優しい魔法に包まれたなら

人間の潜在性は多彩だ。その通り。待っている人は出遅れる。それも知っている。

なのに「サイエンスに行け!」「ビジネスに行け」 などという指示の言葉を待ってしまっていたのは、暗中模索の日々のせいで、見通しが視界数cmだからだ。けれど、耳を澄ましているだけでもわかることはある。

今晩わかったのは、「ビジネスに行け!」という声が、「日経ビジネス!」という暗号だったこと。この記事は面白かった。

現在が2018年。自分のこの記事では、短期的未来を2025年、中期的未来を2045年、長期的未来を2100年ぐらいで考えてみたい。

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2025年を職業大変革の区切りにしたのは、上の記事が最初だと思う。では、その2025年、今の高校1年生が大学を卒業する頃、どんな仕事が花形になっているのだろうか。

(「巨人の星」の花形満は花形モータースの御曹司だった)

素人には想像がつきにくいところを、「ビジネスに行け!」と檄を飛ばす日経ビジネスが「この12の職業に行け!」というリストを公開していた。

ビックリしたな。知らない職業だらけだぜ。( )内は自分の言葉による簡単な解説。

  1. ホワイトハッカー(企業のセキュリティーホールを見つけ出す)
  2. 仮想空間創造師VR世界を構築する都市計画家)
  3. 人口肉クリエイター(食糧危機をバイテクで救う)
  4. ドローン制御技師(人口よりドローン数が多くなる時代に不可欠)
  5. データサイエンティストビッグデータを解析して金鉱脈を発掘)
  6. サイボーグ技術者(高齢車や病人をロボットと融合して健康寿命延伸)
  7. eスポーツプレーヤー(ゲーマーを究めれば一流アスリート並みの収入も可能)
  8. インセクトブリーダー(カブトムシなどの昆虫飼育でマニア向け希少種を育てる)
  9. Ⅴチューバー(動画内で二次元キャラを演じて人気獲得へ)
  10. オンライントレーダー(PCと回線の高性能化で証券会社と競争)
  11. 書道家(生身の人間の「気」が人々を引きつける)
  12. IoT農家(AIと熟練農家の知恵を最適化すると高収入職業に)

5.の「データサイエンティスト」と 12. の「IoT農家」については、以下の同じ記事で言及した。同時代の先端にある同じ空気を感じる。

すべてのものがオンラインでつながる IoT 化の次に待っているのは、間違いなくデータ解析の技術争いだ。さっそくデータ・サイエンティストという新職業が世に出ータことも、早耳の人は知っていることだろう。

日本の就農人口の平均年齢は 66.8才。続々と現れる新技術に踊って見せるのが、IT 技術者の仕事ではない。

現在いる熟練農家の暗黙知(職人技)のデータを収集し、その形式知にセンサー大国日本が配備していく無数のセンサー・データを関連づけていくこと。そのビッグデータを国家主導でプラットホーム化して、農業をする誰もがアクセスできるように共有すること。それが、日本の農業を持続可能にする「最初のゴール」として設定されている。

「どこかのひと握りの先進的な農業法人が稼げればよい」では、この国の農業は崩壊してしまうからだ。

3. の人口肉は、来る来ると言われていたところ、2018年内に試験生産が始まるらしい。長期的には従来型の畜産食肉産業はなくなるという声を聞くことが多い。人口肉の行方を今後も追いかけてみたい。

(新食材で世界の食糧危機を救おうとする点は、この記事のミドリムシと同じ)。

日経ビジネスは C to C(消費者から消費者へ)の動きを重視してリストアップしたらしい。個人的には、メイカーズ関連がひとつ入っていても良かったのではないかと思う。9. のような個人発のオリジナルキャラクターが爆発的な人気を得れば、フィギュア<ドールハウス<ファンタジー都市のように世界観と商品がどんどん拡大して、それを個人が3Dプリンタで造形して販売すれば、近未来の成功物語になりそうだ。

