「私たちは裸、いつも孤独」

日本各地のGWの渋滞はいかほどだろうか。或る小説の、特にどうということのない渋滞の場面。

今いる車線がさっきから滞っている理由が見えてきた。第一京浜の長大な渋滞から逃れようとする車が、右折車線に殺到しているのである。右折を待つ車は、後ろの追い越し車線まではみ出して、列をなした尻の右ウィンカーを苛立たしげに明滅させている。停滞後の集団右折。この国の行き詰った政治状況がしばしば陥る宿痾の光景。では左折は? 北にある皇居を背にして、臨界の幹線道路を左折しても、走る先があろうはずもない。海へ突き当たるだけだ。

 たかだか左折や右折のような場面でも、読もうと思えばあらゆる言動に政治的な含意を読み取ることもできる。しかしさらに正確に現実を読むなら、堤未果がその著作中でイラストまで使ってわかりやすく示しているように、少なくとも10年代以降、冷戦時代のパラダイムである右翼⇔左翼の二分法は無効だ。無効であるばかりか、コーポレートクラシー時代の1%⇔99%という本来の構図を見失わせる害さえある。今や右翼⇔左翼の二分法は1%たちが99%を分断統治する「情報兵器」となっているのだが、「情報戦争」に疎い人々がそれすらも知らないのを見るにつけ、この国の行く末を案じずにはいられない。

さて、ことさら政治的な選択でなくても、あれか⇔これかの二分法的選択を迫られることは、人生で無数にある。例えば、都心の地下鉄駅へ降りてどちら口寄りのトイレを使うか、までを含めて。

いや、これは冗談ではなく、自分にとっては生死を分けかねない重大な分水嶺だったと断言できるような事件。本当に事件だったのだ。

 1995年のGW、行きつけにしていた新宿のレンタルCD店が閉店セールをやると聞いて、店に飛び行った。店内がいつになく混雑していたのは、レンタル落ちのCDを全作一律500円で売る「在庫一掃」セールが行われていたせい。2枚組でも500円だったので、Led ZeppelinやYesだけでなくDavid Sylvianのボックスを購入したりした。合計で20枚くらい買い上げた中には、当時も今も愛聴しているThis Mortal Coilも当然含まれていた。あのような海外のアーティストの輸入盤をレンタルできる店はこのRECくらいしかなかったはず。東京の音楽好きにとっては貴重なコレクション源だったが、新宿の一等地に構えるのは、ビジネスモデル上そぐわなかったのかもしれない。

Blood

Blood

 

 20枚程のCDを抱えて店を出ると、トイレへ行く必要を感じた。最寄りの地下鉄出口を降りたところで、右に行くべきか左に行くべきか迷った。正確には、新宿3丁目寄りのトイレを利用するか、新宿駅寄りのトイレを利用するか。そんなところに神様は運命の分かれ道を用意していたのだ。

結局、新宿3丁目方向へ歩いて用を済ませて、バイクで帰宅したのだが、翌朝のニュースで、その新宿駅寄りのトイレに、オウム真理教信者が青酸ガスの噴霧装置を仕掛けていたのを知らされて、肝を冷やした。あちらの方向のトイレを利用して、青酸ガスの噴霧装置が予定通り作動していたら、少なくとも病院へ担ぎ込まれるくらいの面倒にはなっていたに違いない。

そんなことを思い出しながら、This Mortal Coilを聴いていると、不意に「私たちは裸、いつも孤独」と日本語で囁かれて、はっとしてしまう。抗いようのない運命に直面したとき、確かに私たちは裸でいつも孤独だが…

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(1:33から聞こえる)

オウム真理教に惹かれるところはどこにもないし、無差別テロを含むその犯罪行為自体に容認すべきところはないというのが自分の考えだ。一方、その信者たちの人生の中に、たとえば自分と同世代であるとか、経歴が似ているとかいった理由で、一種のナイーブな同情論を言い立てる善良な左翼市民がいることは承知しているし、そのような人々を貶めるつもりはない。

