「魔法の世紀」はこうしてはじまった

二元論より三元豚の方が美味しいのは有名な話。国内で流通しているほとんどのポークが何らかの三元豚(か四元豚)なので、あとは二元論の不味さが伝われば、上の記事で醸し出された「夜よりも深い気まずさ」も緩和されるというものだろう。

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(画像引用元:https://item.rakuten.co.jp/dejimaya/yri-ika/

どういうわけか、いろいろあって、一日ワンコイン生活を送っている今日この頃、イカのお寿司ですか? 白黒では味気ないので、イカしたカラーコピーを取ってきたぜ。一日の可処分所得の1/10を費やして。

世界最大の二元論は「男と女」だ。今晩はその二元論が97.6%覆された話から始めたい。

アンチ「男女二元論」の発端は、この記事だった。

キャッチボールで、相手の動態視力がどれくらいか見るために、ちょっと変化球を試し投げしてみることがある。最近投げたのは、「三島由紀夫と同じく自分にも嗜血癖があって…」という一球。

(…)

すると、さっそく興信所まで使って払拭できたはずのゲイ疑惑が再燃したようだ。他人のセクシュアリティーの実態を知らない人が、なぜだか知った風な口を利きたがるのが、セクシュアリテイーの領域だ。

(…)
まあ、もちろん、文壇の「マッチョ代表」石原慎太郎の若き日にも、嗜血癖らしきものがあるので、単純すぎる白黒思考は、セクシュアリテイーの領域には適用できない。

 

知っているだろうか。ひとことでいうと、私たちの脳は「性モザイク脳」なのだ。 

「言葉で伝わらなければ、もっと科学的に行け!」「サイエンスに行け!」という助言が聞こえたような気がしたので、「日経サイエンス」のバックナンバーを引っくり返してきた。

さあ、皆の者、この渾身の50円のカラーコピーに瞠目せよ! 一目瞭然だぜ。 

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縦軸は脳のいろいろな部位で、横に並んだ串団子のそれぞれが、各人のセクシュアリティーを現わしている。女性性を表す緑と、男性性を表すオレンジが、一個人の中で混在しているのがわかるだろうか。純粋な男性100%の人と純粋な女性100%の人を合わせても、全体の2.4%にしかならないそうだ。 

セクシュアリティーは、先天的にではなく、社会的環境的な入力を受けて、後天的に決定されるというジュディス・バトラーの主張を、脳科学が裏書きした形だ。

そして、16年前からバトラー絡みでいろいろあって、まもなく生活資金が完全に底をついたら、自分に紛れもない『パーク・ライフ』が待っていそうな気配。何とか頑張って「パラダイス・シフト」しなければ。

 というわけで、たいていの二元論は三元豚より不味いのに、どうして皆は嬉しそうに頬ばってしまうのか。昨今書店の本棚を席巻している「AI脅威論」は、ぜひ石鹸で手洗いして二元論を洗い落してから触れてほしいと思って、この記事を書いている。

これからの世界をつくる仲間たちへ

これからの世界をつくる仲間たちへ

 

 むしろ「人類 vs AI」の二元論の基礎になっている「シンギュラリティ」を使わずに、近未来の社会変化を説明した方が良いかもしれない。上の著書をざっと読んで、そう感じた。

代わりに使ってみたい概念が「マルチラリティ」。この記事を書いている今、検索ではほとんど日本語記事は上がってこない。上の著書から引用する。

(…)コンピュータの進化はシンギュラリティのような単一的な変化ではなく「マルチラリティ」をもたらすと語る研究者もいます。それは「人と機会の織りなす社会の中で順次コンピュータと人の組み合わせが問題解決を行っていくのではないか」という指摘です。

人工知能と人間の間に対立や競合があるのではなく、人工知能の進化に、その都度人間が適応して、共同で問題解決にあたるイメージだ。その共同作業の光景が、自然と人間が共生するように自然なものになり、「デジタルネイチャー」を形作るだろうというのが、落合陽一のイメージする数年後の近未来だ。 

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

 デジタルネイティブ世代による自世代顕示のポジショントークだと曲解するなかれ。落合陽一がデジタルネイチャーの根拠に使うのは、最新の量子生物学だ。量子生物学に関する書籍はまだほとんど出ていないのに、早くもそれを足掛かりに、見事に跳躍しているというわけだ。

このブログでも、何度か量子生物学を取り上げてきた。

 しかし半世紀にわたる分子生物学の徹底的な研究によって、生体分子の構造が、DNAやたんぱく質のなかの一個一個の原子のレベルに至るまで驚くほど詳細に描き出された。そうして前に説明したとおり、量子の開拓者たちによる鋭い予測が、かなり遅ればせながらも裏付けられた。光合成系、酵素、呼吸鎖、遺伝子は、一個一個の粒子の位置に至るまで構造化されていて、それらの粒子の量子的運動は実際に、我々を生かしている呼吸、我々の身体を作っている酵素、あるいは地球上のほぼすべての生物有機体を作っている光合成に影響をおよぼしているのだ。

(強調は引用者による) 

量子力学で生命の謎を解く

量子力学で生命の謎を解く

 

半月前に書いたこの記事では、花と蜂が電子的コミュニケーションをとっているという新発見に言及した。

この量子生物学に近いところから、面白い情報が出てきた。出所はなぜかまたブリストルだ。水中の電気、水中の地磁気の次は、花と蜂の電気だ。

 

(…)

記事の最初から、大事なことがさらりと書いてある。ハチの体をおおう繊毛が、花から送られてくる電気信号を感知しているという発見より、花がハチに電気信号を送っていたという前段階の発見の方が、ビッグニュースなのではないだろうか。

 

あの NATURE 誌も、ブリストル大学のダニエル・ロバートの研究を引用して、花とハチの間に、電気的コミュニケーションが成立していることを報告している。ハチが花の蜜に魅かれるのは、花の色や香りよりも、花がどのような電気信号を送っているかだったのだ。

そして、『デジタルネイチャー』の読者が最も驚くにちがいないのは、「デジタルネイチャー」のイメージとして、華厳経の「事理無礙→事事無礙」を提示しているところだろう。これもネット上にまともな情報がない。凄いな。彼はどういう情報源の知識で、あの天才を形作っているのか。

(…)華厳経は、世界の認識のあり方(法界)を四段階に分ける。一般的な人間の世界である「事法界」、その背後にある原理(空)を捉えた「理法界」、原理と事象が自在に結びつく「理事無礙法界」、そして最終的な悟りが、事象と事象の直接的な関係からなる「事事無礙法界」だ。

(…)絶対的な悟りとされる「事事無礙法界」は、一つのシニフィアンに対して、複数のシニフィエが内包された構造を考える。一つの事象には世界の事象のすべてが織り込まれ、我々に見えるのはその顕現の一つに過ぎない。

まさか、華厳経ソシュール言語学の両方に精通している人がいるとは!

けれど、お気に入りのパン屋が出てきたので、自分も何とか頑張ってみたい。

さすがは構造主義の先駆者。サイト名の下にある単語の並びからして、難解だ。

Pain  / Mariage /  Gift /  Philosophy / Schedule / Blog / Access / Recruit

暗号を解くつもりで、和訳してみた。

痛みをともなう結婚であっても、それは贈り物。哲学に底部をロックさせて、あくせく努力しまくると。

なるほど、含蓄があるようでないような、かなり恣意的なシニフィエなのが、いかにもソシュール言語学らしい。

というのは冗談だぜ、もちろん。実は、このブログでも華厳経に言及したことがあるのだ。

続く第四項目に登場するのが、〈アレフ〉だ。わずか2、3センチの球の中に、世界が丸ごと入っていたことを思い出してほしい。以下は、ボルヘスの短編の手掛かりを探って、空海による華厳宗の説明を引用した部分。

 

第四にはすなわち、この獅子の眼や耳や身体の部分、一々の毛なみにそれぞれすべて、子をおさめる。一々の毛なみの獅子は同時に直ちに一本の毛の中に入る。一本ずつの毛の中にそれぞれみな限りない獅子がある。またまた一々の毛にこの限りない獅子を載せて、それぞれ違って一本の毛の中に人る。このように重なり重なって尽きることなく、尽きることなく関係しあっているさまは、帝釈天の宮殿の周囲に張りめぐらされた網にある網目の珠のようであるのを、帝釈天の網目の珠が互いに限りなく映じあっている世界という教え(因陀羅網境界門)と名づける。

 このアレフ的な世界の存在の様態は、この後の記述でも再説されるが、全体の中に部分があるだけでなく、部分の中に全体があるという説明は同じだ。ボルヘス空海との時空を超えたインターテクスチュアリティとは、ワクワクさせる連関だ。

初読で読み落としていたのを、今晩見つけて興奮してしまった。第九項目では、何と空海は「引き寄せの法則」を説いているのだ。

 

 第九にはすなわち、この獅子と金とは、あるいは一方が隠れ、あるいは一方が顕われたり、あるいは一であったり、あるいは多であったりしても、それ自体の本性がなく、心の めぐりかた次第で現象といったり理法といったりする。こうして一方が成就したり、他方が確立したりする。だから、これをすべての存在するものは本来清らかな心(如来蔵)をその本性とし、一つとして心以外のものではないという教え(唯心廻転善成門)と名づける。 

落合陽一は華厳経の「事事無礙法界」に、こんな注をつけている。

(…)モノ同士が直接的な関係のもと自在に存在するあり方。ただし、ここに至るまでには、「実体は存在せず一切は空である」という認識の段階を経るとされ、般若心経の「色即是空」のさらに先にある認識論とも解釈できる。

そのような「『色即是空 / 空即是色』<<<華厳経」の不等式を最初に提唱したのは、実は空海だ。主著である『秘密曼荼羅十住心論』は、空海による「仏教宗派ランキング」を発展段階説のように、順番に解説していった本なのだ。

  • 3位 天台宗の「一念三千」(最大のライバル最澄の瞑想法を空海は支持した。今ココの一瞬に世界のあらゆる多様性があるという考え方)
  • 2位 華厳宗 (宗教的な奥義としては究極の段階まで達していると空海は賛辞を惜しまなかった。自ら1位にランクさせた真言宗と比べて、修行法の普及力で劣っていると考えていたらしい)。
  • 1位 真言宗 (三密瑜伽という修行法や世界観も基礎になる秘密の曼荼羅図があるので、自分が開祖なので、あっけなく優勝)。

 とはいえ、上位1、2、3位は大接戦だというべきだろう。というか、術語の違いを除けば、教義として語られていることはほとんど同じだ。上の記事引用文での卓抜な説明からもわかるように、空海華厳宗の影響を強く受けているといっても華厳ではない。空海の教えはほぼ華厳宗と同じなのだ。

となると、「現代の魔法使い」落合陽一が、コンピュータ研究者でありながら、仏教知識経由で、こちら側(スピリチュアリズム)に近接しているのがわかるのではないだろうか。

このブログでさまざまな分野の最先端を追いかけていると、突き抜けた才能が「神の領域(スピリチュアリズム)」に到達しているのを目撃することが頻繁にあった。彼も例外ではない気がするのは、私の気のせいだろうか。

面白いのは、華厳経の「事理無礙→事事無礙」を具体的に説明している場面で、「理=言語」と考えて、テクノロジーに媒介された非言語的コミュニケーションが普及すると予想しているところだ。

言い換えるなら、言語的な理解よりも先に当事者の意志によってモノが動く状態を「魔法」や「魔術化」と呼んでいるのだ。

簡単に言い直すと、VR装置やAR装置が発展して「マシンつきテレパシー」が実現するという話をしているのだと思う。実際、脳波で打ち込むタイプライターも市販されている時代だ。いずれはそうなるにちがいない。

個人的には、華厳経の「事理無礙→事事無礙」では知らない人々が多いので、「超言語速」という概念で、落合陽一の主張を理解しようとしているところだ。

実際、目下のところで多くの読者が収穫だと感じるのは、テレパシー以前の「超言語速」的な魔術的動きだろう。具体的には、例えば、創造的な研究室主導(ラボドリブン)での、

イノベーション→評判形成→資金集中→製品化→市販

というフローが超高速化して、すべての関係する「言葉」を把握しきれないまま、「超言語速」で実現していく事態が、最も手近な「魔法」だと言えそうだ。

 特に北米では、基礎科学を研究している人が社会への応用を意識することも少なからず見受けられ、またその逆方向への転身も比較的容易になっている。基礎と応用の距離が近く、行き来がある。実際、人々も、会社、国立研究所、ベンチャー、大学、政府機関などを渡り歩く例が少なくない。

量子コンピュータが人工知能を加速する

量子コンピュータが人工知能を加速する

 

 

上の記事で、一流の研究者が、日本の基礎研究に人や注目やお金が集まりにくいことを問題視している発言を引用した。ド文系だった自分も、科学リテラシーを二流サイエンス・ライターくらいまでには高めて、この分野の資金循環を加速する投資ができたらと夢想したことがあった。

ところが、望ましい加速はすでに起こっているようだ。嬉しい。

(…)しかし現在、その速度は劇的に改善されつつある。

 あるプロジェクトからオープンソースのリリース情報が出れば、すぐに資本側がそれを取り込もうとする。また逆に、ベンチャー企業がプラットフォームを発表すると、それを利用して新しい研究開発が行われる。資本主義とオープンソースとが接続され、両者の間で活発な交流が起きているのだ。

著者が語るすぐ足元で起こりつつある変動と、その変動の落ち着きどころは、かなり確度の高い近未来予測として、ここに銘記しておきたい。

 いずれあらゆる価値は、分散型の信頼システムとトークンエコノミーの価値交換手法によって技術に対しての投機マネーと接続され、オープンソースと資本主義市場の対立は、より密な経済的連携によって安定した構造へと軟着陸するだろう。それは新しい全体主義の形であり、そこでは西洋的なピラミッド構造ではない、東洋的な再帰構造からなる「回転系自然なエコシステム」が形成されるはずだ。 

というわけで、落合陽一の思想を知りたいなら、新刊の『デジタルネイチャー』が最適。横断的な最高度の知見とし元気に満ちた一冊であることを、保証したい。

ずいぶん固い話になってしまったが、ひとまずここまでで、今晩の趣旨は語り切ったことになる。読者はついてきてくれただろうか。 

闘争のエチカ (河出文庫―BUNGEI Collection)

闘争のエチカ (河出文庫―BUNGEI Collection)

 

ちなみに、学生時代の自分の最大の愛読書は、『闘争のエチカ』だった。二元論的に「逃げろ!」と言われたわけでもないし、今でも愛読書にはちがいないが、頭の柔らかさも大事さ。最近その隣に、もうひとつの「エチカ」を置くようにしている。今晩もこの記事を書きながら、何度もページをめくり直した。 

初読で最も衝撃的だったのは、この入浴シーンだ。

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長い耳は結わえて湯舟に浸かるのか! しかも、顎まで浸かるんだね! 

