォッティングのポジティブな側面を行政や市民が認めていることです。アムステルダム市議員(労働党)の女性は次のように語ります。

「我々は明確にスクォッターの規制に反対している。スクォッターの活動は、人や物を傷つけない限り、都市にとってむしろ歓迎されるべきものだ。」

 ジェニファーが取り上げているロンドンの事例も、とても面白い。

ロンドンに建築を学びに来たアレックス・スミスは、ディベロッパーが中心部の土地をズタズタにして地域住民を追い出したり、死亡事故を起こしたりしていることに憤りを感じて、再開発予定地域に抗議の不法居住を始めたのだ!

そして、ロンドンの青果市場で屑野菜を無料で仕入れて売った。そして、わらしべ長者のように、仕入れと販売のサイクルを大きくして、有機食品販売店を起ち上げたのだ。

For a year before starting Alara I had been living in Tolmers Square with out using any money at all, as this seemed the only moral position to take to oppose this,

 アララを開店する前の一年間、私は1ポンドも使わずに、トーマス・スクエアに住んでいた。というのも、そうすることが、(巨大オフィスビル建設のためのビル取り壊しに)反対できる、唯一の倫理的手段だと思われたからだ。

アララ・ホールフーズの沿革のぺ―ジに、乱開発へ抵抗するために不法居住した過去が、数行だけ書き残されている。

今やロンドンのオーガニック系食品メーカーとして押しも押されぬ地位を得たアララ。都市農業の先駆者らしく、ロンドン初のブドウ畑で都市ワインを作っている。美女のパステル画をあしらったワインは、何と10日ほど前に、700のワインとのコンペで優勝したのだそうだ。都市で作られた農産物や加工食品は不味いは、文字通りの都市伝説でしかなかったようだ。

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(画像引用元:Alara Cellars: Wine Meets Fashion – WineFashionista

もう少しジェニファーの面白い報告事例を紹介したいところだ。

けれど、結びの文章を読んで、豊かな取材をこなしてきた彼女が、次世代の都市農業のあり方や意義について、やや本筋を見失っているように感じられたのが気になった。

たぶんほぼ同年代だし、大学時代にフランス文学を研究していたのも同じ。その誼で、勝手に応援メッセージを送ってみることにしたい。

ジェニファーは、この取材を始める前、以下のような問題意識を抱いていたという。

  1. どうして都市農業が急に盛り上がってきたのか。
  2. 都市でどのように食料自給が進んでいるか。
  3. 都市の食料問題はどのように進んでいくか。

残念なことに、その答えはわからなかった。

こんな面白い本を書いておいて、そんな淋しい結論を書かなくてもいいのに。

2. は豊富な事例研究で提示済み。よく読むと、3.の答えが1.だ。ということは、1.の「どうして都市農業が急に盛り上がってきたのか」に答えれれば、ジェニファーの当初の問題意識は解決したことになる。

都市農業の興隆を、フード・デザート問題の逆だと考えると、大切なことを見失うことになる。フード・デザートは食料が買いにくいだけでなく、買物難民たちの健康を低下させ、そこで育つ子供たちがまともな食育を受けられなくなる。

確かに、都市農業が充実すれば、フードデザートは縮小し、買物難民たちの健康や食育は向上するだろう。

それ以上に重要なのは、顔の見える「食住近接」の共同体の中で食や利益や人間関係を循環させることで、次の三つを生み出せることだ。

1. 巨大システムに振り回されなくなること

ジェニファーの言うように、化学肥料を投下した「緑の革命」は持続可能性がなく、遺伝子組み換え作物は危険すぎるし、巨大アグリ企業に支配されてしまう。(原発と同じく)、モンサントのような独占支配型の巨大システムに依存すると、住民は抵抗できずに極限まで搾取されてしまうリスクがある。(モンサントは世界のすべてのタネを独占しようとしている)。

実際、不法占拠から始まったパリのコミュニティー・ガーデンでは、市場であまり流通していなかったフランスの在来種の農作物が栽培されるようになった。地元特有の農産物を、地元に根差した住民が守ることで、巨大システムから自律できるのだ。スローフードとは、そのような政治的抵抗運動なのだ。

2. 顔の見える人々と安全安心の人間関係を作れること

地域社会の安全安心が薄らいだのは、流通している物の作り手と受け取り手の顔が見えなくなったから。両者が顔を合わせるくらい、評判を共有できるくらいのサイズ感で物やサービスが循環すれば、地域社会の信頼と安心は高まる。

3. 豊かさやリスクを自治できることの喜び

ベックの『リスク社会』に顕著なように、テクノロジーの高度化と専門分化が進むと、一般人にはそのテクノロジーのリスク評価ができなくなる。頼るべき少数の専門家も、御用学者だったり買収されていたりするリスクがある。

となると、地域社会の住民に必要なのは、リスク評価できない巨大システムに支配されるリスクを減らすことになる。自分たちの目と頭の届く範囲、顔の見える範囲で、生活世界を回していくことが、最上の安全策なのだ。そして何より、生活世界を自治可能 self-governable に近づけていくことは、私たちに豊かさやリスクを選択する喜び、その選択肢を新たに作る喜びを与えてくれる。

 おそらく、この三点を主軸に都市農業の意義を考えていくと、それがいま急速に盛り上がっていきつつある理由が、わかりやすいのではないだろうか。充分に調べずに憶測で述べると、3. の自治の喜びに言及している本は少ないように思う。

いかがでしょうか、ジェニファー? 

え? いきなりお返しに、水着で喜びのダンスを披露してくれたの? いきなり素敵な展開で、ちょっとびっくりだな。でも、喜んでくれたのなら、ぼくも嬉しいよ、ジェニファー!

とか、ひとり冗談を言いながら、二杯目のコーヒーを飲んでいると、動き出したらしいぜ、読者のみんな。

フード・デザート問題において、今晩紹介したひとつ目の鍵は、都市農業だった。ふたつ目の鍵は、IT農業。この記事一曲目のコーヒー・ルンバを聞きつけたらしく、除草ルンバがここまで完成しているらしい。

明日はこの国の未来に希望を見出せるだろうか。

この国のひどい永続敗戦状態に、「ゑゑゑゑゑゑゑゑゑ」といちいち疲れた声で相槌を打ちながら、動き回っている除草ルンバのリズミカルな動きをじっと見つめていた。どこか一文字でも「るん」という希望のオノマトペに読み替えられないだろうかと考えながら。