色眼鏡ぬきのベネフィット養豚

青、赤、黄が三原色なら、小学生の「三原気」はアレラにちがいない。

小学生の頃は世間知らずだった。赴任式で新しく来た先生が、よくある言葉遊びで挨拶をしても、いちいち「うまいこと言うな」と感心したものだ。

例えば、「三原気」を織り込んだこんな挨拶。

新任の先生: 先生はこの学校に三つの木を植えたいと思います。「元気、根気、やる気」です!

小学生のぼく: (何て面白い先生なんだ!)

先を生きるのが先生の役目なら、この定型を自分の個性に合わせてアレンジできる創造性がほしい。初恋トークが好きな先生なら、こんな挨拶をしてほしいのだ。

新任の初恋先生: 先生はこの学校に三つの木を植えたいと思います。「思春期、ときめき、嫌いなふりして本当は好き」です!

小学生のぼく: (面白いけど、小学生には早いかな)

 地獄の暴れん坊の先生が赴任してきたら、こんな挨拶になるだろう。

新任の地獄の暴れん坊先生: ワシはこの学校に三つの木を植えてやろうと思うとるんじゃ。「餓鬼、悪あがき、アナーキー」!

小学生のぼく: (わーい、この小学校、きっとなくなっちゃうぞ!)

 やたらお洒落に気を遣う新任の先生なら、こういう挨拶をして、不思議な余韻を残しそうだ。

新任のお洒落泥棒先生: 先生はこの学校に三つの木を植えたいと思います。「レアチーズケーキ、北欧の白い都市ヘルシンキ、小さい秋」です。

小学生のぼく: (最後の「小さい秋」がお洒落だな。誰でも見つけられようで、なかなか見つけられないものだから)

 そういえば、半年くらい短歌に打ち込んでいた時期、自分も「小さい秋」をお題に詠んだことがあった。

くきくきとギターの弦をはりかえる指尖にきて秋はすずしき

はじめて子音で韻を踏もうとして「き」を繰り返し織り込んだ一種。可もなく不可もなく、まもなく不可解なカフカ的状況でもなくなりそうなので、軽く流そう。

いや、待てよ。こうまでするりと気の利いた一節が飛び出してくる自分は、実はかなりイケてるお洒落泥棒なのではないだろうか。待たせちまったな。いつまでも少年の瞳をしたオレの中のコム・デ・ギャルソン

セルフイメージをすっかりお洒落さんに書き換えて気分が上がったので、今のテンションなら、お洒落じゃないものでも、小粋でお洒落な文章に書きこなせソーダ水はペリエが好き。 

Perrier(ペリエ) プレーン PET 500ml×24本 [直輸入品]

Perrier(ペリエ) プレーン PET 500ml×24本 [直輸入品]

 

 陽が長くなった初夏の休日。ふと「今晩は陽気な薔薇にしよう」と呟くときのあなたは、チャールストン三元豚かを迷っている微熱少女だ。

 

チャールストンを選んだら、心踊る夜になるだろう。戦前の陽気なダンスにちなんだ薔薇のチャールストンは、ひらめくパリの踊り子のスカートのように黄と赤の二色が動的に入り交じっている。

f:id:amano_kuninobu:20180724163757j:plain

三元豚を選んだら、 舌の踊る夜になるだろう。豚薔薇のピンクの花びらにそっと唇を寄せようとすると、たちまち妻に叱られることだろう。「蒸ッシュー前だから、口つけは禁じられた遊ヴィヨンと妻より」とか何とか。 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

舌の踊る夜はいわば三元豚の舞踏会。るんるんらんらんドレスを着ていけば、イクラブの可能性がフィーバーする。舞踏会はあなたの噂でもちきりさ。美味しい噂でくしゃみが止まらなくなったら、さしあたり代用くしゃみ止めとして、チーズフォンデュ六皿を注文すれば、意中の異性とサシでのデートが入る最高の夜になるだろう。

 

という小洒落た説明がわかりにくいのなら、初心者向けに言い直そう。ランドレースは繁殖力が強く、大ヨークシャーは肉が美味しく、デュロックは肉にサシが入りやすい。 

f:id:amano_kuninobu:20180724164901j:plain

ただし、今や養豚されているのはほとんどが三元豚。上記三種以外にもさまざまなベネフィットを組み合わせた三元豚が、星の数ほどある。ベネフィットの数だけ、豚の種類の数があるということさ。

バルコニーで夜空を見上げながら、きみの耳元にそう囁いたとき、月の光に煌めくきみのイヤリングが綺麗だった。

 

美女: 今のお話をひとことで言い直してもいい?

ぼく: いいよ。わかった。こうしよう。オレはオレで今晩のこの話をひとことで表現するよ。せーの、で同時に言おう。

美女: いいわ。いくわよ。せーの。

ぼく: きみを愛している!

美女: ベネ豚!

(夜より深い気まずさが辺りに立ち込める)

 というわけで、ベネ豚の話をしようと思っただけなのに、ついつい持ち前のお洒落さとロマンティック好きに引きずられて、導入だけでこんなに字数と時間を使ってしまった! 

ソーシャル・デザイン好きの自分としては、いつかベネトンの広告論を調べてみたかいとずっと思っていたのだ。

上記の「最も論争を巻き起こしたベネトンの広告トップ10」から画像を引用して、順不同で個人的なキャプションをつけてみたい。

f:id:amano_kuninobu:20180724183420j:plain

世界や社会に理想を抱いているだけでは、一代で多国籍企業を作り上げることはできない。シンプルにこう問うてみる。

ベネトンベネトンたらしめたものとは何だろう? 

答えは「色」だ。

ベネトンベネトンにするイノベーションは、1963年に起こった。物資がまだそれほど豊かではなかった当時、古いセーターが色落ちすれば染め直しの修理に出すこともあった。

ベネトン創業者は腕利きの染色職人と組んだ。古いセーターの染め直しの技術を使って、編み上げた後に新品のセーターを染める技術を開発したのだ。色の流行は変動しやすいので、在庫をどれだけ圧縮できるかの技術が、衣料メーカーの成長を大きく左右する。「後染め」の技術革新は革命的だった。「新大陸を発見した」と、のちにルチアーノ・ベネトンは述懐している。

ベネトンのセーターはたちまち40色になって、飛ぶように売れ始めた。

エイズ患者の急増が社会不安を呼び起こしていた90年代前半、バルセロナ五輪の開催が迫っていた。ベネトンは伝染を予防するカラフルな避妊具を並べて、五輪マークを作った。エイズは不治の病ではなく、楽しく共存できる病気だというメッセージを発したのだった。

1983年から2000年までの間、ユナイテッド カラーズ オブ ベネトンの広告写真を手掛けた世界的な社会派写真家、オリビエーロ・トスカーニ氏が本年2018年春夏シーズンより、同ブランドのキャンペーン写真を再び手掛けることになった事を記念し、トスカーニ氏が18年ぶりに手掛けた最新のキャンペーン写真をはじめ、歴代の代表的なアーカイブ写真を年代別に紹介しているほか、今回復帰に至った際の裏話やブランド名「ユナイテッド カラーズ オブ ベネトン」の誕生秘話、今日の世界に対する思いなどを語った特別インタビューも紹介しています。 

ベネトンが世界的社会派写真家オリビエーロ・トスカーニ氏復帰記念企画として特設サイトを公開 | CLASSY.[クラッシィ] 

ベネトンの広告写真を手がけて一時代を築いたトスカーニが、2018年にベネトンに帰ってきた。 復帰記念の特設サイトは、トスカーニらしい色彩の喜びに満ちている。

f:id:amano_kuninobu:20180724192736j:plain

その写真家トスカーニとベネトン創業者は旧知の仲だった。しかし、諸事情からすぐには指名しなかった。ところが或る晩、真夜中にルチアーノ・ベネトンが帰宅した瞬間、彼を広告戦略に採用すべきだというインスピレーションが降りてきたらしい。 

ベネトン物語―革新的企業哲学はなぜ生まれたか

ベネトン物語―革新的企業哲学はなぜ生まれたか

 

慌てて電話すると、真夜中なのにトスカーニは留守だった。馬好きのトスカーニは厩舎で夜通し馬の出産に立ち会っていたのだ。こんな意味深な逸話がありながら、生まれてきた仔馬にどうして「ベネトン」と名付けなかったのかと残念がっている様子は、イタリアン・ジョークなのかもしれない。しかし、最終的に出産に立ち会ったものしか知らない素晴らしい写真が誕生した。それは人間の「最初の呼吸」をとらえていた。痛みに満ちていると同時に、最高に美しい写真だ。

f:id:amano_kuninobu:20180724183442j:plain

ベネトンの経営戦略のうち今でも拾えるとしたら、ふたつだろうか。

  1. 生産工場と販売店のネットワークを緊密化して在庫を最小化するシステム。
  2. 同一エリアに複数店を同時出店しするエリア・ドミナント戦略

 1.はトヨタカンバン方式と同じ。2.はセブンイレブンの出店戦略と同じだ。

現在の視点から振り返ると、先駆的だったベネトンの経営戦略は新鮮には見えない。しかし感心してしまうのは、市場参入する国の文化や慣習をきわめて綿密に研究している点だ。研究のリーチは、その国の政治や経済や社会問題にまで当たり前のように伸びている。だからこそ、社会問題に照準した発想が、表の広告に出てくるのだ。

f:id:amano_kuninobu:20180724183449j:plain

(人種差別が背景にあるLA暴動のドキュメント写真を用いた広告)

f:id:amano_kuninobu:20180724183430j:plain

第三世界の食料不足と飢餓問題をテーマにした広告)

f:id:amano_kuninobu:20180724183423j:plain

ベネトンの服を着る死刑囚たち。死刑制度の是非を問題提起している)

f:id:amano_kuninobu:20180724183446j:plain

上の写真が、ベネトンの広告写真のうち最も有名な一枚だ。衣料専業メーカーから出発して多国籍企業にのぼりつめたベネトンが、もし衣服だけで反戦を訴えるとしたら、この写真しかありえなかっただろう。これはボスニア紛争の兵士の着衣だ。血が残されて身体が消えていることから分かるように、兵士は実際に戦死した。NATO空爆により部分的に参戦した西側諸国のテレビには、一度も映らなかった映像だ。

「後染め」の技術革新で、多彩ないろどりの40色で世界へ躍進したベネトンは、最終的に「color-blind」を広告写真の中心主題に据える。この場合の「color-blind」は「色覚異常」ではなく、「肌の色で人を見ない」という意味だ。

f:id:amano_kuninobu:20180724183426j:plain

f:id:amano_kuninobu:20180724183417j:plain

f:id:amano_kuninobu:20180724183433j:plain

f:id:amano_kuninobu:20180724183436j:plain

同じ文脈の「color-blind」は、人種差別のはびこる南アフリカ共和国で、ラグビー代表の戦いを通じて、白人と黒人が団結する映画の主題歌にもなった。

(…)
Hear me say it's time we stop talking
Eye to eye we see a different face
Yes we we've conquered the war
With love at the core
A stumble I fall, but I'll stay
Colorblind.

聞いてくれ「お喋りをやめる時間だ」
目と目でお互いの引きしまった顔を見る
そうさ ぼくたちはこの戦いを克服するんだ
心の奥にある愛をもって
躓いて転んでも
肌の色で人を見たりしない

 

メディア自体の政治性や自主規制に覆い隠されたリアルは、必ず多様な「色」や「見方」をもって現れる。それらの色とりどりの多様性を、複眼思考のできる情報強者として把握できるようになったら、もうひとつの「色眼鏡」のバイアスを補正できるといいかもしれない。

世界が多様であるのと同じく、世界を見る時の私たちの感情状態も多様であり、見る者の状態が見られる対象の印象を大きく左右する。つまり、私たちの感情状態も一種の「色眼鏡」なのだ。

f:id:amano_kuninobu:20180724202732j:plain

 さて、「広告+色眼鏡と」の足し算から、2018年7月、絶対に出てくると思われるのが、AR(拡張現実)やARグラスだ。昨晩22時くらいに大学図書館に飛び込んで、三冊わしづかみにして借りてきたのだが、どれも2010年前後の書籍だった。good year ならぬ dog year を生きている私たちには、もはや古い印象がある。

ネット上では、2017年のこの記事が読みやすい。

VRは現実を完全に切り離し、非日常の体験をもたらすもの。ゲームはその最たる例だ。ほかにも、映画や遠隔地の旅行体験などのエンターテインメント、あるいは各種危険を伴う職業のシミュレーション訓練などで、不可欠な存在になるだろう。

 

いっぽうのARは、現在もスマホ向けのアプリで手軽に体験できるが、今後はメガネやコンタクトレンズのように小型軽量の装着デバイスに行き着き、情報をアシストする方向で我々の日常生活に溶け込みそうだ。風景の中に進むべきルートを表示してくれるナビゲーション機能や、レストランに目を向けたとき、店内の混雑具合やメニューを確認できるといったような使い方が想定されている。また、冷蔵庫の扉を開けずに中身を透視する、あるいは、遠くの見たいモノを拡大表示するような千里眼的な使い方も面白そうだ。

 

それに、医療分野での応用にも期待が大きい。手術時、MRIなどで取得した体内のデータを医師の視界に重ねることで、血管や患部の位置が明確になるなど、安全性とスピードが向上するというような発展も想定される。 

困ったことになった。ARの世界は日進月歩で、もっとワクワクする情報であふれていると思ったのに。その高すぎる期待も、近未来テクノロジーに対する自分の「色眼鏡」の所産だと言われればそれまでだが。

とりあえず、ベネ豚の「序詞」として冒頭に掲げた「三つの木」をあれこれ考えているうちに、友人向けのフレーズを思いついたので書きつけておこうと思う。ちなみに、私の友人の多くは、20歳前後だ。

男女置き換えても使えるリバーシブル仕様で、ポップに仕上げておいたぜ。

男: これまでのきみとぼくとの間に、「三つの木」がはえているのがわかるかい?