確かに、シナモンの言う通りさ。自分のネガティブな感情は、抑え込まずに、向き合わなくちゃね。

 

 

冒頭の二元論批判を書きながら、じっと眺めていたのはこのページ。

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正義の側に立っていたとしても、不当な被害を受けることはある。それでも、怒りや憎しみや恨みは手放さなくちゃね。「正義 ⇔ 悪」の二元論では、世界をうまく回していけないから。

 

 

アートへ向かう衝動が「魔法」を生み出すと、どこかに書いてあった。きっと、その手前にある感情のことを、シナモンは言っているんだね。

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喜びや楽しさは、言葉や論理による「理」を越えた「超言語速」で伝播していく。だから、ポジティブな感情が「魔法の世紀」の鍵になりそうだ。

 

 

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そうそう。遊休資産でもネットワークに乗せると、みんなのうちの誰かが喜ぶシェアリング・エコノミーにできるよね。自分の利益だけではなく、ネットワーク上の誰かの利益も考えると、プラスの循環が多くなるのさ。(『デジタルネイチャー』のシェアリング・エコノミーの人類史的位置づけはキレッキレッだったなあ)。

 

 

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本当は、まだ難しいことをいっぱい書きたかったけれど、このページで手が止まって、しばらく茫然としていた。トラブルにハマると、自分は「悪くない pas mal」ってなかなか思えないものなんだ。

至難問が解決できて、新しい魔法が自分に、そして自分の友人や仲間に降りかかるといいな。

 

 

申し訳ないけれど、20時が約束の時間だ。今から、まだ新しい会社の自習机を数十個バラして、ゴミにする作業を手伝わなきゃ。

 

 

 

 

優しい魔法に包まれたなら

人間の潜在性は多彩だ。その通り。待っている人は出遅れる。それも知っている。

なのに「サイエンスに行け!」「ビジネスに行け」 などという指示の言葉を待ってしまっていたのは、暗中模索の日々のせいで、見通しが視界数cmだからだ。けれど、耳を澄ましているだけでもわかることはある。

今晩わかったのは、「ビジネスに行け!」という声が、「日経ビジネス!」という暗号だったこと。この記事は面白かった。

現在が2018年。自分のこの記事では、短期的未来を2025年、中期的未来を2045年、長期的未来を2100年ぐらいで考えてみたい。

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2025年を職業大変革の区切りにしたのは、上の記事が最初だと思う。では、その2025年、今の高校1年生が大学を卒業する頃、どんな仕事が花形になっているのだろうか。

(「巨人の星」の花形満は花形モータースの御曹司だった)

素人には想像がつきにくいところを、「ビジネスに行け!」と檄を飛ばす日経ビジネスが「この12の職業に行け!」というリストを公開していた。

ビックリしたな。知らない職業だらけだぜ。( )内は自分の言葉による簡単な解説。

  1. ホワイトハッカー(企業のセキュリティーホールを見つけ出す)
  2. 仮想空間創造師VR世界を構築する都市計画家)
  3. 人口肉クリエイター(食糧危機をバイテクで救う)
  4. ドローン制御技師(人口よりドローン数が多くなる時代に不可欠)
  5. データサイエンティストビッグデータを解析して金鉱脈を発掘)
  6. サイボーグ技術者(高齢車や病人をロボットと融合して健康寿命延伸)
  7. eスポーツプレーヤー(ゲーマーを究めれば一流アスリート並みの収入も可能)
  8. インセクトブリーダー(カブトムシなどの昆虫飼育でマニア向け希少種を育てる)
  9. Ⅴチューバー(動画内で二次元キャラを演じて人気獲得へ)
  10. オンライントレーダー(PCと回線の高性能化で証券会社と競争)
  11. 書道家(生身の人間の「気」が人々を引きつける)
  12. IoT農家(AIと熟練農家の知恵を最適化すると高収入職業に)

5.の「データサイエンティスト」と 12. の「IoT農家」については、以下の同じ記事で言及した。同時代の先端にある同じ空気を感じる。

すべてのものがオンラインでつながる IoT 化の次に待っているのは、間違いなくデータ解析の技術争いだ。さっそくデータ・サイエンティストという新職業が世に出ータことも、早耳の人は知っていることだろう。

日本の就農人口の平均年齢は 66.8才。続々と現れる新技術に踊って見せるのが、IT 技術者の仕事ではない。

現在いる熟練農家の暗黙知(職人技)のデータを収集し、その形式知にセンサー大国日本が配備していく無数のセンサー・データを関連づけていくこと。そのビッグデータを国家主導でプラットホーム化して、農業をする誰もがアクセスできるように共有すること。それが、日本の農業を持続可能にする「最初のゴール」として設定されている。

「どこかのひと握りの先進的な農業法人が稼げればよい」では、この国の農業は崩壊してしまうからだ。

3. の人口肉は、来る来ると言われていたところ、2018年内に試験生産が始まるらしい。長期的には従来型の畜産食肉産業はなくなるという声を聞くことが多い。人口肉の行方を今後も追いかけてみたい。

(新食材で世界の食糧危機を救おうとする点は、この記事のミドリムシと同じ)。

日経ビジネスは C to C(消費者から消費者へ)の動きを重視してリストアップしたらしい。個人的には、メイカーズ関連がひとつ入っていても良かったのではないかと思う。9. のような個人発のオリジナルキャラクターが爆発的な人気を得れば、フィギュア<ドールハウス<ファンタジー都市のように世界観と商品がどんどん拡大して、それを個人が3Dプリンタで造形して販売すれば、近未来の成功物語になりそうだ。

さらに大きく変貌していく20年代は、あふれるほどの創造の種に満ちている。詳細を、ぜひとも日経ビジネス誌で確認してほしい。 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 2025年の花形職業リストに「魔法使い」がなかったのにはがっかりした。滅多になれない職業なのだろう。あきらめようと思っても、心に「魔法使い」の四文字が忍び込んでくるのは、幼少時に耳にした「シャランラ」の呪文の意味を、どうしても知りたいからかもしれない。 

そういうわけで、「現代の魔法使い」との異名をとる落合陽一の本を4冊斜め読みした。とはいっても、今日も午後は忙しくて、打ち合わせや荷物の搬出に4時間くらい取られてしまった。いわば「午後、危機!」だったので、読み取りの精度には目を瞑って、書いてしまおう。「午後の危機」にも魔法使いが絡んでいるので、きっと面白いものが出てくるにちがいない。

…うん

気をつけて

しっかりね

行ってきまーす

がんばってー

ゴーゴー! キーキ…

(ホーキをたたく音)

(鈴の音)

(遠くなる鈴の音)

相変わらず ヘタねえ

大丈夫だ 無事に行ったようだよ

(男) あの鈴の音も当分 聞けないなあ

どっちへ行くの?

南よ 海の見える方!   

魔女の宅急便 全セリフ紹介 

最初に意外の念に打たれたのはメディア・アーティスト / コンピュータ研究者という独特の職業選択をした論客であることだ。

現代アートといえば?と訊かれれば、誰もがデュシャンやウォーホルの名を挙げるだろう。ところが、メディア・アーティストと言えば?と訊かれて、芸術家の名前を挙げられる人がどれだけいるだろうか。

このブログでは、ヒース・バンティングとピョートル・コワルフスキーのアートを織り交ぜて、記事を書いたことがある。

メディアアートの教科書に過不足なく収まっていると、収まっていること自体が彼らしくないように思える。ヒース・バンティングはそういう芸術家だ。

 

街角に招かれざるメディア・アートを闖入させる彼の手法は、当時公衆電話をハッキングして、公衆電話から電話を掛けるのではなく、公衆電話に電話をかけるメディアートを仕掛けていた。

 

携帯電話の普及によって、もはや前世紀の遺物と化している公衆電話ボックス。ヒースのメディア・アートは当時かなり話題にのぼって、成功を収めたはずだ。しばらくしてヒット映画の『アメリ』の中で流用されて多くの観客の知るところとなったので、自作小説ではヒースの作品を引用しにくくなった。 

その昔、メディア・アートに凝っていた頃、東京の初台にあるICCによく遊びに行った。外苑西通り沿いのワタリウム美術館も、メディア・アートには強かったと思う。

 

別名キラー通り周辺で信号待ちをしていると、日曜日の午前中には、式場へ移動中の花婿花嫁が信号を渡るのに遭遇することもあった。私がクラクションを鳴らして祝福を送ると、周囲の車もそれに続いた。花婿は羞かしさをごまかそうとする速足で、花嫁を引っ張っていった。二人身体を寄せて、祝福の車列に笑顔を返すくらいの余裕があっても良かったのに。

 

といっても、それも20年くらい前の話。封建的で捌けていない男どもが多かった時代の話だ。

 

メディア・アートの世界ほど、流行り廃りの激しい芸術界はない。追いかけ疲れて放ったらかしにしていたので、今日図書館で見直していたら、のめり込むように引き込まれてしまった。  

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

上記の最新刊は未読。自分が今日四冊を斜め読みした限りでは、「落合陽一の考えを知るには何を読むべきですか?」という問いに、あっさりと『超AI時代の生存戦略』の「エピローグ」だと答えたい。

(…)『魔法の世紀』の最終章で僕は、人間中心主義の脱構築された世界、計算機自然:デジタルネイチャーについて述べたが、この世界はまさにテクノロジーイデアを基軸にして人を脱構築しようとしている。

その直後、終章最初の人名として、ナム・ジュン・パイクというメディア・アーティストの名が登場したことに、意外さと喜びがあった。上記の引用部分を読んで感じるのは、コンピュータ研究者だけあって、テクノロジー決定論に近い現代の不可避の趨勢をバッチリと読み取っていること。

本屋の棚は、新技術の普及時に必ず巻き起こる「AI脅威論」の本であふれている。インターネットが普及し始めたときと同じ光景だ。無名のITライターならまだしも、思想界では一流の哲学者であるヌスバウムまでも、「シンギュラリティーの21世紀」をアリストテレスで基礎づけようとするのだから、頭の良さと頭の新しさは比例しないようなのだ。

 マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

 

 しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。 

落合陽一よりひとまわり年齢が上の自分は、ポスト・サルトル構造主義が人間中心主義を「脱構築」したという感情教育を受けてきたし、引用文中の「脱構築」の用法も当時習ったのとは少々異なる気もする。けれど、些細なことはどうでもいい。

思想界の主流は、シンギュラリティー前夜の哲学の確立に、落合陽一より出遅れている印象があるのだ。

再読してみて、つらい気分になった。サンデルはデザイナー・ベビーの普及によって、私たちの道徳に深い関わりのある「謙虚、責任、連帯」が大きく変容してしまう。だから、デザイナー・ベビーには反対だと表明している。

 

では、そのように先天的な人為的格差が問題なら、後天的な人為的格差に対して社会が寛容すぎることは、問題にならないのだろうか?

 

あの『ハーバード白熱教室』の教授のボディに、渾身のパンチを打ち込むことはそれほど難しくない。サンデル教授に、こう返答すれば良いのである。

 

わかりました、教授。おっしゃる通りだと思います。では、私の子供は、「謙虚、責任、連帯」の性格が発現しやすいようにデザインしてから、出産します!

