オオズに魔法がかかりますように

昨晩はどこか吹っ切れた気分になれたので、真夜中のドライブに出かけた。海岸沿いの好きな道で、かつてこの曲とともに、ひとり毎週ドライブしていたのを思い出せるほど、馴染みの道だ。 

神なび 新88カ所お遍路紀行

神なび 新88カ所お遍路紀行

 

 ところが、地元の霊能者のお墨付きのパワースポットは、先日来の大豪雨による土砂崩れのせいで、通行止めで辿り着けず。伊予のストーンヘンジともよばれる「白石ノ鼻」を、真夜中の海上で見つめたかったのに。

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(画像引用元:http://www.ritoumeguri.com/12200/

しょうがないので、「白石ノ鼻」の類似タレントを眺めていた。こちらも鼻筋がすっと通っていて綺麗だし、2018年度上半期のCM女王に輝くほどのパワースポットになっているのだそうだ。

(ちなみに、アイドルに疎い自分は、乃木坂と欅坂を混同して笑われたことがある。ただし、東京の坂には一家言があるので、淑女路線の乃木坂の対極に、セクシー路線に「最大傾斜」した「のぞき坂48」を結成することを提言したい)。

真夜中なのにライトを振っている交通誘導員に、港の前で引き返すように言われた。引き返すしかなかった。この記事で取り上げた高浜駅の横を通って、海沿いの駅で車を停めた。

この海沿いの駅は、最終回で視聴率32.3%を叩きだした国民的ドラマのロケ地だ。13:07から有名な「時刻表トリック」の別れの場面を見られる。思春期男子らしく、粋がってトレンディー・ドラマを遠ざけていた自分は、この名場面を初めて見た。

地元民の目で見ると、場面のつなぎの方向性がところどころ虚構化されているのがわかる。ヒロインの乗った電車は松山市街ではなく、なぜか広島へ行く港方面の電車だ。しかし、車窓の風景から判断すると、車内の撮影は松山市街方面の電車で撮られている。タイムリミットが近づいて、主人公が慌てて梅津寺駅まで走る場面は、梅の林の中を通ることはありえない。入場料を払って、遠回りしなければならないからだ。

不惑の年齢を過ぎた恋愛心理を知った目で見ると、女心を上手く描き出した別れの場面だと感じられる。

男はデータ重視で、女はイメージ重視。男は合理性重視で、女は感情重視。このコントラストが効いているので、女性の視聴者は感情移入しやすいのだろう。

脚本家の思う壺だと知りつつも、14:00以降の伊予の男の煮え切らなさには、心がダークみきゃんになってしまうのをとどめようもなかった。

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(画像引用元:https://www.pref.ehime.jp/h12200/mican-kanzume/darkmican.html

「駅で48分の電車まで待っているから、自分を追いかけるのなら追いかけてきて」とヒロインに言われて、本当に48分ぎりぎりまで考える男は、男としてなっちゃいないぜ。

あんな台詞を言われたら、男は傷ついた顔をして怒らなきゃいけない場面だ。

: どうしてだよ。どうして、あと30分も時間を取って、どこかへ行こうとするんだよ。そんな時間はいらないから、そばにいろよ。俺は今ここで言えるぜ。俺にはお前しかいない!

ルールやデータに従うことを望みがちな男に対して、女は男がルールを越えてでも自分を愛することを望みがちだ。どうしてそんなこともわからないのか。

追いかけてこない男に、ヒロインが未練を断ち切ろうとして、33分の電車で立ち去っていくのも当然だろう。駅のフェンスに結ばれたハンカチは、男を愛しているヒロインが、心で流している涙の象徴だ。

いけない、いけない。相思相愛の男女をどうすれ違わせるかが、ドラマの脚本家の腕の見せどころ。なのに、ドラマなのを忘れて、ついつい熱くなってしまった。

むしろ忘れてはいけないのが、ドラマの主人公が愛媛県松山市ではなく、南予大洲市の出身であることだろう。7:30くらいから、大洲での少年時代を、男はこう回想している。

: そいでさ、一年で一番俺たちが盛り上がるのが、台風の日なんだよ。

: 盛り上がるの?

: うん。この川なんかも決壊しちゃってさ、街中にサイレンが鳴り響いて、大人たちはみんな真っ青な顔してんだけど、俺たちはワクワクしちゃってさ。

: ふうん。

: 麦わら帽子なんか、ヒマワリにかぶせてさ、朝から晩まで駈けずりまわっていたんだ。

男のいう「この川」とは肱川のこと。ドラマでは他愛のない思い出話だが、数日前の豪雨で肱川は過去最高水位を記録したという。ニュース動画の道路冠水は控え目だが、検索すればはるかに水位の高い動画が見つかる。

市街地にある「大動脈」が床上浸水してしまったのも、衝撃度の高いニュースだ。大洲市は伊予の小京都とも言われる盆地の町。中心を走る56号線沿いに、生活用品を売る店が集中している。そこが床上浸水したとなると、例えるなら、サッカーの日本代表11人のうち8人が退場になったくらいの壊滅度なのだ。

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大洲市だけでなく、南予一帯に甚大な被害が出ているので、馴染みのある街が壊滅してしまった写真を見て、涙を流す知人もいた。一日も早い復旧を祈りたい。 

さて、大雨の被害と「類似タレント」で始まったこの記事は、自分の「類似論客」の紹介へとつなぎたいと思って書き出した。類似は主観的な判断なので、深読みはしないでいただけるとありがたい。ちなみに、これを書いている自分でも信じられないが、自分史を振り返ると「ディカプリオに似ている」とか「天使に似ている」とか、JKに言われたことがある。主観的印象論は人それぞれだ。  

 コミュニティー・デザイナーを名乗る山崎亮と、このブログの記事群に深い関わりがあるのだ。山崎亮の著書か経由で記事にしたのは、ブックガイド付きの充実した54の事例集のうち2つ。

 ソーシャルデザインは発展途上国だけに必要なものではない。私がお気に入りなのは、公衆電話ボックスをアートギャラリーにしたソーシャルデザイン。

 

 携帯電話の普及で不要になった電話ボックスを、電話会社がほとんど無料で地域住民に払い下げ、電話ボックスの中を「貸し切り写真画廊」にしてしまったのだ。 

 記事の中ほどまでスクロ―ルすると、QUEEN の名ギタリストのブライアン・メイも、このソーシャルデザインに賛同して、自身のお気に入りの写真を展示するギャラリーとして使ったのだとか。たかだかひとつの電話ボックスを生かしたことによって、そこが地域の観光名所となり、地元民の誇りの共有財産となり、地域経済も潤ったというわけだ。

 ソーシャル・デザインというと、最初は誰もが社会的なグラフィック・デザインを思い浮かべることだろう。その系統では、イ・ジェスキの反戦広告のブリリアントネスが光っているのは間違いない。

 

 上のようにの横長の長方形の反戦ポスターは、電柱に貼ると下のように銃口が自分へ向くようにデザインされている。そして英文も左右から貼り合わされて、この一文になる。

 

What goes around comes around.
自分がしたことは最終的に自分に帰ってくる

 

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広告で錯視によるインパクトを追及するジェスキらしい傑作だ。他に、手榴弾バージョンや戦車バージョンもある。 

残りは、特に意識していない問題意識の共有になるのだが、その数が半端ではない。

二人とも、というか、日本について考える全員が共有する出発点は、急速な少子高齢化と人口減少だ。

人口減少警告本三冊を斜め読みしたのが下の記事。河合雅司の問題意識が一番鋭い。ブログ史的に云うと、この記事から大衆の耳目を引くユーモアや言葉遊びを頻用しはじめた。

続くこの記事は、フランスの少子化対策の輝かしい成功の陰に、「人口≒国力」の国家間戦争があったことを指摘して、河合雅司の著書を足掛かりに日本の少子化の淵源がアメリカの占領政策にあるという「永続敗戦論」でまとめたもの。 

 現在、山崎亮の最重要の著書は、人口減少社会をどう豊かに生きていくかを示した『縮充する日本』だろう。

「参加」を鍵言葉にして、縮小していく都市を社会資本の充実で豊かにしていこうとする新書の主旨は、自分のブログではこの記事に近い。

 日本の各都市は、テクノロジーの進化に伴うスマート・シティ化と、人口減少によるコンパクト・シティ化の二つを、同時に進めていかねばならない。しかし、都市計画家という肩書の専門家をほとんど持っていないこの国は、あるべき都市像について、さほど多くの蓄積を持っていないように感じられる。新しい都市計画の立案とその実行は gdgd な緩慢さでしか進まないだろう。

 

 そう語るのは、都市計画に詳しい建築家の書いたこの本。一息で要約すると、 人口増加時代、日本の都市はスプロール状(虫食い状)に農地を都市化していったので、これから来る人口減少時代でも、都市はスポンジ状(虫食い状)に商業地や住宅地を低密化していくだろう。そのスポンジ状の穴のひとつひとつを、周囲の住民の社会資本とすべくコミュニティ機能を持たせた再開発をする(空き家再利用などの)スポンジ活用化が、長期間かかるコンパクト・シティ化の手前で進行するだろう、といった感じか。  

地元のアーケード街の再開発計画を枕にして、「多世代共生」「無縁社会」の鍵言葉で都市計画とコミュニティーを考えたのがこの記事。

そして、そのエリアマネジメントで重要視されるのは、成長期のような「商業施設としての最大収益化」ではなく、「社会資本と協働」だ。これらを施設完成によって供給するのではなく、街づくりそのものを通して培っていくことに、エリアマネジメントの主眼がある。

 

都市の再開発と社会資本が掛け算された領域を、一番短い言葉で呼ぶと「コミュニティ」ということになるだろう。

 

コミュニティは外的環境の変化に対応して、常に自身を変化させて、組み替えていかなくてはならない。コミュニティをどう変化させるかの方向性が、「多世代共生」というキーワードで語られることが多くなった。

 

その背景を語ることは、それほど難しくない。一つには、人口減少社会が単に人口が減っているだけでなく、凄い勢いで非婚化が進んでいることだ。「無縁社会」という言葉が流行したのは、2010年のこと。 

内閣官房オープンデータ伝道師の関治之(Code for Japan代表)に大注目して、彼の著書を待望しつつ、不正選挙を不可能とする投票計数機の開発を祈願した記事も書いた。公的機関のオープンデータへの注目は、まるかぶりだ。

これは以前から抱いている私自身の欲望でもある。彼の著書をどうしても読みたいのだ。

 

もしこのブログを読んでいる出版人の方がおられたら、「時代の最先端を行く」「実行力無限大」「実践経験豊富」「NASAで活躍なさった」「震災後の新しい生き方の体現者」関治之の新書をプロデュースして、世に送り出してもらえないだろうか。

 

愛読希望者でありながら、いきなり交換条件を提示してしまうようで恐縮だが、その出版によって関治之の真価が世に知られる幸福が訪れた暁には、彼主宰のハッカソンで、内閣官房オープンデータ伝道師の立場を最大限に生かしつつ、例えばブロックチェーン技術を用いて、選挙の投票計数機のソースコードが検証可能となるような「ベスト・ソリューション」を生み出してほしい。 

医療分野への住民参加という意味では、広島県呉市のデータヘルスの取り組みを紹介した。この事例はむしろ『縮充する日本』の第八章にあった方が良かったような気さえする。

昨晩「オープンデータ伝道師」という珍しい職業を見つけたので、どんな仕事をする職業なのか、調べてみたくなった。

 

すると、厳密にいえばオープンデータとは異なるものの、「各所に散らばっていた情報を標準化して集約し、データマイニングを通じて行政の向上を図る」という同じ方向性の取り組みをしている市が見つかった。それが、隣県なので何度も訪れたことのある呉市だった。

 

あれ? ネット上にはほとんど記事がない。実は、呉市はデータヘルス先進自治体なのだ。 

コミュニティデザインの源流 イギリス篇

コミュニティデザインの源流 イギリス篇

 

 山崎亮の著作を読んでいて良いなと感じるのは、背景にある社会思想のアカデミックな蓄積がしっかりしているところだ。彼が「師匠」と呼ぶラスキンの思想から、アクチュアリティーのある部分を引き出して、わかりやすくまとめている著作もある。

ラスキンから抽出した「人とモノの固有の価値を生かすこと、その仕事をする喜び」は反グローバリズムそのもので、時代の要請にぴったりと合った思想だ。

さらに、分厚めの『縮充する日本』で語られている事例研究の数の多さ、これまで踏んできた場数の多さが、山崎亮を信頼のおけるコミュニティー・デザイナーにしていることは間違いない。、最大限に広く取った同時代的視野から、衰退する地方都市の活性化を中心に、芸術祭や教育問題まで、よくぞここまで見聞を広めてきたなという研究蓄積への感動を感じさせてくれる。

日本では、今もこれからも、少子高齢化と人口減少と一億総シングル化が急速に進んでいる。ひとりアイディアソン・ランナーにも似た実力・経験ともに豊かな山崎亮が、次の四半世紀、社会のグランドデザインの方向性を打ち出していく中心となるのは、間違いないだろう。

もし自分が、その中心人物を遠くから見つめながら、その中心のそばにいくつか重要論点を書き加えることが許されるなら、①技術決定論への意識づけと、②グローバル ⇔ ローカルの二極への選択的アプローチの重要性だろうか。

山崎亮が参照しているシェアリング・エコノミーの参照項は、(有名な UBERAir bn b以外は)、wikipedia や 「伽藍とバザールLinux)」など、2016年の著作にしては、ひと昔のものに偏っているような印象がある。 

伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

 
ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか (ハヤカワ新書juice)

ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか (ハヤカワ新書juice)

 

それらの事例が古いから駄目というのではない。「wikipedia / Linux」と「UBER / Air bnb」の間に大きな差があることを、コミュニティー・デザイナーとして、いずれ視野に入れざるをえなくなると予想しているのだ。「wikipedia / Linux」がオンライン・オンリーなのに対して、「UBER / Air bnb」は都市に直結しているサービスだということだ。そして、付け加えるなら、「UBER / Air bnb」が外資の民間企業だという事実だ。

根拠のない外資脅威論を煽りたいわけではない。グローバリストたちが喉から手が出るほど欲しがっている外国国民へのラスト1マイルは、今や本当にすぐそばまで迫っている。

では、地方銀行はどうなるのか。昨晩も書いたように、地方銀行がどうなるというより、私たちの住む町全体、生活の基盤にある都市計画にまで、巨大企業は二度と引き剥がせない触手を伸ばそうとしている。

 

「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

(…)