女: 「三つの木」? 教えてちょうだい?

男: 「初対面でハートがドキッ、恋しい気持ちを素直に言えなくてため息、いや・言えるさ・きみのすべてが好き」

引用、転用、盗用はご自由に。あたかも自分が思いついたかのように、好きな異性に行っちゃってもOKだぜ!

 

 

 

(「三つの木」= forest)

マドレーヌではなく真夜中の保育器室

夏真っ盛り。プールへ向かう家族連れとすれちがう日曜日。

大学時代に一緒に遊んだ横浜の同級生は、風貌が格好いいのに、やけに無口だった。勢い、話しやすい自分が解説に回る羽目になる。

ねえ? 彼ってどんな人なの?

まあ、いつまでたっても悪戯好きで、瞳は少年のままの性格だ。大学時代も変わらず、茶目っ気たっぷりに、彼女たちにこう答えたわけだ。

最近、10歳の女の子とキスしたらしいよ。ああ見えて、男ってわからないよね。あいつにとっちゃ、キスするチャンスがあったら、年齢は関係ないらしいんだ。

すると、女の子たちはキャッとか小さく悲鳴を上げる。10才はあってはならないロリータ趣味だ。彼女たちの好奇心が、波のように引いていくのが伝わってくる。 

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

そこですかさずお決まりのフォローを入れる段取りを、何度かこなした記憶がある。男同士の友情も大事にしなくちゃね。

あいつ、プールの監視員をやっていて、溺れた10歳の女の子を人工呼吸で助けたらしいよ。ほら、類は友を呼ぶっていうじゃない。本当にいい奴なんだ、あいつは。

この逸話は実話なので、よく覚えているが、夢の記憶というやつは、するするとみずのように逃げて、つかみどころがない。

たぶん、夢の中で小さな女の子を解放している状況らしい。友人の実話とは逆に、少女に水を飲ませなければ、彼女の生命が危ない。そんな危篤状態で、ぼくは水筒を傾けて彼女に給水しようと、つまりは、水を飲ませようとするのだが、気を失っている少女にどうやったら飲ませられるのか。何と声をかけたらいいのか、途方に暮れている。少女は絵本に出てくるような金髪の巻髪をしていて、リリーとか、メアリーとかいうようなよくある名前だ。フランス人形のイメージ。

ここで今晩の出題となる。

あなたなら、失神している少女に、どんな言葉をかけて、水を飲ませようとするだろうか? 台詞を考えてみてほしい。

夢の記憶は不思議だ。ついさっきまでその場面にいたのに、自分が外国の少女にどんな言葉をかけたのかさっぱり思い出せないのだ。この記事を書いている間に、何とかして思い出すことにしよう。

Typologies of Industrial Buildings (The MIT Press)

Typologies of Industrial Buildings (The MIT Press)

 

さて、水筒での給水の話が出たので、給水塔の話をすることにしようか。

上の写真集を出したベッヒャー夫妻は、異色の写真家だ。

ベルント・ベッヒャーは(…)1959年から、給水塔、冷却塔、溶鉱炉、車庫、鉱山の発掘塔などドイツ近代産業の名残が残る、戦前の建築物をともに撮影するようになります。「無名の彫刻」と命名したそれらの写真を比較対称し機能種別に組み合わせたタイポロジー(類型学)の作品で過去を内在した現在を指し示そうとしています。
(…)

冷徹に撮影者の主観をなくした客観的な表現方法はミニマリズムの範疇で語られることも多く、特に1980年代以降に現代アートとして高い評価を受け、活躍の場を欧州、米国へと拡大しています。1990年ヴェネツィアビエンナーレのドイツ代表として金獅子賞を受賞、2004年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞しています。いまや現代アートオークションで作品が高額落札されることが多い世界的人気アーティストです。

http://www.artphoto-site.com/story91.html

 この世にある建築の中で、最も地味な給水塔にカメラを向けて、各地の給水塔をただおさめただけの写真集。写真の世界の半可通にとっては、鑑賞の方向性が難しいところだ。ただ、解説の文章のミニマリズムという指摘はわかる気がする。大量生産大量消費の高度資本主義の反対側に立って、装飾をはぎとった必要最小限の物で生きていくこと。確かに、どの給水塔もその流儀で建っている。

ミニマリズムが部活やめるってよ」。そう誰かが嘯いていた気がしたので検索したが、何も出てこなかった。これも夢の中で聞いた声だったのかもしれない。たぶん、「ミニマリズムが部分的に終わるってよ」と言いたかったのではないだろうか。どんな夢だったのかな。記憶の専門家の力でも借りた方がいいだろうか。

頭の中で引きつづき検索をかけながら読書していると、これはビックリ。給水塔にこだわって、著作に写真まで載せている記憶の専門家が見つかったのだ。 

f:id:amano_kuninobu:20180722180250j:plain

どうやら、下の新書の著者が、幼少期に遊んでいた場所にある給水塔らしい。

 そして、近づいてみますと、この水道塔の下で遊んだ思い出が奔流のように、懐かしさとともにあふれ出てきました。当時、この水道塔の下あたりは、空き地になっていて、官舎に住んでいる子供たちが集まって、よく遊んだものです。缶蹴りをしたこと、「十字架」という鬼ごっこのような遊びをしたこと、さらにはまた、その当時、水道塔の水がよく漏れ出していて、その水で泥遊びをしたこと、近くの自生のビワやイチジクの実を季節ごとに取ってきては洗って食べたこと、などなどです。  高橋雅延

記憶力の正体: 人はなぜ忘れるのか? (ちくま新書)

記憶力の正体: 人はなぜ忘れるのか? (ちくま新書)

 

 認知心理学者の高橋雅延が語っているのは、プルーストのマドレーヌ体験と同じ無意志的記憶の喜びだ。音や匂いや物のような周辺物がきっかけで、意識で制御できない勢いで過去の記憶がよみがえること。これは何にも代えがたい喜びだし、プルーストの同時代の人々はそこに純粋な真実があると考えたらしい。

高橋雅延は、記憶には三種類あると説明する。自分の言葉で置き換えて整理したい。

  1. 意識的記憶(意識すれば思い出せる記憶)
  2. 無意志的記憶(意識の奥に沈んで、思い出そうとしても思い出せないが、何かのきっかけで蘇ってくる記憶)。
  3. 身体記憶(身体がそれに従って勝手に動くような、スポーツや音楽演奏を可能にする記憶)

1. で面白いのは、ひとつの刺激に対して、通常の感覚だけでなく異なる感覚も同時に近くする「共感覚」の話だ。『ロリータ』を書いたナボコフが、すべてのアルファベットに色を感じたことは有名だ。全人口の4%いるという共感覚保有者は、うまく活用すれば、記憶テストで好成績をあげられるという。逆に言えば、普通の人間でも、さまざまな感覚を同時に使えば、記憶テストの成績は向上するのだという。

英単語を覚えるとき、「目と口と耳と手を使って覚えれば速い」と自分が教えてきたのは正しかったことを知った。犬のいる青の表紙がやけに懐かしいワン! 

英単語ターゲット1900 5訂版 (大学JUKEN新書)

英単語ターゲット1900 5訂版 (大学JUKEN新書)

  • 作者: 宮川幸久,ターゲット編集部
  • 出版社/メーカー: 旺文社
  • 発売日: 2011/11/23
  • メディア: 単行本
  • 購入: 3人 クリック: 19回
  • この商品を含むブログを見る
 

本当は「潜在記憶」と呼ぶらしい 3. の身体記憶には、面白い実験が目白押しだった。意識では覚えていなくても、身体が覚えているのだ。いわゆる「勘」の大部分も、この身体記憶に含まれているらしい。

  • 誘拐されて一種の地下室に閉じ込められた4歳の女の子は、事件の記憶はなかったが、以後しきりに「バービー人形生き埋めごっこ」で遊ぶようになった。
  • 胆のうの手術中に一時的に記憶を失った外科医が、「ここはどこ?」「私は何をしている?」という程度まで記憶を失ったのに、手術はそのまま無事やりおおせた。

プルーストならマドレーヌと紅茶。2. の無意志的記憶が呼び起こされるきっかけは、場所、匂い、身体状態、感情状態があると、説明されている。そこで「ラジオ体操の伴奏なしにラジオ体操をできるか?」と問われているように、個人的には聴覚刺激と味覚+嗅覚刺激がトリガーとして大きく働くのではないかと思う。

新書では省かれていたが、これらの聴覚・味覚・嗅覚は、系統発生論的に言って、古くから人間の脳とネットワークを組んでいるからだ。 

聴覚刺激で無意志的記憶がほとばしるように広がるさまは、この歌でも歌われている。

古い歌が ラジオから
不意に流れるの

むかしいつも 聴いていた
憂鬱なブルース

あの頃わたしはいまより
ずっと若くて泣き虫  

おそらく「憂鬱なブルース」となビリー・ホリデイのことだろう。

そして、聴覚・味覚・嗅覚の連合が、古くから人間の脳とネットワークを組んでいることに、人間という種の秘密があると説く本に出逢った。

自分もこの記事を書いたとき、少しおかしいと感じたのだ。

アロウェイらによれば、持久走ができる哺乳類は人間だけ。人間は群れで走って鹿を捕獲することもできたはずだという。人間は汗をかいて放熱できるが、鹿はあえぎ呼吸でしか放熱できず、長距離を走っているとオーバーヒートしてしまうのだ。

人間が、身体の基本設計通りに長距離を走れば、ワーキングメモリも強くなる。このことは研究論文で証明されているのだという。脳を強くする方法は、きわめてワイルドな生き方に潜んでいるようだ。

困ったな。散歩や筋トレは好きだけど、ランニングは単調なので好きじゃない、とか言ったら、鹿られそうだ。鹿られるだけならまだしも、時折り地元の夜の繁華街で撮影している野人たちにニーブラされてしまうかもしれない。この世界は何が起こるか油断がならないから。

簡単に要約すると、「人間は長距離走行をするように身体ができているので、長距離を走ってもなんくるないさー」ということになる。単純運動の嫌いな自分は、「長距離を走るように身体ができているだなんて、人間はランクルじゃないさー」が本音だった。

だいたい何のために一日数十kmも長距離移動するのか、疑問でならなかったのだ。

野生の大地を放浪していた時期の人類は、まず聴覚で危険を聞き取ったことだろう。では、人類の脳と古くからコンビを組んでいる古株の「嗅覚 / /味覚」は、そのころ何をしていたのだろうか?

この本が答えをくれた。

 それにしても、アジア大陸を乞えて中国や南アジアまに至るまでの何万キロにも及ぶ長旅へと初期人類を駆り立てた誘因は何だったのか? 放浪癖だ、人間ならではの探求心だと言う者もいる。だが、新たな食料源を見つけたいという願望が動機だった可能性はないだろうか? 嗅覚を中心に据えて考えると、新説が浮かび上がってくる。食物に風味を添える植物い、言うなれば古代版ハーブとスパイスを探す旅だ。後に、歴史が記されるようになってから、香辛料貿易のルートに沿って人類移動が相次いで起きたのは、風味に対する渇望が原動力となったからだ。先にお話ししたとおり、渇望を生む中枢はヒト脳風味系の中心的構成要素のひとつだ。そして主要な入力がにおいなのである。 

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

 

確かに、香辛料がばらばらだった世界各国を、交易ルートで結びつけたのは事実だ。その大航海時代よりはるか昔、今から約100万年前に、人類は自分たちの足を使って、スパイスを探し求める大冒険の旅を続けていたらしいのだ。

(きっと遠くに「スパイスがあるぞ!」のヒット曲)

人間を動物と区別するのに「道具を作る動物」という定義を使うことがある。しかし、最初期に作られた最大の道具である「火」を中心に置くと、人間は「料理をする動物」だと再定義した方がいいという研究者もいる。

集団になって火を囲み、スパイスを使った料理をして、一緒に食事をすることで、ホモ・サピエンスは人類になったのだという説には、説得力がある。

おそらく、いくつかの研究が示唆するように、火、料理、それを囲む集団生活、言語は、おそらく相関関係をもって同時に生まれたのだろう。

という新説を、このブログの読者は呑めただろうか。呑めた? 呑めない?

困ったな。そんなこより、先ほどの問いの答えが、まだ自分の中で見つからないのだ。

あなたなら、失神している少女に、どんな言葉をかけて、水を飲ませようとするだろうか? 台詞を考えてみてほしい。

どうやったら、水を飲んでくれるだろう?