 

この論点で、テクノロジー決定論に打ち勝つ思想的根拠は見出せそうにないというのが、自分の予測だ。 

上記の自分の「テクノロジー決定論の消極的容認」より、さらに踏み込んで、落合陽一が「テクノロジーが人を脱構築する」と主張しているのは、頼もしい限り。続くこの主張にも大きく頷いてしまう。

 テクノロジーで変化する前の私たちの習慣や規範や考え方によって、それ以後の人類を推し量ろうとするならば、それはテクノロジーとの間に摩擦を起こす。

 急速にテクノロジーが発展して、ひとびとの世界観が変わっていく未来は、すでに決定している。社会に巻き起こる変化を調整しながら利害分配(政治)をしていくとき、私たちに、21世紀のあいだ一貫して依拠できる正義はない。それが摩擦を生みつづける大問題なのだ。

落合陽一は、跳ねまわる溌剌さと頭の回転の速さで、「人間がテクノロジーに適応すること」を正面に掲げる。

一方、アリストテレスが… というほど過去志向ではいられない自分は、まず(変化に比較的時間がかかる)脳科学を暫定的基礎にして、哲学や倫理学からのリソースも適宜活用するという我流の答案を書いてみたことがある。 

 今晩の記事を自分向けにまとめるなら、このようになるだろうか。

 

 倫理や宗教の起源が脳にあったことがわかりはじめた。いずれ脳機能の解明が進めば、同じように、脳機能を基礎にした卓越した社会制度が形成されていくだろう。それまでの過渡期、倫理哲学の精髄を社会制度に落とし込む設計思想が必要だろう。 

落合陽一の思想的バックボーンが信頼できると感じるのは、グローバリズム側からの「分割統治」の可能性に対して、思想的手当てがなされていることだ。

誰にでも想像できることだと思う。やがてシンギュラリティーによる「技術的失業」が波及すると、テクノロジー適応者が「勝ち組」、テクノロジー不適応者が「負け組」とするようなネオリベラリズムを国家は浸透させようとするだろう。IT強者にありがちなデジタル系「優勝劣敗」原則を、彼は支持しない。

空飛ぶ新人類が新たな時代を築く『幼年期の終わり』を引き合いに出して、新人類と旧人類をつなぐ種族が必ず現れると、希望的観測を述べるのだ。 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

それがまた希望的観測だけで終わらないところが、時代の寵児の凄いところ。

野口悠紀雄が先頭を走っているブロックチェーン技術にも精通していて、その技術が中央銀行システムへ抵抗する分散性と自律性を本質的に持っていることを。当然見抜いているわけだ。さらに、仮想通貨によって中央銀行に依存しない「信用創造」ができると主張しているのが素晴らしい。細かい点はともかく、「信用創造」が永続敗戦の鍵であることを知らない人々が多すぎるのだ。

ケインズ系経済学者として、「国民経済」を提唱した吉川元忠との対談で、リチャード・A・ヴェルナーはこう語っている。日本経済の病巣の中心を、同じ敗戦国のドイツ人が教えてくれたことが、何だか今晩はやけに嬉しい。敗れたという事実からの方が、きっと学ぶことは多いのだ。

(…)

というわけで、個人的に頭の中で連立方程式を立てると、ヴェルナー×吉川元忠系の国民経済(反グローバリズム)の立場に、経済再生のためのデフレギャップ克服を掛け合わせると、正解は井上智洋の「ヘリマネ」に近い「政府紙幣による大規模な財政出動」になる

そう書くと、我田引水すぎるだろうか。いずれにしろ、鍵が「信用創造」にあるのが間違いないことが、今晩も確認できて嬉しかったのは本当だ。 

極めつけは、この一節だろうか。「落合陽一は買い!」と、自信をもって声をあげられる主張だ。

 トークンエコノミーの受益者負担、自給自足という考え方に僕は強く賛同しています。なぜなら、それがあれば、グローバルなプラットフォームによる搾取を防げるからです。言い換えると、シリコンバレーと戦う最高の戦略になるからです。

 我々がデジタル化社会で苦しんでいる最大の理由は、ソフトウェアのプラットフォームを取れなかったことです。今の我々の生活はシリコンバレー発のプラットフォームに支配されています。iPhone を使ってアップルストアで買い物をしたり、グーグルマップで地図を検索したり、アマゾンのサイトで買い物をしたり、フェイスブックでメッセージを送り合ったしていますが、その結果、多くの情報やお金がシリコンバレーに吸い取られているのです。

プラットフォーム競争での日本の「敗戦」にもしっかりと視線が行き届いているということは、松山出身のビジョネリー泉田の著作もちゃんとチェックしているということなのだろう。

 「失われた20年」の提唱者の村上龍は、「高度経済成長期に日本製品が世界を席巻していた時期には、誰も『日本のモノづくり』などとは高唱しなかった」旨を発言していた。いま巷間かまびすしく「モノづくり」が言われるのは、「モノづくり」が敗れた後の話だ。「モノづくり」で負けたのではなく、「モノづくり」が負けたという着眼が重要だ。

 

「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

何だか、このブログの内容と落合陽一の主張に、重なるところが多いような気がする。たぶん、ブログ主がそう思い込むよう、魔法をかけてもらっているのだと思う。まさか自分にまで気を遣ってくれるとは。現代の魔法使いは、不思議なくらいに優しい。

その優しさに包まれながら、この曲を聴き直していた。

優しさに包まれてしまったから告白するけど、今日はまた負債がのしかかってくる話が二件あったのと、資金繰りや片づけに忙殺されていた。かなり悲惨な無職だ。

歌詞にあるように「すべてのことがメッセージ」なら。アレはどういう意味なのだろう。

おい、落ち込むなよ、俺。聞こえるかい、俺? 時代の寵児の主張を軽くなぞっただけでも、お前が書いてきた記事のいくつかが、アクチュアルな輝きをもって浮上してきたじゃないか。悪くない晩だ。

Night is still young. おまえの大活躍はこれから始まるんだぜ。武者震いがするだろう? どこまでも走っていこうぜ!

さあ、鏡の前で得意のポーズをとって、こう呟きな。それがお前の新しい職業さ。

武者ランナー!

 

 

 

 

色眼鏡ぬきのベネフィット養豚

青、赤、黄が三原色なら、小学生の「三原気」はアレラにちがいない。

小学生の頃は世間知らずだった。赴任式で新しく来た先生が、よくある言葉遊びで挨拶をしても、いちいち「うまいこと言うな」と感心したものだ。

例えば、「三原気」を織り込んだこんな挨拶。

新任の先生: 先生はこの学校に三つの木を植えたいと思います。「元気、根気、やる気」です!

小学生のぼく: (何て面白い先生なんだ!)

先を生きるのが先生の役目なら、この定型を自分の個性に合わせてアレンジできる創造性がほしい。初恋トークが好きな先生なら、こんな挨拶をしてほしいのだ。

新任の初恋先生: 先生はこの学校に三つの木を植えたいと思います。「思春期、ときめき、嫌いなふりして本当は好き」です!

小学生のぼく: (面白いけど、小学生には早いかな)

 地獄の暴れん坊の先生が赴任してきたら、こんな挨拶になるだろう。

新任の地獄の暴れん坊先生: ワシはこの学校に三つの木を植えてやろうと思うとるんじゃ。「餓鬼、悪あがき、アナーキー」!

小学生のぼく: (わーい、この小学校、きっとなくなっちゃうぞ!)

 やたらお洒落に気を遣う新任の先生なら、こういう挨拶をして、不思議な余韻を残しそうだ。

新任のお洒落泥棒先生: 先生はこの学校に三つの木を植えたいと思います。「レアチーズケーキ、北欧の白い都市ヘルシンキ、小さい秋」です。

小学生のぼく: (最後の「小さい秋」がお洒落だな。誰でも見つけられようで、なかなか見つけられないものだから)

 そういえば、半年くらい短歌に打ち込んでいた時期、自分も「小さい秋」をお題に詠んだことがあった。

くきくきとギターの弦をはりかえる指尖にきて秋はすずしき

はじめて子音で韻を踏もうとして「き」を繰り返し織り込んだ一種。可もなく不可もなく、まもなく不可解なカフカ的状況でもなくなりそうなので、軽く流そう。

いや、待てよ。こうまでするりと気の利いた一節が飛び出してくる自分は、実はかなりイケてるお洒落泥棒なのではないだろうか。待たせちまったな。いつまでも少年の瞳をしたオレの中のコム・デ・ギャルソン

セルフイメージをすっかりお洒落さんに書き換えて気分が上がったので、今のテンションなら、お洒落じゃないものでも、小粋でお洒落な文章に書きこなせソーダ水はペリエが好き。 

Perrier(ペリエ) プレーン PET 500ml×24本 [直輸入品]

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 陽が長くなった初夏の休日。ふと「今晩は陽気な薔薇にしよう」と呟くときのあなたは、チャールストン三元豚かを迷っている微熱少女だ。

 

チャールストンを選んだら、心踊る夜になるだろう。戦前の陽気なダンスにちなんだ薔薇のチャールストンは、ひらめくパリの踊り子のスカートのように黄と赤の二色が動的に入り交じっている。

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三元豚を選んだら、 舌の踊る夜になるだろう。豚薔薇のピンクの花びらにそっと唇を寄せようとすると、たちまち妻に叱られることだろう。「蒸ッシュー前だから、口つけは禁じられた遊ヴィヨンと妻より」とか何とか。 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

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舌の踊る夜はいわば三元豚の舞踏会。るんるんらんらんドレスを着ていけば、イクラブの可能性がフィーバーする。舞踏会はあなたの噂でもちきりさ。美味しい噂でくしゃみが止まらなくなったら、さしあたり代用くしゃみ止めとして、チーズフォンデュ六皿を注文すれば、意中の異性とサシでのデートが入る最高の夜になるだろう。

 

という小洒落た説明がわかりにくいのなら、初心者向けに言い直そう。ランドレースは繁殖力が強く、大ヨークシャーは肉が美味しく、デュロックは肉にサシが入りやすい。 

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ただし、今や養豚されているのはほとんどが三元豚。上記三種以外にもさまざまなベネフィットを組み合わせた三元豚が、星の数ほどある。ベネフィットの数だけ、豚の種類の数があるということさ。

バルコニーで夜空を見上げながら、きみの耳元にそう囁いたとき、月の光に煌めくきみのイヤリングが綺麗だった。

 

美女: 今のお話をひとことで言い直してもいい?

ぼく: いいよ。わかった。こうしよう。オレはオレで今晩のこの話をひとことで表現するよ。せーの、で同時に言おう。

美女: いいわ。いくわよ。せーの。

ぼく: きみを愛している!

美女: ベネ豚!

(夜より深い気まずさが辺りに立ち込める)

 というわけで、ベネ豚の話をしようと思っただけなのに、ついつい持ち前のお洒落さとロマンティック好きに引きずられて、導入だけでこんなに字数と時間を使ってしまった! 

ソーシャル・デザイン好きの自分としては、いつかベネトンの広告論を調べてみたかいとずっと思っていたのだ。

上記の「最も論争を巻き起こしたベネトンの広告トップ10」から画像を引用して、順不同で個人的なキャプションをつけてみたい。

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世界や社会に理想を抱いているだけでは、一代で多国籍企業を作り上げることはできない。シンプルにこう問うてみる。

ベネトンベネトンたらしめたものとは何だろう? 

答えは「色」だ。

ベネトンベネトンにするイノベーションは、1963年に起こった。物資がまだそれほど豊かではなかった当時、古いセーターが色落ちすれば染め直しの修理に出すこともあった。

ベネトン創業者は腕利きの染色職人と組んだ。古いセーターの染め直しの技術を使って、編み上げた後に新品のセーターを染める技術を開発したのだ。色の流行は変動しやすいので、在庫をどれだけ圧縮できるかの技術が、衣料メーカーの成長を大きく左右する。「後染め」の技術革新は革命的だった。「新大陸を発見した」と、のちにルチアーノ・ベネトンは述懐している。

ベネトンのセーターはたちまち40色になって、飛ぶように売れ始めた。

エイズ患者の急増が社会不安を呼び起こしていた90年代前半、バルセロナ五輪の開催が迫っていた。ベネトンは伝染を予防するカラフルな避妊具を並べて、五輪マークを作った。エイズは不治の病ではなく、楽しく共存できる病気だというメッセージを発したのだった。

1983年から2000年までの間、ユナイテッド カラーズ オブ ベネトンの広告写真を手掛けた世界的な社会派写真家、オリビエーロ・トスカーニ氏が本年2018年春夏シーズンより、同ブランドのキャンペーン写真を再び手掛けることになった事を記念し、トスカーニ氏が18年ぶりに手掛けた最新のキャンペーン写真をはじめ、歴代の代表的なアーカイブ写真を年代別に紹介しているほか、今回復帰に至った際の裏話やブランド名「ユナイテッド カラーズ オブ ベネトン」の誕生秘話、今日の世界に対する思いなどを語った特別インタビューも紹介しています。 

ベネトンが世界的社会派写真家オリビエーロ・トスカーニ氏復帰記念企画として特設サイトを公開 | CLASSY.[クラッシィ] 

ベネトンの広告写真を手がけて一時代を築いたトスカーニが、2018年にベネトンに帰ってきた。 復帰記念の特設サイトは、トスカーニらしい色彩の喜びに満ちている。

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その写真家トスカーニとベネトン創業者は旧知の仲だった。しかし、諸事情からすぐには指名しなかった。ところが或る晩、真夜中にルチアーノ・ベネトンが帰宅した瞬間、彼を広告戦略に採用すべきだというインスピレーションが降りてきたらしい。 

ベネトン物語―革新的企業哲学はなぜ生まれたか

ベネトン物語―革新的企業哲学はなぜ生まれたか

 

慌てて電話すると、真夜中なのにトスカーニは留守だった。馬好きのトスカーニは厩舎で夜通し馬の出産に立ち会っていたのだ。こんな意味深な逸話がありながら、生まれてきた仔馬にどうして「ベネトン」と名付けなかったのかと残念がっている様子は、イタリアン・ジョークなのかもしれない。しかし、最終的に出産に立ち会ったものしか知らない素晴らしい写真が誕生した。それは人間の「最初の呼吸」をとらえていた。痛みに満ちていると同時に、最高に美しい写真だ。