さらに大きく変貌していく20年代は、あふれるほどの創造の種に満ちている。詳細を、ぜひとも日経ビジネス誌で確認してほしい。 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 2025年の花形職業リストに「魔法使い」がなかったのにはがっかりした。滅多になれない職業なのだろう。あきらめようと思っても、心に「魔法使い」の四文字が忍び込んでくるのは、幼少時に耳にした「シャランラ」の呪文の意味を、どうしても知りたいからかもしれない。 

そういうわけで、「現代の魔法使い」との異名をとる落合陽一の本を4冊斜め読みした。とはいっても、今日も午後は忙しくて、打ち合わせや荷物の搬出に4時間くらい取られてしまった。いわば「午後、危機!」だったので、読み取りの精度には目を瞑って、書いてしまおう。「午後の危機」にも魔法使いが絡んでいるので、きっと面白いものが出てくるにちがいない。

…うん

気をつけて

しっかりね

行ってきまーす

がんばってー

ゴーゴー! キーキ…

(ホーキをたたく音)

(鈴の音)

(遠くなる鈴の音)

相変わらず ヘタねえ

大丈夫だ 無事に行ったようだよ

(男) あの鈴の音も当分 聞けないなあ

どっちへ行くの?

南よ 海の見える方!   

魔女の宅急便 全セリフ紹介 

最初に意外の念に打たれたのはメディア・アーティスト / コンピュータ研究者という独特の職業選択をした論客であることだ。

現代アートといえば?と訊かれれば、誰もがデュシャンやウォーホルの名を挙げるだろう。ところが、メディア・アーティストと言えば?と訊かれて、芸術家の名前を挙げられる人がどれだけいるだろうか。

このブログでは、ヒース・バンティングとピョートル・コワルフスキーのアートを織り交ぜて、記事を書いたことがある。

メディアアートの教科書に過不足なく収まっていると、収まっていること自体が彼らしくないように思える。ヒース・バンティングはそういう芸術家だ。

 

街角に招かれざるメディア・アートを闖入させる彼の手法は、当時公衆電話をハッキングして、公衆電話から電話を掛けるのではなく、公衆電話に電話をかけるメディアートを仕掛けていた。

 

携帯電話の普及によって、もはや前世紀の遺物と化している公衆電話ボックス。ヒースのメディア・アートは当時かなり話題にのぼって、成功を収めたはずだ。しばらくしてヒット映画の『アメリ』の中で流用されて多くの観客の知るところとなったので、自作小説ではヒースの作品を引用しにくくなった。 

その昔、メディア・アートに凝っていた頃、東京の初台にあるICCによく遊びに行った。外苑西通り沿いのワタリウム美術館も、メディア・アートには強かったと思う。

 

別名キラー通り周辺で信号待ちをしていると、日曜日の午前中には、式場へ移動中の花婿花嫁が信号を渡るのに遭遇することもあった。私がクラクションを鳴らして祝福を送ると、周囲の車もそれに続いた。花婿は羞かしさをごまかそうとする速足で、花嫁を引っ張っていった。二人身体を寄せて、祝福の車列に笑顔を返すくらいの余裕があっても良かったのに。

 

といっても、それも20年くらい前の話。封建的で捌けていない男どもが多かった時代の話だ。

 

メディア・アートの世界ほど、流行り廃りの激しい芸術界はない。追いかけ疲れて放ったらかしにしていたので、今日図書館で見直していたら、のめり込むように引き込まれてしまった。  

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

上記の最新刊は未読。自分が今日四冊を斜め読みした限りでは、「落合陽一の考えを知るには何を読むべきですか?」という問いに、あっさりと『超AI時代の生存戦略』の「エピローグ」だと答えたい。

(…)『魔法の世紀』の最終章で僕は、人間中心主義の脱構築された世界、計算機自然:デジタルネイチャーについて述べたが、この世界はまさにテクノロジーイデアを基軸にして人を脱構築しようとしている。