しょうがない。記事を書きつづけながら、もう少し答えを探すことにしよう。

というわけで、人類初のモノづくりは料理だった。この事実は動かないだろう。では、最新のモノづくりは?となるとだな、えれえことになっとるんじゃ、べらんめえ。びっくりすることになっているんではあるメエカア。 

MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

 

 「メイカーズ」関連が騒がしい。この元 Wired 編集長の著作以降、日本語でも数冊のメイカーズ関連本が出版されている。

「21世紀の産業革命が始まる」という副題にもあるように、簡単に小さくまとめると、メイカーズとは「3Dプリンタの普及以後、誰もがモノづくりできるようになる革命的環境」のことだ。 

となると、大量生産大量消費の反対側に立って、必要最小限の自分専用の物で生きていく道が、豊かに開かれたことになる。必要最小限の市販物で生きていくミニマリズムは、部分的に終わってしまったのかもしれない。

例えば、デンマークの誇る玩具レゴ・ブロックは、古代の剣はあっても、現代的な銃火器は作っていない。すると、その隙間を狙って、レゴ・ファン の一人がM1軍用小銃をデザインして3Dプリンタで出力した。たちまちファンサイトで話題になって、カスタムパーツとして、世界中に流通するようになったのである。そのレゴ・ファンは、今やカスタム・メイカーとして数千のロットで新製品を送り出す職人となったのである。

レゴ本社も、自身を補完する生態系の一部として、カスタム・メイカーの存在を歓迎しているのだという。

(↑3Dプリンタに関連する動きをまとめた記事。レゴ以外のブロックと連結できる連結パーツにも言及あり↑)

確かに、21世紀の産業革命は始まりつつある。誰もが簡単にモノづくりできる時代とは、母親が子供にキャラ弁を作ってあげるように、父親が子供に玩具を作ってあげる時代なのだろう。

 さて、実は自分にも、ふとしたきっかけで思い出す給水塔の思い出があるのだ。正確には、大学病院の屋上にあったので、給水タンクと呼ぶべきかもしれない。一年前の記事に、自分はこんな思い出を書きつけている。 

 と、こんなことをふと思い出したのは、昨晩東温市の雪交じりの田園風景を、魚眼レンズ効果を使って撮影した写真群を見たから。15歳の夏、東温市にある大学病院に長期入院していたのを思い出したのだ。入院している子供たちは難病の子供ばかりで、自分も20代までの生命との事実上の宣告をもらっていた。レギュラーだったもののサッカー部の最後の大会には出場できず、試合当日には、サッカーのユニホームを着て病床で横たわっていた。

 

 小児科で15歳と言えば、最年長の餓鬼大将だ。「手下たち」を引き連れて一番熱中した遊びは、紙飛行機を病院の屋上から飛ばすこと。紙飛行機と云っても、長方形の紙を折り畳んで数秒でできるものではなく、型紙を切り抜いてボンドで張り合わせて、ゴムカタパルトという発射装置で飛ばす高性能紙飛行機のことだ。 

高性能紙飛行機: その設計・製作・飛行技術のすべて

高性能紙飛行機: その設計・製作・飛行技術のすべて

 

 大学病院には精神科もあったので、当然屋上には自殺を防止するため高い防護柵が張りめぐらされていた。これでは、屋上から紙飛行機を飛ばすことはできない。屋上の一角、大人がやっとよじ登れるような梯子があるのを見つけて、屋上屋を架すがごとく建っている給水塔によじ登った。登ってみると、そこには柵も何もない。強風が吹けば転落死するかもしれない。そう思うと足が竦んだ。震える足で地面をしっかり踏みしめて、青空へ向けて紙飛行機を飛ばした。

 

 真下へ墜落するもの紙飛行機もあれば、大学病院の敷地外まではるばる飛んでいく紙飛行機もあった。稀に、イカルスのように上昇気流に乗って、あれよあれよという間に太陽の周りにある眩しい光域へと昇っていき、遠ざかる機影がそのまま光の中へと溶け入ってしまうこともあった。「手下たち」は高所の恐怖でうずくまりながらも、口々に歓声を上げた。闘病仲間たちが次々に死んでいくので、自分たちもこの病院の敷地から永遠に出られないかもしれない可能性に、誰もが怯えていた。

 

 恐怖と希望と。太陽へ溶け入って消えていった紙飛行機を、そんな相反する感情を抱いて、自分も含めた難病の子供たちは見つめていたように思う。 

もうひとつ、20代までの生命だとの宣告を受けた15歳のとき、深く刻まれているのは、難病の子供たちの保育器を集めた小部屋だった。10人くらいの赤ん坊がいたと思う。

 30年前のぼくが15歳で大学病院に入院していたとき、やっぱり泣き叫ぶ子たちは実際にいたんだ。家に帰りたい、どうして帰してくれないのかって。泣き叫んでもどうしても帰宅させてもらえない子もいて、たぶんその子たちは二度と家に帰れない運命だった。それくらい難病の進行した子供たちだった。

 

 入院中は時間があり余っている。大学病院を探検するのって、楽しいんだよ。よく訪問者用の白衣を着込んで、ベビーベッドが集められた病室へ入って、難病の赤ん坊たちを眺めて過ごしたもんだ。

 

 ステロイドを投与されたせいで、顔も身体も数倍に膨れ上がった5歳くらいの赤ん坊もいた。あの子はたぶん30歳になっても赤ん坊のままだったと思う。ひときわ大きなアクリルケースの中にふんぞりかえって、たぶん一日中寝ているだけの数年間を生きてきた。アクリルケースの両側には、おむつ交換できるように手を差し入れる口が開いていて、ぼくはよくそこへ手を突っ込んだ。赤ん坊の手のひらをくすぐってあげたかったんだ。くすぐると、膨れ上がったムーンフェイスの真ん中に集まっている目や口が動いて、本当に嬉しそうに笑っている顔になるんだ。病気で何もわからない赤ん坊でも、自分の皮膚に触れられるのがあんなに嬉しいもんなんだね。自分の皮膚に接触してくれる愛情をあんなに求めているもんなんだね。

上で書いた Moon Face の赤ん坊とは別の赤ん坊のことをよく覚えている。どういう病気だったのかはわからないが、名前に「帆」の字が含まれていた女の子だったと思う。彼女はいつも眠っていた。保育器の隣には、小さなホワイトボードが据え付けられていた。そこには、パパからのメッセージで「早く元気になってね」「おうちでみんなで待っているよ」「いつになったら帰ってきてくれるんだい?」というようなメッセージが、週毎に日付とともに書き込まれていた。

ぼくはそのホワイトボードが嫌いだった。見るのも嫌なくらいだったけれど、その病室に入ると、必ず見てしまうのだった。

というのも、ある日付を最後に、その一行メッセージは更新されなくなってしまい、一か月以上前の古いメッセージを最後に、その下の数行が空白になっていたからだった。

15才。昼間にすることといえば読書くらい。好きだったサッカーは禁じられていた。眠れない真夜中には、その保育器の赤ん坊たちが集められている病室によく忍び込んだものだ。そして、飽きずにじっと、赤ん坊たちの寝顔を眺めていた。 

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

 

 ノーベル文学賞受賞作家の私小説に、難病を伴って生まれた赤ん坊を、消極的に衰弱死させるかどうかで、主人公が苦悩する場面がある。自分が個人的に体験したのは、難病を伴って生まれた赤ん坊が、或る意味では現実に捨てられている場所が、この国にあることだった。

赤ん坊は誕生日を自分で選ぶ。誕生日の日付けになった真夜中、体内時計の予定時刻が来ると、母親の身体をノックして、陣痛を促す。

一方に捨てられた子供がいて、一方に生まれてくる子供がいる。真夜中のあの病室は、きっと自分にとって一種の原光景なのだろう。

感傷的になりたいわけではない。ただ、途絶えてしまったあのホワイトボードの続きを、誰に頼まれているわけでもないのに、自分が書いてみたい気がしている。他の誰かが書くよりも、自分が書くのが適任なのではないかという気がしている。

あれから約30年。確かに時代は変わった。書こうと思えば、どのようにでも自由に書けるし、モノづくりだって、作ろうと思えば、どのようにでも自由に作れる。

次代の子供たちのために、何を作ろうか。

そう考えたとき、ふいにあのありふれた名のフランス人形のような少女に、何と言うべきかが閃いたような気がした。

あなたなら、失神している少女に、どんな言葉をかけて、水を飲ませようとするだろうか? 台詞を考えてみてほしい。

このひとことしかないだろう!

飲んで、メアリー!

という洒落で記事をしめくくれるくらい、未来に「何でもあり」の自由がひらけているような気がして、今晩はとても嬉しい心地がするのだ。

 

 

ベルマークの手軽さ、希望のかけらの尊さ

柔らかい発想力がないと、優れたクリエイターとは言えない。

20代前半の話。上で話したラフォーレの最上階で芝居を打っている集団に、何度か役者として紛れ込んだことがあった。楽屋の窓から繁華街を見下ろすと、きまって「カル男」というキャバレ―の看板が見える。友人たちと、「なんてセンスのない名前なんだ」と笑い合ったものだ。「カルオトコ」なんていうキャバレーには、軽薄な男しか集まってこないにちがいない。しばらくして、誰かの脳が閃いた。

「カル男」は「カルオトコ」じゃなくて「カルダン」って読むんじゃないか? 

 な、なるほど。当惑してしまう言語センスだ。けれど、どちらかというと、これまでの人生で、自分の言語センスで当惑させてきたことの方が多いような気もする。

筋トレが趣味の友人宅で、ダンベルを見せられた。ところが「そのダンベル、ずいぶん軽そうじゃない?」と軽口を叩いたせいで、トレーニング指導を受ける羽目に。少々の重さのダンベルでも、表側へは簡単にカールできる。けれど、裏側になると急にキツくなって、腕が水平に上がらなくなるのだ。

苦しんでいる私を見て、友人は「あれ? ダンベル軽そうって言ってなかった?」と当然からかってくるわけだ。

「いや、これ、ダンベルじゃないでしょ? この裏向きなのは、初めてだな。ベルダンっていうんじゃなかったっけ?」と誤魔化そうとするが、ダンベルはどこまで行ってもダンベルだ。それでも、友人の模範演技を見て、「ダンベルじゃなくてベルダンまでできるなんて、さすがは嵐を呼べる男子」とか何とか、余計なことを言ってしまうのだ。

さて、「カルダン」から「ベルダン」へと書き進めてきたが、ここからは華麗にも No plan だ。とりあえず、と書いても何も思いつかないので、とーりーあーえーずー、と間延びして時間を稼いでいると、次の展開を思いついてしまう自分のことが、今日も好き。

とーりーあーえーずー、トリアーの話から。デビュー作の『エレメント・オブ・クライム』という謎めいた映画を、若い頃の自分は結構気に入っていた。「白 / 黒」ならぬ「黄金 / 黒」で撮影されたフィルムは犯罪映画のようでもあるが、ロブ=グリエ『消しゴム』やオースターのニューヨーク三部作のような、主客転倒のループ物だったと思う。わかりやすく言い直すと、殺人犯を追って現場へ行くと、殺されたはずの男が生きていて、思わず発砲して自分が犯人になってしまうというような筋立て。

鮮明に覚えているのは、最後にパイプのようなケース?に閉じ込められていたキツネリス?の赤ちゃんのアップで映画が終わること。文学的素養と映像美に憑かれた男なら、こういう処女作を撮るだろうと思わせる映画で、面白くはなくても、種族として近い自分は引き込まれて見たのだった。

出世作はやはりビョーク主演の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。贔屓にしているトム・ヨークとのデュエット主題歌も素晴らしいし、ビョークという弾ける才能を得て、ミュージカルの陽気さまで降り注いだカンヌ金獅子賞受賞作。映画館まで見に行った。

さて、ここからここまでの複数の文脈が、ある国の文化へと流れこむことになる。ラース・フォン・トリアーデンマークを代表する映画監督。そして、デンマークを代表する建築家のビャルケ・インゲルスは、幼少時にビョークが箱の中にいろいろな物を集めているMVを見て、創造に目覚めたのだという。

(↑ビャルケによるスキーのできるゴミ焼却場をモチーフに使った短編小説。推敲したい。↑)

序文 ズボンを脱いだCEO 

 

 水曜日の午後のことだった。突然オルベクがズボンを脱いだ。

「恐れや不安があると、人は普段よりもいくらかクリエイティブになる。こうすることで混乱を生み出し、従業員の間に革命が進行中であるという感覚を呼び起こしているんだ」 

世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方

世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方

 

 この序文を読んだときから、この本の先行きに一抹の不安を感じた読者は私だけではないだろう。このオルベクというクリエイターは、トリアー監督の右腕のプロデューサーで、彼のほとんどの映画にクレジットされている。

ズボンを脱ぐことで従業員たちに喚起している「革命の感覚」とは、まず、どんな革命なのかを説明してほしい、と書いているそばから、くすくす笑いが止まらない。あのヨーロッパ的陰鬱さに彩られた映画群を、こんなコント仕掛けのクリエイターがプロデュースしていたとは。

建築界の天才児ビャルケのインタビューでは、たぶんこれが最新だろう。上の記事で書いた同世代のイーロン・マスクと意気投合し、火星移住に必要な火星住宅をインゲルスが手掛けることになったらしい。

 昔、ヨーロッパがオーストラリアの植民地化を始めた時代、ヨーロッパからオーストラリアまで行くのに6か月くらいかかった。今日、地球から火星に行くのは、昔ヨーロッパからオーストラリアへ行ったのと時間的にたいして変わらないし、リスクだって変わらない。だから、間違いなく現実になると思うよ。

――SpaceXイーロン・マスク(Elon Musk)についてのお考えを聞かせてください。

僕たちは、自分たちの仕事を「実用的なユートピア」と呼んでいる。それは、実用的かつ現実的な方法で、より良い世界を作ろうという考えなんだ。

(…)

SF小説ウィリアム・ギブスン(William Gibson)の「未来はすでにここに存在している。ただ隈なく行き渡っていないだけだ」という言葉に影響を受けていると言ってもいい。変化は非常に穏やかなこともある。

(…)