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ベネトンの経営戦略のうち今でも拾えるとしたら、ふたつだろうか。

  1. 生産工場と販売店のネットワークを緊密化して在庫を最小化するシステム。
  2. 同一エリアに複数店を同時出店しするエリア・ドミナント戦略

 1.はトヨタカンバン方式と同じ。2.はセブンイレブンの出店戦略と同じだ。

現在の視点から振り返ると、先駆的だったベネトンの経営戦略は新鮮には見えない。しかし感心してしまうのは、市場参入する国の文化や慣習をきわめて綿密に研究している点だ。研究のリーチは、その国の政治や経済や社会問題にまで当たり前のように伸びている。だからこそ、社会問題に照準した発想が、表の広告に出てくるのだ。

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(人種差別が背景にあるLA暴動のドキュメント写真を用いた広告)

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第三世界の食料不足と飢餓問題をテーマにした広告)

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ベネトンの服を着る死刑囚たち。死刑制度の是非を問題提起している)

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上の写真が、ベネトンの広告写真のうち最も有名な一枚だ。衣料専業メーカーから出発して多国籍企業にのぼりつめたベネトンが、もし衣服だけで反戦を訴えるとしたら、この写真しかありえなかっただろう。これはボスニア紛争の兵士の着衣だ。血が残されて身体が消えていることから分かるように、兵士は実際に戦死した。NATO空爆により部分的に参戦した西側諸国のテレビには、一度も映らなかった映像だ。

「後染め」の技術革新で、多彩ないろどりの40色で世界へ躍進したベネトンは、最終的に「color-blind」を広告写真の中心主題に据える。この場合の「color-blind」は「色覚異常」ではなく、「肌の色で人を見ない」という意味だ。

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同じ文脈の「color-blind」は、人種差別のはびこる南アフリカ共和国で、ラグビー代表の戦いを通じて、白人と黒人が団結する映画の主題歌にもなった。

(…)
Hear me say it's time we stop talking
Eye to eye we see a different face
Yes we we've conquered the war
With love at the core
A stumble I fall, but I'll stay
Colorblind.

聞いてくれ「お喋りをやめる時間だ」
目と目でお互いの引きしまった顔を見る
そうさ ぼくたちはこの戦いを克服するんだ
心の奥にある愛をもって
躓いて転んでも
肌の色で人を見たりしない

 

メディア自体の政治性や自主規制に覆い隠されたリアルは、必ず多様な「色」や「見方」をもって現れる。それらの色とりどりの多様性を、複眼思考のできる情報強者として把握できるようになったら、もうひとつの「色眼鏡」のバイアスを補正できるといいかもしれない。

世界が多様であるのと同じく、世界を見る時の私たちの感情状態も多様であり、見る者の状態が見られる対象の印象を大きく左右する。つまり、私たちの感情状態も一種の「色眼鏡」なのだ。

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 さて、「広告+色眼鏡と」の足し算から、2018年7月、絶対に出てくると思われるのが、AR(拡張現実)やARグラスだ。昨晩22時くらいに大学図書館に飛び込んで、三冊わしづかみにして借りてきたのだが、どれも2010年前後の書籍だった。good year ならぬ dog year を生きている私たちには、もはや古い印象がある。

ネット上では、2017年のこの記事が読みやすい。

VRは現実を完全に切り離し、非日常の体験をもたらすもの。ゲームはその最たる例だ。ほかにも、映画や遠隔地の旅行体験などのエンターテインメント、あるいは各種危険を伴う職業のシミュレーション訓練などで、不可欠な存在になるだろう。

 

いっぽうのARは、現在もスマホ向けのアプリで手軽に体験できるが、今後はメガネやコンタクトレンズのように小型軽量の装着デバイスに行き着き、情報をアシストする方向で我々の日常生活に溶け込みそうだ。風景の中に進むべきルートを表示してくれるナビゲーション機能や、レストランに目を向けたとき、店内の混雑具合やメニューを確認できるといったような使い方が想定されている。また、冷蔵庫の扉を開けずに中身を透視する、あるいは、遠くの見たいモノを拡大表示するような千里眼的な使い方も面白そうだ。

 

それに、医療分野での応用にも期待が大きい。手術時、MRIなどで取得した体内のデータを医師の視界に重ねることで、血管や患部の位置が明確になるなど、安全性とスピードが向上するというような発展も想定される。 

困ったことになった。ARの世界は日進月歩で、もっとワクワクする情報であふれていると思ったのに。その高すぎる期待も、近未来テクノロジーに対する自分の「色眼鏡」の所産だと言われればそれまでだが。

とりあえず、ベネ豚の「序詞」として冒頭に掲げた「三つの木」をあれこれ考えているうちに、友人向けのフレーズを思いついたので書きつけておこうと思う。ちなみに、私の友人の多くは、20歳前後だ。

男女置き換えても使えるリバーシブル仕様で、ポップに仕上げておいたぜ。

男: これまでのきみとぼくとの間に、「三つの木」がはえているのがわかるかい?

女: 「三つの木」? 教えてちょうだい?

男: 「初対面でハートがドキッ、恋しい気持ちを素直に言えなくてため息、いや・言えるさ・きみのすべてが好き」

引用、転用、盗用はご自由に。あたかも自分が思いついたかのように、好きな異性に行っちゃってもOKだぜ!

 

 

 

(「三つの木」= forest)

マドレーヌではなく真夜中の保育器室

夏真っ盛り。プールへ向かう家族連れとすれちがう日曜日。

大学時代に一緒に遊んだ横浜の同級生は、風貌が格好いいのに、やけに無口だった。勢い、話しやすい自分が解説に回る羽目になる。

ねえ? 彼ってどんな人なの?

まあ、いつまでたっても悪戯好きで、瞳は少年のままの性格だ。大学時代も変わらず、茶目っ気たっぷりに、彼女たちにこう答えたわけだ。

最近、10歳の女の子とキスしたらしいよ。ああ見えて、男ってわからないよね。あいつにとっちゃ、キスするチャンスがあったら、年齢は関係ないらしいんだ。

すると、女の子たちはキャッとか小さく悲鳴を上げる。10才はあってはならないロリータ趣味だ。彼女たちの好奇心が、波のように引いていくのが伝わってくる。 

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

そこですかさずお決まりのフォローを入れる段取りを、何度かこなした記憶がある。男同士の友情も大事にしなくちゃね。

あいつ、プールの監視員をやっていて、溺れた10歳の女の子を人工呼吸で助けたらしいよ。ほら、類は友を呼ぶっていうじゃない。本当にいい奴なんだ、あいつは。

この逸話は実話なので、よく覚えているが、夢の記憶というやつは、するするとみずのように逃げて、つかみどころがない。

たぶん、夢の中で小さな女の子を解放している状況らしい。友人の実話とは逆に、少女に水を飲ませなければ、彼女の生命が危ない。そんな危篤状態で、ぼくは水筒を傾けて彼女に給水しようと、つまりは、水を飲ませようとするのだが、気を失っている少女にどうやったら飲ませられるのか。何と声をかけたらいいのか、途方に暮れている。少女は絵本に出てくるような金髪の巻髪をしていて、リリーとか、メアリーとかいうようなよくある名前だ。フランス人形のイメージ。

ここで今晩の出題となる。

あなたなら、失神している少女に、どんな言葉をかけて、水を飲ませようとするだろうか? 台詞を考えてみてほしい。

夢の記憶は不思議だ。ついさっきまでその場面にいたのに、自分が外国の少女にどんな言葉をかけたのかさっぱり思い出せないのだ。この記事を書いている間に、何とかして思い出すことにしよう。

Typologies of Industrial Buildings (The MIT Press)

Typologies of Industrial Buildings (The MIT Press)

 

さて、水筒での給水の話が出たので、給水塔の話をすることにしようか。

上の写真集を出したベッヒャー夫妻は、異色の写真家だ。

ベルント・ベッヒャーは(…)1959年から、給水塔、冷却塔、溶鉱炉、車庫、鉱山の発掘塔などドイツ近代産業の名残が残る、戦前の建築物をともに撮影するようになります。「無名の彫刻」と命名したそれらの写真を比較対称し機能種別に組み合わせたタイポロジー(類型学)の作品で過去を内在した現在を指し示そうとしています。
(…)

冷徹に撮影者の主観をなくした客観的な表現方法はミニマリズムの範疇で語られることも多く、特に1980年代以降に現代アートとして高い評価を受け、活躍の場を欧州、米国へと拡大しています。1990年ヴェネツィアビエンナーレのドイツ代表として金獅子賞を受賞、2004年にはハッセルブラッド国際写真賞を受賞しています。いまや現代アートオークションで作品が高額落札されることが多い世界的人気アーティストです。

http://www.artphoto-site.com/story91.html

 この世にある建築の中で、最も地味な給水塔にカメラを向けて、各地の給水塔をただおさめただけの写真集。写真の世界の半可通にとっては、鑑賞の方向性が難しいところだ。ただ、解説の文章のミニマリズムという指摘はわかる気がする。大量生産大量消費の高度資本主義の反対側に立って、装飾をはぎとった必要最小限の物で生きていくこと。確かに、どの給水塔もその流儀で建っている。

ミニマリズムが部活やめるってよ」。そう誰かが嘯いていた気がしたので検索したが、何も出てこなかった。これも夢の中で聞いた声だったのかもしれない。たぶん、「ミニマリズムが部分的に終わるってよ」と言いたかったのではないだろうか。どんな夢だったのかな。記憶の専門家の力でも借りた方がいいだろうか。

頭の中で引きつづき検索をかけながら読書していると、これはビックリ。給水塔にこだわって、著作に写真まで載せている記憶の専門家が見つかったのだ。 

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どうやら、下の新書の著者が、幼少期に遊んでいた場所にある給水塔らしい。

 そして、近づいてみますと、この水道塔の下で遊んだ思い出が奔流のように、懐かしさとともにあふれ出てきました。当時、この水道塔の下あたりは、空き地になっていて、官舎に住んでいる子供たちが集まって、よく遊んだものです。缶蹴りをしたこと、「十字架」という鬼ごっこのような遊びをしたこと、さらにはまた、その当時、水道塔の水がよく漏れ出していて、その水で泥遊びをしたこと、近くの自生のビワやイチジクの実を季節ごとに取ってきては洗って食べたこと、などなどです。  高橋雅延

記憶力の正体: 人はなぜ忘れるのか? (ちくま新書)

記憶力の正体: 人はなぜ忘れるのか? (ちくま新書)

 

 認知心理学者の高橋雅延が語っているのは、プルーストのマドレーヌ体験と同じ無意志的記憶の喜びだ。音や匂いや物のような周辺物がきっかけで、意識で制御できない勢いで過去の記憶がよみがえること。これは何にも代えがたい喜びだし、プルーストの同時代の人々はそこに純粋な真実があると考えたらしい。

高橋雅延は、記憶には三種類あると説明する。自分の言葉で置き換えて整理したい。

  1. 意識的記憶(意識すれば思い出せる記憶)
  2. 無意志的記憶(意識の奥に沈んで、思い出そうとしても思い出せないが、何かのきっかけで蘇ってくる記憶)。
  3. 身体記憶(身体がそれに従って勝手に動くような、スポーツや音楽演奏を可能にする記憶)

1. で面白いのは、ひとつの刺激に対して、通常の感覚だけでなく異なる感覚も同時に近くする「共感覚」の話だ。『ロリータ』を書いたナボコフが、すべてのアルファベットに色を感じたことは有名だ。全人口の4%いるという共感覚保有者は、うまく活用すれば、記憶テストで好成績をあげられるという。逆に言えば、普通の人間でも、さまざまな感覚を同時に使えば、記憶テストの成績は向上するのだという。

英単語を覚えるとき、「目と口と耳と手を使って覚えれば速い」と自分が教えてきたのは正しかったことを知った。犬のいる青の表紙がやけに懐かしいワン! 