よう、AMIGO! 落ち込みたくなくて、無理に陽気を装って快活に話しかけてはみたものの、相手が私たちを尊重した友人になってくれるとは限らない。AMIGOとは、Amazon, Microsoft, Intel, Google の頭文字をとったアメリカ発のグローバル企業の総称だ。

 

それに、AMIGO と話しかける相手がいない場合だってある。 仮に Amazon にサービスプラットホームを奪取された場合、私たちの日常生活はこんな感じになりそうだ。

Amazon 購入商品を無人店舗 Amazon Go で受け取れる、なんていうありふれた話ではない。話は消費者の生活の利便性向上にとどまらないのだ。顧客とのインタラクティブ・フェイス(双方向性の高まったインターフェイスのこと。いま造語した)をどれだけ拡大できるかに勝負をかけられて、上記のような生鮮食品販売に Amazon が進出した場合、Amazon がさらに取引業者の業種を拡大できることがポイントだと、泉田良輔は言う。

 

Amazonクラウド上で各社の経理処理を提供した場合、仕入れや売上等の経営データが集約され、人工知能により(かつてトヨタの誇った)ジャスト・イン・システムをいともたやすく実現してしまう。当然のことながら、設備投資や資金繰りに対して自動ローン機能が付与されることだろう。

 

入店時のドア開閉も自動、顧客認識も自動、決済も自動、品揃え選択も自動。すべて、自動、自動、自動だ。

 

そうなったとき、地方銀行は太刀打ちできるのだろうか? 未来遠視力の高さ随一のテクノロジーアナリストは、そんな恐ろしい問いを問うているのである。 

「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

 

ここでいう「下層採鉱」とはいま自分が作った造語だ。マルクスが、経済という下部構造が上部にある社会の諸要素を決定するとしたように、その市場を決定している基底層がある。垂直統合がゆっくりと崩壊し始め、上位層がオープン・サービス・マネジメントによって、解放されてしまったあとでは、より基底に近い下層を独占したものが市場競争に勝利することになる。

 

次の20年の名勝負になるだろう「Google vs トヨタ」では、泉田良輔はその「下層採鉱」が数層も下まで深化して、最終的に都市計画(!)にまで及ぶことになると主張する。自動運転車が安全に走るとかまだ走らないとか、全然そんなレベルの話ではない遠大な将来ビジョンを、 40歳代の GoogleCEO やテスラCEOやウォーレン・バフェットのような投資家たちが見据えていると警告するのだ。 

おそらく、地方自治体などの公共部門との連携は、コミュニティー・デザインが最も無難に成果を挙げられる領域だろうし、すでに成果も上がっている。

問題は、民間の領域に AMIGO な多国籍企業が進出してきて、都市の基盤部分を寡占しようとしはじめたとき、私たちがどうやって地域社会を守っていけるかという(グローバリズム下の)持続可能性を重視した社会デザインだと思う。

自分には明確なイメージが描けていないが、そこに農業や漁業や林業などの第一次産業が関わること、(オンラインのICT技術をフル活用しつつも)、地域内で資源や人材や労働を循環させるセミクローズなコミュニティー・デザインになることだけは、はっきりしているのではないかと思う。

信じられないことに、自分は連日連夜この記事を、集めてきた本をほとんど読まずに書いている。熟読してしっかりとした発言をしたいのだが、粗製乱造が目下の「使命」のようなので、批評眼に間違いやブレがあったとしたら、ご容赦願いたい。

 

 

あの歴史的名ドラマは見ていなかったものの、主人公が「カンチ」という名前だということは知っていた。最後に「ぼくの名前を呼んでくれよ!」とでも呼びかけて、

完治!

と、快気祝いへ持っていこうと思っていた。ところがドラマの原作を調べていると、「完治(カンジ)」という名前を駄洒落でズラして「カンチ」と呼んでいたらしい。他人の洒落に乗っかるのは、Stray Dazyarer として不本意だ。

急遽いまから、別の締め括りを考えることにしよう。

いや、正直に言ってしまおう。マリオとルイージの類似について駄洒落を書こうと思ったものの、あまりにもつまらないので辞めた。もう無理。

と、弱音をおずおずと差し出そうとした瞬間、インスピレーションが魔法のように降りてきた。

そうだ。エメラルドの都にいるオオズの魔法使いなら、志のあるミキャンの大器の人々に、災害の街が元通りになるような魔法をかけてくれるのではないだろうか。オオズの魔法使いが、真っ先にあの人たちの街に魔法をかけてくれますように。

そう祈っている自分は、あの名曲をもう一度耳にするだけで、気分が楽になれるから。

 

 

 

Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
虹の向こうのどこか 空の高みに
ある国が浮かんでいる
昔 子守歌でそう聞いたことがある


Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
虹の向こうのどこかに
空が真っ青で
本気で信じた夢が
本当に叶う場所がある


Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
いつか星に願おう
すると目を覚ますと
わたしは雲を遠く下に見おろしていて
悩みのあれこれがレモンの雫のように
煙突や屋根の上へぽつりぽつりと溶け落ちていく
そういう場所でわたしはあなたとめぐりあう


Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?
虹の向こうのどこかへ
青い鳥が飛んでいく
虹を越えて飛んでいく二羽の青い鳥
そうならどうして、どうしてわたしたちが
二人で虹を越えられないことがあるだろう 

恐怖の襞をレース刺繍に編み直して

スイスのザンクトガレンへ行ってみたい気がしている。そこは何世紀も前から「手編み(!)」のレース刺繍が栄えた街で、街にある織物美術館で刺繍の歴史をひもといてみたり、ベッドルームのレース尽くしのリネン類を堪能したりしてみたい。

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(画像引用元:Design is fine. — Gros Point de Venise lace, 1651-1675. Textilmuseum...

そう書くと、いかにも少女趣味で気恥ずかしくなる。でも、こっそりこのブログの読者だけに打ち明けちゃおうかな。

レースの下着は一枚も持っていないよ!

ほっ。

全員が安心したにちがいないところで、記事を前へ進めることにしたい。

映画としては二流だったような記憶しかない。でも主人公の美少年ぶりは、群を抜いているから、どこかで跳ねるに違いないと思った。環境性能に魅かれて、プリウスを愛車にしているディカプリオの話だ。

あの美少年ぶりから約10年後、飛行機王ハワード・ヒューズを演じるなら、確かにこの人しかいないと思わせるハマりぶりだった。しかし、アカデミー主演男優賞は逃した。

上の字幕なしの予告編ではカットされているが、富と名声と美女を手に入れたアメリカン・ドリームの象徴だったハワード・ヒューズは、晩年になって強迫神経症を発症してしまう。

50年代にはラスベガスのホテルを本拠にし、一時はフラミンゴ・ホテルの一翼を借り切って生活をしました。1966年に発行されたジョン・キーツによる伝記 『ハワード・ヒューズ』には、フラミンゴ・ホテルでの生活の一端が、下記のように描写されています。

  • 自分の部屋の両側を空室にし、メイドのサービスを禁じた。
  • プライバシーを守るため、モラルが高いことで定評のあるモルモン教徒の男子学生を配置し、身辺を警護させた。
  • タオル、シーツなどは、それらの学生が本人の部屋の外に置いた。
  • 本人の希望に応じて毛布を持参した学生によれば、ハワードはそれを「細菌を防ぐために」と、窓にかけていたという。

小さなことが気になるあなたへ/OCDコラム>第14回

 ディカプリオは役作りのために、強迫神経症の患者と一緒に生活して、同じ症状になりきろうとした。ここが一流の役者の凄いところで、実際に似たような症状を発症してしまったらしいのだ。症状を消すための集中的なリハビリとセラピーには、三か月もかかったという。 

脳科学は人格を変えられるか? (文春文庫)

脳科学は人格を変えられるか? (文春文庫)

 

ちなみに、恐怖や不安を(暴露療法以外で)半永久的に消せることが、脳科学の研究で判明している。

(英語の自動生成字幕のみ)

簡単に要約すると、恐怖や不安などの記憶を呼び出したとき、その感情の記憶は6時間くらい「柔らかい」のだという。「柔らかい」うちに、恐怖や不安に快適や幸福な様相と関連付けて「上書き保存」してしまえば、その記憶は更新できるのだという。

脳科学は人格を変えられるか』というタイトルは何とも刺激的だ。脳が解明されていけば、脳にAIアタッチメントが取りつけられて、人間とAIの融合が進んでいくにちがいない。

そんな持論を抱きつつ、同じ方向性の先を走っている先人たちをフォローしたのがこの記事。

イーロン・マスク流の「AI脅威論」に自分が共感できないのは、すでにテクノロジーと人間の融合が進行しつつあるからだ。

ところが、2014年に翻訳されたエレーヌ・フォックスの『脳科学は人格を変えられるか』は、「瞑想で脳の構造が変わることを脳科学が突き止めました」というものだった。脳を物理的に改変できるのは、瞑想などによる心の状態であり、脳科学ではなかったのだ。

調べてみると、原題は「Rainy brain, sunny brain」だったので、邦題が mislead だったか、自分がmisread したかどちらかだろう。ただ、個人的に、たまたま今日「あなたはレイニー・ブレインだから、世界のあらゆることに傷ついてしまうの」という一節が心に響いていたところだったので、(ありふがとうございます!)、一種のシンクロになったのが嬉しい。

本当は「That's depends!(状況次第です!)」と返答したいところだが、最近さすがに疲れてきたみたいだ。早く自分の心に太陽の光を招き入れたいところだ。

(折り紙でも簡単に作れるらしい)

おやおや。エレーヌ・フォックスの本には、このブログで何度か書いてきたことが含まれている。どうやら自分もいっぱしの「農家が苦痛」になれたということだろうか。と、「脳科学通」を誤変換しているようでは、まだまだか。

フォックスは「サニーブレインとレイニーブレインの黄金比は3:1」だとしている。ポジティブ心理学の知見を導入しているのだ。自分の記事はこちら。

書名だけを読んで 、よくあるポジティブ・シンキング自己啓発書だと勘違いしないでほしい。

バーバラ・フレドリクソンは社会心理学者。「3:1」というポジティブネスとネガティブネスの最適比率は、厳密な研究結果から算出されたものだ。正確には「2.9013:1」だったという。

フォックスはまた、こうも述べる。

環境が変われば遺伝子の発現度も変わり、脳が物理的に変化する。ならば、科学が検証した様々なテクニックで脳を再形成してやれば、抑鬱や不安症を治療して、人生を変える可能性があるかもしれない。

これは、日本の遺伝子研究の第一人者である村上和雄と同じ主張だ。自分はこうまとめた。

  • 思い切って今の環境を変えてみる
  • 人との出会い、機会との遭遇を大切にする
  • どんなときも明るく前向きに考える
  • 感動する
  • 感謝する
  • 世のため人のためを考えて生きる

遺伝子研究というよりは、自己啓発本に近い記述が並んでいる。しかし、実際の医学研究でも、笑いが糖尿病患者の血糖値を劇的に低下させたという論文を、厳しい査読を経て、サイエンス誌などに海外の医学研究誌に掲載したりもしている。笑いが免疫を高めるところまでは、医学的に到達しているのだ。

その先に並んでいる上記の6項目が、とても興味深い。それは根拠のない徳目リストではなく、医学的な状況証拠に満ちているのだ。

例えば、人間の遺伝子が全体の5~10%しか使われていないという事実、発ガンが「発ガン遺伝子オン+ガン抑制遺伝子オフ」の二つのスイッチングによって生じているという事実は、きわめて重要だ。この生死をわけかねないスイッチングを行っているのが、①物理的要因、②化学的要因、③精神的要因なら、そのどれもが重要であることも間違いないだろう。 

そういうわけで、今晩はフリン効果が脳科学の観点から「あり」なのかを、調べてみたくなった。フリン効果と新世代の倫理意識の高さが結びついているという仮説が、ずっと気になっていたのだ。

 ただ、シンガーのいう「効果的な利他主義者」が、フリン効果によって出現した新種族ではないかという説には、プリン愛に生きる男として、強い説得力を感じてしまった。

 心理学者のスティーブン・ピンカーは「論理的能力の向上は倫理力も向上させた」と述べているので、不断に続く人類の脳の進化が、かなり短期的に人類の倫理観を変えつつある可能性は充分にありそうだ。

 新しい世代のあなたが、新しい頭で、『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』が何かを、考え直してみてはどうだろうか。 

 自分も含めて多くの人々が、IQが生得的な知性であり、その値が不変だと勘違いしてリうのではないだろうか。IQは訓練や環境的要因でどんどん変化することが判明している。つまり、フリン効果は、20世紀中盤からの情報化社会の発達と社会の複雑さの増大によって引き起こされたと考えて間違いないというのだ。 

オーバーフローする脳―ワーキングメモリの限界への挑戦

オーバーフローする脳―ワーキングメモリの限界への挑戦

 

 面白いのは、そのIQを訓練するコツとして、先ほども出てきた瞑想(マインドフルネス)に加えて、フロー体験が挙げられていることだ。

低すぎる場所にあるコントロール対象(自分が簡単にできてしまうこと)と、高すぎる場所にあるストレス対象(難しすぎて手の出ないこと)との中間に、夢中でワクワクしながら没入できるフロー対象がある。そこでフロー体験をしているときに、人間のワーキングメモリは向上していくのだという。

これはほとんどのアスリートが日常的に行っていることだろう。自らの身体の細部をどう連動させるかを 、簡単すぎず難しすぎずの範囲で追求するのが、アスリートたちのトレーニングの実態に違いない。 

実は、自分の本当の関心は、フリン効果の少し先にある。高度情報社会のせいで、後天的にIQが高まったという話は、わかりやすすぎるし、ドキドキが少なすぎる。ひょっとしたら、人類が集合的に遺伝子上の進化を遂げつつあるのではないかという仮説の方に、強く惹かれてしまうのだ。

(和訳は下記記事より引用させていただきました)

研究者たちは、アルコール分解を助けるためにヒトに通常存在するアルコールデヒドロゲナーゼ(ADH / アルコール脱水素酵素)と呼ばれる一群の酵素が、酵素活性を増加させる遺伝的変異を見出し、その代わりに「アルコール摂取に不利な物理的応答」をもたらすことを発見した。

この場合、アルコールが効率的に分解されないため、アルコールを飲んだ人は気分が悪いとだけ感じ、さらに飲み進めたりすることはなく、あるいは、アルコール依存症になるような飲み方となることもほぼなくなる。

