小指の尖が痛むのは

もしその人にルーツというものがあるなら、それはいつか必ずその人の人生に回帰してくるものなのかもしれない。

そんなことを思いついたのは、若い頃に崇拝していた三島由紀夫の或る小説への「能」の影響に言及したとき、父方の祖父のことを思い出したからだ。祖父は大正元年生まれ。京都府舞鶴市の育ちで、弱冠6歳の頃から能や謡曲に親しんでいたと聞く。ちょうど同じ頃、隣の綾部市では、大本教出口王仁三郎が神格を顕して、神示を降ろし始めていたのだとか。

やがて戦局が押し迫り、第二次世界大戦が勃発したとき、祖父は30代前半だった。間違いなく赤紙の招集対象で、かなりの確率で戦死していたことだろう。もしそうなっていたら、私は今この世に存在していなかったことになる。それと前後して、隣町の大本教は国から激しい弾圧を受け、祖母は大本教の分派である新宗教の方に入信したらしい。(ちなみに、合気道大本教の分派の1つである)。二人の間に長男の父が生まれたのは、昭和16年。戦中のことだった。

祖父が招集されなかったのは、10代のころ仕事先で、右手の3本を誤って切り落としてしまう事故に見舞われたせいだった。それではとても銃を操作できないと判断されて、招集は見送られ、祖父は敗戦を生き延び、戦後も能や謡曲へ情熱を傾けて、観世流の師範にまで登りつめた。習いに来るお弟子さんに模範演技を披露するとき、すでに老境にあった祖父の背筋は真っ直ぐに伸び、天から降りている神の見えない操り糸に操られるように、正確にかたどった舞を美しく舞っていたように記憶する。

祖父にまつわる思い出と言えば、小学生時代に江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを何冊も買ってもらって夢中になって読んだことくらいで、私には日本の古典に接近できるような素養や資質はまるでなかった。ただ、祖父がほとんど装着しようとしなかった三本指の義手が置いてあるのを見つけて、それが怪人二十面相の奇怪な小道具のように見えて、怖々と触らせてもらったのはよく憶えている。「おじいちゃんの手袋だよ」と祖父は笑って説明したが、3本の指のどれにも木製の詰め物がしてあって、当然のこと、指を入れる隙間はなかった。

祖父の三本の指を切り落とした「切断線」…と、ふと考える。家系図の血統はしばしば下へ向けて垂線で描かれるが、それが巻物のように下へ伸ばされていく幅のあるものだと考えると、祖父が戦時招集で戦死し、巻物が水平に切り落とされて家系が断絶することはなかったものの、その切断線は、家系の巻物に対して、斜めに歪んだ垂線としてその刃を走らせ、祖父の人生の多くを、そして孫の私の人生のごく一部までを、斜めに切り落としてしまったように感じられる。

やがて誕生した孫の私は、わずか1歳のときに父の仕事の都合で舞鶴を離れ、四国の地方都市で育ち、「17才」のとき或る高校文芸部の50人目の文芸誌編集長を務めることになる。その創刊者が伊丹十三、2代目編集長が大江健三郎で、世間の耳目を引いた大江中期の『セブンティーン』の主人公は、私や父が祖母の影響で入信していたその新宗教教祖の心酔者として描かれていた。

私は数十年前にその新宗教から離れたが、昨夏、仕事上の部下だったアルバイトのちょっとした不手際から、あれよあれよという間にとても手に負えないような巨大なトラブルに巻き込まれて、気が付くと、霊能者の方々にしばしば助言を乞わねばならない窮境に陥っていた。

その種族の方々から「かつて在籍していた新宗教から加護が来ている」とか「日本の神々がついてくださっている」とか、ほとんど信じられないような言葉をいただいて、その眩々するような当惑を反芻する暇もなく、さまざまな神秘体験に相次いで遭遇して、それらすべてが真実かもしれないと考え始めたのが、数か月前の話。

三島由紀夫と同い年になった今年、そのような新しい展望のもとに自分の人生を振り返ると、やらねばならないことが残されているのを感じた。

三島は「日本の古典が身体の芯に入っているのは自分のジェネレーションでおしまいだろう」と述べた。確かにそうだろう。敗戦後にGHQによって仮名遣いが変更されたこともあって、それ以降の世代が日本の古典へと分け入るのは決して簡単なことではない。いわば昭和史にも、(実線ではなく破線で)、敗戦によって水平に刃の走った切断線があるのだ。その切断線より未来へと伸びているのは「占領と被支配の歴史」だけだろう。

数年前に書き上げた小説は、半ば意図して、半ば知らず知らずのうちに導かれながら、その「日本の被支配」を強烈な暗喩をもって小説化したものだった。

話が大袈裟に聞こえるだろうか。祖父の三本の指を切り落として走った切断線が、孫の自分にまで及んでいると考えるのは、誇大妄想だろうか。いや少なくとも、あの切断線は、私の小指の爪の先くらいは切り落としていったにちがいないと信じたい。

そうでなければ、容易には分け入っていくことはできないと知りつつも、日本の古典的文芸の数々や、「日本の神々」について記された超宗教的な言語群へ、ほとんど悲痛なまでの執拗さで、自分が繰り返し惹かれてしまう理由がわからなくなる。

小指の先が痛むのは、きっとまだ自分が果たしていない約束を、思い出させてくれているからにちがいない。

そんな綺想を呟きながら、昭和史の最も暗い闇へ後ろ髪を引かれて、日本の歴史を遡る方向へ闇を見透かそうとしている自分がいる。

世阿弥の世界 (集英社新書)

世阿弥の世界 (集英社新書)