英単語ターゲット1900 5訂版 (大学JUKEN新書)

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本当は「潜在記憶」と呼ぶらしい 3. の身体記憶には、面白い実験が目白押しだった。意識では覚えていなくても、身体が覚えているのだ。いわゆる「勘」の大部分も、この身体記憶に含まれているらしい。

  • 誘拐されて一種の地下室に閉じ込められた4歳の女の子は、事件の記憶はなかったが、以後しきりに「バービー人形生き埋めごっこ」で遊ぶようになった。
  • 胆のうの手術中に一時的に記憶を失った外科医が、「ここはどこ?」「私は何をしている?」という程度まで記憶を失ったのに、手術はそのまま無事やりおおせた。

プルーストならマドレーヌと紅茶。2. の無意志的記憶が呼び起こされるきっかけは、場所、匂い、身体状態、感情状態があると、説明されている。そこで「ラジオ体操の伴奏なしにラジオ体操をできるか?」と問われているように、個人的には聴覚刺激と味覚+嗅覚刺激がトリガーとして大きく働くのではないかと思う。

新書では省かれていたが、これらの聴覚・味覚・嗅覚は、系統発生論的に言って、古くから人間の脳とネットワークを組んでいるからだ。 

聴覚刺激で無意志的記憶がほとばしるように広がるさまは、この歌でも歌われている。

古い歌が ラジオから
不意に流れるの

むかしいつも 聴いていた
憂鬱なブルース

あの頃わたしはいまより
ずっと若くて泣き虫  

おそらく「憂鬱なブルース」となビリー・ホリデイのことだろう。

そして、聴覚・味覚・嗅覚の連合が、古くから人間の脳とネットワークを組んでいることに、人間という種の秘密があると説く本に出逢った。

自分もこの記事を書いたとき、少しおかしいと感じたのだ。

アロウェイらによれば、持久走ができる哺乳類は人間だけ。人間は群れで走って鹿を捕獲することもできたはずだという。人間は汗をかいて放熱できるが、鹿はあえぎ呼吸でしか放熱できず、長距離を走っているとオーバーヒートしてしまうのだ。

人間が、身体の基本設計通りに長距離を走れば、ワーキングメモリも強くなる。このことは研究論文で証明されているのだという。脳を強くする方法は、きわめてワイルドな生き方に潜んでいるようだ。

困ったな。散歩や筋トレは好きだけど、ランニングは単調なので好きじゃない、とか言ったら、鹿られそうだ。鹿られるだけならまだしも、時折り地元の夜の繁華街で撮影している野人たちにニーブラされてしまうかもしれない。この世界は何が起こるか油断がならないから。

簡単に要約すると、「人間は長距離走行をするように身体ができているので、長距離を走ってもなんくるないさー」ということになる。単純運動の嫌いな自分は、「長距離を走るように身体ができているだなんて、人間はランクルじゃないさー」が本音だった。

だいたい何のために一日数十kmも長距離移動するのか、疑問でならなかったのだ。

野生の大地を放浪していた時期の人類は、まず聴覚で危険を聞き取ったことだろう。では、人類の脳と古くからコンビを組んでいる古株の「嗅覚 / /味覚」は、そのころ何をしていたのだろうか?

この本が答えをくれた。

 それにしても、アジア大陸を乞えて中国や南アジアまに至るまでの何万キロにも及ぶ長旅へと初期人類を駆り立てた誘因は何だったのか? 放浪癖だ、人間ならではの探求心だと言う者もいる。だが、新たな食料源を見つけたいという願望が動機だった可能性はないだろうか? 嗅覚を中心に据えて考えると、新説が浮かび上がってくる。食物に風味を添える植物い、言うなれば古代版ハーブとスパイスを探す旅だ。後に、歴史が記されるようになってから、香辛料貿易のルートに沿って人類移動が相次いで起きたのは、風味に対する渇望が原動力となったからだ。先にお話ししたとおり、渇望を生む中枢はヒト脳風味系の中心的構成要素のひとつだ。そして主要な入力がにおいなのである。 

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

美味しさの脳科学:においが味わいを決めている

 

確かに、香辛料がばらばらだった世界各国を、交易ルートで結びつけたのは事実だ。その大航海時代よりはるか昔、今から約100万年前に、人類は自分たちの足を使って、スパイスを探し求める大冒険の旅を続けていたらしいのだ。

(きっと遠くに「スパイスがあるぞ!」のヒット曲)

人間を動物と区別するのに「道具を作る動物」という定義を使うことがある。しかし、最初期に作られた最大の道具である「火」を中心に置くと、人間は「料理をする動物」だと再定義した方がいいという研究者もいる。

集団になって火を囲み、スパイスを使った料理をして、一緒に食事をすることで、ホモ・サピエンスは人類になったのだという説には、説得力がある。

おそらく、いくつかの研究が示唆するように、火、料理、それを囲む集団生活、言語は、おそらく相関関係をもって同時に生まれたのだろう。

という新説を、このブログの読者は呑めただろうか。呑めた? 呑めない?

困ったな。そんなこより、先ほどの問いの答えが、まだ自分の中で見つからないのだ。

あなたなら、失神している少女に、どんな言葉をかけて、水を飲ませようとするだろうか? 台詞を考えてみてほしい。

どうやったら、水を飲んでくれるだろう?

しょうがない。記事を書きつづけながら、もう少し答えを探すことにしよう。

というわけで、人類初のモノづくりは料理だった。この事実は動かないだろう。では、最新のモノづくりは?となるとだな、えれえことになっとるんじゃ、べらんめえ。びっくりすることになっているんではあるメエカア。 

MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

 

 「メイカーズ」関連が騒がしい。この元 Wired 編集長の著作以降、日本語でも数冊のメイカーズ関連本が出版されている。

「21世紀の産業革命が始まる」という副題にもあるように、簡単に小さくまとめると、メイカーズとは「3Dプリンタの普及以後、誰もがモノづくりできるようになる革命的環境」のことだ。 

となると、大量生産大量消費の反対側に立って、必要最小限の自分専用の物で生きていく道が、豊かに開かれたことになる。必要最小限の市販物で生きていくミニマリズムは、部分的に終わってしまったのかもしれない。

例えば、デンマークの誇る玩具レゴ・ブロックは、古代の剣はあっても、現代的な銃火器は作っていない。すると、その隙間を狙って、レゴ・ファン の一人がM1軍用小銃をデザインして3Dプリンタで出力した。たちまちファンサイトで話題になって、カスタムパーツとして、世界中に流通するようになったのである。そのレゴ・ファンは、今やカスタム・メイカーとして数千のロットで新製品を送り出す職人となったのである。

レゴ本社も、自身を補完する生態系の一部として、カスタム・メイカーの存在を歓迎しているのだという。

(↑3Dプリンタに関連する動きをまとめた記事。レゴ以外のブロックと連結できる連結パーツにも言及あり↑)

確かに、21世紀の産業革命は始まりつつある。誰もが簡単にモノづくりできる時代とは、母親が子供にキャラ弁を作ってあげるように、父親が子供に玩具を作ってあげる時代なのだろう。

 さて、実は自分にも、ふとしたきっかけで思い出す給水塔の思い出があるのだ。正確には、大学病院の屋上にあったので、給水タンクと呼ぶべきかもしれない。一年前の記事に、自分はこんな思い出を書きつけている。 

 と、こんなことをふと思い出したのは、昨晩東温市の雪交じりの田園風景を、魚眼レンズ効果を使って撮影した写真群を見たから。15歳の夏、東温市にある大学病院に長期入院していたのを思い出したのだ。入院している子供たちは難病の子供ばかりで、自分も20代までの生命との事実上の宣告をもらっていた。レギュラーだったもののサッカー部の最後の大会には出場できず、試合当日には、サッカーのユニホームを着て病床で横たわっていた。

 

 小児科で15歳と言えば、最年長の餓鬼大将だ。「手下たち」を引き連れて一番熱中した遊びは、紙飛行機を病院の屋上から飛ばすこと。紙飛行機と云っても、長方形の紙を折り畳んで数秒でできるものではなく、型紙を切り抜いてボンドで張り合わせて、ゴムカタパルトという発射装置で飛ばす高性能紙飛行機のことだ。 

高性能紙飛行機: その設計・製作・飛行技術のすべて

高性能紙飛行機: その設計・製作・飛行技術のすべて

 

 大学病院には精神科もあったので、当然屋上には自殺を防止するため高い防護柵が張りめぐらされていた。これでは、屋上から紙飛行機を飛ばすことはできない。屋上の一角、大人がやっとよじ登れるような梯子があるのを見つけて、屋上屋を架すがごとく建っている給水塔によじ登った。登ってみると、そこには柵も何もない。強風が吹けば転落死するかもしれない。そう思うと足が竦んだ。震える足で地面をしっかり踏みしめて、青空へ向けて紙飛行機を飛ばした。

 

 真下へ墜落するもの紙飛行機もあれば、大学病院の敷地外まではるばる飛んでいく紙飛行機もあった。稀に、イカルスのように上昇気流に乗って、あれよあれよという間に太陽の周りにある眩しい光域へと昇っていき、遠ざかる機影がそのまま光の中へと溶け入ってしまうこともあった。「手下たち」は高所の恐怖でうずくまりながらも、口々に歓声を上げた。闘病仲間たちが次々に死んでいくので、自分たちもこの病院の敷地から永遠に出られないかもしれない可能性に、誰もが怯えていた。

 

 恐怖と希望と。太陽へ溶け入って消えていった紙飛行機を、そんな相反する感情を抱いて、自分も含めた難病の子供たちは見つめていたように思う。 

もうひとつ、20代までの生命だとの宣告を受けた15歳のとき、深く刻まれているのは、難病の子供たちの保育器を集めた小部屋だった。10人くらいの赤ん坊がいたと思う。

 30年前のぼくが15歳で大学病院に入院していたとき、やっぱり泣き叫ぶ子たちは実際にいたんだ。家に帰りたい、どうして帰してくれないのかって。泣き叫んでもどうしても帰宅させてもらえない子もいて、たぶんその子たちは二度と家に帰れない運命だった。それくらい難病の進行した子供たちだった。

 

 入院中は時間があり余っている。大学病院を探検するのって、楽しいんだよ。よく訪問者用の白衣を着込んで、ベビーベッドが集められた病室へ入って、難病の赤ん坊たちを眺めて過ごしたもんだ。

 

 ステロイドを投与されたせいで、顔も身体も数倍に膨れ上がった5歳くらいの赤ん坊もいた。あの子はたぶん30歳になっても赤ん坊のままだったと思う。ひときわ大きなアクリルケースの中にふんぞりかえって、たぶん一日中寝ているだけの数年間を生きてきた。アクリルケースの両側には、おむつ交換できるように手を差し入れる口が開いていて、ぼくはよくそこへ手を突っ込んだ。赤ん坊の手のひらをくすぐってあげたかったんだ。くすぐると、膨れ上がったムーンフェイスの真ん中に集まっている目や口が動いて、本当に嬉しそうに笑っている顔になるんだ。病気で何もわからない赤ん坊でも、自分の皮膚に触れられるのがあんなに嬉しいもんなんだね。自分の皮膚に接触してくれる愛情をあんなに求めているもんなんだね。

上で書いた Moon Face の赤ん坊とは別の赤ん坊のことをよく覚えている。どういう病気だったのかはわからないが、名前に「帆」の字が含まれていた女の子だったと思う。彼女はいつも眠っていた。保育器の隣には、小さなホワイトボードが据え付けられていた。そこには、パパからのメッセージで「早く元気になってね」「おうちでみんなで待っているよ」「いつになったら帰ってきてくれるんだい?」というようなメッセージが、週毎に日付とともに書き込まれていた。

ぼくはそのホワイトボードが嫌いだった。見るのも嫌なくらいだったけれど、その病室に入ると、必ず見てしまうのだった。

というのも、ある日付を最後に、その一行メッセージは更新されなくなってしまい、一か月以上前の古いメッセージを最後に、その下の数行が空白になっていたからだった。

15才。昼間にすることといえば読書くらい。好きだったサッカーは禁じられていた。眠れない真夜中には、その保育器の赤ん坊たちが集められている病室によく忍び込んだものだ。そして、飽きずにじっと、赤ん坊たちの寝顔を眺めていた。 

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

 

 ノーベル文学賞受賞作家の私小説に、難病を伴って生まれた赤ん坊を、消極的に衰弱死させるかどうかで、主人公が苦悩する場面がある。自分が個人的に体験したのは、難病を伴って生まれた赤ん坊が、或る意味では現実に捨てられている場所が、この国にあることだった。

赤ん坊は誕生日を自分で選ぶ。誕生日の日付けになった真夜中、体内時計の予定時刻が来ると、母親の身体をノックして、陣痛を促す。

一方に捨てられた子供がいて、一方に生まれてくる子供がいる。真夜中のあの病室は、きっと自分にとって一種の原光景なのだろう。

感傷的になりたいわけではない。ただ、途絶えてしまったあのホワイトボードの続きを、誰に頼まれているわけでもないのに、自分が書いてみたい気がしている。他の誰かが書くよりも、自分が書くのが適任なのではないかという気がしている。

あれから約30年。確かに時代は変わった。書こうと思えば、どのようにでも自由に書けるし、モノづくりだって、作ろうと思えば、どのようにでも自由に作れる。

次代の子供たちのために、何を作ろうか。

そう考えたとき、ふいにあのありふれた名のフランス人形のような少女に、何と言うべきかが閃いたような気がした。

あなたなら、失神している少女に、どんな言葉をかけて、水を飲ませようとするだろうか? 台詞を考えてみてほしい。

このひとことしかないだろう!

飲んで、メアリー!

という洒落で記事をしめくくれるくらい、未来に「何でもあり」の自由がひらけているような気がして、今晩はとても嬉しい心地がするのだ。

 

 

ベルマークの手軽さ、希望のかけらの尊さ

柔らかい発想力がないと、優れたクリエイターとは言えない。

20代前半の話。上で話したラフォーレの最上階で芝居を打っている集団に、何度か役者として紛れ込んだことがあった。楽屋の窓から繁華街を見下ろすと、きまって「カル男」というキャバレ―の看板が見える。友人たちと、「なんてセンスのない名前なんだ」と笑い合ったものだ。「カルオトコ」なんていうキャバレーには、軽薄な男しか集まってこないにちがいない。しばらくして、誰かの脳が閃いた。

「カル男」は「カルオトコ」じゃなくて「カルダン」って読むんじゃないか? 