この遺伝的変異は、1つの集団の中だけで見いだされたものではなく、4大陸のそれぞれ異なる場所の 5つの集団において観察されたもので、ここから、その変化が遺伝子上の遺伝的体質の産物であるとは考えにくかった。(※訳者注 / このことは特定の土地や民族の固有の遺伝とは関係ない可能性が高いということ)

 大学の研究者が丁寧に科学と非科学を分別しながら、有名なサルの芋洗い現象を解説している。

サルのイモ洗いは、アメリカの思想家ケン・キース・ジュニアが書いた『百番目のサル』という著作によって、本来とは違う形で世界の人々に知られるようになった。

いわく、日本の幸島で、イモを洗って食べる習慣がサルの間に広まった。99番目まで徐々に増え、ちょうど100番目にまで達したとき、不思議なことに、遠く離れた場所のサルたちが、いっせいにイモを洗うようになった。あくまで架空の物語で、事実ではない。しかし世界中でベストセラーになった。

本のテーマは核廃絶運動だった。人間の意識は共有し得る、表立って運動しなくても、深く思いをめぐらし、それを伝えていくことで、あるとき核は廃絶されると説いた。幸島のサルの物語は、そうした集団的意識をもとに反核運動を進めるシンボルとなった。 

動物生態学の研究を「非科学的」なフィクションに改変した『百番目の猿』は、80年代の著作だった。その象徴的な虚構が、10年代の末に、「科学的」な遺伝子研究によって傍証を得たのが面白い。

時に次元上昇とも言われる「人類の集合的進化」に、これからどんどん科学の解明のメスが入っていくことだろう。

少なくとも、自分の脳内にある恐怖や不安は、記憶を手編みで編み直すことによって消せることを、脳科学は教えてくれている。そうなら、私たちは自分を取り巻く世界を、さらに希望の光あふれるものに編み直すことだって、できるはずなのだ。

あたかも、悲惨きわまりない苦境を希望あるものに編み直そうとするかのように、民族に伝わる伝統の刺繍を続けているパレスチナの女性たちと、彼女たちを支援する日本のNPOの活動を、この記事で紡いできた文脈の締め括りの珠結びとしたい。

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2017年に訪れた時は、10年間完全封鎖が行われていたため、2001年から全く風景が変わっていませんでした。銃撃を受けていた後や紛争の爪痕があちこちに見受けられて、状況の変わらなさに心が痛みましたね。ガザ地区は、流通が制限されているので情勢によって左右されてしまうというのが今でも支援をする上で難しい点です。

(…)

「かわいそうだから」ではなく「素敵な商品だから」と刺繍の良さを感じて購入して欲しいです。

(…)

アメリカのエルサレムへの大使館移転により起きたパレスチナ人のデモへの攻撃により多くの死傷者が出る中、ガザの現状をより多くの人々へクラウドファンディングを通して知っていただける「伝える」ということにも大きな意味があるはずです。 

 

 

 

 

チョコの再デザインは偶然の音楽を聴きつつ

 アメリカの人気作家ポール・オースターについて、ほとんど書いてこなかった。世評の高いニューヨーク三部作の起源が、フランスの前衛小説にあったことを指摘したくらいだ。

「ミュージシャンズミュージシャン」が存在するように、同じ小説家から支持される小説家「ノベリスツノベリスト」も存在する。一般の人々が逆立ちして読んでも面白くないロブ=グリエだが、オイディプス神話の脱構築的趣きのある『消しゴム』は、大西洋を渡ってポール・オースターのニューヨーク三部作へ影響を及ぼしている。 

最近になってようやく読んだ『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』は、オースターの既読小説群の中で一番面白かった。といっても、ラジオで呼びかけた「短い実話」をオースターが編纂した本なので、厳密には小説とは言えない。 自分は下の掌編小説の材料に使わせてもらった。

ちなみに、『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』の中には、その邦訳直後に小説が書かれ、のちに映画化された『博士の愛した数式』と同じ趣向の実話が収録されている。

恋仲が壊れそうだったゲイ・カップルの片方が、「友愛数」で編んだ手編みのミトンをクリスマスに贈る話だったと思う。小川洋子研究にいそしむ学生は、確認しておくべき影響関係だろう。検索してみると、作家本人がこのエッセイ集で言及しているようだ。 

博士の本棚 (新潮文庫)

博士の本棚 (新潮文庫)

 

 オースターにがっかりさせられたのは、旧約聖書の怪物を意味する『リヴァイアサン』という名の小説が、結局は男の「不治の浮気癖」を描いた小説だとわかったとき。もっと凄いものが出てくるのかと思ったら、『リヴァイアサン』ではなく「リビドーさん」だったのだ。

その前に書かれた『偶然の音楽』という小説は、何よりも書名が美しい。偶然手に入れた赤のサーブで、アメリカの夜をただただ疾走するロードノベルだったと思う。映画では、赤のBMWになってしまっているが。(0:46くらいから)。

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(画像引用元(1/18scale):http://dc.kyosho.com/ja/otm181.html

今までに赤い車を買おうと考えたことはない。けれど、近未来にはルーフが赤い車が今よりぐっと増えるかもしれない。そんなことを考えたのは、数か月前にSCIENCE誌で新しいタイプの太陽光発電ガラスが紹介されていたからだ。

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パネルではなくガラスなので、建築物に上乗せするのではなく、融合した形で活用される。こんなにもカラフルなのは、太陽電池が色素増感型で、植物が光合成するときに葉緑体を使うように、色素が光を吸収して放電する仕組みになっているからだ。

エネルギー変換効率は、シリコン製太陽電池にやや及ばないものの、約1/5のコストで量産できるらしい。コスト面さえクリアできれば、建築物には壁面とガラス面の両方が必ずあるので、導入例は飛躍的に増えそうだ。

世界のエネルギーの40%が建物で消費されているのだから、むしろ美観やデザイン性を向上させながら、建物にエネルギーを生産させようとするのは、自然なデザインセンスだ。2019年から市場流入が始まる見通しだとか。

デザインは何も建築や製品のデザインに留まるものではない。今日調べていて感心したのは、「The girl effect」という発展途上国の少女支援プログラムだった。簡単な英語しか出てこないので、ぜひ三分間視聴してみてほしい。

ソーシャル・ビジネスの世界第一人者は、その著書で堂々と『貧困のない世界を創る』とぶちあげるが、彼が主導するマイクロ・ファイナンスだけで実現できる話ではない。ムハマド・ユヌスが小さいのではなく、問題が世界大に大きすぎるのだ。 

貧困のない世界を創る

貧困のない世界を創る

 

むしろ、子供でも読めるようなわかりやすい文体で、地球が抱えている問題を30の論点に整理したこの本の方が、ある意味では良心的だ。 

世界から貧しさをなくす30の方法

世界から貧しさをなくす30の方法

 

 それでも、あれこれの論点を行ったり来たりしているうちに、問題が大きすぎて、深刻すぎて、どの論点を優先してどんな行動をとったらよいかわからなくなる。そんなとき、「The girl effect」のデザイン能力の高さを思い知るのだ。アフリカの貧困が集中しているのが少女であることを見抜き、少女たちを救うことが最も効率よく貧困問題を解決することを、わかりやすくセンスよく人々に訴える。

実際、15歳までに出産して、充分な教育機会もないまま、エイズに母子感染して死んでいく女性たちが、地域の貧困をどれほど加速させているかは、想像に難くない。少女たちがまともな教育を受けて、自分の人生と身体を、男性による支配や早すぎる出産やHIV感染から守ることができただけでも、インパクトは大きいだろう。その地域にムハマド・ユヌス流のマイクロ・ファイナンスがあれば、少女たちはちょっとした行商をして男性顔負けの経済力まで得られる。エンパワーメントの対象として、少女が最高のポイントなのは間違いない。

そのように問題分析がしっかりとしているだけでなく、それを小学生でもわかるように直観的なグラフィックで説明できるデザイン・センスを、やはり讃えずにはいられない。 

今やデザインは、地球を再デザインする意志なしには成立しないと断言してもかまわないだろう。

   Why design now?  なぜ今デザインなのか? この問いへの答えとして、世界のデザイナーたちは(…)社会と環境のさまざまな問題に取り組む。どうすれば世界にクリーンなエネルギーを供給できるか。人と物を安全に効率よく運べるか。どうすれば地域社会で安全で持続可能な環境の中で暮らせるようになるか。原料を取って廃棄物を捨てるという開放系を閉鎖系に転じられるか。どうすれば世界中の人々が富を分かち合い、生み出せるようになるか。

なぜデザインが必要なのか――世界を変えるイノベーションの最前線

なぜデザインが必要なのか――世界を変えるイノベーションの最前線

 

というわけで、この記事を書きながら少し甘いものが欲しくなったので、美味しそうなチョコはないかと検索していたら、日本代表に捧げたくなるチョコレートが売っていた。シュートの軌道がやや甘くなりそうではあるものの、shooting star と同じく、キックした直後に三回願いごとをすれば、きっとゴールは決まるのではないだろうか。

けれど、今やデザインは地球を再デザインすること。大事なのは、カカオ豆の生産体制から消費者の口に届くまでのトータル・デザインであるにちがいない。

デザインがまずいと、ちょっとした「事件」で世界第二位のカカオ輸出国が純輸入国に転落してしまうことになる。ブラジルで起こったチョコレート・テロ事件には、典型的なほろ苦さがあった。

 1989年、ブラジル最大のカカオ大農園で起こった天狗巣病は、瞬く間に伝染が広がり、約10万本のカカオの木を切り倒して、その州のカカオ大農園を壊滅させた。ブラジルのCEPLAC(カカオ農園プラン実行委員会)が、カカオの栽培を優秀な単一品種に頼っていたことが、最悪の結果を招いたのだった。

モノカルチャーの危険」

そう断言したくもなるが、どこか不思議な証拠が次々と見つかりはじめた。次に感染源となった大農園で、風通しの良いところにある未感染の木に、感染したカカオの枝がロープで結わえ付けられていたのだという。

バイオ・テロには歴史がある。第二次世界大戦中のフランスはドイツのジャガイモを壊滅させるべく、疫病菌を培養していた。アネリカは日本のコメを壊滅させるべく、イネイモチ病菌を培養していた。人口地震と同じく、天災に見せかけた人災は、相手の敵愾心を喚起することなく損害を与えられる戦略的兵器なのだ。

ブラジルの或る州のカカオ大農園が壊滅してから17年後、その「人災」の犯行を自白した男がいた。CEPLACの生物技師ら5人は、左派的動機からカカオ大農園の「農地解放」を実現すべく、カカオ産業壊滅を狙ったテロを起こしたのだった。 

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち

 

バイオ・テロは証拠が残りにくく、犯人を特定しにくい犯罪だ。それもあって、天災もあって、地域の農産物が脆弱な状況にあるのなら、品種の保存や多品種化などの保守体制は不可欠だ。

書名の『世界からバナナがなくなるまえに』は、20世紀半ばまでに、輸出用バナナの品種が世界で遺伝的にひとつになったという極端なモノカルチャーの危険を説いている。

この進化生物学者が言うように、19世紀に主流のバナナ品種を壊滅させた病原菌が進化して、アジアから東アフリカへと広まり、バナナ栽培の盛んな中米へ近づきつつあるのは、確かに不気味だ。

では、『世界からバナナがなくなるまえに』、私たちはどうすれば良いのだろうか。シリア内戦の最大の激戦場となったアレッポは、街並みの多くが灰燼に帰した。

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しかし、この内戦の中、シリアの農業当局の数人が、国家財産である種子バンクを国外へ持ち出すことを決意する。87%の種子を複製して海外へ送付すると、残りの種子とともに激戦地アレッポを離れて疎開した。シリア農業の出発点たる「種」を守る戦いは、2014年を経てもまだ続いている。

国家の基層には一次産業がある。人々の生命に直結する「種」を守ろうとする内戦下のシリアの人々と、無知なまま種子法廃止を受け入れてしまうこの国の人々とは、白と黒くらいのコントラスト差があるような気もする。

(種子法廃止については、上の記事をどうぞ)

いや、モノトーンの色眼鏡を外して、赤のSAABくらい鮮烈な色をイメージしながら、もう一度チョコレートを見てみよう。 

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ガーナ共和国の子供たちが、嬉しそうに森永のチョコレートを持っている姿が微笑ましい。

デザインが地球を再デザインすることなら、チョコレートの生産のプロセスで最も再デザインしなければならないのは、児童労働だろう。

上の記事でも言及したように、この分野を走っているNPOはACE。菓子メーカーと協働した豊かな実績を携えて、頼もしくも「2025年までに世界中のすべての児童労働をなくすこと」を目標に掲げている。

21世紀の話だとは信じられないかもしれない。子供奴隷船が漂流している現場を抑えられたことがあった。「これはお伽噺ではない」という丸山真男の一句がよみがえってくる。できればお伽噺であってほしかった。

 2001年4月17日未明のこと、西アフリカのベニンの港町「コトヌー」に一隻の船が帰港した。船はナイジェリア船籍の「MVエティレノ号」だ。全長60mほどの小さな船舶だが、その船の中には23人の子どもがおり、みな病気で食糧や水も不十分な状態だった。

 この船が3月30日に同港を出港したとき、多数の子どもたちが積み込まれたというのだ。その数は130人とも180人とも伝えられた。「ユニセフ(国際児童基金)」など諸団体は警告を発した。「その子どもたちは近隣諸国の農場や家庭に人身売買される『奴隷』である」と。

 このため船は近隣諸国で入港を拒否されてさまよっていたという。帰港を待ち構えていたベニン政府、警察、ユニセフなどの関係者はくまなく船内を捜索したが、船内で確認できた子どもは23人だけであった

 その後調査がおこなわれ、実際に人身売買が確認されたのは13人とされた。親には子ども1人につき14ドル相当のお金(当時のレートで1400円)が支払われていたという。しかし100人以上の子どもの消息は不明のままだ。

 子どもたちはどこに消えたのか。 

上記のような奴隷同然の人身売買や児童労働の問題だけではない。世界の富の偏りは、とてもまともなものだとは思えない。

1999年以来10億人近くが極度の貧困状態から脱したが、2013年の時点で、1日1.9ドル未満で家族と暮らす人は7億6,700万人を数え、その数を上回る人が飢えと戦っている

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触れると死ぬかもしれない電気製品の廃棄物の山。8歳になるファティは保管の子供たちと同様に有害ごみの中から何かお金になるものを見つけようと必死になっている。これも生きるためだ。見つけた金属のかけらは頭に載せたバケツに入れる。数年前に患ったマラリアが痛むので涙が止まらない。でも生きるためにこの仕事を続けなければならない。 

偶然、発展途上国に生まれ落ちて、偶然、まともな教育や仕事も得られず、偶然、飢えた悲惨な境遇で死んでいく子供たち。

このガイア地球で鳴り響いている「偶然の音楽」には、もの悲しい旋律もあるのだなと思い知らされる。ソーシャルビジネスの旗手ムハマド・ユヌスのように、『貧困のない世界を創る』とはとても言えないし、ほとんど何もできないけれど、「偶然の音楽」に載せて、ひとことだけ呟いておきたい。

きみたちのことを忘れずにいて、時々思い出しているよ。

 

 

 

アフリカ系アメリカ人の悲惨を歌った歴史的名曲)

Southern trees bear strange fruit,
Blood on the leaves and blood at the root,
Black bodies swinging in the southern breeze,
Strange fruit hanging from the poplar trees.

