道を歩けば「偉大な犬」に

「道」関係の雑誌と言うべきか、最大手のロードサービス会社が毎月送ってくる雑誌を片手間に読み飛ばしていて、お、と二度見をしてしまったのは、こんな一節に目が留まったから。

やはり車にナビは絶対に必要ですね。夫は文学者で詩人なので、地図を渡してナビを頼んでも、地図を見ると夢想の世界に入って何も答えてくれなくなるんです。(記憶による大意)

 上品そうな奥様が語っていたその「夫」こそが、少年時代から自分が偏愛を寄せていた天沢退二郎だった。こんなところで再会できるとは、という驚きもあったが、そういえば「道」が詩人にとって特権的な詩語だったという記憶も懐かしく蘇ってきた。処女詩集は『道々』だし、今も熱烈に読み継がれている全共闘風?童話では、都心にはないはずの環状九号線が出現して「九環」と通称されている。自分も地図は嫌いではないが、せいぜい環状三号線の切れ端について書くのが精いっぱいだ。

詩人ではない自分が学生時代によく通った道と言えば、大学、サークル、バイト先を結ぶルートがほとんどで、大学はすぐそば。サークルとバイト先が近かったので、よく護国寺の近辺を通った。ところが、塾講師のバイト先に乞われて、三軒茶屋の教室に異動したところ、そこで「偉大な犬」に接近遭遇することとなった。

正確には、実際に会ったわけではなく、かつて同じ教室でアルバイトをしていたというだけなのだが、それ以後、「偉大な犬」の背中を追いかけるように、一度見たら忘れ難いその筆名による著作を追いかけるようになった。

犬たちの肖像

犬たちの肖像

 

 自身の筆名の「犬」を含むこの著作は、古今東西の犬にまつわる挿話を総浚いして矢継ぎ早に巧緻なパッチワークを織り上げていく趣がある。偶然、自分も「犬」を書名に含む小説を書いたことがあり、そこで間接的に言及した江藤淳森山大道も本書には登場するので、楽しく読んだ。ただ、吉岡実の「犬の肖像」という詩に言及している箇所では、ちょっとだけ解釈上の違和感を感じた。

静物』所収の吉岡実「犬の肖像」を全編引用する。

或る時わたしは帰ってくるだろう
やせて雨にぬれた犬をつれて
他の人にもしその犬の烈しい存在
深い精神が見えなかったら
その犬の口をのぞけ
狂気の歯と凍る涎の輝く

 

多くのもの
犬にとっては不用のもの
一人の男にとっては少ないが
意味のあるもの
ころがる罐の灰色
雑多なとぐろまく紐の類
机の上の乾酪
釘へさがるズボンのねじれた束
自とくと枯れた花にわずかに慰められる
破廉恥な生活のわたしの天体
輝く涎の犬は見上げる

 

いまわたしのまなびたいことは
木枯の電柱の暗い下で
股の周辺を汚物でぬらしながら
怒りに吠える
匿名の犬の位置へ至ることだ

 

きわめて自然な路傍の受胎にはじまり
けがれて輝かしい自己の発生に負目なく
しかも一匹の系類にもみとられず
空樽のかたわらで
孤独の骨の存在を終る
ざらしの犬

 

たとえば結晶する月の全面へ血の爪をかけるほどの
わたしに肉の渇き
心の飢えが一度でもあったか
わたしの頭をぬらし
わたしの塩辛い眼をながれる
雨と真実の汗があったか
否 わたしは永遠にぬれざる亡霊

 

わたしは犬の鼻をなめねばならぬ
あたらしい生涯の堕落を試みねばならぬ
おびただしい犬の排泄のなかで

 

その犬の舌から全世界の飢えが呼ばれる
その犬の耳から全世界の雨がたれる

四方田犬彦の情報整理は手際がいい。1919年生まれの「軍曹」が24歳で敗戦を大陸で迎えたとき、すでに両親は死去しており、孤独の中で詩を書き続けるしかなかった、という吉岡実の来歴に触れ、その敗戦直後の詩編で編まれた『静物』の中に、この詩があるとする。

続く「犬の肖像」の詩篇への言及でも、第1連で「私」が犬に対して緊張を感じるのは、犬が第2連の「私の破廉恥な生活」への強烈な批判者であり、「匿名にして沈黙する裁定者、逆立した超自我」であり、そのイヌの位置へ「私」が緊急に至らねばならないと感じるのは、「ほかならぬ犬の舌のうえにこそ全世界の飢えがあり、犬の耳にこそ全世界の雨が垂れているからだ」と結論づける。この章を「復員兵という名の野良犬」と名付けていることからもわかるように、四方田犬彦はこの詩を、あるべき「犬の肖像」へ「私」が向かおうとする単数による自画像の物語だと解釈しているようだ。

詩句が持つ抽象力をやすやすと描線に転換して、見事な絵を描ける能力は流石と言うほかないが、自分にとっては、この四方田解釈は抽象度が高すぎる頭が良すぎる解釈のように思われる。

この「犬の肖像」は、犬を複数形だと捉えて読むべき詩ではないだろうか。

どうしても自説に引きつけて解釈してしまいたくなる欲望を抱いていることを先に告白しておくが、第1連で「私」が連れて帰ってくる「やせて雨にぬれた犬」は、おそらく死んだ戦友だろう。二人は戦場から帰還したのだ。一人は生きて、もう一人は「飢え」と「家なし」の刻印を捺された「匿名」の戦死者として。最終連で、全世界の飢えや全世界の雨が犬から発するのも、犬が、世界中の戦場で、衣食住のすべてを奪われ、生命も奪われた物言わぬ戦死者たちだからだろう。

この詩を一読して、際立った量感を持って迫ってくるのは、犬の怒りの烈しさだろう。「狂気の歯と凍る涎の輝く」口腔を持ち、繁栄へ向かう戦後社会の独身男の生活を底辺から見上げて、「怒りに吠える」犬。この怒りの烈しさを生み出しているのは、「犬=戦死者」という等式以外にはなさそうに思える。なぜならこの等式は短縮形で書くと、「犬死」となるからである。

戦中派の吉岡実にとっては、戦後の空虚な繁栄より、戦争や戦死者の心象の方が強く刻まれているという観念の布置があったのにちがいない。戦死者の亡霊であるはずの犬に向かって、「否」という否定語を伴いつつ、むしろ逆に自分こそが「永遠にぬれざる亡霊」と書きつけるのは、戦中派らしい心情告白なのではないだろうか。

 「犬の肖像」がもし肖像画として描かれるとしたら、肖像はきっと複数形で、兵士たちの緊張した顔が並んだ集合写真か、インパール帰還路の「白骨街道」のようなものになるような気がする。

だから複数形で… と書きつけたところで、はっとなった。四方田犬彦はそんなことはすでにお見通しで、この詩にあえて異なる角度からのデッサンを付け加えるために、この批評的エッセイを書いたのではないだろうか。そんな直観が急に降って湧いてきた。

なぜなら、この本は吉岡実の詩をヒントに、『犬たちの肖像』と複数形にアレンジして名付けられているから。

 

 

(5/12分を書き直しました)(5/14分)