 な、なるほど。当惑してしまう言語センスだ。けれど、どちらかというと、これまでの人生で、自分の言語センスで当惑させてきたことの方が多いような気もする。

筋トレが趣味の友人宅で、ダンベルを見せられた。ところが「そのダンベル、ずいぶん軽そうじゃない?」と軽口を叩いたせいで、トレーニング指導を受ける羽目に。少々の重さのダンベルでも、表側へは簡単にカールできる。けれど、裏側になると急にキツくなって、腕が水平に上がらなくなるのだ。

苦しんでいる私を見て、友人は「あれ? ダンベル軽そうって言ってなかった?」と当然からかってくるわけだ。

「いや、これ、ダンベルじゃないでしょ? この裏向きなのは、初めてだな。ベルダンっていうんじゃなかったっけ?」と誤魔化そうとするが、ダンベルはどこまで行ってもダンベルだ。それでも、友人の模範演技を見て、「ダンベルじゃなくてベルダンまでできるなんて、さすがは嵐を呼べる男子」とか何とか、余計なことを言ってしまうのだ。

さて、「カルダン」から「ベルダン」へと書き進めてきたが、ここからは華麗にも No plan だ。とりあえず、と書いても何も思いつかないので、とーりーあーえーずー、と間延びして時間を稼いでいると、次の展開を思いついてしまう自分のことが、今日も好き。

とーりーあーえーずー、トリアーの話から。デビュー作の『エレメント・オブ・クライム』という謎めいた映画を、若い頃の自分は結構気に入っていた。「白 / 黒」ならぬ「黄金 / 黒」で撮影されたフィルムは犯罪映画のようでもあるが、ロブ=グリエ『消しゴム』やオースターのニューヨーク三部作のような、主客転倒のループ物だったと思う。わかりやすく言い直すと、殺人犯を追って現場へ行くと、殺されたはずの男が生きていて、思わず発砲して自分が犯人になってしまうというような筋立て。

鮮明に覚えているのは、最後にパイプのようなケース?に閉じ込められていたキツネリス?の赤ちゃんのアップで映画が終わること。文学的素養と映像美に憑かれた男なら、こういう処女作を撮るだろうと思わせる映画で、面白くはなくても、種族として近い自分は引き込まれて見たのだった。

出世作はやはりビョーク主演の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。贔屓にしているトム・ヨークとのデュエット主題歌も素晴らしいし、ビョークという弾ける才能を得て、ミュージカルの陽気さまで降り注いだカンヌ金獅子賞受賞作。映画館まで見に行った。

さて、ここからここまでの複数の文脈が、ある国の文化へと流れこむことになる。ラース・フォン・トリアーデンマークを代表する映画監督。そして、デンマークを代表する建築家のビャルケ・インゲルスは、幼少時にビョークが箱の中にいろいろな物を集めているMVを見て、創造に目覚めたのだという。

(↑ビャルケによるスキーのできるゴミ焼却場をモチーフに使った短編小説。推敲したい。↑)

序文 ズボンを脱いだCEO 

 

 水曜日の午後のことだった。突然オルベクがズボンを脱いだ。

「恐れや不安があると、人は普段よりもいくらかクリエイティブになる。こうすることで混乱を生み出し、従業員の間に革命が進行中であるという感覚を呼び起こしているんだ」 

世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方

世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方

 

 この序文を読んだときから、この本の先行きに一抹の不安を感じた読者は私だけではないだろう。このオルベクというクリエイターは、トリアー監督の右腕のプロデューサーで、彼のほとんどの映画にクレジットされている。

ズボンを脱ぐことで従業員たちに喚起している「革命の感覚」とは、まず、どんな革命なのかを説明してほしい、と書いているそばから、くすくす笑いが止まらない。あのヨーロッパ的陰鬱さに彩られた映画群を、こんなコント仕掛けのクリエイターがプロデュースしていたとは。

建築界の天才児ビャルケのインタビューでは、たぶんこれが最新だろう。上の記事で書いた同世代のイーロン・マスクと意気投合し、火星移住に必要な火星住宅をインゲルスが手掛けることになったらしい。

 昔、ヨーロッパがオーストラリアの植民地化を始めた時代、ヨーロッパからオーストラリアまで行くのに6か月くらいかかった。今日、地球から火星に行くのは、昔ヨーロッパからオーストラリアへ行ったのと時間的にたいして変わらないし、リスクだって変わらない。だから、間違いなく現実になると思うよ。

――SpaceXイーロン・マスク(Elon Musk)についてのお考えを聞かせてください。

僕たちは、自分たちの仕事を「実用的なユートピア」と呼んでいる。それは、実用的かつ現実的な方法で、より良い世界を作ろうという考えなんだ。

(…)

SF小説ウィリアム・ギブスン(William Gibson)の「未来はすでにここに存在している。ただ隈なく行き渡っていないだけだ」という言葉に影響を受けていると言ってもいい。変化は非常に穏やかなこともある。

(…)

僕にとって、イーロン・マスクは、実用的なユートピアンだよ。彼が最初に手を付けたのは、電気自動車の巨大システムを構築することではなかった。まず、すごく魅力的な電気自動車を作ることに集中して、ポルシェを買うような人でも欲しくなる車を作ったんだ。そのあとに、アウディの代わりになるような、非常に素晴らしい車を作った。もう少し一般の人にも手の届く価格帯でね。そういったことが全てうまく回りだして、販売網が出来上がったら、最期に、広く大衆に向けて売り出す。彼らの電気自動車や自動運転車に対する実用的で現実的なアプローチが、最終的に世界を変えていくんだ。

 上のビャルケの発言の中に、彼のクリエイティビティの特徴が二つ現れている。

ひとつは、ユートピア(≒夢)で自分を焚きつけるエネルギー志向。テスラが最初にポルシェ級の夢のスポーツカーからラインナップを始めたことが、ビャルケには響くのだ。

もうひとつは、創造に幻想を抱かないこと。ビャルケは或る日卒然と未知の霊感が滝のように降りてくるといった神話を一切信じていない。ゴールは夢であっても、そこへ至るプロセスは徹底して現実的なのだ。未知のものに飛びつくのではなく、既存の複数の物を組み合わせて、どのようにして最適解を出すかという作業の地道な積み重ねを重視する。

ビャルケに限らず、小さな前進のたゆまぬ積み重ねこそが創造だという考え方は、クリェイティブ・プロセスの研究で裏付けられている。「ユリイカ!」の霊感伝説は誇張されている。結局のところ、創造とは努力の積み重ねなのだ。

デンマークの創造本は、これまで自分が研究してきたクリエイティブ・シンキングと、さほど変わるところはなかった。当然のことながら、創造は国境を越えるというわけだ。国境を越えられないもの、つまりは:デンマークという国民国家に、大きな注目が集まっているのを知る人は多いだろう。「世界一幸福な国」がそのキャッチフレーズだ。

ランキングを追いかけたい人は、まとまりのいい上記の記事をどうぞ。

下記の本から、自分の言葉でまとめ直すと、世界一の幸福の秘密はこの6つにありそうだ。

  1. 国際競争力豊かな世界的企業が数多くある。日本での有名どころでは、カールスバーグやレゴ。
  2. 男女平等で、女性の社会進出が完成(女性の就業率は73%で男性とほぼ同じ)。その代わり、子育てと介護を国が手厚くサポートしている。
  3. 生涯平均転職率は5回。企業と人材のマッチング精度が高く、ミスマッチが生じればすぐに転職できるので、仕事への満足度が高い。
  4. 教育・医療・介護は原則無料。失業者や身体障碍者にも手厚いサポートあり。
  5. 政治腐敗度が世界で最も低いレベルにあるので(日本は18位)、ガバナンス・コストが低く、遵法意識や他者を尊重する意識が高い。

特筆すべきは義務教育のあり方の違いだろうか。ソーシャル・スキルに重点をおいた教育がなされており、「友人と仲良くやるスキルは算数の成績と同等」だと評価される。したがって、中学校二年生まで五教科のテストすら行われないのだという。

上記の1.2.3.4.5.のすべてに日本は問題を抱えており、それらのいくつかには自分も積極的な提言を行ってきた。一朝一夕に日本がデンマークになることはないにしても、「世界一幸福」を生み出しているものが、私たちの身近な社会制度を改善していくことから始まることは確かだろう。

身近なところと言えば、下の即興小説で用いた「秋山好古校長のところ」の高校出身の作家が、ソーシャル・ビジネスの対談集を出版しているのを見つけた。

「イレブンといって土を蹴ったぞ。全国大会に出たうちのサッカー部に関する予言にちがいない」と云ったものがある。秋山好古校長のところの蹴球部の連中に相違ない。

だから人間は滅びない (幻冬舎新書)

だから人間は滅びない (幻冬舎新書)

 

そのなかで自分が気になったのは、第六章で「反グローバリゼーション雇用」という章題を掲げているNPOだ。

上の記事で言及されていない内容がふたつある。ひとつは、プロジェクトの発案者が廃材活用製品を、ニューヨーク近代美術館に展示されてもおかしくないくらいのアート志向・デザイン志向の物にしようとしたこと。もうひとつは、プロダクトを障害者雇用によって生産していることだ。

工数あたりの生産コストでは競争力の乏しい障害者雇用を、デザイナーの尖った芸術センスで高い付加価値を稼ぎ出してフォローしようとする組み合わせが心憎い。

そういえば、自分の小説で同じようなNPOのことを書き込んだのを思い出した。

 雑誌を買って、帰りの電車の中で開くと、「若手起業家の横顔」と題された誌面の一劃で、シニャックが心持ち顎を上げた生意気そうな顔で笑っていた。記事はシニャックに好意的で、長野に移住までして法人を起ち上げ、障害者と協働しながら無添加石鹸を作る事業に打ち込む当時25歳の彼を、次世代のソーシャル・ビジネスの旗手であると讃えていた。
しかし、路彦の胸中に去来したのは複雑な感想である。あのシニャックが石鹸作りとはね、というのが心中の第一声で、記事中で強調される環境意識の高さや障害者雇用の意義などは、何だか莫迦に当たり前すぎて、彼がやらねばならないことではないような気がした。

このシニャックという男と主人公の路彦は、卒業旅行の機中で口論になる。

 しかし、席替えした後も鉾を収めようとしなかったのは、シニャックの方だった。路彦はもう取り合わなかったが、おれは侵略者とは「連続」しない、とか、路彦が「連続」を言うのなら、おれにも言わせろ、自民族中心主義はほぼ確実に自己中心主義と「連続」しているものだぜ、とか。成田に着陸した直後にも、路彦に或る旅行記を投げつけるように渡して、ムンバイへ行くべきだったな、おれたちも、と捨て台詞を言ってきたが、路彦はそれを無視して、別れの挨拶もせずに、旅仲間からひとり離脱して旅を終えたのだった。その背中に浴びせられたのは、こんな台詞。路彦は、ムンバイで赤ん坊の頃にマフィアに誘拐された挙げ句、手足を切断され、眼を潰されて、物乞いさせられ続ける子供たちとは、なぜ「連続」しようとしないんだ? まさか、人権を侵害されるアジア人より、日本人が優等人種だからとでもいうのか? そんな偏狭な差別的感覚を棄てるために、おれたちは長々と旅をしてきたのじゃなかったのか? 

物乞う仏陀 (文春文庫)

物乞う仏陀 (文春文庫)

 

ゴチックで強調した部分は、気鋭のノンフィクション作家である石井光太の著作を参考にして記述した。

この記事は、自分の関心や小説をパッチワークしながら、今のところこう流れている。

世界一幸福なデンマーク → OECD諸国の中でかなり貧しい日本 → 世界最貧民

上のゴチック部分の背景情報を知ることができた。気分の悪くなるような話も含まれているが、或る日本人がたまたま旅行で目にした光景が、こうやって活字や写真になって伝わってくることの幸運を今は感じていたい。 

 この町の犯罪組織はインド各地から赤子を誘拐してきました。そして子供が六歳になるまではレンタルチャイルドとして物乞いたちに一日当たり数十円から数百円で貸し与えるのです。(…)

 やがて、彼らが小学生くらいの年齢に達します。すると組織は彼らに身体に障害を負わせて物乞いをさせるのです。(…)

  • 目をつぶす
  • 唇、耳、鼻を切り落とす
  • 顔に火傷を負わせる
  • 手足を切断する
絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)

絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)

 

 さて、私たちはどんな国に住んでいるだろうか。良いところもあれば、悪いところもある日本。日本だけでも数え切れないほどの問題があるのは確かだとしても、高度情報化によて、海外の情報が打ち寄せる波のように繰り返し私たちに触れるなら、一日一ドル以下で生きる貧困層の人々に手渡せる何かがあるかもしれない。

さしあたり、それがどんな具体的なものかはわからないまま、自分はそれを希望のかけらとでも呼んでおこうと思う。

この記事はダンベルを「ベル⇔ダン」と呼び換える莫迦話から始めた。たぶん、こういった希望のかけらを世界各地に送るアクションは、一昔では考えられないほど身近な簡単なものにすることができる。小学生の頃にやっていたベル / マーク運動を、「ベル⇔ダン」変換して、世界一幸福な国の名前に近づけてもかまわないだろうか。

小学生の時熱中したあの程度の熱意で、たぶん救える生命があり、人生がある。そこまで思い至ることができなくても、世界の最貧民の子どもたちに、世界一幸福な国をイメージする程度の「希望のかけら」があってほしいと思えてならないのだ。

 

 

 

まだ見ぬオーロラのための心のオアシス

街角を歩いていると、オアシスのTシャツを来ている若者とすれちがって、振り向くことがある。90年代の英国ロックに一家言ある身としては、どうして10年代の末に20代の若者がオアシスを聴いているのか、興味が湧いてくるのだ。 

 もう少しダニエラの話を。プロのシンガーソングライターだから、あのプーチンより遥かに巧く歌いこなせるのはわかるにしても、Radioheadの「Creep」を、なぜこんな若い女の子がカバーしているのか。その辺りが疑問だった。リストを辿っていくと、グランジ・ロックの金字塔の曲までカバーしている。

 その理由は… わかってしまった。まだ wikipedia にも掲載されていない彼女のことだ。情報がないので断言はできないにしても、ほぼ間違いないだろう。…きっと、彼女の両親が愛聴していたんだ!  