僕にとって、イーロン・マスクは、実用的なユートピアンだよ。彼が最初に手を付けたのは、電気自動車の巨大システムを構築することではなかった。まず、すごく魅力的な電気自動車を作ることに集中して、ポルシェを買うような人でも欲しくなる車を作ったんだ。そのあとに、アウディの代わりになるような、非常に素晴らしい車を作った。もう少し一般の人にも手の届く価格帯でね。そういったことが全てうまく回りだして、販売網が出来上がったら、最期に、広く大衆に向けて売り出す。彼らの電気自動車や自動運転車に対する実用的で現実的なアプローチが、最終的に世界を変えていくんだ。

 上のビャルケの発言の中に、彼のクリエイティビティの特徴が二つ現れている。

ひとつは、ユートピア(≒夢)で自分を焚きつけるエネルギー志向。テスラが最初にポルシェ級の夢のスポーツカーからラインナップを始めたことが、ビャルケには響くのだ。

もうひとつは、創造に幻想を抱かないこと。ビャルケは或る日卒然と未知の霊感が滝のように降りてくるといった神話を一切信じていない。ゴールは夢であっても、そこへ至るプロセスは徹底して現実的なのだ。未知のものに飛びつくのではなく、既存の複数の物を組み合わせて、どのようにして最適解を出すかという作業の地道な積み重ねを重視する。

ビャルケに限らず、小さな前進のたゆまぬ積み重ねこそが創造だという考え方は、クリェイティブ・プロセスの研究で裏付けられている。「ユリイカ!」の霊感伝説は誇張されている。結局のところ、創造とは努力の積み重ねなのだ。

デンマークの創造本は、これまで自分が研究してきたクリエイティブ・シンキングと、さほど変わるところはなかった。当然のことながら、創造は国境を越えるというわけだ。国境を越えられないもの、つまりは:デンマークという国民国家に、大きな注目が集まっているのを知る人は多いだろう。「世界一幸福な国」がそのキャッチフレーズだ。

ランキングを追いかけたい人は、まとまりのいい上記の記事をどうぞ。

下記の本から、自分の言葉でまとめ直すと、世界一の幸福の秘密はこの6つにありそうだ。

  1. 国際競争力豊かな世界的企業が数多くある。日本での有名どころでは、カールスバーグやレゴ。
  2. 男女平等で、女性の社会進出が完成(女性の就業率は73%で男性とほぼ同じ)。その代わり、子育てと介護を国が手厚くサポートしている。
  3. 生涯平均転職率は5回。企業と人材のマッチング精度が高く、ミスマッチが生じればすぐに転職できるので、仕事への満足度が高い。
  4. 教育・医療・介護は原則無料。失業者や身体障碍者にも手厚いサポートあり。
  5. 政治腐敗度が世界で最も低いレベルにあるので(日本は18位)、ガバナンス・コストが低く、遵法意識や他者を尊重する意識が高い。

特筆すべきは義務教育のあり方の違いだろうか。ソーシャル・スキルに重点をおいた教育がなされており、「友人と仲良くやるスキルは算数の成績と同等」だと評価される。したがって、中学校二年生まで五教科のテストすら行われないのだという。

上記の1.2.3.4.5.のすべてに日本は問題を抱えており、それらのいくつかには自分も積極的な提言を行ってきた。一朝一夕に日本がデンマークになることはないにしても、「世界一幸福」を生み出しているものが、私たちの身近な社会制度を改善していくことから始まることは確かだろう。

身近なところと言えば、下の即興小説で用いた「秋山好古校長のところ」の高校出身の作家が、ソーシャル・ビジネスの対談集を出版しているのを見つけた。

「イレブンといって土を蹴ったぞ。全国大会に出たうちのサッカー部に関する予言にちがいない」と云ったものがある。秋山好古校長のところの蹴球部の連中に相違ない。

だから人間は滅びない (幻冬舎新書)

だから人間は滅びない (幻冬舎新書)

 

そのなかで自分が気になったのは、第六章で「反グローバリゼーション雇用」という章題を掲げているNPOだ。

上の記事で言及されていない内容がふたつある。ひとつは、プロジェクトの発案者が廃材活用製品を、ニューヨーク近代美術館に展示されてもおかしくないくらいのアート志向・デザイン志向の物にしようとしたこと。もうひとつは、プロダクトを障害者雇用によって生産していることだ。

工数あたりの生産コストでは競争力の乏しい障害者雇用を、デザイナーの尖った芸術センスで高い付加価値を稼ぎ出してフォローしようとする組み合わせが心憎い。

そういえば、自分の小説で同じようなNPOのことを書き込んだのを思い出した。

 雑誌を買って、帰りの電車の中で開くと、「若手起業家の横顔」と題された誌面の一劃で、シニャックが心持ち顎を上げた生意気そうな顔で笑っていた。記事はシニャックに好意的で、長野に移住までして法人を起ち上げ、障害者と協働しながら無添加石鹸を作る事業に打ち込む当時25歳の彼を、次世代のソーシャル・ビジネスの旗手であると讃えていた。
しかし、路彦の胸中に去来したのは複雑な感想である。あのシニャックが石鹸作りとはね、というのが心中の第一声で、記事中で強調される環境意識の高さや障害者雇用の意義などは、何だか莫迦に当たり前すぎて、彼がやらねばならないことではないような気がした。

このシニャックという男と主人公の路彦は、卒業旅行の機中で口論になる。

 しかし、席替えした後も鉾を収めようとしなかったのは、シニャックの方だった。路彦はもう取り合わなかったが、おれは侵略者とは「連続」しない、とか、路彦が「連続」を言うのなら、おれにも言わせろ、自民族中心主義はほぼ確実に自己中心主義と「連続」しているものだぜ、とか。成田に着陸した直後にも、路彦に或る旅行記を投げつけるように渡して、ムンバイへ行くべきだったな、おれたちも、と捨て台詞を言ってきたが、路彦はそれを無視して、別れの挨拶もせずに、旅仲間からひとり離脱して旅を終えたのだった。その背中に浴びせられたのは、こんな台詞。路彦は、ムンバイで赤ん坊の頃にマフィアに誘拐された挙げ句、手足を切断され、眼を潰されて、物乞いさせられ続ける子供たちとは、なぜ「連続」しようとしないんだ? まさか、人権を侵害されるアジア人より、日本人が優等人種だからとでもいうのか? そんな偏狭な差別的感覚を棄てるために、おれたちは長々と旅をしてきたのじゃなかったのか? 

物乞う仏陀 (文春文庫)

物乞う仏陀 (文春文庫)

 

ゴチックで強調した部分は、気鋭のノンフィクション作家である石井光太の著作を参考にして記述した。

この記事は、自分の関心や小説をパッチワークしながら、今のところこう流れている。

世界一幸福なデンマーク → OECD諸国の中でかなり貧しい日本 → 世界最貧民

上のゴチック部分の背景情報を知ることができた。気分の悪くなるような話も含まれているが、或る日本人がたまたま旅行で目にした光景が、こうやって活字や写真になって伝わってくることの幸運を今は感じていたい。 

 この町の犯罪組織はインド各地から赤子を誘拐してきました。そして子供が六歳になるまではレンタルチャイルドとして物乞いたちに一日当たり数十円から数百円で貸し与えるのです。(…)

 やがて、彼らが小学生くらいの年齢に達します。すると組織は彼らに身体に障害を負わせて物乞いをさせるのです。(…)

  • 目をつぶす
  • 唇、耳、鼻を切り落とす
  • 顔に火傷を負わせる
  • 手足を切断する
絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)

絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)

 

 さて、私たちはどんな国に住んでいるだろうか。良いところもあれば、悪いところもある日本。日本だけでも数え切れないほどの問題があるのは確かだとしても、高度情報化によて、海外の情報が打ち寄せる波のように繰り返し私たちに触れるなら、一日一ドル以下で生きる貧困層の人々に手渡せる何かがあるかもしれない。

さしあたり、それがどんな具体的なものかはわからないまま、自分はそれを希望のかけらとでも呼んでおこうと思う。

この記事はダンベルを「ベル⇔ダン」と呼び換える莫迦話から始めた。たぶん、こういった希望のかけらを世界各地に送るアクションは、一昔では考えられないほど身近な簡単なものにすることができる。小学生の頃にやっていたベル / マーク運動を、「ベル⇔ダン」変換して、世界一幸福な国の名前に近づけてもかまわないだろうか。

小学生の時熱中したあの程度の熱意で、たぶん救える生命があり、人生がある。そこまで思い至ることができなくても、世界の最貧民の子どもたちに、世界一幸福な国をイメージする程度の「希望のかけら」があってほしいと思えてならないのだ。

 

 

 

まだ見ぬオーロラのための心のオアシス

街角を歩いていると、オアシスのTシャツを来ている若者とすれちがって、振り向くことがある。90年代の英国ロックに一家言ある身としては、どうして10年代の末に20代の若者がオアシスを聴いているのか、興味が湧いてくるのだ。 

 もう少しダニエラの話を。プロのシンガーソングライターだから、あのプーチンより遥かに巧く歌いこなせるのはわかるにしても、Radioheadの「Creep」を、なぜこんな若い女の子がカバーしているのか。その辺りが疑問だった。リストを辿っていくと、グランジ・ロックの金字塔の曲までカバーしている。

 その理由は… わかってしまった。まだ wikipedia にも掲載されていない彼女のことだ。情報がないので断言はできないにしても、ほぼ間違いないだろう。…きっと、彼女の両親が愛聴していたんだ!  

RadioheadNirvana の名曲をダニエラ・アンドラーデがカバーしていたのは、おそらく親子間連鎖だろう。となると、Oasis のカバー歌手もいるのかもしれない。そう思って検索をかけると、Aurora というノルウェーのシンガーソングライターが見つかった。自分が贔屓にしている Massive Attack もカバーしている。オリジナル曲では「女性の王国」という造語をタイトルにしたこの曲が良さそう。

というわけで、今晩はオーロラの話をしてみたいと思う。

美しいオーロラの写真を集めた動画を見つめていると、オーロラが緑色をしていることが多いのに気づくだろう。

あの緑色は、私たちがこの地球で生きていける証しなのだと、オーロラ研究者は言う。宇宙から飛び込んできた高エネルギー粒子が、酸素とぶつかってできる色なのだ。

青やピンクは窒素分子とぶつかって生まれる色なのだとか。 

オーロラの科学―人はなぜオーロラにひかれるのか

オーロラの科学―人はなぜオーロラにひかれるのか

 

太陽の大きさを、私たちは肉眼で見えるあのサイズだと考えているが、実は太陽は個体ではないのだ。したがって、正確には、太陽風が届いている範囲が太陽となり、以下の等式が成立してしまう。

太陽のサイズ=太陽系

太陽系にはもちろん地球も含まれているので、地球は太陽の中にあって、常に太陽風を浴びている。人類が太陽風のせいでまる焦げにならずに済んでいるのは、地球の大気と地磁気が、私たちを太陽風から守ってくれているからだ。

そして、その太陽風と地球の大気圏と地磁気圏との摩擦がオーロラなのである。立式するとこうなる。

オーロラ=太陽風×(大気圏+地磁気

オーロラを太陽風による気まぐれな不定期ショーと見るより、「私たちの生命を守ってくれているガイアの愛」と見た方が感動できるかもしれない。例えば、オーロラから主色の緑が消えたり、オーロラ自体がまったく見られなくなったら、その地球に人類は生きていないことだろう。

ところで、近年の地磁気は少なくなってきている。この調子でいくと、日本でもオーロラが見られるようになりそうだ。と云っても、それは700~1000年後の話。オーロラの見られる北半球の帯は、このような感じになると予測されている。

f:id:amano_kuninobu:20180720181643j:plain

北は青森から、南は福岡まで、かなりの範囲でオーロラが観測できそうなので、楽しみになってくる。頑張って、あと700年長生きしなくては。

さて、このような地磁気の減少傾向を知ると、誰もが多少は不安になることだろう。その不安を先取りして、アメリカでさっそくディザスター映画が作られたらしい。

映画の中心主題は「ポールシフト」。ポールシフトは自転軸の移動と地磁気軸の移動の両方を指し、映画は両方をミックスして作られている。冒頭でヒッチコックさながら、鳥が建物に次々にぶつかっていく場面は、地磁気の異常を表現している。

磁気を感じ取れる動物は少なくないので、自分も何度か記事に書く機会があった。

(↑渡り鳥が量子もつれで動く磁気コンパスを持っていることは、この記事に書いた↑)

(↑ウミガメが海洋地図つき磁気コンパスをもって生まれてくることは、この記事に書いた↑)

他にも、イルカ、鮭、鮫、鮪、鰻も、磁気コンパスをもっているらしい。そして何と人類の親戚であるサルも、磁気センサーを持っているのだという。

では、人間は? 磁気を感じられない非磁気的動物なのだろうか? 