南部の木は、奇妙な実を付ける
葉は血を流れ、根には血が滴る
黒い体は南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木々に垂れている

 

Pastoral scene of the gallant south,
The bulging eyes and the twisted mouth,
Scent of magnolias, sweet and fresh,
Then the sudden smell of burning flesh.

勇敢な南部(the gallant south)ののどかな風景、
膨らんだ眼と歪んだ口、
マグノリアモクレン)の香りは甘くて新鮮
すると、突然に肉の焼ける臭い

 

Here is fruit for the crows to pluck,
For the rain to gather, for the wind to suck,
For the sun to rot, for the trees to drop,
Here is a strange and bitter crop.

 

カラスに啄ばまれる果実がここにある
雨に曝され、風に煽られ
日差しに腐り、木々に落ちる
奇妙で惨めな作物がここにある。

ビリーホリデイ「奇妙な果実」:Billie Holiday – Strange Fruit – マジックトレイン・ブログ

ベスト・パートナーな椅子にしようっと

大連の郊外の或る橋を、花婿が花嫁を抱えて渡り切ると、二人は幸福に暮らせる。

そんなジンクスのある橋を、中国を旅行したときに通りかかったように記憶していた。検索してもすぐに出てこないということは、記憶違いかもしれない。 

さらば、わが愛?覇王別姫 [DVD]

さらば、わが愛?覇王別姫 [DVD]

 

よく覚えているのは、カンヌで金獅子賞をとった映画が素晴らしかったので「京劇を見たい」と現地知人に希望したものの叶わず、「運動したい」との希望を叶えてもらって辿りついたゴルフ場でのこと。

ゴルフ経験はほぼゼロではあったものの、それなりに軌道を描いて小さな白球を飛ばしていると、アルバイトの女の子に中国語で話しかけられた。ジェスチャーから判断すると、もっと身体をかぶせて、ダフるのを怖がらずに打てと助言してくれているらしい。アドバイス通りに打ってみると、確かに白球は遠くまで飛んだ。

ナイス・ショット!

 中国人の女の子が明るい声をあげた。島国でも大陸でも、そういう瞬間の掛け声は同じらしい。彼女が「ファー!」という悲鳴をあげなかったのは何よりだ。

女の子は喝采を私に送ったあと、折り畳み式のディレクターズ・チェアに座った。

その緋色のナイロン製の椅子が、炎の曲線をあしらっていて、とても格好良かった。デザイン好きな自分は、白球の鮮やかな軌跡より、むしろその緋色の椅子の方をよく憶えている。

椅子に座っていると寿命が縮むという研究結果もある。世界一椅子に座っている時間が長い日本人のひとりとして、せめてどの椅子に座るかくらいはしっかり選びたい。どんな椅子にしようかな。そう呟きながら、椅子のカタログをめくっていた。

今朝起きてから、あなたの身体が一番多く接触した固体は何だろうか?

たいていの人は衣服が最初に来て、次に来るのが、椅子ということになるだろう。椅子の歴史を調べる機会が偶然過去にあったので、「椅子史」における2つのエポックメイキングな作品を学ぶことができた。どちらも1950年代初頭の作品。

1つは、アルネ・ヤコブセンの「アント・チェア」で、合板の成形技術の進化により、背もたれと座面を同じ板で成形できるようになった。いたるところでレプリカを見かける。おそらく世界でもっとも有名な椅子なのではないだろうか。

もうひとつがマルコ・ザヌーゾの「レディ」で、ウレタンなどの新素材の開発により、それまでの木椅子にはなかった革新的な座り心地の柔らかさを実現した。

上の記事で言及したシングルチェアもいいが、もう少し横幅が長い「長椅子」、この島国で「ソファー」と呼ばれる椅子にも、興味がある。 

フロイトの弟子と旅する長椅子 (BOOK PLANET)

フロイトの弟子と旅する長椅子 (BOOK PLANET)

 

 フランス語で書かれているこの小説の長椅子とは「カウチ・ソファー」のこと。単なる家具ではなく、そこに患者を横たわらせてするカウンセリング行為の象徴になっている。 

というわけで、「心の解きほぐし」と「ソファー」が結びついたところで、今晩はずっと前から読みたかったパートナーシップ本に目を通すことにした。数か月前に、リスペクトしている或るスピリチュアル・リーダーに勧めてもらったことが(ありがとうございます!)、気に懸かっていたのだ。著者名は忘れてしまったものの、二人掛けのラブ・ソファーの表紙が記憶に残っていた。 

ベストフレンドベストカップル (知的生きかた文庫―わたしの時間シリーズ)

ベストフレンドベストカップル (知的生きかた文庫―わたしの時間シリーズ)

 

恋愛指南本は恋愛小説の下地作りだと思って、かなりの数を読みこなしてきた。パートナーシップ本はまだ読み始めたばかりだ。この著者も含めて、どの「流派school」が良いのか悪いのかのジャッジなしで、とりあえずいろいろな school を覗いてみようという程度の学童的好奇心で読んでいる。誤解が生まれませんように、神様。

書名に惑わされずに、赤のソファーの続編が紺のソファーだと思って読むといいと思う。といいつつ、自分がすっかり惑わされてしまったのは、訳者の名前。てっきり同姓同名だと思っていた。

つい先日、『戦場のメリークリスマス』に言及したばかりだと思っていたら、監督ご本人だったのですか! こんなお仕事もなさっていたのですか! と驚きの声をあげたものの、今や赤と紺のラブ・ソファーとなった監督のディレクターズ・チェアは無人のまま。渚から吹き上げてくる浜風が過ぎていくばかりだ。R.I.P.

そのように書かなければ話題にならないのかもしれないが、1992年に書かれた割には、「男はこう違う」「女はこう違う」のジェンダー・バイアスが強めの印象だ。しかし、背骨はしっかりと垂直に立っているので、まずそこから、時折り自分の言葉に直しながら、拾ってみたい。 

内なる異性―アニムスとアニマ

内なる異性―アニムスとアニマ

 

ジョン・グレイがわかっているなと感じさせる点は、男性の中の女性(アニマ)、女性の中の男性(アニムス)にも、章を割いてきちんと説明しているところだ。単なるユングの受け売りに見えるかもしれないが、なにしろ最新の脳科学がそれを実証してしまったのだから、これが正道というほかない。

今日は大雨のせいで軒並み図書館が臨時休館。唯一開館していた地元私大の図書館で「日経サイエンス」を引っくり返していたら、半年前に「モザイク脳」が特集されていた。このブログでは先月記事にした。

このあたりの「性モザイク脳」の事情を、自分の言葉で例え直すとこうなる。

 

奇数(=男性)

偶数(=女性)

小数点以下あり(=LGBT

 

上のようなごくシンプルな認識が、性指向の一般的なイメージだと思う。ところが、実際は計算式の右辺にある数値だけでなく、多くの未知数を含む複雑な左辺を伴っている。

 

a×b×c×d×…=奇数(=男性)

a×b×c×d×…=偶数(=女性)

a×b×c×d×…=小数点以下あり(=LGBT

 

多項式の一角が変わると、計算結果も変わってしまう。計算結果を決めるのは遺伝子情報だけではない。特に胎児期の環境的要因も大きく影響する。同じ人間の中でも、20歳、40歳、60歳ではホルモンバランスが変わるので、セクシュアリティは変わる。例えれば、同じ偶数でも12から14へ変わってしまう。

私たちがしばしば絶対視しがちなセクシュアリティーは、脆弱で移ろいやすいものだというのが、最新の脳科学からの答えなのだ。

[引用者註:誰もに備わる] 男らしさと女らしさの両面を同時に発達させるには、第一に思いやりを受け、信頼されること理解されること受け入れられること尊重されること、そして評価されることを必要とする。この豊かな愛情と支えがない場合は、幼いうちから、さまざまな度合いで自分を抑圧するクセがついてしまうものだ。 

ジョン・グレイが推奨するのは、男なら男らしさだけでなくアニマ(内なる女らしさ)も、女なら女らしさだけでなくアニムス(内なる男らしさ)も、人生を通じて同時に発達させることだ。

その同時発達に不可欠なのが、グレイの七つの虹要素。上の引用でゴチック化した6つに、愛を加えたものが、その7つの虹要素となる。もちろん男女ともまったく同じだ。

  1. 愛情
  2. 思いやり
  3. 理解
  4. 尊重
  5. 評価
  6. 受け入れ
  7. 信頼

では、ここまでまったく同じなのに、どうして男女間ではあんなにも行き違いや摩擦が起こるのだろう。グレイの説明では、7つの虹要素におけるランキングが男女で違うのだという。

女性が求める価値のベスト4は、こんなランキングになっている。

  1. 愛情
  2. 思いやり
  3. 理解
  4. 尊重

男性が求める価値のベスト4は、こんなランキングになっている。

  1. 愛情
  2. 信頼
  3. 受け入れ
  4. 評価

 自分の言葉で言うと、というか世間一般で言われている言葉に置き換えると、

  • 女性は(与えられる)愛情で生きていく。
  • 男性は(与えられる)プライドで生きていく。

ということになりそうだ。

女性の愛情希求、男性のプライド希求のコントラストをくっきりと示しているのが、男女が相手にしてほしいことリストだ。

これも社会勉強だと思って読み通したが、女性が男性にしてもらいたい愛情表現は、98項目(!)もリストアップされている。自分がおかしくてくすくす笑ってしまったのは、以下の三つ。

25:もし、彼女が靴下を洗おうとしているなら、彼女の手に渡る前に裏返しに脱ぎ捨てた物を元の状態にヒックリ返して戻しておき、彼女がそうする必要のないようにしておく。

61:壊れたものを修理する強力接着剤を買ってくる

89:ピクニックを計画する 

25の靴下問題は、1992年の時点でこの「法」を確立した早さに注目したい。日本でソックス法が施行されたのは、2002年のこと。そんなに早くから脱いだ靴下を裏返していたとは。グレイの先見の明に唸ってしまった。

61については「修理しなくていいのか?」、89については「実施しなくていいのか?」 という問いが、どうしても頭から離れない。きっと「97:この『98のリスト』に加える項目が無いか彼女に聞く」と、まず間違いなく「ピクニックに行く」がリスト・インすることだろう。

一方、男性が女性に求める愛情表現リストは23項目しかない。同じブログ記事の「こんな時あなたの愛は試されている」という項目を見ると、呆れ果ててしまう女性も多いのではないだろうか。自分のカウントでは、23項目中17項目が「ぼくの失敗や無能を責めないでね」のリストで埋まっている。本当に世の男性の実態ってこうなのかな?(微苦笑)

ともあれ、結論として、女性が(与えられる)愛情で生きており、男性が(与えられる)プライドで生きていることは間違いなさそうだ。

この二つを直結させて、「愛情の循環モデル」を確立したのが、グレイの主張の中で最も美味しく賞味できるところだと思う。

グレイの主張を自分の言葉で言い換えると、女性の男性採点テストと男性の女性採点テストとは正反対だということだ。

女性は「男性が自分にしてくれた愛情表現」を採点する。一方、男性は「女性にしてあげた愛情表現に対して女性がどう愛のある反応をしたか」で採点するのだ。

したがって、男女間の愛情はうまく好循環を作ることができるとグレイは言う。

男性の思いやりが深いほど、女性は彼を信頼する。そして女性が信頼すれば信頼するほど、相手の男性はますます思いやりが深くなる。

これがグレイ流の「愛情の好循環」なら、逆の男女間の悪循環は以下のような「地雷踏み」で引き起こされる。

(…)男性は、自分の決定や行動を自分自身と同一視している。だれかが彼の行動を訂正したりコントロールしようしたりすれば、それは彼自身が間違っているとかおかしいとか言われたも同然なのだ。

 彼は自分の痛みを避けようとして、攻撃的なまでに自分の行動を弁護したり、コントロールされることに抵抗したりする。(…)

 他方、女性は自分の感情に感じて、これと同じ敏感さを持つ傾向がある。行動を訂正されるのが男性にとって苦痛なように、感情を訂正されることが女性にとっては辛いことだ。 感情は人との関わりの本質部分なので、男性が女性の感情をないがしろにする時、彼女はもっとも感じやすいところで傷つく。 

互いのギブ&テイクで循環させるのではなく、男→女へのギブとその反応で回していくグレイ流「愛情好循環モデル」を、読者はどう感じただろうか。

ジェンダー・バイアスが強めなので、自分としては味付けが濃すぎる気もするが、この循環を回して幸福に生きていくカップルも少なくないような気がする。どんな信条の共有によるのであれ、二人が幸せなら、それはそれでいいのではないだろうか。

90年代に台頭してきたグレイのパートナーシップ論は、10年代が終わりつつある今も、まだ人気は衰えていないようだ。

ただ、グレイに限らず、自分のパートナーシップ論への不満は、しばしば男女のワンペアのみで語られるがちなこと。出産というライフステージを経験すると、女性が大きく変わって、異様に強くなるとは、巷間よく言われる俗説だ。その俗説を脳科学から補強して、女脳からマミー脳に変わるときに何が起こるのかを書いたのが、この本。これもかなり面白い。 

 出産後、母親の頭は「マミーブレイン」という独特の状態で、働きが鈍ると一般的にはいわれている。しかし真実は、脳にとって障害となるどころか、出産は母親の脳に大きなメリットをもたらす! 本書では科学者たちへの豊富な取材を基に、新たな科学物語の世界を解き明かしていく。

なぜ女は出産すると賢くなるのか 女脳と母性の科学

なぜ女は出産すると賢くなるのか 女脳と母性の科学

 

どこにでも偏見ははびこっているものだ。エリソンは、出産でポンコツになるとされてきたマミー脳が、5つの点で進化していることを脳科学の最新知識で説明していく。

  1. 知覚(食べ物への嗅覚が鋭くなり、物音への聴覚が鋭敏になる)
  2. 能率(子育ては最強の脳トレ。子育ての煩雑さがマルチタスク処理を可能にする)
  3. 回復力(出産と授乳がストレス耐性を高め、子育てがストレス解消になり、社会関係が拡大する)
  4. 意欲(子供とともに生きていく目的意識と母性愛で、生きる意欲だけでなく社会参加意欲も最大に)
  5. EQ(母子間の子育てが母親の共感能力を高める)

環境の変化だけでなく、ホルモン分泌が大きく変わるため、出産によって(子供も含めた)パートナーシップ論が大きく変容するのは間違いない。そのような核家族のライフステージの遷移を包含した視点から、もう一度自分なりにパートナーシップ論を学んでみたいと感じた。そのときエリソンの「マミー脳」本は、外すことのできない参照項になるだろう。

ん? 今晩も話がとめどもなく逸れるス、まったく栗鼠ってば。何の話をしていたのだっただろうか。そうだった。ゴルフの話から、椅子を探す話に移ったのだった。

インテリア雑誌を流し読みしていると、北欧デザインの椅子の人気が沸騰しているのがわかる。ジャポニスムの影響もあるデンマークの椅子も、引き合いが強いようだ。

そのような北欧デザインの魅力の本質を、洒落たひとことで言ってのけたデザイナーがいた。

デンマークのデザイナーであるカイ・ボイスンは、猿の人形について「動物のデザイン上の線は笑みにならなければならない」と発言したそうだ。

それだけでなく、北欧モダニズムのデザインの特質についても、お洒落にこうまとめてみせた。

しかし、線は微笑を帯びるべきだ。

デンマークのデザイナーがどうしてそこまで微笑しているのか、どうしてデザインを微笑させたがるのか。北欧デザインの界隈では、その源流はデンマークという国の幸福度にあるとされているらしい。

というわけで、「世界一椅子に座っている時間が長い日本人のひとりとして、せめてどの椅子に座るかくらいはしっかり選びたい。どんな椅子にしようかな」という自問への答えはあっけなく出てしまった。

(デザイン線が微笑している)スマイリーな椅子しようっと! 