RadioheadNirvana の名曲をダニエラ・アンドラーデがカバーしていたのは、おそらく親子間連鎖だろう。となると、Oasis のカバー歌手もいるのかもしれない。そう思って検索をかけると、Aurora というノルウェーのシンガーソングライターが見つかった。自分が贔屓にしている Massive Attack もカバーしている。オリジナル曲では「女性の王国」という造語をタイトルにしたこの曲が良さそう。

というわけで、今晩はオーロラの話をしてみたいと思う。

美しいオーロラの写真を集めた動画を見つめていると、オーロラが緑色をしていることが多いのに気づくだろう。

あの緑色は、私たちがこの地球で生きていける証しなのだと、オーロラ研究者は言う。宇宙から飛び込んできた高エネルギー粒子が、酸素とぶつかってできる色なのだ。

青やピンクは窒素分子とぶつかって生まれる色なのだとか。 

オーロラの科学―人はなぜオーロラにひかれるのか

オーロラの科学―人はなぜオーロラにひかれるのか

 

太陽の大きさを、私たちは肉眼で見えるあのサイズだと考えているが、実は太陽は個体ではないのだ。したがって、正確には、太陽風が届いている範囲が太陽となり、以下の等式が成立してしまう。

太陽のサイズ=太陽系

太陽系にはもちろん地球も含まれているので、地球は太陽の中にあって、常に太陽風を浴びている。人類が太陽風のせいでまる焦げにならずに済んでいるのは、地球の大気と地磁気が、私たちを太陽風から守ってくれているからだ。

そして、その太陽風と地球の大気圏と地磁気圏との摩擦がオーロラなのである。立式するとこうなる。

オーロラ=太陽風×(大気圏+地磁気

オーロラを太陽風による気まぐれな不定期ショーと見るより、「私たちの生命を守ってくれているガイアの愛」と見た方が感動できるかもしれない。例えば、オーロラから主色の緑が消えたり、オーロラ自体がまったく見られなくなったら、その地球に人類は生きていないことだろう。

ところで、近年の地磁気は少なくなってきている。この調子でいくと、日本でもオーロラが見られるようになりそうだ。と云っても、それは700~1000年後の話。オーロラの見られる北半球の帯は、このような感じになると予測されている。

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北は青森から、南は福岡まで、かなりの範囲でオーロラが観測できそうなので、楽しみになってくる。頑張って、あと700年長生きしなくては。

さて、このような地磁気の減少傾向を知ると、誰もが多少は不安になることだろう。その不安を先取りして、アメリカでさっそくディザスター映画が作られたらしい。

映画の中心主題は「ポールシフト」。ポールシフトは自転軸の移動と地磁気軸の移動の両方を指し、映画は両方をミックスして作られている。冒頭でヒッチコックさながら、鳥が建物に次々にぶつかっていく場面は、地磁気の異常を表現している。

磁気を感じ取れる動物は少なくないので、自分も何度か記事に書く機会があった。

(↑渡り鳥が量子もつれで動く磁気コンパスを持っていることは、この記事に書いた↑)

(↑ウミガメが海洋地図つき磁気コンパスをもって生まれてくることは、この記事に書いた↑)

他にも、イルカ、鮭、鮫、鮪、鰻も、磁気コンパスをもっているらしい。そして何と人類の親戚であるサルも、磁気センサーを持っているのだという。

では、人間は? 磁気を感じられない非磁気的動物なのだろうか? 

 (写真はひじき)

面白い実験が行われた。30人の学生を2グループに分け、1グループの学生たちを目隠しして、その目隠しバンドの後頭部に棒磁石をつけた。この棒磁石グループは、磁石なしグループに比べて、有意な差で方向音痴だったという。数km離れた地点で出発点の方角を推定させても、ほとんど当たらなかったのだという。対照群と対比できるきちんとした実験なので、人間にもわずかに体内磁石があるという説の方が有力だ。

比較的最近、Nature誌でも話題になったようだ。

さて、人間と磁気の関わりで、ぜひとも再言及しておきたい論点がある。それは「高層マンション症候群」という名で、その居住者の流産率などが有意に高いとするデータだ。実際に、欧米では子育て世代向けでは特に、高層住宅の建設が制限されている国が多い。

高層マンション症候群(シンドローム)(祥伝社新書224)

高層マンション症候群(シンドローム)(祥伝社新書224)

 

 スウェーデンでは「高層集合住宅の子供は病気にかかりやすい」との指摘を受けて、反対キャンペーンが展開され、住宅の低層化が進められた。と同時に、子どものいる家庭は五階以上に住まないように指導されている。  フランスでも、七三年に高層住宅の建設を禁じる通達が出され、以後建設はストップしたままだ。

 超高層集合住宅の本家アメリカでは、州や市によって大きく事情が異なり、ニューヨークでは超高層住宅が当たり前になっているものの、サンフランシスコでは八五年に住宅の高さ制限が導入され、ワシントンでも八七年に同様の決定がなされている。

 しかし、このような高層マンション制限派の国ばかりではない。もともとヨーロッパでは一時期高層集合住宅の建設が盛んだったとはいえ、アメリカや日本を含めアジア各地で見られる超高層マンションのようなものはなかった。景観保護のため、一部では高層オフィスビルさえ制限されてきた。だが近年、ロンドン、パリ、ベルリン、フランクフルト、マドリードなどの大都市では、超高層オフィスビルが続々建設されている。

(…)

 とはいえ、そのイギリスでも、子育て世代は四階以上には住まないようにとする制限は続いている。 

欧米で高層マンション建築が制限されているのは、流産率が高まるから。「地磁気から離れるから」は世界初指摘かも。 

 どこかに上のように書いたが、世界初かどうかはどうでもいい。たぶんどこかの誰かが言っているだろう。というのも、検索していて、こんな記述を見つけたからだ。

『鉄筋建築物や電車・車など鉄でできたものの中では地磁気が弱められる。そういう中で生活することの多い現代人には、磁気欠乏(不足)症候群ともいうべき病的状態が存在すると唱えている医学研究者たちがいる。』

上記の引用は気象庁地磁気観測所のサイトから引用した孫引きで、大本は削除されてしまっているTDKのサイトからのようだ。そのうち「鉄筋建築物」という文字を見て、ピンときた。このグラフを思い出したのだ。

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下のグラフで、同じ1,2階に住んでいるはずの一戸建て居住者と、高層マンション居住者を比較すると、5年以上住んだとき、流産率に2倍近くの差が出ている。地磁気のある地表からの距離は、ほぼ同じなのに。

おそらくそれは、鉄筋コンクリートのマンションか、木造一戸建てなのかの差だろう。

「木造住宅270件とマンション62件」を対象に平均死亡年齢の比較を行ったところ、マンションの住民の方が木造住宅に住んでいる人より9年寿命が短いことが分かりました。

これを調べたのは島根大学の中尾哲也教授です。

(…)

もう一つ、静岡大学東京大学の共同研究を紹介します。

コンクリートの巣箱、木製の巣箱、金属製の巣箱の3つを用意して、ネズミの子供の生存率を調べました。

結果は

コンクリートの巣箱では93%が死亡

木製の巣箱では15%が死亡

金属製の巣箱では59%が死亡

でした。

この実験でも木製の巣箱が圧勝です。

それにしても、コンクリート巣箱の生存率7%(木造は85%生存)って恐ろしいです。 

上の住宅別の平均寿命の研究結果は、下の書籍で有名になったものだと思う。自分が「高層マンション症候群」と地磁気の関連を書いたときは、半信半疑だったが、どうやら周辺にある研究結果は、拙論を補強してくれているようだ。当たったようなのが嬉しい。

コンクリート住宅は9年早死にする―いますぐ“木装リフォーム”して健康を取り戻そう

コンクリート住宅は9年早死にする―いますぐ“木装リフォーム”して健康を取り戻そう

 

その地磁気にも滅法詳しい船瀬俊介が、地球サイズの地磁気に関して、面白い説があるのを紹介していた。もし地磁気のポールシフトが起こったら、どうやら地球の風景は一変してしまうらしい。

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では、磁場反転すると、どうして種が絶滅してしまうのか。

知りたくて知りたくてうずうずしていたら、この本の中で見つかった。

 5.4億年前のカンブリア爆発で多種多様な動物が一気に地球上に現れてから、少なくとも5回の大量絶滅が起こっている。五度目の大量絶滅が、有名な恐竜の絶滅だ。現在は、人間活動の悪影響による六度目の大量絶滅が進行中とも言われている。大量絶滅の周期性に着目し、宇宙との関連性を指摘する研究もある。絶滅に見られる6400万年周期は、太陽系が銀河系の円盤中心から遠ざかるリズムと一致しており、銀河系の外からくる宇宙船による被ばくが原因ではないか、という説だ。 

(説の出所はこの論文:Do Extragalactic Cosmic Rays Induce Cycles in Fossil Diversity? - IOPscience

地磁気と人間と動物との関係は、2つの有力な問題系へとつながっている。

  1. ヨーロッパの数百倍という規制の「意図的な緩さ」が、日本国民の健康をどれだけ悪化させているかの疫学的検証。
  2. 地震直前の電磁波電場に、動物や人間がどう反応するかの「前兆現象」を、地震予知に役立てる電磁気地震学の分野。
宇宙災害:太陽と共に生きるということ (DOJIN選書)

宇宙災害:太陽と共に生きるということ (DOJIN選書)

 
地震の前、なぜ動物は騒ぐのか―電磁気地震学の誕生 (NHKブックス)

地震の前、なぜ動物は騒ぐのか―電磁気地震学の誕生 (NHKブックス)

 

さらに宇宙大に視野を広くとると、どうやら、過去の大量絶滅と地磁気のポールシフトは関係ありそうだし、そのポールシフトは地球外の太陽や宇宙の活動と関係がありそうだ。

もう一度、オーロラが何から生まれているかの公式を確認しておこう。

オーロラ=太陽風×(大気圏+地磁気

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ライブ中継! / Live!オーロラ

上のサイトでは、ライブでオーロラの中継を見られるらしい。

美しいオーロラに心を動かされるとき、同時にオーロラで可視化された大気と磁場に守られて、私たちが地球で生命を輝かせられることの喜びを感じたい。まだ見ぬ極北のオーロラに自分が期待しているのは、そのような生命の喜びにつながる感動だ。

ちなみに、上の記事で言及した湯山れい子の甥にあたる作曲家が、オーロラの輝度を音符化してシンフォニーを作曲している。12星座を楽譜にした楽曲集もあるようだ。星やオーロラを眺める夜のBGMにはうってつけなのではないだろうか。

 

〈COLEZO!〉オーロラ・シンフォニー~オーロラの音楽

〈COLEZO!〉オーロラ・シンフォニー~オーロラの音楽

 

個人的に、今晩は Aurora による Oasis のカバーに耳を傾けたい気持ちだ。

それにしても遠いな、というのが、溜め息交じりに出てくる言葉だ。ある有名短編に対抗して、「100%の女の子」で掌編小説を書こうと思ったとき、最初は互いに地球の裏側に住んでいることにしようとった。日本の真裏はブラジル沖の海の上なので、赤道を挟んだ「線対象」の話に変えた。

地球の反対ではないけれど、日本から Aurora のいるノルウェーまでは、ずいぶん遠い。ずいぶん遠いけれど、その地に地球遊園地で生命を輝かせられることの喜びが舞い踊っているのなら、たとえどんなに遠くても、それを心のオアシスにして、しばらくは自分を慰められるような気がする。

落ち込んでなんかいないさ。 

 

 

 

 

 

 

I would like to leave this city
This old town don't smell too pretty
And I can feel the warning signs
Running around my mind

街から出ていきたい
この街にはもうときめきがない
危険なサインがぼくの心を
駆けまわっている

 

And when I leave this island
I'll book myself into a soul asylum
'Cause I can feel the warning signs
Running around my mind

この島を出るときは
別の心療内科を予約しよう
危険なサインがあそこを
駆けまわっていたから

 

So here I go
Still scratching around in the same old hole
My body feels young but my mind is very old

まだぼくはここにいる
同じ穴の中に幽閉されて
這いあがろうと壁をひっかいている

 

So what do you say?
You can't give me the dreams that are mine anyway
You're half the world away
Half the world away
Half the world away
I've been lost, I've been found
But I don't feel down

きみはどう言いたいのだろう?
どっちにしたって
きみからはぼくの夢をかなえてあげられないって?
どうして?
きみは地球の反対側にいる
とてもとても遠いところに
一度は見つけたと思ったものを
なくしてしまったのだろうか
でも 落ち込んではいないさ
そうだとは信じていないから

 (…)

 