その直後、終章最初の人名として、ナム・ジュン・パイクというメディア・アーティストの名が登場したことに、意外さと喜びがあった。上記の引用部分を読んで感じるのは、コンピュータ研究者だけあって、テクノロジー決定論に近い現代の不可避の趨勢をバッチリと読み取っていること。

本屋の棚は、新技術の普及時に必ず巻き起こる「AI脅威論」の本であふれている。インターネットが普及し始めたときと同じ光景だ。無名のITライターならまだしも、思想界では一流の哲学者であるヌスバウムまでも、「シンギュラリティーの21世紀」をアリストテレスで基礎づけようとするのだから、頭の良さと頭の新しさは比例しないようなのだ。

 マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

 

 しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。 

落合陽一よりひとまわり年齢が上の自分は、ポスト・サルトル構造主義が人間中心主義を「脱構築」したという感情教育を受けてきたし、引用文中の「脱構築」の用法も当時習ったのとは少々異なる気もする。けれど、些細なことはどうでもいい。

思想界の主流は、シンギュラリティー前夜の哲学の確立に、落合陽一より出遅れている印象があるのだ。

再読してみて、つらい気分になった。サンデルはデザイナー・ベビーの普及によって、私たちの道徳に深い関わりのある「謙虚、責任、連帯」が大きく変容してしまう。だから、デザイナー・ベビーには反対だと表明している。

 

では、そのように先天的な人為的格差が問題なら、後天的な人為的格差に対して社会が寛容すぎることは、問題にならないのだろうか?

 

あの『ハーバード白熱教室』の教授のボディに、渾身のパンチを打ち込むことはそれほど難しくない。サンデル教授に、こう返答すれば良いのである。

 

わかりました、教授。おっしゃる通りだと思います。では、私の子供は、「謙虚、責任、連帯」の性格が発現しやすいようにデザインしてから、出産します!

 

この論点で、テクノロジー決定論に打ち勝つ思想的根拠は見出せそうにないというのが、自分の予測だ。 

上記の自分の「テクノロジー決定論の消極的容認」より、さらに踏み込んで、落合陽一が「テクノロジーが人を脱構築する」と主張しているのは、頼もしい限り。続くこの主張にも大きく頷いてしまう。

 テクノロジーで変化する前の私たちの習慣や規範や考え方によって、それ以後の人類を推し量ろうとするならば、それはテクノロジーとの間に摩擦を起こす。

 急速にテクノロジーが発展して、ひとびとの世界観が変わっていく未来は、すでに決定している。社会に巻き起こる変化を調整しながら利害分配(政治)をしていくとき、私たちに、21世紀のあいだ一貫して依拠できる正義はない。それが摩擦を生みつづける大問題なのだ。

落合陽一は、跳ねまわる溌剌さと頭の回転の速さで、「人間がテクノロジーに適応すること」を正面に掲げる。

一方、アリストテレスが… というほど過去志向ではいられない自分は、まず(変化に比較的時間がかかる)脳科学を暫定的基礎にして、哲学や倫理学からのリソースも適宜活用するという我流の答案を書いてみたことがある。 

 今晩の記事を自分向けにまとめるなら、このようになるだろうか。

 

 倫理や宗教の起源が脳にあったことがわかりはじめた。いずれ脳機能の解明が進めば、同じように、脳機能を基礎にした卓越した社会制度が形成されていくだろう。それまでの過渡期、倫理哲学の精髄を社会制度に落とし込む設計思想が必要だろう。 

落合陽一の思想的バックボーンが信頼できると感じるのは、グローバリズム側からの「分割統治」の可能性に対して、思想的手当てがなされていることだ。

誰にでも想像できることだと思う。やがてシンギュラリティーによる「技術的失業」が波及すると、テクノロジー適応者が「勝ち組」、テクノロジー不適応者が「負け組」とするようなネオリベラリズムを国家は浸透させようとするだろう。IT強者にありがちなデジタル系「優勝劣敗」原則を、彼は支持しない。

空飛ぶ新人類が新たな時代を築く『幼年期の終わり』を引き合いに出して、新人類と旧人類をつなぐ種族が必ず現れると、希望的観測を述べるのだ。 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