しかし、連日連夜テレビや新聞を占拠して垂れ流された当時の報道は、一連の事件の危うい部分をあそこもここも切り落とした不全物で、そのようにして作り上げられた事件の公的印象は、ほとんど信じるに値しない。私たちが問題にし、解明し、知悉しなければならないのは、そこだろう。

肩ロースとヒレの赤いブロック肉をどんとテーブルの上に載せられて、「これがあの凶悪事件を起こした猛牛です」と説明されて、納得する方がどうかしている。その猛牛はどこから来て、どのように走り、どのような鳴き声を上げ、どのように人々に襲いかかったのか。

オウム帝国の正体 (新潮文庫)

オウム帝国の正体 (新潮文庫)

 

 北朝鮮、半島系宗教団体、ロシアの武器商人、暴力団北朝鮮系政治家…。日本の闇で蠢くこれらの魑魅魍魎系プレーヤーたちが、オウムという小さな宗教団体を生贄に差し出して、その背後で暗躍の限りを尽くしたというのが実態だろう。その一端は、毎日新聞の記者軍団の変名ともいわれる一橋文哉のノンフィクションで読める。しかし、それが世界の闇の一端でしかないことに、私たちは留意しておかねばならない。

サリンは製造コストが格安なので「貧者の核兵器」とも言われる。しかし、オウム真理教サリンでは飽き足らず、本格的な核兵器製造に乗り出していたことも、すでに主流メディアで報道されている。

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(それが検索エンジンであれ、動画投稿サイトであれ、真実を知りたくて検索をかけるのなら「島津製作所 論文」という検索ワードでは、ノーベル賞受賞者の論文しか出てこないと助言しておきたい。言葉を削らなければならない)。

私見では、戦後日本の闇の核心にあるのは、コンプラドール岸信介の血脈とその血が抱きつづけている「日本核武装への妄執」で間違いない。オウム真理教は一頭の「身代わりの山羊」にすぎない。

非核三原則核武装か」の2択の分岐点で、日本の1%代理人たちは右へ曲がろうとする。より正確には、国民を騙して洗脳しながら、この国を右へ曲がらせようとする。「不正選挙」が選んだとも噂される日本の支配層に、日本という国を完全に変えられてしまう前に、いまここで耳を傾けてもらいたい歌がある。

This Mortal Coilの"I come and stand at every door"

This Mortal Coilというプロジェクト名は「無常の世のせわしなさ」を意味するシェイクスピアによる言葉で、あの『ハムレット』の「To be or not to be. That is a question」の近傍に出現する台詞の一部だという。To be or not to be?

「私たちは裸、いつも孤独」。そして、無防備なまま、私たちは何かを選ぶ分岐点に立たされている。

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I come and stand at every door
私はすべての家の戸口に立ちます
But no one hears my silent tread
でも、私の無音の足音を聞く人は誰もいないでしょう
I knock and yet remain unseen
私がノックしても、私は見えないまま
For I am dead, for I am dead
なぜなら、私は死んでいるから。死んでいるから
I’m only seven although I died
私はわずか7才だったのに、死んだのです
In Hiroshima long ago
遠い昔、ヒロシマ
I’m seven now as I was then
私は今も、あのときと同じ7才です
When children die they do not grow
子供たちは死ぬと、成長が止まります

My hair was scorched by a swirling flame
私の髪は炎の渦に巻かれて焦げ落ち
My eyes grew dim, my eyes grew blind
目はかすみ、失明しました
Death came and turned my bones to dust
死がやってきて、私の骨を粉々にしました
And that was scattered by the wind
そして風が私の粉々の骨を吹き散らしていったのです
I need no fruit, I need no rice
私は果物もいりません。ご飯もいりません
I need no sweets nor even bread
お菓子もパンもいりません
I ask for nothing for myself
自分のためには何もいりません
For I am dead, for I am dead
なぜなら、私は死んでいるから。死んでいるから
All that I ask is that for peace
私が求めているのは平和だけです
You fight today, you fight today
今日も誰かが戦争をしています。戦争をしています
So that the children of this world
この世界の子供たちが、どうか、どうか
May live and grow and laugh and play
笑って遊び、生きて成長していけますように