 そう声に出して決意した瞬間、どこかで「ナイス・ショット!」の掛け声が聞こえたような気がした。もう外は真っ暗な夜になっている。誰かが闇ゴルフをしているわけでもなさそうだ。ということは、聞こえてきた shot の掛け声は shooting star の暗号だったのかもしれない。急がなきゃ!

息せき切って窓を開けると、どこを流れているともわからない流れ星に向かって、ぼくは大急ぎで願い事を三回唱えたのだった。

流れ星はきっと so far と叫びたくなるほど、とても遠くを流れているにちがいない。So far, so good, so what.  それがどうした。 So far =「今までのところ」まだ希望は完全には消えちゃいないぜ。流れ星にお祈りしたあと、ぼくはそう自分に言い聞かせて、夜空に煌めく星々の瞬きを、じっと見つめていたのだった。

 

 

 

 

 

0時過ぎのサーカスに花束を

マイルス・デイヴィスのアルバムに収められた「いつか王子様が」は贅沢な一曲だ。

マイルスのミユート・トランペット(0:40~3:10)

ハンク・モブレーの律儀なハード・バップ系のサックス(3:11~4:25)

マイルスの短いミュートがうまく跳ねたあと(5:22~5:42)

コルトレーンの音符を敷きつめる音数の多いサックス(5:51~7:10)

マイルスによるテーマを優しくまとめたミユート・トランペット(7:20~3:10)

 きっと楽譜で見ると一目瞭然なのだろう。モブレーとコルトレーンのサックス演奏は、両極端のように聞こえる。コルトレーンによる音数の多いモード系の奏法は、「シーツ・オブ・サウンド」とも別称される。何もない楽譜の上に音符を敷きつめていくかのようだからだ。

ベッドリネンのシーツは英語でも1枚、2枚と数える。ところが、ペーパーは two sheets of paper のように、シーツにくるんで数えなければならない。したがって、今晩も自然な成り行きで、文脈は「王子様の紙」の話へと流れていくことになる。

王子製紙の今はなき「エリエール美術館」に言及した記事)

紙の原料となる楮や三椏が生息しているので、四国は紙づくりの盛んな地域だ。なかでも、注目を集めているのが機能紙。特別な機能を備えている紙で、耐油紙、水溶紙、耐水・撥水紙、不燃紙、導電紙、遮光紙、防錆紙などがある。

中でも、90年代に王子製紙が開発したアラミド紙は、携帯電話の過熱する薄型競争の中、配線基板に採用されて、0.8mmの厚さの中に立体的な配線を可能にしたのだという。

それが四国産かどうかは定かではないが、日本の和紙の力は、すでに16世紀のヨーロッパでも知れ渡っていた。あのレンブラントは油絵だけでなく、多くの銅版画も残している。版画を出力する紙として、日本の和紙を使った作品もあるのだ。言われて見ると、和紙のオフホワイトな黄味が感じられる。

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(画像引用元:Jean Lutma, 1656 - Rembrandt - WikiArt.org

「王子+紙」と言えば、三島由紀夫の「サーカス」も個人的には外すことのできない短編小説だ。確か、四百字詰め原稿用紙15枚くらいの短編ではなかっただろうか。初稿を仕上げるのに約六日間かかっている。鬼才の文豪にしてこのペース。なるほど。

 三島由紀夫wikipedia はマニアが執筆しているらしく、異様に詳しいので、とても助かる。あらすじはリンク先を読んでもらうとして、このクライマックスの切なさだけは、一緒に感じ取ってもらえたら嬉しい。サーカスの「王子」と「王女」が、事実上の心中を遂げるのだ。

 2日間の休演で再び2人が舞台に登場するということで、サーカスはいつにも増して超満員だった。群衆が固唾を飲み見守る中、2人の大曲芸がいつものように始まった。しかし今日は馬のクレイク号が焔のようにいきり立っていた。綱の真下に来た少年が馬の背に立って手綱を引いてもクレイク号は言うことを聞かずに躍り上がり、少年は振り落とされて頸骨を折って横たわったままになった。

 綱の上の少女は、真下で起っている事件の騒動を明瞭に察知しながらも下を見ることもできず綱を渡りきった。そして足場から少年の胸の見慣れた緋色の百合の煌めきを見た刹那、銀の靴の少女はプールに入る時のように片足ずつ空間で足を揃えて、群衆が囲む少年の上へ花束のように落ちて行った。

サーカス (小説) - Wikipedia

 若い男女が愛し合ったまま心中するのは、三島の恋愛物語にはよくある話。三島自身の初恋女性との破局や、当時あった同性愛カップルを自殺へ追い込むほどの性差別が、そこにあると考えてもかまわないだろう。

何より後世の読者が驚いてしまうのは、「サーカス」が東京大空襲のさなかに書かれたという事実だ。20才の三島は天皇主義者でも何でもなく、異国情緒に通じた耽美系の作家だったのだ。戦前に出版したのは短編集一冊のみ。それは端的に、戦争のせいで紙がなかったからだという。

ちなみに、この掌編小説は三島由紀夫の琴線に触れる偏愛作品だったらしく、何と自分自身で朗読を披露している。

(4:00から、三島由紀夫本人による「サーカス」の朗読)

というわけで、雨が降りやまない金曜日、図書館で借りた本のあちこちをめくっているうちに、吹き寄せてきたのはこの三つだった。

王子+紙+サーカス

この組み合わせなら、最初に手を付けたくなるのは「紙」だろうか。13年前にも、昔のブログでこんな風に展開していった過去がある。

都市計画に携わることはもちろんできず、ただ本を読むことしかできないぼくは、都市と緑地の問題を木々を中心に考えるのではなく、すぐさまパルプ加工して紙々=書物を中心にして別の考えに思い至ってしまう。

もう紙になっているから、パルプ加工済みだ。あとは製本するだけ。本について気の利いたことを言ってみたい。

例えば、こんなやつ。

① 本とは、花である。

 養分を吸い上げるための根を張り、茎を起ち上げるプロセスが、作家の日々の文化吸収と文章を書く鍛錬だ。そのような苦しくたゆまぬ努力の日々があるからこそ、本という形で花ひらいたことに感動がある。花を愛でたい人々が、しばしば自宅へ持ち帰って飾るところも、花は本に似ている。 

Robert Mapplethorpe Flowers 2013 Calendar

Robert Mapplethorpe Flowers 2013 Calendar

 

② 本とは、心を洗うボディーソープである。

映画やドラマなら、主人公も悪役も悲しい役もすべて俳優が演じてくれるので、私たちは傍観する第三者でいられる。ところが、小説では、すべての登場人物たちが自分の意識の中で起ち上がって動き回る。私たちの意識自体が主人公になり、悪役になり、悲しい役になる。

いわば、小説は心のアスレチックランドだ。私たちの心があらゆる方向に動いて、鍛えられ、汗をかき、老廃物を排出する。子供の情操教育にとても良いとされるのは、他のメディアよりも自分の心が動きやすいからなのだ。

その意味で、本は読者の心を洗うボディーソープだと言えないこともない。

 ③ 本とは、刑務所を訪れる教誨師である。

教誨師とは、受刑者に接見して、過ちを悔い改めて、徳性を養うよう説く宗教者のことだ。本の読者は罪を犯したわけではないが、読書中は情報の窓口が一人に限られる。そこで徳が高まっていくのなら、読書から遠い比喩とも云えないだろう。

umm......

何かがおかしい。潜在意識にある「本当に書きたいこと」を抑圧していると、どうも筆の進みが難渋したり、逸脱したりしやすいものだ。自分の「本当に書きたいこと」が何のかを意識しながら、せっかくなので刑務所関連で読みごたえのある本を、三冊紹介しておきたい。

たぶん読者がプレスリーの「監獄ロック」を聴き終わる頃には、紹介し終わっているだろう。

平成の大合併で、松山市今治市は隣町になった。数か月前のことだ。その隣町で、「塀のない刑務所」から受刑者が脱走して、海を泳いで本州に渡る事件が発生した。 

刑務所改革 社会的コストの視点から (集英社新書)

刑務所改革 社会的コストの視点から (集英社新書)

 

「塀のない刑務所」を作った「四国の大将」の異名をとる地元の有力者は、シベリア抑留の経験者だったという。「隔離」よりも「包摂」という理念のもと、「塀のない刑務所」が作られて二年目、近所で大火事があった。受刑者たちの志願を受けて、彼らに建物を出る許可を与えると、消火活動や家財道具の運び出しを終えると、全員が刑務所に戻ってきたという美談もある。

一方で、崇高な理念とは裏腹に、開放型の刑務所が抱える問題点も少なくないようだ。

ドックの関係者が明かす。

再犯率が低いと言いますが、やはり模範囚を選抜していることも大きいでしょう。前科何犯というような受刑囚を連れてくると、違った結果になるはずです。若くて健康で、刑期も短い受刑者が大半なので、とにかく我慢して脱走もせず勤め上げるのが最も合理的な行動だと分かっているわけですよ。脱走なんてしたら損をするだけなのに、そういうことが起こるのは、やはり作業所内でいじめが常態化しているからだと聞いています」 

実は「塀のない刑務所」からの脱走者はこれまで約20名いる。監視や管理に人的資源を投入する予算はないとしても、脱走者を確保するのにかかる予算と、指紋認証の自動開錠ドアや鉄格子や高い壁などの、物理的資源を確保する予算とを比較して、どちらが効率的な管理下を見直す必要はあるだろう。

(受刑者たちの再犯率が約50%もあることを重視して、次の再犯で社会にまた損害を与えないよう、刑務所は更生教育に力を入れるべきとの新書の趣旨には賛成だ)。

 そういえば、犯罪を犯してしまう「迷える子羊」は、「美祢」に関わりが深いのだった。

 すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄げたをよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずることができた。 

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

 

 ヒロインの「美禰子」は旧字の「禰」をどう読むべきか、一瞬迷ってしまう。正確には、山口県「美祢」市と同じく「ミネ」と読むのが正しいが、「ミヤコ」と誤読する人もいそうだし、「ミャャアコ」と誤読する人だって世界に一人はいるのではないだろうか。 

山口県美祢市には、全国で四か所しかない半官半民の刑務所がある。その名も、「隔離」より「包摂」に寄せた「社会復帰支援センター」。

構造改革特区の指定を受けた地域で、PFI手法による刑務所の設置が可能となったことを受け、この施設をPFI事業により整備することが決定された。2005年4月22日に事業者選定の競争入札が行われ、セコム、清水建設小学館プロダクションを中心とした「美祢セコムグループ」が落札した。セコム・新日本製鐵などが中心となり、SPC(特定目的会社)である「社会復帰サポート美祢株式会社」を設立し、整備・運営にあたっている。受付、見張り、巡回、教育、清掃、給食の業務を民間が担当するというフランス型に近い混合運営施設方式をとる。

美祢社会復帰促進センター - Wikipedia

一方で、初犯で身元がしっかりしているなど、収容受刑者が厳しく選別されているとはいえ、ビジネスホテル並みの快適な処遇に、いくらかの疑問の声もあがっているという。

 しかし、日本で数えるほどしかない優良受刑者向けの優良施設を問題にするより、根底にある社会構造の問題を直視すべきと説くのは、ジャーナリストの江川紹子

刑務所は、高齢者でも障害者でも、実刑判決が確定した者の入所を拒むことはない。かくして刑務所は、福祉の施策から漏れた、行き場のない人たちの吹きだまりと化してしまっている。これまで、私たちはこの現実に気づかず、あるいは見て見ぬふりをして、すべての負担を刑務所に押しつけてきた。

(2006年1月21日付熊本日日新聞江川紹子の視界良好」より)

この発言の背景にある重要な話題作がこちら。

「おいお前、ちゃんとみんなの言うこときかないと、そのうち、刑務所にぶち込まれるぞ」

 そう言われた障害者が、真剣な表情で答える。

「俺、刑務所なんて絶対に嫌だ。この施設に置いといてくれ」

 悲しいかな、これは刑務所内における受刑者同士の会話である。 

累犯障害者 (新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)

 

 自分のいる場所が刑務所だということすらわからない知的障害者を、裁判所はどうやって責任能力があることを証明した上で有罪にしたのか。疑問は尽きない。

しかし、ある種の障害者たちにとっては、犯罪行為と刑務所を行ったり来たりするのが、いちばん生きやすい生き方なのだ。著者の山本譲司(UFO研究家とは別人)は政治家出身で、汚職に手を染めて服役したのを機に、刑務所に入り浸っている社会的マイノリティーの実態に触れたのだという。