 (写真はひじき)

面白い実験が行われた。30人の学生を2グループに分け、1グループの学生たちを目隠しして、その目隠しバンドの後頭部に棒磁石をつけた。この棒磁石グループは、磁石なしグループに比べて、有意な差で方向音痴だったという。数km離れた地点で出発点の方角を推定させても、ほとんど当たらなかったのだという。対照群と対比できるきちんとした実験なので、人間にもわずかに体内磁石があるという説の方が有力だ。

比較的最近、Nature誌でも話題になったようだ。

さて、人間と磁気の関わりで、ぜひとも再言及しておきたい論点がある。それは「高層マンション症候群」という名で、その居住者の流産率などが有意に高いとするデータだ。実際に、欧米では子育て世代向けでは特に、高層住宅の建設が制限されている国が多い。

高層マンション症候群(シンドローム)(祥伝社新書224)

高層マンション症候群(シンドローム)(祥伝社新書224)

 

 スウェーデンでは「高層集合住宅の子供は病気にかかりやすい」との指摘を受けて、反対キャンペーンが展開され、住宅の低層化が進められた。と同時に、子どものいる家庭は五階以上に住まないように指導されている。  フランスでも、七三年に高層住宅の建設を禁じる通達が出され、以後建設はストップしたままだ。

 超高層集合住宅の本家アメリカでは、州や市によって大きく事情が異なり、ニューヨークでは超高層住宅が当たり前になっているものの、サンフランシスコでは八五年に住宅の高さ制限が導入され、ワシントンでも八七年に同様の決定がなされている。

 しかし、このような高層マンション制限派の国ばかりではない。もともとヨーロッパでは一時期高層集合住宅の建設が盛んだったとはいえ、アメリカや日本を含めアジア各地で見られる超高層マンションのようなものはなかった。景観保護のため、一部では高層オフィスビルさえ制限されてきた。だが近年、ロンドン、パリ、ベルリン、フランクフルト、マドリードなどの大都市では、超高層オフィスビルが続々建設されている。

(…)

 とはいえ、そのイギリスでも、子育て世代は四階以上には住まないようにとする制限は続いている。 

欧米で高層マンション建築が制限されているのは、流産率が高まるから。「地磁気から離れるから」は世界初指摘かも。 

 どこかに上のように書いたが、世界初かどうかはどうでもいい。たぶんどこかの誰かが言っているだろう。というのも、検索していて、こんな記述を見つけたからだ。

『鉄筋建築物や電車・車など鉄でできたものの中では地磁気が弱められる。そういう中で生活することの多い現代人には、磁気欠乏(不足)症候群ともいうべき病的状態が存在すると唱えている医学研究者たちがいる。』

上記の引用は気象庁地磁気観測所のサイトから引用した孫引きで、大本は削除されてしまっているTDKのサイトからのようだ。そのうち「鉄筋建築物」という文字を見て、ピンときた。このグラフを思い出したのだ。

f:id:amano_kuninobu:20180720200027j:plain

下のグラフで、同じ1,2階に住んでいるはずの一戸建て居住者と、高層マンション居住者を比較すると、5年以上住んだとき、流産率に2倍近くの差が出ている。地磁気のある地表からの距離は、ほぼ同じなのに。

おそらくそれは、鉄筋コンクリートのマンションか、木造一戸建てなのかの差だろう。

「木造住宅270件とマンション62件」を対象に平均死亡年齢の比較を行ったところ、マンションの住民の方が木造住宅に住んでいる人より9年寿命が短いことが分かりました。

これを調べたのは島根大学の中尾哲也教授です。

(…)

もう一つ、静岡大学東京大学の共同研究を紹介します。

コンクリートの巣箱、木製の巣箱、金属製の巣箱の3つを用意して、ネズミの子供の生存率を調べました。

結果は

コンクリートの巣箱では93%が死亡

木製の巣箱では15%が死亡

金属製の巣箱では59%が死亡

でした。

この実験でも木製の巣箱が圧勝です。

それにしても、コンクリート巣箱の生存率7%(木造は85%生存)って恐ろしいです。 

上の住宅別の平均寿命の研究結果は、下の書籍で有名になったものだと思う。自分が「高層マンション症候群」と地磁気の関連を書いたときは、半信半疑だったが、どうやら周辺にある研究結果は、拙論を補強してくれているようだ。当たったようなのが嬉しい。

コンクリート住宅は9年早死にする―いますぐ“木装リフォーム”して健康を取り戻そう

コンクリート住宅は9年早死にする―いますぐ“木装リフォーム”して健康を取り戻そう

 

その地磁気にも滅法詳しい船瀬俊介が、地球サイズの地磁気に関して、面白い説があるのを紹介していた。もし地磁気のポールシフトが起こったら、どうやら地球の風景は一変してしまうらしい。

f:id:amano_kuninobu:20180720202417j:plain 

では、磁場反転すると、どうして種が絶滅してしまうのか。

知りたくて知りたくてうずうずしていたら、この本の中で見つかった。

 5.4億年前のカンブリア爆発で多種多様な動物が一気に地球上に現れてから、少なくとも5回の大量絶滅が起こっている。五度目の大量絶滅が、有名な恐竜の絶滅だ。現在は、人間活動の悪影響による六度目の大量絶滅が進行中とも言われている。大量絶滅の周期性に着目し、宇宙との関連性を指摘する研究もある。絶滅に見られる6400万年周期は、太陽系が銀河系の円盤中心から遠ざかるリズムと一致しており、銀河系の外からくる宇宙船による被ばくが原因ではないか、という説だ。 

(説の出所はこの論文:Do Extragalactic Cosmic Rays Induce Cycles in Fossil Diversity? - IOPscience

地磁気と人間と動物との関係は、2つの有力な問題系へとつながっている。

  1. ヨーロッパの数百倍という規制の「意図的な緩さ」が、日本国民の健康をどれだけ悪化させているかの疫学的検証。
  2. 地震直前の電磁波電場に、動物や人間がどう反応するかの「前兆現象」を、地震予知に役立てる電磁気地震学の分野。
宇宙災害:太陽と共に生きるということ (DOJIN選書)

宇宙災害:太陽と共に生きるということ (DOJIN選書)

 
地震の前、なぜ動物は騒ぐのか―電磁気地震学の誕生 (NHKブックス)

地震の前、なぜ動物は騒ぐのか―電磁気地震学の誕生 (NHKブックス)

 

さらに宇宙大に視野を広くとると、どうやら、過去の大量絶滅と地磁気のポールシフトは関係ありそうだし、そのポールシフトは地球外の太陽や宇宙の活動と関係がありそうだ。

もう一度、オーロラが何から生まれているかの公式を確認しておこう。

オーロラ=太陽風×(大気圏+地磁気

f:id:amano_kuninobu:20180720205743j:plain

ライブ中継! / Live!オーロラ

上のサイトでは、ライブでオーロラの中継を見られるらしい。

美しいオーロラに心を動かされるとき、同時にオーロラで可視化された大気と磁場に守られて、私たちが地球で生命を輝かせられることの喜びを感じたい。まだ見ぬ極北のオーロラに自分が期待しているのは、そのような生命の喜びにつながる感動だ。

ちなみに、上の記事で言及した湯山れい子の甥にあたる作曲家が、オーロラの輝度を音符化してシンフォニーを作曲している。12星座を楽譜にした楽曲集もあるようだ。星やオーロラを眺める夜のBGMにはうってつけなのではないだろうか。

 

〈COLEZO!〉オーロラ・シンフォニー~オーロラの音楽

〈COLEZO!〉オーロラ・シンフォニー~オーロラの音楽

 

個人的に、今晩は Aurora による Oasis のカバーに耳を傾けたい気持ちだ。

それにしても遠いな、というのが、溜め息交じりに出てくる言葉だ。ある有名短編に対抗して、「100%の女の子」で掌編小説を書こうと思ったとき、最初は互いに地球の裏側に住んでいることにしようとった。日本の真裏はブラジル沖の海の上なので、赤道を挟んだ「線対象」の話に変えた。

地球の反対ではないけれど、日本から Aurora のいるノルウェーまでは、ずいぶん遠い。ずいぶん遠いけれど、その地に地球遊園地で生命を輝かせられることの喜びが舞い踊っているのなら、たとえどんなに遠くても、それを心のオアシスにして、しばらくは自分を慰められるような気がする。

落ち込んでなんかいないさ。 

 

 

 

 

 

 

I would like to leave this city
This old town don't smell too pretty
And I can feel the warning signs
Running around my mind

街から出ていきたい
この街にはもうときめきがない
危険なサインがぼくの心を
駆けまわっている

 

And when I leave this island
I'll book myself into a soul asylum
'Cause I can feel the warning signs
Running around my mind

この島を出るときは
別の心療内科を予約しよう
危険なサインがあそこを
駆けまわっていたから

 

So here I go
Still scratching around in the same old hole
My body feels young but my mind is very old

まだぼくはここにいる
同じ穴の中に幽閉されて
這いあがろうと壁をひっかいている

 

So what do you say?
You can't give me the dreams that are mine anyway
You're half the world away
Half the world away
Half the world away
I've been lost, I've been found
But I don't feel down

きみはどう言いたいのだろう?
どっちにしたって
きみからはぼくの夢をかなえてあげられないって?
どうして?
きみは地球の反対側にいる
とてもとても遠いところに
一度は見つけたと思ったものを
なくしてしまったのだろうか
でも 落ち込んではいないさ
そうだとは信じていないから

 (…)

 

新しくアエル覚醒を水晶します

困ったな。諸事情あってお金がほとんどないので、まともな食事ができなくなってしまった。学食でも行けば? と気安く助言されそうだが、上の記事のような小綺麗な学食は800円くらいするし、カジュアルなところでも500円くらいはする。その1/3未満で何とかならないだろうか。

とは、もちろん知人には打ち明けられないので、「外のどこかで食べてくる」と告げて別れ別れになる。ぼくは心の中で呟く。とうとうあれを試すときが来たのではないだろうか。

「学食」ではなく「光食」。

太陽を見つめるだけで、飲食をほとんどしなくても生きていける修行者が、世には何人もいるそうなのだ。

いくらハートがでっかいどうでも、そこまでのやる気は稚内が、財布事情が最北端ならやむを得ない。マクロビオティック創始者が「身土不二」といっていたから、地元の太陽を見つめた方がきっと相当身体に良いのだろう。そうしよう。

京都生まれの両親のもとで育ったので、地元の伊予弁は得意じゃない。この「相当」を「ほうとう」、「そうしよう」を「ほうしよう」と伊予弁で話されているのを聞くと、違和感がある。

そういえば、昔よく行っていた自由が丘の「ほうしよう」は潰れてしまったらしい。普段使いの紅茶には悪くない選択肢だと思うのだけれど。ちなみに、自分が買い物に普段使いしているエコバッグは FAUCHON だ。 

どれどれ、FAUCHON の茶葉はどれくらいするのだろう。 

FAUCHON 紅茶ダージリン(ティーバック) 20袋

FAUCHON 紅茶ダージリン(ティーバック) 20袋

 

 そうか。財布事情が最北端の今の自分には、手が出ないな。これなら、リプトンの方が半額以下なのではないだろうか。 

リプトン イエローラベル 50 2.0g×50P

リプトン イエローラベル 50 2.0g×50P

 

 というわけで、昨晩の記事に続いて、またしてもリプトンの本を手にすることになった。書き落としていた重要な論点があったのだ。

恐怖ではなく愛を感じながら生きれば、好ましい遺伝子のスイッチがオンになって、自分の望む運命を生きることができる。その仮説が科学的に証明されつつあり、それを上回る仮説はない。

上が、自分の言葉でまとめたリプトン『「思考」のすごい力』の結論だ。 

「思考」のすごい力

「思考」のすごい力

 

ポジティブ・シンキングが、人間の身体全体に良い影響を及ぼすのはわかった。でも、人間の身体を構成している個々の細胞は、それぞれ違った発言の仕方をする。DNAが主役でないなら、個々の細胞はどうやって自身を作り変えて行くのだろう?

スタンフォード大学で生物学を研究してきたリプトンの答えは、あまりにも独創的だ。細胞の「脳」は細胞膜だというのである! 「脳 brain」の役割をしているのだから、細胞膜と呼ばずに「メンブレインmembrane」と呼んで、語感を生かそうとまで提案している。

リプトンは研究に研究を重ねた結果、このように細胞膜を再定義する。

細胞膜とは、結晶性の半導体であり、ゲートとチャネルを持っている。

そして、自分の書いたそのメモを見て、あることにはたと気が付く、アレとそっくりじゃないか。

コンピュータ・チップとは、結晶性の半導体であり、ゲートとチャネルを持っている。

つまり、細胞のコンピュータチップに該当するものが、細胞膜なのだと考えるべきなのだ。研究の積み重ねの末に、閃きが天から降りてくるアハ体験は、研究者独特のものかもしれない。子供のような喜びが文章に満ちているのが、どこか羨ましい。

12年後の下のNATURE誌上の論文で、「細胞膜=コンピュータチップ」仮説は実証されたらしい。ロッカー志望だったリプトンは、生物学者としても、かなり早見えの才気あふれる人だったのではないだろうか。

さて、細胞膜が細胞の「脳」だというところまで書けたので、ひと息入れることにした。ぼんやりと岐阜県の南にある恵那市の道の駅を眺めていた。

「ラ・フォーレ」の前後に地元の地名しか書いてないのが、ええな。気が付くと、そう呟いていた。地元の松山市には、かつて「ラフォーレ原宿松山店」が若者たちが集まるランドマークだったのだ。

松山に遊びに来た友人をそこへ案内すると、どうして「原宿」が名前についているのかを、からかい半分でずっと詰問されたものだ。答えられるはずもない。ひとことで、この書名で言い返した。 

風に訊け (集英社文庫)

風に訊け (集英社文庫)

 

 ん? どういう風の吹きまわしだろう。何の話をしていたのだったか。

そうだった。「恵那市」ではなく「energy」の話をしていたのだった。

では、生命科学界がおさらばしたDNA決定論に対して、リプトンは量子的な何を対置させているだろうか? 想像してみてほしい。

 

答えは、エネルギーだ。「物質はエネルギーでできている」というアインシュタインの名言を信奉しているからではない。実際に、細胞間ではエネルギーによるコミュニケーションが行われていることが確認されている。さらに、ホルモンや神経伝達物質などより100倍も効率が良いことが示されているのだ。 