それがまた希望的観測だけで終わらないところが、時代の寵児の凄いところ。

野口悠紀雄が先頭を走っているブロックチェーン技術にも精通していて、その技術が中央銀行システムへ抵抗する分散性と自律性を本質的に持っていることを。当然見抜いているわけだ。さらに、仮想通貨によって中央銀行に依存しない「信用創造」ができると主張しているのが素晴らしい。細かい点はともかく、「信用創造」が永続敗戦の鍵であることを知らない人々が多すぎるのだ。

ケインズ系経済学者として、「国民経済」を提唱した吉川元忠との対談で、リチャード・A・ヴェルナーはこう語っている。日本経済の病巣の中心を、同じ敗戦国のドイツ人が教えてくれたことが、何だか今晩はやけに嬉しい。敗れたという事実からの方が、きっと学ぶことは多いのだ。

(…)

というわけで、個人的に頭の中で連立方程式を立てると、ヴェルナー×吉川元忠系の国民経済(反グローバリズム)の立場に、経済再生のためのデフレギャップ克服を掛け合わせると、正解は井上智洋の「ヘリマネ」に近い「政府紙幣による大規模な財政出動」になる

そう書くと、我田引水すぎるだろうか。いずれにしろ、鍵が「信用創造」にあるのが間違いないことが、今晩も確認できて嬉しかったのは本当だ。 

極めつけは、この一節だろうか。「落合陽一は買い!」と、自信をもって声をあげられる主張だ。

 トークンエコノミーの受益者負担、自給自足という考え方に僕は強く賛同しています。なぜなら、それがあれば、グローバルなプラットフォームによる搾取を防げるからです。言い換えると、シリコンバレーと戦う最高の戦略になるからです。

 我々がデジタル化社会で苦しんでいる最大の理由は、ソフトウェアのプラットフォームを取れなかったことです。今の我々の生活はシリコンバレー発のプラットフォームに支配されています。iPhone を使ってアップルストアで買い物をしたり、グーグルマップで地図を検索したり、アマゾンのサイトで買い物をしたり、フェイスブックでメッセージを送り合ったしていますが、その結果、多くの情報やお金がシリコンバレーに吸い取られているのです。

プラットフォーム競争での日本の「敗戦」にもしっかりと視線が行き届いているということは、松山出身のビジョネリー泉田の著作もちゃんとチェックしているということなのだろう。

 「失われた20年」の提唱者の村上龍は、「高度経済成長期に日本製品が世界を席巻していた時期には、誰も『日本のモノづくり』などとは高唱しなかった」旨を発言していた。いま巷間かまびすしく「モノづくり」が言われるのは、「モノづくり」が敗れた後の話だ。「モノづくり」で負けたのではなく、「モノづくり」が負けたという着眼が重要だ。

 

「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

何だか、このブログの内容と落合陽一の主張に、重なるところが多いような気がする。たぶん、ブログ主がそう思い込むよう、魔法をかけてもらっているのだと思う。まさか自分にまで気を遣ってくれるとは。現代の魔法使いは、不思議なくらいに優しい。

その優しさに包まれながら、この曲を聴き直していた。

優しさに包まれてしまったから告白するけど、今日はまた負債がのしかかってくる話が二件あったのと、資金繰りや片づけに忙殺されていた。かなり悲惨な無職だ。

歌詞にあるように「すべてのことがメッセージ」なら。アレはどういう意味なのだろう。

おい、落ち込むなよ、俺。聞こえるかい、俺? 時代の寵児の主張を軽くなぞっただけでも、お前が書いてきた記事のいくつかが、アクチュアルな輝きをもって浮上してきたじゃないか。悪くない晩だ。

Night is still young. おまえの大活躍はこれから始まるんだぜ。武者震いがするだろう? どこまでも走っていこうぜ!

さあ、鏡の前で得意のポーズをとって、こう呟きな。それがお前の新しい職業さ。

武者ランナー!