売春に明け暮れる知的障害女性や、聾唖者たちが集まった暴力団が別の聾唖者から金を脅し取る実態など、日本社会の暗部に光をあてた傑作だ。

上記で「塀のない刑務所」の受刑者たちが、近所の大火事の消火活動後に全員自主帰還した美談について書いた。

それをさらにスケールアップした歴史的事件を描き出したのが、こちら。著者は祖父も父も自身も刑務官だったというその道に精通した専門家だ。 

典獄と934人のメロス

典獄と934人のメロス

 

関東大震災のときの刑務所記録が葬られていることに著者が気付いたことが、この本の発端にある。 真実が殺されている予感がしたのだろう。公文書はなくとも、関係者に聞き取りを重ねたところ、恐るべき大正の裏の歴史が浮かび上がってきた。 

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実

 

公文書が抹殺されたのは、関東大震災の「朝鮮人虐殺」と無関係ではなかったからだ。日本が経験した最大の民族虐殺に、正力松太郎が深く関与していたという事実は、永遠に不滅です。 

原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史 (新潮新書)

原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史 (新潮新書)

 

このときの森の証言によれば、正力は腕まくりをして戒厳司令部を訪れ、『こうなったらやりましょう』といきまき、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となる阿部信行をして『正力は気がちがったのではないか』といわしめたという。

(…)

いずれにせよ正力は、少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している。

(…)

正力自身も認めるように、朝鮮人暴動の流言は、一部、警察当局自身から流されたものだった。この『幾分権威をもった』流言は、家財産を一瞬にして失い、すさみきった被災地の人心に、砂地に水が沁みこむように、たちまち浸透していった。各地の自警団、在郷軍人会、青年団は、竹槍や鳶口を手に手に取り、朝鮮人とみると警察につきだし、あるいは自ら手を下して虐殺した。

関東大震災が起こったとき、横浜刑務所には1,131人の囚人が収容されていたという。刑務所自体も外壁が倒壊し、火災が発生した。刑務所所長はリスクを承知で、囚人たちを信頼して24時間解放を実現した。すると、大震災による混乱や火災の中、囚人全員が所長からの信頼に応えるべく、刑務所へ帰還したのだった。

問題は、正力松太郎が発生源ともされる人種差別的な流言飛語に、横浜刑務所の囚人解放が悪用されたことである。「鮮人の最も不良性を有するもの」として「横浜刑務所より解放せられし四、五百人」という情報が流布されたのだった。事実とはして、横浜刑務所に在日朝鮮人は一人も収容されていなかったのに!

 

 

ふう。やっと刑務所関連の読みごたえのありそうな本を紹介できた。そうだった。この間に、自分の「本当に書きたいこと」が何のかを意識して、突き止めておかなければならなかったのだ。

鍵言葉は「王子+紙+サーカス」で、「本とは」という書き出しで、気の利いたことを三つ考えてきた。

  1.  本とは、花である。
  2.  本とは、心を洗うボディーソープである。
  3.  本とは、刑務所を訪れる教誨師である。

 そうか、そうだったのか、オレの潜在意識よ。1. でメイプル「ソープ」の花の写真を見つめたり、2.で石鹸で洗いたくなったり、3.で接見する人が気になったりしたのは、すべて「石鹸したい」というか、「接近したい」という潜在的願望の現れだったんだね!

何か月も前、つまりは往時に「王子」について何度も書いてきたのに、O時(オージ)を過ぎてしまいそうで焦っているんだよね。たぶん、あれは「ゼロジ」と読むんだと思うけれど。

幼稚園のころ連れていってもらったソ連のサーカス団を忘れられなくて、小学生に上がっても、天気予報で「シベリア寒気団」が南下するのを耳にして、「ねえ? サーカスが来るの?」と親に訊いたことがあった。

ぼくらの街にサーカスは来なかった。代わりに、冬が来た。

とか書いて締め括ろうと思っていたのは、2017年の12月頃のこと。いけない! もう夏が来ちゃったよ! 海の日がやってきそうだよ!

と、あれこれ話しているうちに、ぼくの潜在意識にある「石鹸したい」希望は伝わったかもしれない。だといいな。 

Robert Mapplethorpe - Flowers 2006 Calendar

Robert Mapplethorpe - Flowers 2006 Calendar

 

ここまでで鍵言葉は全部そろったので、今夜の残りはメイプルソープの花の写真を見ながら、「サーカス・ナイト」に聞き惚れようと思う。長々と書いてきたこの記事は、自分の気持ちを言葉とメロディーにしてくれたこの歌に辿り着くために、書いてきたような気がしている。

眠る前に少しぬるめのお湯に浸るように、この曲に首までつかることができれば、鍵言葉を駆使して他にいろいろと書いてきたことは、洗い流したってかまわない気がしてきた。

例えば、美濃和紙でできたフランス製「紙石鹸」を使って。

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(画像引用元:https://tokyo-calendar.jp/article/9529

 

 

 

 

 

 

Oh baby 今夜のキスで 一生分のこと 変えてしまいたいよ
ここは 楽園じゃない だけど 描ける限りの 夢の中
目の前で 魔法が解けてゆく 焦る気持ちだけが 言葉つなげ
君を抱きしめるたびに 綱の上で揺れる Circus Night

Tight rope dancing Baby 今夜だけ 辿り着きたい ピエロ
Tight rope dancing Baby 今夜だけ 生き延びたい ピエロ
Tight rope dancing Baby 今夜だけ Baby 今夜だけ Baby
Tight rope dancing Baby 今夜だけ 生き延びたい ピエロ
Oh baby 魔法が解けてゆく

宵闇が 僕らを包んで 天幕の中みたい
僕は冴えないピエロであなたはFearless Girl Circus Night
どんなにそれが絵空事でも 飛ぶしかない夜
君がほしい 口づけてしまいたい 幕があがる Circus Night

Oh baby 今夜のキスで 一生分のこと 変えてしまいたいよ
ここは 楽園じゃない だけど 描ける限りの 夢の中
目の前で 魔法が解けてゆく 焦る気持ちだけが 言葉つなげ
君を抱きしめるたびに 綱の上で揺れる Circus Night

Tight rope dancing Baby 今夜だけ 辿り着きたい ピエロ
Tight rope dancing Baby 今夜だけ 生き延びたい ピエロ
Tight rope dancing Baby 今夜だけ Baby 今夜だけ Baby
Tight rope dancing Baby 今夜だけ 生き延びたい ピエロ
Oh baby 魔法が解けてゆく

紙月はしないのにアシンメトリー

雨の木曜日、街に出ていろいろと用事をしていると、視野に見覚えのある可愛らしい顔があるような気がした。目を向けると、リュグツカの女の子だった。若い多産な創造時代、彼女の「子持ちししゃも化」計画は順調に進んでいるだろうか。「元気です」とのこと。頑張れ。

そのあと、何か良いことが起こるような予感がして、或る建物の中に入った。ところが、待てども待てども頼んだ書類が出てこない。窓の外を落ちていく雨の糸を見ていると、まやしても視野に知っている顔が入ってきた気がした。何と、この写真にそっくりの幼馴染の犬に出逢えたのだった。

髪を切って、両サイドに蕎麦樹をかけたらしかった。いつもは垂れ目のしょぼんとした表情なのに、今日は一新した笑顔で、こちらへ尻尾を振ってくれた気がした。

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(画像引用元:ブラックソリッド メス | ベルゼダックスwebサイト

いろいろなことを乗り越えて、黒の蕎麦樹の仔犬が、明るい青ソラの下、つまりは「ファ」の位置で、これからも楽しそうに仕事をしたり、笑ったり、眠ったりしているといいと思う。出逢わせてくれて、ありがとうございます、神様。

「『髪切った?』話と云えば、昨晩の思春期男子が『紙を切った』話が子供騙しすぎるかい?」

「いいとも!」 

と噛み合わない会話でじゃれつつ、本物のアーティストが紙を切るとどうなるかの一例を紹介してもかまわないだろうか。

ピカソキュビスムは、二次元の平面のカンバスに、どのようにして三次元を起ち上げるかに挑んだ試みだった。写真家も同じように、二次元を三次元化させる発想をするらしい。例えば、紙を切ることによって。

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ユニット名 Nelhol は「練る」「彫る」に由来しているらしい。

 Nelhol は、まず連写で撮った数百枚の300枚くらいの肖像写真をボンドで貼り合わせるのだそうだ。重ねて貼るのに使うのは、コニシの木工用ボンド。 

ボンド 木工用プレミアム 30ml #04467

ボンド 木工用プレミアム 30ml #04467

 

 そうやって、ちょっとしたメモブロックくらいの厚みができた立方体の塊を、「彫る」担当がカッターで彫刻にしていくのだとか。単に平面を立体にする「二次元→三次元化」ではなく、写真ブロックに刃を入れることで、撮影時の時間軸が入り込んでいるのが面白い。手に入れたい立体が3Dプリンタでいとも簡単に手に入る時代、生き残っているアーティストたちは、手も頭も機敏に駆使しているようだ。

というわけで、今日は「ちょっと嬉しいこと」があったので、上機嫌になって街を歩きながら、ボンドの遠く先にある「いちばん嬉しいこと」に思いを馳せていた。

インスピレーションは私にひとこと、こう囁いた。

二重螺旋。

未来のことはわからない。わからないのに、勝手にタラレバを接着して遊ぶんじゃないと、また叱られてしまいそうだ。でも、こういう二人がくっついた馴れ初めのドラマを見てしまうと、どうしてもタラのことを考えてしまうのだ。

「タラ」という新しい生命は、サザエとマスオの遺伝子が絡み合った二重螺旋のDNAから生まれた。タラちゃんをいくら見つめても、二重螺旋の生命の神秘が見えてこなくて淋しいのなら、いっそ、会津若松市にある「さざえ堂」まで足を延ばしてはいかがだろうか。

 かのレオナルド・ダビンチのスケッチにも、二重螺旋のスロープを描いたものがありますが、建物として実在するのは、世界広しといえども、ここだけとのことです。さざえ堂は、1996年、国の重要文化財に指定されました。 

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この世界唯一の二重螺旋建築は、絵画の世界では実現例がある。リンゴの皮をむくように、一枚の紙の長い帯でつながっているエッシャーの絵だ。自分の知る Bond の最高傑作は、コニシのアロンアルファではなく、この「Bond of Union」だと思う。

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(画像引用元:Bond of Union, 1956 - M.C. Escher - WikiArt.org

エッシャーと云えば、トリックで視覚を欺く「だまし絵」の大家というのが、一般的な評価だろうか。

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(画像引用元:Ascending & Descending, 1960 - M.C. Escher - WikiArt.org

どういうトリックになっているかは、3D動画で確認するのが手っ取り早い。見下ろしている私たちの視線の高さに、秘密があるのだ。

ところが、エッシャーの現代的意義は、上のような「だまし絵」とは別なところにある。エッシャーは同型タイルの神秘に取りつかれた「シンメトリーの大家」なのだ。

シンメトリーというと、誰もが左右対称を思い浮かべる。辞書的定義の続きを読んでほしい。

左右相称の意。物体もしくは美的対象の構成が中心軸をめぐってその色,形,性質が左右または上下に同形に配置され,両者が均整,相称な関係にあること。反対にこれらの関係がくずれ,破られた状態をアシンメトリー asymmetryという。

百聞は一見に如かず。自分の好きなエッシャーのシンメトリーはこの絵だ。

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(画像引用元:Circle Limit IV, 1960 - M.C. Escher - WikiArt.org

黒い蝙蝠の悪魔と白い翼のある天使とが、交互に敷き詰められているのがわかるだろうか。こういう同型図形の反復もシンメトリーというのだ。

エッシャーの図像の発想力に驚いているだけでは足りない。なぜエッシャーのシンメトリーに今日的意義があると言えるのか。自分の見るところ、切り口は4つある。

1. シンメトリーの幾何学的な作り方には、フィボナッチ数列が関係しており、フィボナッチ数列には黄金比が含まれている。

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上の図に敷きつめられた幾何学模様のシンメトリーは、デブな菱形と痩せた菱形で作られている。菱形のデブ具合と痩せ具合は厳密に決められている。なぜなら、デブも痩せも鈍角黄金三角形と鋭角黄金三角形をくっつけてできた菱形だからだ。

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2. エッシャーのシンメトリーの後継者はあのペンローズ

ペンローズのシンメトリーは別名ペンローズ・タイルとも呼ばれる(例えば、1. のタイル模様)。しかし、ペンローズの最大の業績は、科学最先端の量子脳理論だ。このブログでも、少しだけ言及した。

ところで、この検証しようがないと思われてきた「集合無意識」だが、その端緒となるような研究は進んでいて、さまざまな議論を引き起こしている。有名なのが「自由意思に準備電位が先立つ」という仮説。有名なリベットの実験が議論の発端になった。

 

「そうだよな、人間の脳の顕在意識は約10%、潜在意識は約90%だもんな、わかるよ」。そう呟いたあなたはわかっていないかもしれない。早くからこの分野を研究していたエクルズ―ポパーは、非物質的な外的意識が脳に作用すると論じている。

 

え? 「外的意識」?