ここでいうエネルギーとは、電磁エネルギーのこと。電磁エネルギーの影響を最も受けやすい人体器官のひとつが、松果体だ。

或る漫画キャラクターがおでこに「肉」と記している箇所は、スピリチュアリズムでは、俗に「第三の眼」とも言われるきわめて重要な部位。人間の心身のバランスを取るのに、とても大事な場所だ。この記事がうまくまとめてくれている。 

記事の筆者が、「第三の眼」だけに着目するだけでは駄目と強調しているのは、「第三の眼」という俗称は、7つのチャクラのうち第六チャクラに相当し、それが第二チャクラ(丹田)との相関性が高いとされているからである。

スピリチュアリズムが苦手な人もいるだろうから、医学的な見地から再確認しておくと、そこにある松果体は幸福ホルモンのセロトニンや睡眠ホルモンのメラトニンの分泌に大きく関与している。

数年前の自分はとんでもない量の電磁波を浴びたせいで、松果体がおかしくなってしまい、各種のホルモン分泌値が激減して、ゾンビみたいになってしまった。社会人として仕事を続けられなくなるかもしれないと思って、散々ネットで情報を探し回った体験が、「裏真実」に目覚める覚醒のきっかけになった。さまざまな方法で松果体をいたわることで、第六チャクラに関わりの深い「勘」は、以後かなり戻ってきた。 

松果体を活性化するために、やってはいけないことを先に確認してみたい。

ワクチンに含まれている水銀が有毒であることは当然としても、フッ素が良くないと聞くと、意外の感に打たれる人も多いのではないだろうか。検索すると、きちんとまとめてくれているサイトがたくさん見つかったのが嬉しい。早く常識が人々に行き渡るといいと思う。

アメリカでは全人口の70%の公用水道水にすでにフッ素化合物が添加されています。そのため、住民のフッ素に対する関心も高いのです。

1950年代、アメリカで水道水へのフッ素化合物添加の是非をめぐる一大論争が科学者の間で起きました。そのとき低濃度(1ppm=100万分の1)のフッ素の安全性を訴えたフッ素支持派の筆頭者はハロルド・ホッジ博士でした。恐ろしいことに、ホッジ博士とは、広島に投下した原子爆弾を開発した 「マンハッタン・プロジェクト」の中心的人物であり、その他にも数々の非人道的な実験を行っていたことでも有名ですが、詳細は後述します。

またフッ素を人類史上、初めて水道水に導入したのはナチスです。

強制収容所からユダヤ人が脱走しないようにフッ素入りの水を飲ませ、その意思をくじいてしまうことが目的でした。

またフッ素は殺鼠剤の主原料としてよく用いられています。

(…)

そもそもフッ素の有効利用の始まりはアメリカにおけるアルミニウム産業でした。

産業廃棄物であるフッ素の毒性と処理に手を焼いていたアルコア社の主任研者フランシス・フレイリーは、メロン産業研究所の研究員ジェラルド・コックスにフッ素の歯に与える影響を研究して、その有効利用を提案しました。

そして、コックスは 1939 年に虫歯予防のために、公用の水道水にフッ素を添加することを提唱します。 

虫歯予防”フッ素”の真実

http://www.thinker-japan.com/PDF/10facts.pdf

同じサイトにある上記のPDFには、フッ素の有毒性を示す10の真実が分かりやすく示されている。翻訳をしたのは、こちらの歯医者さん。フッ素の有毒性だけでなく、それが松果体の石灰化という害を及ぼすことまで、しっかり調べて記述されている。

この千葉の歯医者さんの記事に拍手喝采を送るつもりで、青春時代に流行した名曲をお送りしたい。

そして、松果体に対して、もうひとつやってはいけないことが、電磁波被爆だ。

20メートル先の携帯電話の小型基地アンテナ三本と、窓越しに向かい合わせで生活して数か月。40才を過ぎて電磁波過敏症を発症した自分にとっては、深刻な問題だ。電磁波過敏症は花粉症と同じく、曝露の量がある一定水準を越えると発症するので、ヨーロッパ基準の約200倍、中国の約100倍の野蛮すぎる規制値しかない日本では、誰もが他人事ではない。この問題は別記事でまとめてみたい。

さて、電磁エネルギーを感じる松果体に関する新刊が出た。慶応大学医学部卒の医師の本だか期待していたのだが、チョプラ博士もびっくりのぶっ飛び本だ。スピリチュアル小学二年生の自分は、科学や医学の世界へ出かけて、スピリチュアリズムの科学的根拠を探そうとしているのに、医師たちの方がはるかにスピリチュアルな主張を繰り広げるので、当惑してしまう。 

松果体革命 ― 松果体を覚醒させ超人類になる!

松果体革命 ― 松果体を覚醒させ超人類になる!

 

 ただし、このぶっ飛び本の著者が、リプトンの分子生物学と重なる主張をしていることには、注目を向けておきたい。

細胞膜の表面には「レセプター」と呼ばれる、情報の受け渡しをする窓口である受容体があります。

 

現代科学の知識では、神経端末から、アセチルコリンやノルイアドレナリンといった神経伝達物質が放出され、レセプターがそれを受け取り、細胞に必要な信号を伝えるということになっています。

 

ところが実際には、細胞間で振動数を伝達しているだけであり、その振動数を渡す際の副産物として、神経伝達物質が生まれているのです。 

 そのような確かな生物学的知識が最終的にどうなるかというと、下の写真のようになってしまう。

f:id:amano_kuninobu:20180718190658j:plain

もう一度キャプションを読むことにする。

松果体覚醒で珪素(水晶)化し、光を放つドクタードルフィン

合成写真では? 一般常識に首まで使っている人には、そうとしか思えないだろう。しかし、2017年からスピリチュアリズムに没入しはじめた自分は、スピリチュアル・リーダーが写っている写真の数百枚に、このような「光の舞い」が写り込んでいるのを目撃してきた。しばしば「龍」とも呼ばれるあの「光の舞い」の正体は、珪素化した松果体が関わっているのかもしれない。

そして、ここで、世界で誰も指摘していないだろうリンクを披露しておこう。

リプトンが細胞膜をこう再定義していたことを思い出してほしい。

細胞膜とは、結晶性の半導体であり、ゲートとチャネルを持っている。

実は、珪素(水晶的要素)は松果体に最も多く、細胞膜にも多く含まれているのである。

人体の時空を司る松果体と、それぞれの細胞をコンピュータ・チップとして制御する細胞膜と、写真に写る「光の舞い」は、すべて珪素(水晶的要素)というひとつのリンクで結ばれているのである。

これは、エピジェネティクスの研究に専心する細胞生物学者も手をつけない謎めいた領域ではあるが、確実にスピリチュアリズムの重要な何かが関わっているのを、感じずにはいられない。

この発見が、今晩の読書の大きな収穫だった。これを起点に、ぜひとも石灰化した自分の松果体を水晶化してみたい意欲が湧いてきた。だって、実際に「光食」に成功して、NASAの研究対象となった人物もいるのだ。

食費が浮いて浮いてしょうがないのではないだろうか。うまくすれば、自分の電磁波過敏症も直せるかもしれない。この論点は実に奥が深そうだ。

 8年間、水分と日光だけで生きていると主張するインドのヒラ・ラタン・マネク氏(64・写真)がこの度NASAに招待され、彼がどのようにしてそれを成し遂げているかを紹介することになったとのこと。氏はケララ南部に在住する機械エンジニアで、1992年から断食を開始し、1995年にヒマラヤに巡礼に出かけた帰り道から断食をスタートしたという。彼の妻Vimlaさんは「彼は毎朝必ず太陽をまばたきせずに一時間ほど凝視するの。それが彼の主食なのよ。たまにコーヒー、お茶とか水分を取りながらね。」と話している。そして昨年6月、米科学者らは氏が確かに130日間日光と水分だけで生きていることを確認し、科学者らはこの現象を氏の名前にちなんで"HRM現象"と名づけている。NASAは氏のもつ特異な才能が宇宙探索における食料保存の問題に何かしらヒントを与えるのではと期待しているという。

よし、松果体の水晶かを頑張ろう。そうしよう。

心の中でそう呟いたあと、地元の伊予弁なら「ほうしよう」と言うのだろうなと連想してしまった。

窓の外を見ると、松山の街にはもう夜のとばりが降りている。アーケードの屋根の向こうに、ラフォーレ原宿松山店の跡地に建った「アエル」の新しい建物が見える。

バルコニーに出て、夜に向かって、こう言い直した。

星よ、新しい「アエル」がありますように。

 

 

 

「ベッカムのそりこみ」のあるクノイチ

ベッカムはどうして、リプトンのアイスティーを飲むとスイッチが入って、東京のホテルの屋上でクノイチと踊ってしまうのだろう?

誰もが抱くにちがいないこの疑問から、記事は始まる。

よく見ると、踊っているのはベッカムではなく、ヒュー・ジャックマンだった。生え際のソリコミ部分のかたちが違うので気が付いた。ベッカムは「M字後退」が全然ないのだ。

それにしても苦笑してしまうのは、普通のアメリカ人にとって、日本のイメージがいまだに『キル・ビル』どまりらしいことだ。クノイチと踊る場面の演出はタランティーノ全開だ。背景にある「映画館映画」と「ングセン ショッピングセンター」いう看板が、日本人にはどう考えても「ン解せん」。

深作欣二好きのタランティーノが、こっそり美輪明宏をチェックして『キル・ビル』を撮ったことは、この記事に書いた。

 この有名な「軍団」の登場場面で一群を率いて歩いてくる白装束の女を、タランティーノ監督は、美輪明宏にインスパイアされて造型したらしい。正確には、名字を「美輪」に代えるようにとの霊感が降りてくる前の「丸山」明宏による『黒蜥蜴』。原作は江戸川乱歩、脚本は三島由紀夫、監督はタランティーノが偏愛を寄せる深作欣二。豪華すぎる顔ぶれが勢揃いした探偵映画の名作だ。 

布袋寅泰による「キル・ビルのテーマ」は、個人的には下の曲と並んで、アクション「映画館映画」のテーマ曲の双璧をなす。調子のいいときは、カーステレオで鳴らして、スイッチを入れるのに使う曲だ。

あいにく今朝は体調が優れなかった。起き上がってキッチンに立つと、喉を鳴らして水を飲んだ。60年代の流行語でいうと、「C調」じゃない感じだ。

ネットサーフィンをしていると、「C調」じゃないのは自分だけじゃないらしく、本日現在、横浜DeNAベイスターズも5位に沈んでいる。

f:id:amano_kuninobu:20180717203302j:plain

昨晩は、脳におけるニューロン中心主義が、「グリア細胞的転回」をまわった歴史的転換について書いた。

今晩は、DNA決定論がとうとう王座から転がり落ちつつある様子をデッサンしていこうと思う。

まずは、DNAの手下だと思われていたRNAが「下剋上してやった」と息巻いている件を、皆様に報告しておかなければならない。 実はDNA決定論をあっけなく覆す重大な発見がNATURE誌などを賑わせている。結論は衝撃的だ。

DNAはRNAのバックアップコピーである。

脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて―(新潮新書)

脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて―(新潮新書)

 

     Whatever molecular mechanism leads to the unusual pattern of genetic inheritance we have observed in hth mutants, the genetic results presented here indicate the existence of an extra-genomic mechanism that leads to the high-frequency modification of DNA sequences in a template-directed manner. The structure of the templates together with the mechanisms by which they are produced, inherited and used remain questions for future research. It will be of great interest to see how widely distributed this mechanism of inheritance is throughout the tree of life.

 どのような分子機構が、h番目の変異体で観察した異常なパターンの遺伝形質を引き起こすにせよ、ここに示された遺伝的結果は、テンプレート志向のあり方のDNA配列を、高頻度の修正を引き起こした別のゲノム機構の存在を示している。DNAのテンプレート構造とそれが生み出し、受け継がれ、使用される別のゲノム機構の相互作用の実態は、今後の研究の課題として残されている。この遺伝形質相続の仕組みが、生命の系統樹の全域に広く分布していることは、興味深いことだろう。

http://www.evolbiol.ru/docs/docs/pruitt2005.pdf

上記の結論部分で、「DNA配列に高頻度の修正を引き起こした別のゲノム機構」というのが、エピジェネティクス(遺伝子の上位にある遺伝学)ということになる。

実験の内容に即して、上記新書の著者はこうまとめている。

 彼らは、親の世代が変異型であるそのシロイヌナズナが、正常な野生型の遺伝子を持っていないにもかかわらず、その祖父母の世代にまでさかのぼって正常な形質――つまり、変異体ではなく正常な野生型としての形質――を獲得したことを発見したのである。祖父母の世代は正常な野生型だった。

 細かい分析は省略するが、彼らはこの現象と、いくつかの分子遺伝学的な実験データから、祖父母の世代に正常な遺伝子のRNAにキャッシュとして記憶され、これが孫の世代にまで引き継がれ、そこでDNAに逆転写されて、その結果、正常な野生型としての姿を取り戻したのではないか、と主張したのであった。  

IT用語で比喩的に考えるとわかりやすいようだ。自分の言葉も交えて、再度まとめてみる。

 遺伝情報の主役はRNAで、DNAはRNAのバックアップコピーにすぎない。DNAにない情報でも、RNAがキャッシュとして保存しているものもある。

上記の「RNAキャッシュ」の発見が2005年。新書が書かれたのが2007年。それから約10年後の現在、このエピジェネティクス(遺伝子の上位にある遺伝学)の分野はほっとけないホットさが沸騰していて、関連する地元図書館の本がほとんど借り出されてしまっている。 

