少年Aと同じ夜のもとで

90年代の終わりに、関西にいる或る女の子から、東京にいる自分に夕刻電話がかかってきた。別れてからも時々連絡を取り合う仲だったから、電話自体は珍しくない。驚いたのは、彼女の切迫した声音で、しかも内容が特異だった。

いま会社に得体の知れない脅迫状が来て、大騒ぎになっているの。

出入り口がすべて封鎖されて、家に帰れない状態。東京のテレビやニュースは何か言っている?

 ひと通り確認した後「それらしいニュースは何も」と私は答えた。当時の彼女は神戸新聞に勤めていた。その脅迫状が送られて数日後、「酒鬼薔薇聖斗」こと少年Aは逮捕された。

その女の子を誘拐した奴がかつて自分の知人にいた、と書くと物騒だが、こっちの方は自分が作演出を務めたある劇中での話。「誘拐犯」は或る大学の建築科に在籍していたので、その学生劇団では舞台監督も務めていた。「ペルピニャン駅」「シュルレアリスムの画家」「変幻自在な時空」という鍵言葉を劇中から拾い上げて、舞台の大枠に元々は駅舎だったオルセー美術館の意匠を取り込んでくれたのは、脚本書きとして大きな喜びだった。

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そんな20数年前の昔話が、急に今日の話になる。

「建築」を鍵言葉に自動録画されていた或るテレビ番組に、建築家になった彼が登場しているのを目撃したのだ。奥さんも同じ学生劇団の女優で、私が「もっと毬谷友子感を出して!」と演出家気取りで檄を飛ばした相手。幸せそうな4人家族だった。

それほど付き合いは深くなかったが、若い頃に付き合った友人特有の「仲間」の感覚がある。或る小説の場面で言うと、こんな感じだろうか。長いが引用する。

 6年前の旅先の地中海沿岸で、路彦の視野はやはり大きく動揺していた。それは砂浜を裸足で駈けていたからで、視線の先にあったのは、やはり宙を飛行している純白のフリスビー。知り合った地元のアルジェリア移民の少年が、アン、ドゥ、トロワで投げた円盤だった。わざわざ号令がかけられたのは、少年が飼っている犬と路彦が捕獲を競い合ったためで、牧羊犬の俊足にはまるで敵わなかったものの、強い浜風が空中でフリスビーを散々翻弄したので、見物客を笑わせる互角の余興になった。足をもつれさせながら、背中を見て走ったり、前のめって転んだりしている路彦を、シニャックが快活に囃し立てた。琴里は手を叩いていた。仲間たちは笑っていた。誰もが同じ飛行物体を目で追い、同じ若者らしい弾んだ哄笑のさざめきに浸っていた。未熟なまま、仲間たちと融け合うように共生していた季節の、他愛のない、それでいて最も幸福だった一齣。……

 あの記憶の一頁と重なり合うようにして、依然として、路彦の投げた鍵束は虚空をゆっくりと飛んでいる。真昼の若さの残る陽光の中で、鍵束はリングを扇の要にして、花を咲かせるように鋭い銀色の花弁をいくつか開かせている。この瞬間、路彦と琴里の視線の先には、いずれ選びとって鍵を開けなくてはならない扉が、確かに宙づりの未決のまま、複数存在していた。後戻りできない選択を迫られるとも知らず、二人は終わり間際の自由時間の中で、同じ笑いを笑い合っていた。夜の訪れまでには、わずかに時間が残されていた。

そして…夜が来た。 知人夫婦が結婚したのは、自分が31歳前後のはず。31歳といえば、『審判』で殺されたヨーゼフ・Kと同い年で、そこから今までずっと、どういうわけか自分の人生は夜のままだ。

14年間は途轍もなく長い。30歳になってから真剣に小説を書き始めた「遅れてきた青年」だったとはいえ、数年で結果を出す自信はあった。そうできていれば、幸福な4人の核家族くらいは持てたかもしれない。

遅れてきた青年 (新潮文庫)

遅れてきた青年 (新潮文庫)

 

その31歳の頃、自分は東京を離れて、或る地方都市へ移り住んだ。大江健三郎の『遅れてきた青年』で「杉丘市」とされている街。移住しても自分の人生の夜は終わらず、あ、そうか、きっと自分は猟奇殺人犯の脅迫状が生み出したあの閉鎖空間と同じような場所に幽閉されているのだ、と遅れ馳せながらようやく気付いた。

ちょうどその頃、出所後の少年Aが同じ「杉丘市」にいるという噂を、地元の知人から聞いた。同じ街を覆っている同じ夜の下で、彼が息をひそめて生きているさまを想像した。やがて少年Aはどこかへ再転居し、誰かと結婚したらしい。

犯罪加害者は極限まで自由で、犯罪被害者は極限まで不自由。夜の闇の中にいて、そんなカフカ的不条理に、索漠とした悲しみを抱いて生きてきたが、ここ数日、とうとう出入り口の封鎖が解けて、夜明けの方向へ歩き出せるかもしれないとの風の噂を聞いた。

帰りたかった場所へとうとう帰れるのだろうか。

もし本当にその扉が開かれるのなら、私の知らないところで扉が開くよう尽力してくださった方々に、まず最初に感謝の言葉を申し述べたい。そんな願望を書きつけつつ、夜の風の音に耳を澄ますのだが、風は言葉にはならないまま吹き過ぎていくばかりだ。

 

 

(5/12分)