 

そう、「外的意識」だ。そして、「外的」であることを媒介に、この分野の研究は、現在も毀誉褒貶の激しい「量子脳理論」へとつながっているというわけだ。 ペンローズは、量子力学の「波動の収束」が脳内でも起こっているという仮説を主張している。つまり、何らかの外的意識の働きかけがあってはじめて、そこで波動が収束して意識が生じるというのである。

 

科学も凄いところまできたものだ。凄いところまできたが、あと少しのところでまだ解明されていないことが、無数にある。ワクワクしてきた。さしあたり、今のところその「外的意識」を、ユングの術語である「集合無意識」と呼んでも、差し支えないだろう。 

3. 五角形(五回対称性)が自然界の結晶で次々に見つかる

それまで安定した結晶は、三角形、四角形、六角形、八角形の形をとってしか、現れないとされてきた。ところが、80年代になって、イスラエルの科学者が五角形(五回対称性)の結晶を持った合金を発見したのである。 

黄金比はすべてを美しくするか?―最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語  (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)
 

 ここで出てきた「5」という数字の意味を、どうして手足の指が5本なのかに絡めて、サッカーボールの形から語ったことがあった。

ところが、私は知らなかった。六角形に五角形を織り交ぜたサッカーボールそのものの結晶が、すでに発見されているらしい。炭素の同素体フラーレンの仲間のうち「バッキーボール」というのが、それだ。

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ゾムツール バッキーボール

ゾムツール バッキーボール

 

元素記号は「C60」。分子モデルの組み立てキットまで売っているが、実際はカーボン製のゴルフクラブに使われたりする炭素素材だ。

世界の自然な結晶の形に「五角形ブーム」が来ているという感じかもしれない。

4. 黄金螺旋やフィボナッチ螺旋が生き物たちを作っている

コンピュータを発明した天才チューリングが、最後に到達して、未解明のまま自殺したのが、この「神の領域」だった。

むしろ自分は、チューリングをコンピュータの発設計者やドイツの暗合機エニグマの解読者ではなく、同性愛絡みで自殺する2年前に発表した「反応拡散方程式」の数理生物学者として記憶したい気持ちが強い。

テレビ番組でも取り上げられている。キャプチャー画像を紹介しているブログを見つけた。

シマウマや縞のある魚などの体表の模様は、変数がたった二つの連立偏微分方程式によって表せることを、チューリングは発見したのだ。その二つの変数とは、下の例では、活性化因子と抑制因子である。  

今や黄金螺旋をレイアウトに取り込んで、黄金比の美しさを活用しているデザイナーまでいる。

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というわけで、エッシャーのシンメトリーの周辺を探っていくと、宇宙の神秘や自然の美しさや黄金比などが、どんどん絡んできて、ページをめくるのが止まらなくなる。

と、ここまで書いたところで、声が聞こえた。

おいおい、もうそれくらいにしてくれよ。そこまで模様に執着する男は、きみくらいのものだろう。あの曲、きっと好きなんじゃない?

きみのスカートの模様
部屋の壁紙にしよう

確かに好きだし、彼女のスカートの模様は絶対にシンメトリーだと思うけれど……。

わかったよ。今晩はもうあまり時間がないので、男女の顔が一枚の帯でつながった「Bond of Union」に話を戻そう。

男女の二重螺旋が生命を生み出すためには、男女が結ばれなければならない。では、どうやって男は女を、女は男を選んでいるのか。今日はとても俗耳を賑わせる面白い本を読んでしまった。

結論から云うと、鍵は(左右対称という意味の)シンメトリーなのだ。 

シンメトリーな男 (文春文庫)

シンメトリーな男 (文春文庫)

 

この周辺を最近面白がって読んでいて、何度か記事に書いてきた。

 血縁を生み出す異性選択で、若い男女が選び合っているのは、実は、自分とは異なるMHCというタンパク質製造法タイプだと言われている。それを、サブリミナル嗅覚で選び合って、婚姻や妊娠が成立しているケースが、かなり多いらしいのだ。 人間はあらゆる機会を生かして、異種強勢を目指す生き物なのだ。 

本当は、恋愛指南本にはとっくにお腹いっぱい。「ジャンケンをするときグーを出す女子は心を閉ざしている」とか、「ブルーのシャツを着ていると女性にモテる」とか、大笑いしながら読んではみるものの、もうこんな本を読みたくないと呟いてしまう。

ブルーのシャツを何枚か持っているだけに、こっちの気分がブルーになってしまうのだ。青いシャツを着て街に出たとき、女性にもてようと思って青シャツ着用していると思われたら、居心地が悪いではないか。青が好きで着ているだけなのに。

といっても、面白いエピソード満載の『シンメトリーな男』の読後感も、決して楽ではなかった。

身体の骨格をミリ単位で測定して、シンメトリー度が高いことが判明したら、どうやらその男は無敵みたいだ。厭になるけれど、自分の言葉でまとめて、列挙していこう。

  1. シンメトリーな男はベッドの上でイケメン。
  2. 女は男に対して、サブリミナル嗅覚を使って、シンメトリーな男を嗅ぎ分けている。シンメトリーな男は生得的にいい匂いがするから。
  3. シンメトリーな男は顔の作りが格好いい。
  4. 顔の作りが良い男は健康度が高い。つまり、4. より、シンメトリーな男は健康度が高い。
  5. シンメトリーな男は筋肉質で喧嘩が強く、スポーツやダンスが得意。
  6. シンメトリーな男は IQ が高い。

 男性の一人として不満なのは、身体の均整がシンメトリックかどうかは、ほとんどが先天的に決まってしまうことだ。シンメトリーでここまで決まってしまうのなら、もう変えられない運命だとわかっていても、シンメトリックに憧れて憧れて、毎晩咳き込んでしまいそうだ。

咳をしてもアシンメトリー

頼むから、後天的に何とかなる方法を研究してくれないだろうか。

この本で面白かったのは、身体の部位をミリ単位まで測定したとき、人差し指と薬指の長さの比に性的魅力が関わっているという知識だった。発生論的に言うと、人間の性器と手足は、同じHox遺伝子から発現していくのだそうだ。女性が男の手を好きなのも、男性が女の脚を好きなのも、それに関係しているらしい。

右手の人差し指と薬指の比を見るのだそうだ。

  1. 男性平均より、薬指が長い男性はテストステロン分泌が活発で男らしい。
  2. 女性平均より、人差し指が長い女性はエストロゲン分泌が活発で女性らしい。

そんな相関関係があるのだそうだ。著者はさらに踏み込んで、サブリミナル嗅覚で無意識に互いを選別するほどの人類なら、人差し指と薬指の比を無意識に確認するのも当然だろう。その無意識の異性選別に追加機能として、既婚者が薬指に結婚指輪をするのではないかと推測している。根拠はないが、ありうる話だと思う。脳科学や動物生態学を知れば知るほど、人間は動物に近いとの印象が強まるからだ。

というわけで、今晩はシンメトリーを軸に、生命の二重螺旋のタラレバ話を書き飛ばしてみた。ここで書き終えて、「練る彫る」ならぬ「風呂→寝る」にしようかとも思ったが、本当は Nelhol が使っているプレミアム・ボンド以上にいま自分が「いちばん欲しいもの」は、「Bond of Union」を訳したいという希望、早くしたいという希望だ、と書くべきか書かざるべきかをずっと迷っていた。

迷いながら、好きな音楽を何曲か聴いていた。

紙の上に書くべき言葉で月について書いてはきたけれど、情報の流れがアシンメトリーな月の二つある世界から抜け出るのが先のような気がして、焦りを感じずにはいられない。紙月はしないから、檻から出してもらえないだろうか。

こんなことも、書くべきではないような気がして、書けずにいた。

でも、遠くからこんな声をかけられたんだ。

丸くなるなよ。

なるほど。それなら、角しかないだろう。

洋楽のルーツにも敗戦国の哀歓が

 生まれ育った町を車で走っていると、思いがけない記憶がよみがえってきて、ドギマギしてしまうことがある。上の記事で話した同級生の実家の歯科医院もそうだが、出身高校の近くにある小さな教会を見かけると、心臓がひとりでに高鳴ってしまう。

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(画像引用元:

松山バプテスト教会 - キリスト教の日本バプテスト連盟全教会紹介サイト

その教会は、電車通学の彼女を駅まで送って帰る細い裏道に隣接していたのだ。ある夕暮れ、その教会の陰で……  

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 イエローカードが累積しているような気もするので、過去の恋愛の記憶に浸るのはやめておきたい。高校一年生のとき、その女の子からもらったラブレターが、こんな高校英語で締め括られていたことを語りたかったのだ。

I can't help falling in love with you.

受験英語風にいうと、「cannot help Ving」か「cannnot (help) but V原形」で「~せずにいられない」という意味を作る。センター試験に出るよ! 暗記してどうにかなることは暗記するんだよ! 浪人生はちゃんと勉強するんだよ!

直訳するなら「あなたに恋に落ちずにはいられない」になるだろう。当時、もっとすっきりと「好きにならずにいられない」と邦訳したコリー・ハートの曲が流行していた。 

さて、あなたが思春期の16歳の男子高校生なら、このラブレターにどんな返事を書くだろうか。

「栞を贈りたいんだけど」と自分は彼女に言った。「それが不便な栞でさ。英語の教科書の35ページにしか使えない栞なんだ」とか嘯いて、前夜必死にカッターで作った工作物を彼女に渡したのだった。

言うなれば、ゴダールの映画の冒頭を逆回しにして、文字を少なくする発想だ。

ページと同じサイズの栞に、カッターで八か所の小さな穴をあけた。浮かび上がってくる英語は、もちろんこの八文字。

      I    l         o   v         e          y  o          u 

あの教会の横を、彼女と一緒に数え切れないほど通ったが、教会のクリスマス行事に参加して「メリイクリスマス」を言い合ったこともなければ、バザーのお手伝いをしたこともない。

東京人なら、小さな教会の陰に隠れる展開にはならないような気がする。無数にあるロケーションのうち、どんな場所を選ぶのだろうか。下の記事で東京の聖カテドラル教会の話をしたが、ファースト・キスの場所が、教会のそばでなければならない理由はないだろう。

このように地方人が東京人の暮らしを想像すると、田舎者根性まるだしだと莫迦にしたがるモンキーがうようよ寄ってきそうだ。でも、どうなんだろう。自分は自分で、東京人のセンスなんて、突き抜けちゃっているという自負もある。

そんなことを考えたのは、『東京人』の最新号の太宰治特集を読んだときのこと。 

「知られざる傑作短編八選」の選定が、自分と全然かぶっていないことに驚いた。東京人は本当に太宰クラスの文学をわかっているのだろうか。

太宰治は女語りの得意な作家で、16篇も語り手を女性にした小説があるのだという。「女語り」部門からは、「皮膚と心」「恥」「待つ」が選ばれていた。

太宰治 皮膚と心

太宰治 恥

太宰治 待つ

「傑作短編八選」を見ても、ネット上にあるお勧めランキングと照合しても、どうも自分のセンスからはかけ離れていて、居心地が悪い。

自分の短編ベスト3を披露することにしよう。

太宰の短編の最高傑作は「女生徒」で決まり。ほとんど盗作に近いほど、有明淑という少女の日記をそのまま活用しているので、太宰の筆にはない精彩に富んでいて、それが却って素晴らしい。

「女生徒」に昔から興味を持っていた自分は、或る博士論文を梃子に、一晩でその短編の深層にあるルサンチマンを暴き出したことがあった。この新解釈はかなり強力なので、太宰研究の世界が震撼してもおかしくないが、音沙汰がないところを見ると、太宰研究の世界自体がもはや存在していないのかもしれない。

太宰治 女生徒

 

 わかりやすく言い換えれば、太宰治川端康成を意識して「女生徒」を書いているのと同じ状況を反映する形で、作中の少女が客に「ロココ料理」を作っているのである。これらを二重写しにしながら、ロココ料理の周辺を読んでいくと、太宰治川端康成に対するルサンチマンが、皿からあふれてどくどくと食卓の上へ溢れているのが感じられる。

 

(…)

「博士」の言うように、川端康成に「これ以上へつらうのはもう厭だ」という魂の叫びを、太宰治が白紙に刻んでいるように読めて仕方がない。

(…)

 

先ほど「女生徒」は一読して「この少女は何かを隠している」という直感がはたらく短編だと述べた。思春期の少女はその隠している何かを、まるで誰かに悟らせたいかのように、律儀に点綴している。

 

(…)

あれ?と、最初の引用部分で少し違和感を感じてほしい。「いけない娘」になって「ひとりきりの秘密」を持つようになるのは、思春期の少女にはよくある話。凡庸な書き手なら、それが片思いであれ、両思いであれ、男の子との恋愛沙汰だとして書いていくはず。次に、その男の子が亡くなった父にどのように似ているかへ、筆が進むのが普通だ。しかし、太宰はその「いけない秘密」を少女が「たくさんたくさん」経験していると書いている。どうも恋愛ではなさそうだ。

 

二つ目の引用部分では、まず「ただ、どぎまぎして、おしまいには、かっとなって、まるでなにかみたいだ」と書いてある「なにか」が何に似ているかを考えてほしい。少女が名詞ひとつ形容詞ひとつ言い出せない、「はっきり言ったら死ぬ」ほど、「汚れて、恥ずかしいこと」とは何だろう。

 

答えは出た。少女は「薔薇色のセクス」(大江健三郎)を習慣的に慰める「秘密の習慣」を持ち始めたのである。

 

ここで、さすがは太宰、独自のエロティックな視線で生々しい少女像を描き出している、と立ち上がって拍手してはいけない。座り直して、もう一度ロココ料理の周辺へ思いを馳せよう。「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す」とまで感じた川端康成に、太宰治は「お客様を眩惑させて、ごまかし」つつも、「それでも私は、やっぱり弱くて」「奉仕をする」ことを選んでしまっているらしい。

 

贈り物は贈る相手の嗜好を考えて選ぶものだ。

 

川端康成の最高傑作の一つ「眠れる美女」は、薬で眠らされた処女の裸を老人が弄ぶ話だった。太宰治はその川端へ宛てて、「処女の自慰」を潜在的な文脈に織り込んだ「女生徒」を贈与したのにちがいない。それと気づいたかどうか、川端康成は太宰の「女生徒」を激賞した。


しかし、それは「贈与」と呼べるものだったろうか。「小鳥を飼い、舞踏を見る」生活への批判程度では到底済まない川端の性的奇癖を、多少の「眩惑」をほどこしつつも、衆人環視のもとに出現せしめ、「わるいのは、あなただ」という解読可能な暗号でその宛先まで書き込んだ太宰にあったのは、「処女の自慰」を贈って川端を「刺す」、という怨念のこもった強い「殺意」だったのではないだろうか。性的嗜好の核心を突かれているだけに、贈られた川端も対処に困る。表だって喜ぶことも怒ることも難しい。

 

太宰の遺作に引っかけて想像すれば、川端康成からの批判に対して、川端好みの処女のエロスを仕込んだ贈答品を差し出しつつ、内心では「おやおや、恐れ煎り豆。わあ! 何という下衆な性癖」とおどけて「グッド・バイ」を告げる縁切り状をも、同時に手渡したことになるだろうか。この「グッド・バイ」の残響が、「女生徒」の末尾にかすかに残っているのが、読み取れるような気もする。

 

あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。 

第二位は、ダザイストたちがなぜか言及しようとしない「フォスフォレッスセンス」だろうか。

太宰治 フォスフォレッスセンス

夢と現実を行ったり来たりしながら、言いだせそうで言い出せない「舌先現象」を美しくまとめ上げている。読みどころは、美しき戦争未亡人が、米兵相手に売春しているという裏設定だろう。