新しくアエル覚醒を水晶します

困ったな。諸事情あってお金がほとんどないので、まともな食事ができなくなってしまった。学食でも行けば? と気安く助言されそうだが、上の記事のような小綺麗な学食は800円くらいするし、カジュアルなところでも500円くらいはする。その1/3未満で何とかならないだろうか。

とは、もちろん知人には打ち明けられないので、「外のどこかで食べてくる」と告げて別れ別れになる。ぼくは心の中で呟く。とうとうあれを試すときが来たのではないだろうか。

「学食」ではなく「光食」。

太陽を見つめるだけで、飲食をほとんどしなくても生きていける修行者が、世には何人もいるそうなのだ。

いくらハートがでっかいどうでも、そこまでのやる気は稚内が、財布事情が最北端ならやむを得ない。マクロビオティック創始者が「身土不二」といっていたから、地元の太陽を見つめた方がきっと相当身体に良いのだろう。そうしよう。

京都生まれの両親のもとで育ったので、地元の伊予弁は得意じゃない。この「相当」を「ほうとう」、「そうしよう」を「ほうしよう」と伊予弁で話されているのを聞くと、違和感がある。

そういえば、昔よく行っていた自由が丘の「ほうしよう」は潰れてしまったらしい。普段使いの紅茶には悪くない選択肢だと思うのだけれど。ちなみに、自分が買い物に普段使いしているエコバッグは FAUCHON だ。 

どれどれ、FAUCHON の茶葉はどれくらいするのだろう。 

FAUCHON 紅茶ダージリン(ティーバック) 20袋

FAUCHON 紅茶ダージリン(ティーバック) 20袋

 

 そうか。財布事情が最北端の今の自分には、手が出ないな。これなら、リプトンの方が半額以下なのではないだろうか。 

リプトン イエローラベル 50 2.0g×50P

リプトン イエローラベル 50 2.0g×50P

 

 というわけで、昨晩の記事に続いて、またしてもリプトンの本を手にすることになった。書き落としていた重要な論点があったのだ。

恐怖ではなく愛を感じながら生きれば、好ましい遺伝子のスイッチがオンになって、自分の望む運命を生きることができる。その仮説が科学的に証明されつつあり、それを上回る仮説はない。

上が、自分の言葉でまとめたリプトン『「思考」のすごい力』の結論だ。 

「思考」のすごい力

「思考」のすごい力

 

ポジティブ・シンキングが、人間の身体全体に良い影響を及ぼすのはわかった。でも、人間の身体を構成している個々の細胞は、それぞれ違った発言の仕方をする。DNAが主役でないなら、個々の細胞はどうやって自身を作り変えて行くのだろう?

スタンフォード大学で生物学を研究してきたリプトンの答えは、あまりにも独創的だ。細胞の「脳」は細胞膜だというのである! 「脳 brain」の役割をしているのだから、細胞膜と呼ばずに「メンブレインmembrane」と呼んで、語感を生かそうとまで提案している。

リプトンは研究に研究を重ねた結果、このように細胞膜を再定義する。

細胞膜とは、結晶性の半導体であり、ゲートとチャネルを持っている。

そして、自分の書いたそのメモを見て、あることにはたと気が付く、アレとそっくりじゃないか。

コンピュータ・チップとは、結晶性の半導体であり、ゲートとチャネルを持っている。

つまり、細胞のコンピュータチップに該当するものが、細胞膜なのだと考えるべきなのだ。研究の積み重ねの末に、閃きが天から降りてくるアハ体験は、研究者独特のものかもしれない。子供のような喜びが文章に満ちているのが、どこか羨ましい。

12年後の下のNATURE誌上の論文で、「細胞膜=コンピュータチップ」仮説は実証されたらしい。ロッカー志望だったリプトンは、生物学者としても、かなり早見えの才気あふれる人だったのではないだろうか。

さて、細胞膜が細胞の「脳」だというところまで書けたので、ひと息入れることにした。ぼんやりと岐阜県の南にある恵那市の道の駅を眺めていた。

「ラ・フォーレ」の前後に地元の地名しか書いてないのが、ええな。気が付くと、そう呟いていた。地元の松山市には、かつて「ラフォーレ原宿松山店」が若者たちが集まるランドマークだったのだ。

松山に遊びに来た友人をそこへ案内すると、どうして「原宿」が名前についているのかを、からかい半分でずっと詰問されたものだ。答えられるはずもない。ひとことで、この書名で言い返した。 

風に訊け (集英社文庫)

風に訊け (集英社文庫)

 

 ん? どういう風の吹きまわしだろう。何の話をしていたのだったか。

そうだった。「恵那市」ではなく「energy」の話をしていたのだった。

では、生命科学界がおさらばしたDNA決定論に対して、リプトンは量子的な何を対置させているだろうか? 想像してみてほしい。

 

答えは、エネルギーだ。「物質はエネルギーでできている」というアインシュタインの名言を信奉しているからではない。実際に、細胞間ではエネルギーによるコミュニケーションが行われていることが確認されている。さらに、ホルモンや神経伝達物質などより100倍も効率が良いことが示されているのだ。 

ここでいうエネルギーとは、電磁エネルギーのこと。電磁エネルギーの影響を最も受けやすい人体器官のひとつが、松果体だ。

或る漫画キャラクターがおでこに「肉」と記している箇所は、スピリチュアリズムでは、俗に「第三の眼」とも言われるきわめて重要な部位。人間の心身のバランスを取るのに、とても大事な場所だ。この記事がうまくまとめてくれている。 

記事の筆者が、「第三の眼」だけに着目するだけでは駄目と強調しているのは、「第三の眼」という俗称は、7つのチャクラのうち第六チャクラに相当し、それが第二チャクラ(丹田)との相関性が高いとされているからである。

スピリチュアリズムが苦手な人もいるだろうから、医学的な見地から再確認しておくと、そこにある松果体は幸福ホルモンのセロトニンや睡眠ホルモンのメラトニンの分泌に大きく関与している。

数年前の自分はとんでもない量の電磁波を浴びたせいで、松果体がおかしくなってしまい、各種のホルモン分泌値が激減して、ゾンビみたいになってしまった。社会人として仕事を続けられなくなるかもしれないと思って、散々ネットで情報を探し回った体験が、「裏真実」に目覚める覚醒のきっかけになった。さまざまな方法で松果体をいたわることで、第六チャクラに関わりの深い「勘」は、以後かなり戻ってきた。 

松果体を活性化するために、やってはいけないことを先に確認してみたい。

ワクチンに含まれている水銀が有毒であることは当然としても、フッ素が良くないと聞くと、意外の感に打たれる人も多いのではないだろうか。検索すると、きちんとまとめてくれているサイトがたくさん見つかったのが嬉しい。早く常識が人々に行き渡るといいと思う。

アメリカでは全人口の70%の公用水道水にすでにフッ素化合物が添加されています。そのため、住民のフッ素に対する関心も高いのです。

1950年代、アメリカで水道水へのフッ素化合物添加の是非をめぐる一大論争が科学者の間で起きました。そのとき低濃度(1ppm=100万分の1)のフッ素の安全性を訴えたフッ素支持派の筆頭者はハロルド・ホッジ博士でした。恐ろしいことに、ホッジ博士とは、広島に投下した原子爆弾を開発した 「マンハッタン・プロジェクト」の中心的人物であり、その他にも数々の非人道的な実験を行っていたことでも有名ですが、詳細は後述します。

またフッ素を人類史上、初めて水道水に導入したのはナチスです。

強制収容所からユダヤ人が脱走しないようにフッ素入りの水を飲ませ、その意思をくじいてしまうことが目的でした。

またフッ素は殺鼠剤の主原料としてよく用いられています。

(…)

そもそもフッ素の有効利用の始まりはアメリカにおけるアルミニウム産業でした。

産業廃棄物であるフッ素の毒性と処理に手を焼いていたアルコア社の主任研者フランシス・フレイリーは、メロン産業研究所の研究員ジェラルド・コックスにフッ素の歯に与える影響を研究して、その有効利用を提案しました。

そして、コックスは 1939 年に虫歯予防のために、公用の水道水にフッ素を添加することを提唱します。 

虫歯予防”フッ素”の真実

http://www.thinker-japan.com/PDF/10facts.pdf

同じサイトにある上記のPDFには、フッ素の有毒性を示す10の真実が分かりやすく示されている。翻訳をしたのは、こちらの歯医者さん。フッ素の有毒性だけでなく、それが松果体の石灰化という害を及ぼすことまで、しっかり調べて記述されている。

この千葉の歯医者さんの記事に拍手喝采を送るつもりで、青春時代に流行した名曲をお送りしたい。

そして、松果体に対して、もうひとつやってはいけないことが、電磁波被爆だ。

20メートル先の携帯電話の小型基地アンテナ三本と、窓越しに向かい合わせで生活して数か月。40才を過ぎて電磁波過敏症を発症した自分にとっては、深刻な問題だ。電磁波過敏症は花粉症と同じく、曝露の量がある一定水準を越えると発症するので、ヨーロッパ基準の約200倍、中国の約100倍の野蛮すぎる規制値しかない日本では、誰もが他人事ではない。この問題は別記事でまとめてみたい。

さて、電磁エネルギーを感じる松果体に関する新刊が出た。慶応大学医学部卒の医師の本だか期待していたのだが、チョプラ博士もびっくりのぶっ飛び本だ。スピリチュアル小学二年生の自分は、科学や医学の世界へ出かけて、スピリチュアリズムの科学的根拠を探そうとしているのに、医師たちの方がはるかにスピリチュアルな主張を繰り広げるので、当惑してしまう。 

松果体革命 ― 松果体を覚醒させ超人類になる!

松果体革命 ― 松果体を覚醒させ超人類になる!

 

 ただし、このぶっ飛び本の著者が、リプトンの分子生物学と重なる主張をしていることには、注目を向けておきたい。

細胞膜の表面には「レセプター」と呼ばれる、情報の受け渡しをする窓口である受容体があります。

 

現代科学の知識では、神経端末から、アセチルコリンやノルイアドレナリンといった神経伝達物質が放出され、レセプターがそれを受け取り、細胞に必要な信号を伝えるということになっています。

 

ところが実際には、細胞間で振動数を伝達しているだけであり、その振動数を渡す際の副産物として、神経伝達物質が生まれているのです。 

 そのような確かな生物学的知識が最終的にどうなるかというと、下の写真のようになってしまう。

f:id:amano_kuninobu:20180718190658j:plain

もう一度キャプションを読むことにする。

松果体覚醒で珪素(水晶)化し、光を放つドクタードルフィン

合成写真では? 一般常識に首まで使っている人には、そうとしか思えないだろう。しかし、2017年からスピリチュアリズムに没入しはじめた自分は、スピリチュアル・リーダーが写っている写真の数百枚に、このような「光の舞い」が写り込んでいるのを目撃してきた。しばしば「龍」とも呼ばれるあの「光の舞い」の正体は、珪素化した松果体が関わっているのかもしれない。

そして、ここで、世界で誰も指摘していないだろうリンクを披露しておこう。

リプトンが細胞膜をこう再定義していたことを思い出してほしい。

細胞膜とは、結晶性の半導体であり、ゲートとチャネルを持っている。

実は、珪素(水晶的要素)は松果体に最も多く、細胞膜にも多く含まれているのである。

人体の時空を司る松果体と、それぞれの細胞をコンピュータ・チップとして制御する細胞膜と、写真に写る「光の舞い」は、すべて珪素(水晶的要素)というひとつのリンクで結ばれているのである。

これは、エピジェネティクスの研究に専心する細胞生物学者も手をつけない謎めいた領域ではあるが、確実にスピリチュアリズムの重要な何かが関わっているのを、感じずにはいられない。

この発見が、今晩の読書の大きな収穫だった。これを起点に、ぜひとも石灰化した自分の松果体を水晶化してみたい意欲が湧いてきた。だって、実際に「光食」に成功して、NASAの研究対象となった人物もいるのだ。

食費が浮いて浮いてしょうがないのではないだろうか。うまくすれば、自分の電磁波過敏症も直せるかもしれない。この論点は実に奥が深そうだ。

 8年間、水分と日光だけで生きていると主張するインドのヒラ・ラタン・マネク氏(64・写真)がこの度NASAに招待され、彼がどのようにしてそれを成し遂げているかを紹介することになったとのこと。氏はケララ南部に在住する機械エンジニアで、1992年から断食を開始し、1995年にヒマラヤに巡礼に出かけた帰り道から断食をスタートしたという。彼の妻Vimlaさんは「彼は毎朝必ず太陽をまばたきせずに一時間ほど凝視するの。それが彼の主食なのよ。たまにコーヒー、お茶とか水分を取りながらね。」と話している。そして昨年6月、米科学者らは氏が確かに130日間日光と水分だけで生きていることを確認し、科学者らはこの現象を氏の名前にちなんで"HRM現象"と名づけている。NASAは氏のもつ特異な才能が宇宙探索における食料保存の問題に何かしらヒントを与えるのではと期待しているという。

よし、松果体の水晶かを頑張ろう。そうしよう。

心の中でそう呟いたあと、地元の伊予弁なら「ほうしよう」と言うのだろうなと連想してしまった。

窓の外を見ると、松山の街にはもう夜のとばりが降りている。アーケードの屋根の向こうに、ラフォーレ原宿松山店の跡地に建った「アエル」の新しい建物が見える。

バルコニーに出て、夜に向かって、こう言い直した。

星よ、新しい「アエル」がありますように。