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

 

 (双子好きなので、いつか必ず読んでみたい)

このブログの読者の中には、ピンときた人も少なくないと思う。少し前に、このような記事を書いた。

 日本の遺伝子研究の第一人者が、遺伝子にオン/オフのスイッチがあることを発見していたとは。では、次に何が問題になるかと言えば、良い遺伝子スイッチをオンにして、悪い遺伝子スイッチをオフにするには、どのような生き方を心がければよいのか。

  1. 思い切って今の環境を変えてみる
  2. 人との出会い、機会との遭遇を大切にする
  3. どんなときも明るく前向きに考える
  4. 感動する
  5. 感謝する
  6. 世のため人のためを考えて生きる

 遺伝子研究というよりは、自己啓発本に近い記述が並んでいる。しかし、実際の医学研究でも、笑いが糖尿病患者の血糖値を劇的に低下させたという論文を、厳しい査読を経て、サイエンス誌などに海外の医学研究誌に掲載したりもしている。笑いが免疫を高めるところまでは、医学的に到達しているのだ。 

日本の遺伝子研究第一人者の村上和雄といい、レディーガガからも信望厚いチョプラ医学博士といい、主張はきわめて興味深いのに、主張が自己啓発本とほとんど変わらないことに戸惑ってしまう。自分は逆方向を歩いている。スピリチュアリズムを支える医学的根拠を捜しているのだ。

レディー・ガガのアーティスト名がこの曲に由来するのは知っているよね)

歩き回って探してみると、見つかるものだ。 

遺伝子発現のオンとオフ―ファージからヒトまで

遺伝子発現のオンとオフ―ファージからヒトまで

  • 作者: マークプタシュネ,アレクザンダーガン,Mark Ptashne,Alexander Gann,堀越正美
  • 出版社/メーカー: メディカルサイエンスインターナショナル
  • 発売日: 2004/05
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

 これらの00年代のエピジェネティクスの研究は、10年代に入って飛躍的に進んだ。RNAの周辺にプロモーター、エンハンサー、インスレーターなどの役者たちが活躍していることも、解明された。

一番わかりやすいのは、このイラストではないだろうか。

「遺伝子情報全体は辞書のようなもの」だと考えるといいと中尾光善は説明する。実際、私たちの遺伝子のうち稼働しているのは数%だと言われている。辞書の単語群のうち、稼働させたい遺伝子に色別に付箋をつけて、スイッチの ON / OFF をしているのが実態らしいのだ。

f:id:amano_kuninobu:20180718033129j:plain 

驚異のエピジェネティクス〜遺伝子がすべてではない!? 生命のプログラムの秘密

驚異のエピジェネティクス〜遺伝子がすべてではない!? 生命のプログラムの秘密

 

遺伝子に傷があるからガンになるという俗説は誤りだ。 人間はガン抑制遺伝子もガン発現遺伝子も持っていて、生きてきた環境によって、エピジェネティックな刺激を受けて、発ガンしたりしなかったりするのだという。バイバイ、DNA決定論

DNA決定論を葬ったのは、他でもないヒトゲノムの完全解読だった。12万個以上遺伝子があると予測されていたのに、約2.5万個しか見つからなかった。人間の複雑さの程度から、当然同じ程度の数の遺伝子があると信じられていたのに、約80%の遺伝子が存在しなかったのだ。では、遺伝子以上の何が複雑さを生み出しているのだろう? 

それを研究するのがエピジェネティクス。矢継ぎ早に研究書や入門書が出版されて、大きな盛り上がりを見せている研究分野だ。

と、ここで冒頭の問いへ帰ることになる。

ベッカムはどうして、リプトンのアイスティーを飲むとスイッチが入って、東京のホテルの屋上でクノイチと踊ってしまうのだろう?

エピジェネティクスの異端の研究者ブルース・リプトンによる「遺伝子スイッチの入れ方」の研究がとても面白い。 

「思考」のすごい力

「思考」のすごい力

 

 リプトンは70年代、エピジェネティクスという言葉すらなかった時代に、ひとり遺伝子の活性制御の研究を行っていた。その孤独の中で、さらなる先駆者の研究に光を当てることになった。

ちょっと「C調」な言い方をすると、リプトンは紅茶にビタミンCたっぷりのレモンが入っていることに気付いた。

ビタミンC発見者でノーベル賞受賞者のセント=ジェルジが、『分子生物学入門――電子レベルから見た生物学』を1960年に出していたことの重要性に気付いたのだ。

副題の「電子」という言葉に注目してほしい。リプトンによると、当時ノーベル賞受賞者の耄碌の所産だとして無視されてきたこの本は、量子生物学のはしりなのだという。

(↑光合成が量子的運動から成っているとする量子生物学に言及した記事↑)

(↑鳥やウミガメが(量子もつれを使って)地磁気でナビゲートしていることに言及した記事↑)

(↑欧米で高層マンション建築が制限されているのは、流産率が高まるから。「地磁気から離れるから」は世界初指摘かも↑)

ビタミンCの父セント=ジェルジの分子生物学は黙殺されたが、それは半世紀前の話。今やNATURE誌上でも、生命を作り出す分子の動きは、ニュートン的な原理ではなく、量子物理学の法則であることが定説となっている。少なくとも、微細な分子レベルでは、チョプラ博士のいうように、人体を量子医学で把握していくことがコンセンサスになりつつあると言えるだろう。

では、生命科学界がおさらばしたDNA決定論に対して、リプトンは量子的な何を対置させているだろうか? 想像してみてほしい。

答えは、エネルギーだ。「物質はエネルギーでできている」というアインシュタインの名言を信奉しているからではない。実際に、細胞間ではエネルギーによるコミュニケーションが行われていることが確認されている。さらに、ホルモンや神経伝達物質などより100倍も効率が良いことが示されているのだ。

 人間を含め、すべての生物は、エネルギー場を認識することによって環境から情報を読みとり、情報のやりとりをおこなっている。しかし、人間は話し言葉や書き言葉に頼り切っているので、エネルギーを感じ取ってコミュニケーションするシステムを無視してきた。生体の機能は、使わなければ退化していく。たとえば、オーストラリアのアボリジニーは砂の奥深くに埋まる水脈を感じとることができるし、アマゾンのシャーマンは、薬用にする植物たちと、エネルギーを用いてコミュニケーションをとることができる。

リプトンによる『「思考」のすごい力』は、「思いのエネルギー」が自分の身体や自分の運命さえも変えていけることを、生物学の立場から詳述している。

特に、HPA系(外部脅威への防衛反応)が稼働すると、病気への抵抗性は落ち、頭はうまく働かなくなり、体力を消耗してしまう。だから、恐怖や不安やストレスの少ない環境を、自分に与えるよう推奨している。

魂や思いの力が物理法則を越えて作用する。 

 そんな風に結論すると、眉をしかめる唯物論者もいることだろう。そういう局面で、リプトンが「ベッカムのそりこみ」を持ち出してくるのが面白い。

 理由の一つは、「オッカムのかみそり」である。これは哲学的・科学的な思考の原則で、ある現象を説明する仮説が複数提唱された場合、もっともシンプルでほとんどの観察結果を説明できるものが正しい仮説である可能性が高いので、その仮説からまず検証すべきだ、というものだ。魔法の膜に関する新しい科学と量子物理学の原理とを組み合わせれば、現代西洋医学のみならず、保管医療やスピリチュアル・ヒーリングについても、矛盾のない説明が可能である。

すべてが明らかになっているわけではない。リプトンはさらにスピリチュアルよりの主張もいくつかしているが、科学者としての思考法や研究の吟味を少しも失ってはいない。終章でこの「ベッカムのそりこみ」を読んだとき、もうこれで決まりでよいのではないかという気がした。

恐怖ではなく愛を感じながら生きれば、好ましい遺伝子のスイッチがオンになって、自分の望む運命を生きることができる。その仮説が科学的に証明されつつあり、それを上回る仮説はない。

上の数行が、この本を飛ばし読みした私が辿りついた結論だ。

面白いのは、ポジティブ思考を推奨するリプトンは、ロック狂いのの医学生で、医学的キャリアを捨てて、ロックの道に進もうとした時期があったらしい。この著書でも、或るロック・シンガーに謝辞を寄せている。ポジティブ思考だけに、そのアーティストはYESなのだ。

というわけで、アメリカのCMを見ていて、ふと感じた疑問には、かなりの含蓄があったことが分かった。

ベッカムはどうして、リプトンのアイスティーを飲むとスイッチが入って、東京のホテルの屋上でクノイチと踊ってしまうのだろう?

知られているように、クノイチとは「女」という感じを崩して呼んだ女忍者の通称だ。

最後に、ぼクノイチおしの女性を、締めくくりとして書いておくことにしよう。

YESを生むマリアのような女性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(書きかけです)

ぼくはケイジャン・チキンじゃない!

きっと心に不安を抱えているのだろう。どうしてだか、やたら前置きの長い話し方をする人がいる。しばらく相槌を打ちながら聞いているうちに、「え? それも前置きだったの?」と逆に面白くなってくることもあったので、一晩で掌編小説に書いてみた。加筆修正すれば、面白いショートショートにできるかもしれない。

今晩の前置きは、なるべくシンプルにしたい。

昨晩の記事で、日本農業が食料安全保障を守るための「国民農業」を選ぶべきなのか、儲ければいい「商業農業」を選ぶべきなのか、という問題意識を持った論客を紹介した。もちろん選ぶべきは前者だ。 

亡国の農協改革

亡国の農協改革

 

エコノミストとしての三橋貴明は、私流の整理では、ケインズ系の丹羽春喜や吉川元忠らの「国民経済学」に近い。 

謀略の思想「反ケインズ」主義―誰が日本経済をダメにしたのか

謀略の思想「反ケインズ」主義―誰が日本経済をダメにしたのか

 

 経済書らしからぬオドロオドロシイ書名は、ケインズ主義がヌーベル中央銀行賞系の新古典派経済学者たちの総攻撃に対抗しているせいだ。国民のための経済を志向するケインジアンが、チキン呼ばわりされてはたまらない。

ここにもとびっきりの洗脳がある。ノーベル経済学賞なんて、本当は存在しないのだ。1901年にノーベル財団によって創設されたノーベル賞とは違って、ノーベル経済学賞は半世紀以上遅れた1968年にスウェーデン中央銀行が設立した賞だ。

(…) 

さしあたり色眼鏡洗浄用の一杯のグラスの水として、「ノーベル経済学賞」を新しい紛い物という意味と創立者の金脈を織り込んで、「ヌーベル中央銀行賞」と呼んではいかがだろうか。その名を聞いて、ヌーベルな視界が開けてくる人々がたくさん現れそうで、ちょっとワクワクしてしまう。 

「国民農業」にせよ「国民経済学」にせよ、 「国民のための」という接頭辞がついた政治経済思想が輝いて見えるのは、私たちの国が、多国籍企業を中心とするグローバリズムの餌食になりつつあるからだ。冷戦終結から約30年。終ったはずの左翼⇔右翼の対立を妄信して、いまだに踊らされている国民が多いのは淋しい限りだ。

わからないかい? いま世界にある最大の対立図式は、

ナショナリズム 対 グローバリズム 

 それを知っている世界の大衆が、圧倒的に支持しているのが、ロシアのプーチン大統領アメリカのトランプ大統領で、両者ともに国民のための外交と内政を行っている。繰り返すが、東西冷戦は30年前に終結した。左翼⇔右翼の対立図式を妄信している政治通気取りは、米露の首脳がやけに似たような政策を実行し、やけに仲が良いことをどう説明するのだろうか。

演出される「左翼⇔右翼」の国民的対立は、「ナショナリズムグローバリズム」の対立において、後者を利するための分割統治装置なのだ。

と、ひとしきり前置きを書いたところで、次の話題へとつなごう。

いわゆる「意識の流れ」という描写手法をウルフは取る。取り立てて劇的な何が起こるわけでもないのに、言葉の粒が連なって、心の動きを際立てては崩す。寄せては返す波のようなエクリチュールが好きだった。

(…)

 

実際、ウルフと画家の姉ヴァネッサを中心として形成されていた芸術家集団「ブルームズ・ベリー・グループ」のある男性を名指して、ウルフは姉にこんな手紙を書いている。

 

私は、メイナードが手遅れにならないうちに、あなたが彼の結婚をやめさせるべきだと、真剣に考えているのです。

 

ここでいうメイナードは、実は有名なバレリーナとの結婚話を進めていた。メイナードのフルネームは、ジョン・メイナード・ケインズ。20世紀最大の経済学者だ。 

ケインズとウルフの交友も意外だが、文学通にとっては、ウルフとヘンリー・ジェイムズのつながりも意外だ。

(今から13年前に書いた文芸時評系の文章。ちょっとだけヘンリー・ジェイムズが出てくる)

実はヘンリー・ジェイムズにはウィリアム・ジェイムズという哲学者 / 心理学者がいる。ウルフ流の「意識の流れ」の概念を初めて提唱したのはウィリアムだった。

当時世界的に盛名を轟かせた弟のヘンリーと違って、画家になるのを挫折したウィリアムの名声は限定的なものだった。脳科学の世界に今も残る重大な仮説を提唱したことも、wikipedia をはじめ、多くの人々に知られていないままだ。

ジェームズ=ランゲ説 / 末梢起源説

 心理学者のJames,W と Lange,C によって1890年に提唱され、「環境に対する身体的・生理学的反応の認知が情動を生む」という説です。
「末梢起源説」とも言われ、情動は「1. 外部刺激→ 2. 身体反応→ 3. 身体反応の意識化」の順に生じるとするものです。
(…)