 叔父が「あのひと」を無理に芝居へ連れて行こうとする。当時の劇場は文化的な社交場だから、たぶん叔父は美人の姪として「あのひと」を自慢して歩きたいのだろう。父ではなく、叔父というところには注意が必要で、上流階級の文化を嗜むことができるほど裕福なのは、叔父。「あのひと」の家計の程度はというと… ジープが来たら否応なく「仕事」をしなければならない境遇だ。ここから読み取れるのは、夫を戦死で亡くした未亡人の窮乏と糊口を凌ぐための売春。その買春相手から、戦死した夫の魂を鎮めるための花束をもらうという筋立てが、何ともうら悲しく味わい深い。ここにも敗戦が暗く切ない影を落としている。

そして第三位は「メリイクリスマス」で間違いないと自分は考えている。ところが、『東京人』にはイラストつきで全文が掲載されていたものの、太宰文学の人気ランキングにはまったくあがってこない。

厭な予感がした。太宰研究の第一人者が「『女生徒』の母娘=キャッツ・アイ女賊説」を提唱したりする不思議な世界のことだ。またしても、「メリイクリスマス」の真価が見過ごされているのではないだろうか。気懸かりになって、午前中に図書館で調べてきた。

ビンゴだった。

太宰治大事典

太宰治大事典

 

重要なのは、太宰にとってこの短編が、敗戦をまたいだあとの戦後第一作であるという事実だ。

 東京は、哀しい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行に書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変らずの「東京生活」のごとくに映った。

太宰治 メリイクリスマス

この書き出しを覚えておいてもらいたい。

小説は敗戦直後に、主人公が「唯一の女性」と慕っていた女友達の娘に、偶然出会うところから始まる。主人公は娘の母とは、四つの理由でプラトニックな女友達の関係だった。

  1. 清潔好き
  2. お互いに恋愛感情なし
  3. 気遣いが上手で気心が知れている
  4. 少しではあるがいつも酒を呑ませてくれる

ところが、主人公は20才の娘となら恋をできそうな気になって、娘を口説きにかかろうとする。ロマンチックな話をしながら、母娘の住むアパートまでついていく。

すると、母が戦争で亡くなっていたことを知り、娘が悲しみからそれを言いだせなかったことを知るのだ。

亡くなった母の分も合わせて、三人分の鰻を屋台で注文して娘と食べていると、屋台の客が米兵に「メリイクリスマス」と陽気に声をかける。

「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
 と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。
 何というわけもなく、私は紳士のその諧ぎゃくにだけは噴き出した。
 呼びかけられた兵士は、とんでもないというような顔をして首を振り、大股で歩み去る。
「この、うなぎも食べちゃおうか。」
 私はまんなかに取り残されてあるうなぎの皿に箸をつける。
「ええ。」
「半分ずつ。」
 東京は相変らず。以前と少しも変らない。 

以上が、この短編のあらましだ。

青空文庫を通読して、どこに読解の鍵が潜んでいるかがわかっただろうか。鍵は最終場面の引用部分の、米兵の反応にある。

時は12月。人々が口々に「メリイクリスマス」を言い合っても、何の不思議もない季節だ。なのに、どうして米兵は「とんでもないというような顔」をするのだろうか。

それは、敗戦直後の「占領軍>>>日本国民」の「支配ー被支配」の関係が残っているからだ。ちなみに、当時の米軍の兵士たちは、「日本人は残虐で劣悪な下等人種である」という洗脳を徹底的に施されている。対等に笑って「メリイクリスマス」を言い合うなんて、まさしく「とんでもない」ありえないことなのだ。

となると、もう一つ考えてほしいことがある。上記の『人間失格』の不貞のような泥々の愛憎劇を、きれいさっぱり拭い去ったこの「唯一の母」は、占領国日本で何を象徴した存在だったのだろうか。

もう一度、上記の四項目を確認してほしい。あの四項目を備えた「唯一の女」とは、私見では「戦前の古き良き日本」だ。

洒脱な恋愛喜劇に見せかけつつ、太宰が戦後第一作で書きたかったのは、「戦前の古き良き日本」が米軍に亡きものにされた悲しみだった。その文脈を引き寄せるかのように、この「唯一の女」は(敗戦を決定づけた)広島の空襲で亡くなっているのだ!

三島好きが太宰嫌いなのは世の常。自分も太宰にはそれほど詳しくない。 

太宰治検定公式テキスト (-旅をしようよ!「津軽」-)

太宰治検定公式テキスト (-旅をしようよ!「津軽」-)

 

太宰治検定に出題されているかどうかも知らない。ただ、太宰治の心の中に、このような心理的複合体があることは、よく知られているはずだ。

①哀しみー②滅びー③恥ずかしさー④明るさ

例えば、②+③=「苦悩の年鑑」

日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。

太宰治 苦悩の年鑑

例えば、②+④=「右大臣実朝」

平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、

太宰治 右大臣実朝

このような基礎知識を前提に、戦後第一作「メリイクリスマス」での太宰の敗戦への態度を、私的に整理してみたい。重要なのは、書き出しと結末とのコントラストだ。

戦争に負けたせいで、町も悲しげに沈んでいると思ったが、「唯一の母」が広島で亡くなったとわかってからも、日本人を蔑んでいる米兵に明るい挨拶をし、墓前に供えることもなく亡母の鰻まで食べてしまう活気がある。けれど、国が滅んだことも意識できないその明るさが哀しい。

この私見を覆すに足るまともな研究は、まだ出ていないようだ。

数行しか米兵は出てこないのに「占領軍文化の目新しさを描いた」とする批評は的外れ。「戦後社会に対する痛烈な批判」という批評も、言葉の選択を誤っているように感じられる。滅んだことも意識できない戦後の日本の渦中にいて、太宰は哀歓を味わっているのだ。

さて、「メリイクリスマス」は、米兵への挨拶と相手の蔑んだ反応が、短編の読解の鍵だった。ちょっと無類に面白い評伝を見つけたので、この文脈に接続してみたい。 

音楽に恋をして♪ 評伝・湯川れい子

音楽に恋をして♪ 評伝・湯川れい子

 

 「疑惑の大将」山本五十六の遠戚で、ラ・フランスを日本の紹介した祖父を持つ湯川れい子の評伝を、夢中になって読了した。岸田今日子と演劇女優仲間だったとか、寺山修司の周辺で音楽評論家としてデビューしたとか、人脈論としてもとても面白い。

 ちなみに、寺山修司湯川れい子らが著者の『ジャズをたのしむ本』が、地元の図書館で検索にあがってきたので、喜び勇んで借りに行ったら、ペラッとした一枚のイラストの切り抜きだけが出てきた。なるほど。イラストのコレクションだったのか。

真鍋博コレクション」は、愛媛県出身のイラストレーター故真鍋博氏のイラストをはじめとする著作などの多様な諸活動を掲載した図書や雑誌など約3万点を収集したコレクションです。

https://www.ehimetosyokan.jp/contents/siryo/tokukore/manabe/manabe.htm

 湯川れい子の波瀾万丈の人生を、自分の興味に合わせて、列挙してみたい。脚本家が書いたような起伏の激しい人生だ。

  1. 英語が好きだったので、GHQの兵士に話しかけてアイスを奢ってもらい、両親に大目玉を喰う。
  2. じゃじゃ馬ぶりをたしなめてくれた年上のインテリの幼馴染に恋して、婚約者となる。
  3. 高校三年生のときから、女優を目指して奮闘する。
  4. 銀座で美男子の外国人船乗りに心を奪われる。「私は彼を愛さないではいられなかった」と自作の詩をノートに書く。
  5. ダンスホールで、ジャズに詳しい多浪の医学部受験生と激しい恋に落ちる。
  6. 湯川れい子の両親と医学部受験生の両親が、二人の交際を猛反対。二人で包囲網を抜け出してマイルス・デイヴィスを聴く。
  7. 就職した会社を3か月で辞めて、英語で歌う歌手として、米軍基地を慰問する。
  8. インテリの幼馴染との結婚が迫った前夜、結婚が厭で手首を切って自殺未遂。
  9. 結婚して入籍はするものの、幼馴染は仕事で渡米。日本に残った湯川れい子は、医学部受験生と密会しつづける。
  10. ジャズ評論家としてデビューし、寺山修司の周辺と交流するようになる。

デビュー前までをピック・アップしただけでも、いささか波瀾万丈すぎて、息が詰まりそうになる。婚約者の幼馴染は、医学部受験生との長期の「浮気」をどう捉えていたのだろう? とか、単身で渡米するとき、孤独すぎる新郎がどんな気持ちだったかとか、ドラマの脚本に落とすときに必須の想像が、駆けめぐりやまない感じだ。

もちろん、音楽評論家としてデビューしてからも、華々しい活躍と波瀾万丈はとどまることを知らない。再婚の結婚証明書を熱愛するエルビス・プレスリーに書いてもらったなんていう逸話もある。それよりも興味深いのは、湯川れい子に、スピリチュアリズムにも造詣が深い一面があることだろうか。 

幸福への共時性(シンクロニシティ)―もっと豊かにもっと健康に生きるための26章
 

 評伝を流し読みしただけでも、彼女がシンクロニシティーに愛されているのが伝わってくる。それは、外国人に初恋をしたときに書いた詩句「私は彼を愛さないではいられなかった」を読むとピンとくる。

それが、やがて彼女が溶けそうになるほど熱愛するプレスリーの名曲を予告していたことに、どれくらいの評伝読者が気付いただろうか。自分の青春時代にも流れていた「好きにならずにいられない」は、実はプレスリーが原曲なのである。

湯川れい子の評伝で、個人的に一番ぐっと来たのは、彼女が欧米の音楽に魅惑されるきっかけだった。それは出征して戦死した長兄の遺品のレコードだった。正確にはレコードは高価で買えなかったので、レコードのジャケットを模写したスケッチだったのだ。

洋楽評論家のこの原点を目にしたとき、太宰治の「メリイクリスマス」と同じだなと思って、胸が熱くなるのを感じた。

自分たちの親しい人間を滅ぼした敵国の文化を受け入れ、葛藤と闘いながらも、それを生きる糧にしていくこと。敗戦国民が歩まざるをえなかったあの道程を、日本の音楽評論家の第一人者も辿ってきたのだ。

さらに付け加えるなら、音楽評論家として人気絶頂の33才の時、ヒッピー文化の洗礼を受けた湯川れい子は、突然の引退宣言をしている。引退して彼女が向かった先は、ドラッグが蔓延するヒッピー文化の疾風怒涛の中ではなく、フィリピンだった。

彼女にアメリカ音楽を教えた長兄が、どのような場所でどのように戦死したのかを、探索する旅に彼女は出たのだ。

となると、このブログの読者は、この記事がフィリピンの日本人捕虜の話につながることがわかるだろう。

ダイエー帝国の興亡を描いた『カリスマ』の中で、最も強烈な読書体験だったのは、マニラの俘虜収容所体験だった。収容所には、先に述べた中内功、大岡正平だけでなく、『空気の研究』などの日本特殊論の著作を持つ山本七平もいたというのである。そして、この記事で述べた私の祖父も。

(…)

山本七平の『ある異常体験者の偏見』の中には、名字が同じという理由だけで何人もが濡れ衣を着せられ、総立ちの現地傍聴人たちによる「ジャップ、ハング、ジャップ、ハング」という怒号の中、冤罪者の処刑を決する「人民裁判」の様子が詳しく描かれているが、あまり引用する気になれない。疲れている身で、無罪の人間の処刑を生々しく脳裡に思い描くのはきついから。

確かなのは、私の祖父が漢字三文字の珍しい姓を持っていなければ、自分は今ここには存在していないかもしれないという厳然たる可能性だ。

大正生まれのやなせたかし中内功が生み出したもの。

「ぼくの顔をお食べ」といって、自らの身体を痛めて差し出されたひと切れのパンや、「流通革命」により誰でも買える価格で差し出された豊かな食料を目の前にして、ひょとしたら貧困の限界状況にあったかもしれない人々が、円谷幸吉の遺書にも似た言葉で、飛びつくように喜び勇んで食べている様子を、この記事の最後に思い浮かべたい。その背景では、沈む間際の夕陽が輝いていることだろう。

自らの顔をちぎって差し出したアンパンマンが、いずれその顔が別の顔にとってかわられるるのだとしても、日本一となったダイエーがやがて斜陽となり沈んでいくのだとしても、両者による戦後の食料窮乏者への献身的な姿勢が、どこか重なって見えるような気がしてならないのである。 

これを指摘している情報が、検索であがってこないのは不思議で仕方がない。

占領軍兵士に蔑まれる場面が鍵の太宰治「メリイクリスマス」は、同じく「支配ー被支配」の捕虜収容所を舞台にした『戦場のメリークリスマス』に、系譜として明確につながっていることは間違いない。

おそらく大島渚が企んだのは、「アメリカ>>>日本」の太宰短編を、舞台を日本軍捕虜収容所とすることで、「日本<<<米英」へと反転させる逆転劇だったにちがいない。そこではおそらく、ホモセクシャルの性的倒錯と「支配ー被支配」を逆転させる関係倒錯が、同時に試みられているのだろう。いわば、『戦場のメリークリスマス』は『家畜人毛唐』としても読めるのだ。

この周辺を追いかけていると、自分の中にいる永続敗戦論者としてのアバターが、浮き浮きしながら探索したがるのが自分でわかる。

少なくとも、湯川れい子が歩んできた人生を目にして、彼女の対談本がどうして私の視野のな中で光ったのかは、すっかり得心がいった。

今日もぱっと光ったこの本を、中身も確認しないまま図書館から借り出して、帰りの信号待ちの車内で読み始めた。なるほど、と私は膝を打った。あちこちのページが、自分がこれまで追いかけてきた主題につながる本だったのだ。夢中になって、あっという間に読了した。

ただ、時間があまりない。今晩は最後に予言をひとつだけ書き添えて、記事を終わりにすることにしたい。

予言: 湯川れい子の波瀾万丈の人生は、近い将来、コシノジュンコの母をモデルにした朝ドラ最高傑作「カーネーション」に匹敵する、無類に面白い朝ドラになるでしょう! 

若者言葉で云うと、朝ドラになる可能性は 「ありよりのあり」で、もっと簡潔に云うと確実に「ある」のを感じる。

しかし、この種の予言を誰に伝えれば良いのだろうか。一般のブログ読者よりも、プロの脚本家に伝わったら素敵だろうな。せっかくだから日本のポップ音楽に乗せて、暗号で伝えることにしてみよう。

ピンクに申す「ある」と

 

 

 

 

 

 

 

(自分が一番聞いた湯川れい子作詞の曲はコレ)