キャノン=バード説 / 中枢起源説 

Cannon,W とBard,P によって1927年に提唱され、 「情動は、知覚の興奮が視床下部を介して、大脳皮質と末梢器官に伝えられ、情動体験(皮質)と情動反応(末梢)が起こる」とする説です。「中枢起源説」とも呼ばれます。

(…)

情動 : 心理学用語集

 一般人の直感では、中枢起源説に立って、まず脳で情動が起こり、その情動が体の各部へ伝わると考えがちだ。ところが、先に身体の各部から刺激が伝わって、その後に脳で情動が起こるという逆のプロセス(末梢起源説)もあるのだ。

「口角を上げているだけで、何となく楽しくなる」といった例がそれだ。現代の脳科学では、末梢起源説も中枢起源説も正しく、双方向の交通があることが定説になっている。

そして、人類は中枢起源説のル―トで心の情動から生み出したものを二つ持っている。

ひとつは音楽、ひとつは言語だ。

今や音楽も言語も、発する体験ではなく、受容する体験もできるので、双方向に図式化できる。

  1. 感情→身体表現→音楽
  2. 音楽→身体表現→感情
  3. 感情→身体表現→言語
  4. 言語→身体表現→感情

このうち、1.のプロセスを歌ったり楽器を演奏したりする身体表現をスキップして、脳波で音楽を再生する試みが日本で始まった。

Brain dreams Musicプロジェクト(=BdM, 脳が夢見る音楽)は、作曲家古川聖(東京芸術大学)によって構想され、脳波で演奏する仮想楽器を用いる音楽パフォーマンスを中心に、それを可能とする諸々のテクノロジー研究・開発を行うプロジェクトです 

0:49から10秒ほど流れる画面がわかりやすいかもしれない。脳波の状態を色と音符に変換して、演奏者がそれを生演奏するというのがこのパフォーマンスの骨子らしい。

私たちの脳の中では、楽譜がなくても、聞こえなくても、このような音楽の移ろいが起こっているのである。

そして、私たちの情動から生まれた音楽と言語の両者の間にも、深い関係がある。絶対音階の保有者は人口の数%しかいないのに、中国やベトナムでは絶対音階を持つ人が多いとされている。秘密は、彼らの母国語が声調言語だからだ。 

響きの科学―名曲の秘密から絶対音感まで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

響きの科学―名曲の秘密から絶対音感まで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

漢字がわかるから簡単かも。そんな甘い考えで第二外国語に中国語を選ぶ日本人が、まず最初にぶちあたる壁がこの四声だ。難しくてたまらないこの四声を聞きこなしているうちに、絶対音感が身につくという説は、説得力がありそうだ。個人的には、二番目の「麻」だけには、自分の心が絶対音感を持っているのを感じる。

というわけで、脳の中に脳波が作る音楽があり、それが現実世界の音楽を生み出したことまでは、何となく体感できた。

音楽は目に見えないので、脳で視覚的に美しいものを味わいたいという人には、トム・クルーズ細胞の研究をお勧めしたい。

 今日読書をしていて驚いたのは、「トム・クルーズ細胞」が人間の脳内にあることが実証されたらしいというニュースだ。トム・クルーズを記憶している患者の脳内に電極を取り付けて実験したところ、正面の姿でも横顔でも「トム・クルーズ」という人名でも、特定の細胞が発火することが分かったらしい。正確には、神経細胞単体ではなく、複数のニューロンで作るネットワークを「暗号化されたトム・クルーズ」が駆け抜けるのだろうとのこと。詳細は書かれていないものの、レオナルド・ディカプリオ細胞やヒュー・グラント細胞もあるはずだ。

現在は、トム・クルーズの映像を見ると、脳内のトム・クルーズ細胞が発火するという末梢起源説に似たプロセスになっている。脳波の音楽状態が演奏できるようになったように、いずれ逆方向のプロセス、脳内に憧れの女性を思い浮かべると、頭に取り付けた装置が壁にその女性の顔を投影する、といった中枢起源説プロセスのマシンが開発されるにちがいない。

すでに、脳波でタイプするタイプライターや、脳波で遊ぶ玩具が開発されている時代に、私たちは生きているのだ。

困ったことになった。センサー大国の日本は、いずれ脳波を読み取るヘッドギアをつけなくても、歩いている歩行者の脳波をセンシングするセンサーを開発してしまうかもしれない。そうなったら、すべてをサトラレてしまいかねない。

  思っていることを周りの人々に思念で伝えてしまい、しかも自分ではそれに気付かないという特異能力の持ち主「サトラレ」。しかし例外なく高いIQを持つ彼らを、国家は保護している。そしてここにも1人、「症例7号」と呼ばれるサトラレがいる。外科医を志した彼を保護するためにやってきた女性自衛官が目の当たりにする出来事とは…。

サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS [DVD]

サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS [DVD]

 

今のうちに、脳内の異性反応細胞を整理しておかなければ。

そう焦りながら、自分はともかく、世界の人々が(トム・クルーズ以外の)どんな異性有名人細胞を持っているのかを調べていた。すると、「宿命の女 femme fatale」と当時呼ばれたこの女優の圧勝だった!

名付けてジェーン・グリア細胞。英語版の wikipedia によると、1924年生まれのアメリカ人女優で、「モナリザの微笑をたたえた女優」と呼ばれて、国民的な人気を誇っていたのだそうだ。絶えずモナリザ・スマイルを浮かべていたことが祟って、顔面神経痛になったこともあったとか。第二次世界大戦中に、あのハワード・ヒューズに見出されたらしい。

(↑この記事でハワード・ヒューズの伝記映画に言及した↑)

しかし、いくら国民的女優だとはいえ、まさか死後にグリア細胞の本が出版されるとは思わなかったな。 

脳とグリア細胞 ??見えてきた!脳機能のカギを握る細胞たち?? (知りたい!サイエンス)

脳とグリア細胞 ??見えてきた!脳機能のカギを握る細胞たち?? (知りたい!サイエンス)

 

 しかも、彼女の扱いが、とんでもないV.I.P.待遇なのだ。

今も神経科学会の主流であり続けている「ニューロン中心主義」(つまり、脳の主役はニューロンである)という見解が、まったく不完全で、大きな変更を迫られており、実は「グリアがニューロンを制御する」という主客転倒、あるいはニューロンーグリア両立主義とも呼ぶべきものがあるというのだ。 

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)

 

「グリアがニューロンを制御する」。何だか夢のある話じゃないか。

こんな綺麗な女優さんなら、脳を支配されたってかまわないような気がしてきた。昔の美人女優に脳を支配されたまま、二人羽織のような感じで、熱々のおでんを食べたっていい。

熱っ! 熱いったら、グリア! そこは口じゃなくて、鼻だってば!

そういうのをぜひやってみたいので、ここはいっそ彼女を引き寄せてしまいたい!

そう思って、ジェーン・グリアのことをいろいろと調べていた。自分より48歳上ということは、生きていれば94歳。90歳以上の女性とは交際したことないし、そもそも年上の女性と交際したことがない。うまく引き寄せられるだろうか。

あ、年上の女性で思い出した。ここでひとつだけ、恋愛映画の愚痴をこぼしてもかまわないだろうか。

ネタバレしつつ書いてしまうと、この映画は、年上の女性との恋に落ちた法学部学生が、彼女が戦後のナチ裁判で「濡れ衣」を着せられるのを傍聴する話だ。「濡れ衣」から彼女を救い出す秘密を主人公は握っていた。識字障害(ディスレクシア)だ。年上の女性は脳機能の障害で、読み書きができない障害があったのだ。だから、若い男にいつも朗読をねだったのだった。

ナチ犯罪を裁く法廷で、あれよあれよというまに文書作成をネタに、年上の女性が濡れ衣を着せられていくのに、若い男は頭を抱えて苦悩するだけ。

それを見たとき、私の心の中で熱々おでんが跳ねまわるのを感じた。特にはんぺんがありえないくらい扱った。つまり、はんぱない熱い怒りを感じたのだ。

どうして立ち上がって、「彼女は識字障害なので無実だ!」と叫べないのか? 糾弾されておどおどしている弁護士に向かって、「識字検査をするだけで、彼女を無罪にできる!」と檄を飛ばさないのか。彼女が識字障害を恥ずかしがっている? 冗談じゃない。識字障害は偶発的に起こる単なる障害だ。最愛の女性をみすみす無実の牢獄に入れることの方が、法学部生としてはるかに恥ずかしいのではないか?

いけない、いけない。熱々に煮込んだおでんの白滝くらい熱くなってしまった。こういうときは、山中をひっそりと流れ落ちる白滝の糸のように、意識の流れを落ち着けなければ。

と、自分の心をなだめたものの、怒りは不運を呼び込むもの。「白糸の滝」を「白滝の糸」と誤記してしまったことに気付いた。さらに、不運は続いて、グリア細胞アメリカの名女優とは無関係だったことに気付かされた。

ついてないぜ。

しかし、データにはひとつだけ違いがあった。ニューロンではない細胞の数が、脳の4領域すべてにおいて、アインシュタインの脳では群を抜いて多かったのだ。 

(…)

アインシュタインの脳と平均的な脳との間にダイアモンドが認めた差異は、この非神経細胞に関するものだけだった。

(…)

何十年もの間、グリア細胞は精神を気泡で包む梱包材のようなもので、物理的に、さらにおそらくは栄養的にニューロンを支える接合組織にすぎないと見なされてきたが、アインシュタインの脳には、人並み以上のグリアがあった。 

 

さて、ニューロン優位がグリア優位に逆転しかねない現象を、「グリア細胞的転回」と名付けると、有望研究分野として視野に入ってくるのは、ミエリンという絶縁物質だ。

ダフラス・フィールズは、誤って親指をハンマーで叩いてしまったときのことを例に出す。痛みがじわじわと遅れてやってくるのは、痛覚繊維が剥き出しの状態にあるからだという。料金所がいくつもある高速道路のように、各所で遅延するので、神経線維の100倍の時間がかかってしまうのだそうだ。神経線維の方は、ミエリンという電気的な絶縁体で覆われているので、光ファイバーに似た速さで伝達されるらしい。

このミエリンの形成に異常があると、神経ネットワークの各所で「壁」ができてしまって、ネットワークの情報の流れやタイミングがおかしくなる。

最新の神経科学では、ニューロンの問題ではなく、グリア細胞内のミエリンの形成異常が、ADHDディスレクシアの原因として「容疑者」に挙がっているらしいのだ。

医学論文を検索してみた。なるほど。今や神経科学の主要雑誌のほぼ1/3はグリア細胞の研究論文で占められるのだという。ミエリンと自閉症を扱った論文もすぐ見つかった。

Based on a possible pathological relationship of autoimmunity to autism, antibodies reactive with myelin basic protein (anti-MBP) were investigated in the sera of autistic children. 

(…)

Since autism is a syndrome of unknown etiology, it is possible that anti-MBP antibodies are associated with the development of autistic behavior.

自閉症に対する自己免疫の病理学的関係に基づいて、ミエリン塩基性タンパク質(抗MBP)と反応する抗体を、自閉症児の血清で調べた。

(…)

自閉症は原因不明の症候群であるため、抗MBP抗体は自閉症行動の発症と関連している可能性がある。

グリア細胞について、現在のところ分かっているメイン機能は、精神的身体的「恒常性(ホメオスタシス)」を維持することだ。(だから、神経障害や精神疾患ではグリア細胞の機能不全が疑われる)。他にも、学習や感情や注意や成長や老化も、グリア細胞が担っているとされている。グリア細胞ニューロン・ネットワーク全体を監督して制御しているという説もある。

というわけで、ニューロン中心主義だった脳科学が「グリア細胞的転回」を回って新しい開拓地が見えてきたというのが、ここまでのまとめだ。そして、実はここまでのすべての記述が、遠大な前置きだったことを告白しなければならない。

そういえば、大学図書館に行っても行っても、彼女に逢えないことが気にかかっていたのだ。ここまで前置きを読んだら、きっと内容はもう全部伝わっていると思うけれど。

ミエリン!じゃなかった。えみりん、ゆみりん、元気にしているかい?

 

ずっとお手紙シヨートシヨート思っていたのに、左 ⇔ 右の雑事に気を取られているうちに、え? もう海の日? 四季の流れの早さと、ここまで苦しかった辛さに、思わずうるふると涙ぐんじゃうよ。スパイシーなケイジャン・チキンでも食べて気分を変えたいな。

 

味醂姉妹の松山東高が甲子園に行ってから、もう三年も経つんだね。甲子園といえば、松山東は全国優勝経験があるって校長先生が自慢したがるんだけど、1950年の全国優勝は戦後まもない頃。松山商業と合併していた時期だから、強さは松商起源説が正しそうだよね。わがもの顔に自慢したら、絶対イカのでは?

 

何だかぼくにある未熟さのせいで、皆に迷惑ばかりかけた気がして、申し訳ないな。淋しガリ・朝寝坊・心の弱さ・とられすぎの家事時間などなど……。いっぱい迷惑かけてしまって、ごめんなさい。

 

セラヴィ、それが人生さ。生きることの本当の意味を知らないと滝行のような苦難が降ってくる。「艱難辛苦汝を玉にす」で、これからはどんなにつらいことがあっても、二人みたいな最高の笑顔でん、精一杯頑張るつもりだよ! 二人も若さと粘り強さと魂の美しさで、これからの人生をy高く高く羽ばたいていってね! 皆によろしく! ありがとう、皆!

 

 

 

 

(『愛を読むひと』主題歌原曲)