消されたものと呼び戻すべきもの

社会的優越性に富んだ自分の学歴や所属ゼミを顕示したがる「大物」に時々遭遇することがあって、自分にはそんな真似はとてもできないなと感じる。学歴なんてたかだか未成年のときの偏差値測定型の学力でしかないし、所属していたゼミを公言すれば、学恩あるゼミ主宰の教授に端的にご迷惑がかかってしまうのではないかと感じるからだ。大学生活後半は「迷路の中で」彷徨っていました、ぐらいの言葉を書きつけて先を急ぎたい心地だが、ネット上にあの時代についての情報が少ないようなので、少し書き加えておきたい。

信じがたいことに、日本で一度だけ「文学理論」を描いた小説がベストセラーになったことがあって、偶然その小説が流行していた時期に自分は文学部に通っていた。

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

 

 ネット情報では、テリー・イーグルトン訳者の大橋洋一が『文学部唯野教授』のモデルとされているらしく、それは或る程度相当しているのだろう。文学理論書に寄せた箸休め的なコラムの中で、時代錯誤の旧批評をぐだぐだに展開する教授の諷刺画を描いているところを見ると、大橋洋一自身にも筒井康隆と共通する「権威の滑稽さ」を笑いのめそうとする気質があるように感じられる。

ただ『文学部唯野教授』のドタバタ喜劇の骨格を作っているのは、手すさびで書いた小説が芥川賞候補のノミネートされて、マスコミに追い回されたり、他の教授陣たちの嫉妬や厭がらせを受けたりするという挿話群。この部分は、私が師事した教授の実話が或る程度反映されていると考えて間違いないだろう。

当時学内ではちょっとした「モデル騒動」が起きていて、ミーハーな学生たちが殺到したので、教室は早々に変更になり、一番大きな視聴覚教室でマイク越しに講義が行われていた。その教授は「謦咳に接した」という形容が最もしっくりくるハスキーボイスの持ち主で、マイク越しの嗄れ声が聞かせてくれた朗読に、こんな一節があった。

世界は意味もなければ不条理でもない。ただたんに、そこに《ある》だけである。なにはともあれ、これこそ、世界がもっているもっともいちじるしい特徴である。そして不意に、この明白な事実が、もはやわれわれの手ではどうすることもできない力で、われわれを打つ。

新しい小説のために (1967年)

新しい小説のために (1967年)

 

 初版が1967年で、再版なし。入手困難であまり話題にもならなかったはずのこの評論集が、20年近く後になって或る小説の冒頭にささやかな影を落としているのには驚かされた。

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。
それを喜んでいる。
世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

 

 「ミュージシャンズミュージシャン」が存在するように、同じ小説家から支持される小説家「ノベリスツノベリスト」も存在する。一般の人々が逆立ちして読んでも面白くないロブ=グリエだが、オイディプス神話の脱構築的趣きのある『消しゴム』は、大西洋を渡ってポール・オースターのニューヨーク三部作へ影響を及ぼしている。池澤夏樹の海外文学への並外れた造詣の深さは、処女作から約30年後、個人編集の『世界文学全集』30巻に結実することになる。

余談だが、『スティル・ライフ』は大江健三郎の書名にある『静かな生活』と同じ意味ではなく、「静物」という意味。「静物」といえば、吉岡実が戦後最初に出した詩集のタイトルと同じで、その詩集には(「犬の肖像」以外に)「静物」と名付けられた詩がいくつも収録されている。分別が困難ではあるものの名詩揃いだ。吉岡実から池澤夏樹という系譜があるのか、ないのか。いつか時間があるときに調べてみたい。

さて、偶発的な行きがかりでロブ=グリエに関する資料を大学図書館の地下書庫へ潜って調べていると、まだ仏語翻訳環境が豊かでなかった時代の珍しい資料を発掘してしまった。

或る短い紹介文に「ロブ=グリエが新作『ゴーム一家』を発表した」と堂々と書かれていたのである。しかしそれは誤訳で、「les gommes」は「消しゴム」と訳すのが正しい。

自分は虚構莫迦なので、そんな誤訳につられて、「ゴーム一家」が存在するとしたら、どんな家族なのだろうと想像の翼を羽搏かせてしまう。与えられたお題は「消しゴムによるオイディプス神話の脱構築」。たぶんこうだろう。

ゴーム一家は父母と息子の3人家族。息子は『身毒丸』級のマザコンで「ぼくをもう一度妊娠してください」というあの名台詞を母親に向かって叫ぶだろう。母消しゴムの制止を振り払って、息子消しゴムが母消しゴムをあまりにも強い圧力で抱きしめるので、二人は癒合して一体になってしまう。体躯を巨大化させた息子ー母消しゴムは、依然としてオイディプス的父殺しの欲望に駆られていて、父消しゴムと対峙するのだが、父消しゴムの最後の渾身の忠告「俺の存在を消したらお前も消えるんだぞ!」に耳も傾けず、父消しゴムを消してしまう。すると、父の予言通り、一体となった息子ー母消しゴムも消えてしまうだろう。

幽霊屋敷となったゴーム一家の自宅を通りかかった近所の人々が、こんな噂をするだろう。「ゴームさんのお母さんが心配で何度も手紙を送ったんだけど、返事がいつも白紙で届くの」「へぇー。そんな人がいるの。文字の書き方を知らないのかしら」「気が付いたら、ここに住んでいたゴームさん一家全員がいなくなってしまったみたい」「え? この家はずっと前から空き家だったじゃない」

「消しゴム」という名前を背負った一家は、人々の記憶からもきれいに消えていくことだろう。

冗談は以上。

書きたかったのは、同じゼミの大先輩に「すべてが消えていく」小説をそのキャリアの連なる最高峰の一つに持つ作家がいること。つまりは「本物の大物」の話だ。

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

 

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

ドイツの牧師によるこの告白は、丸山眞男の論文にも引用された有名な詩で、そうであっていけないわけではないのだが、ややロゴス中心的な男性的な列挙になっている。

小川洋子が圧政によって「消されていくもの」としてリストアップするのは、香水、鳥、地図、カレンダー……。詩情と繊細さに満ちた手つきで、「秘密警察的な何か」が世界に少しずつ消しゴムをかけていく様子を描く。しかも、主人公にそれらが消えていくことの悲しみがわからないことが、読み手をさらに悲しくさせる。彼女は世界への愛を教えられておらず、世界の豊かさを知らないままなのだ。痛みを知らない彼女は、やがて「秘密警察的な何か」によって、消しゴムをかけられて左足を消されてしまうだろう。その次には、右腕も。

記憶によって抵抗できるはずの人々が、記憶による抵抗を奪われると、かくもたやすくむざむざと寸断された人形になってしまう哀れさ。無表情かつ無抵抗で奪われつづけることとは、こんなにも悲しいことなのだ。

ゴダールの『アルファヴィル』の終幕近く、全体主義国家でいくつもの言葉を消された中で育ったアンナカリーナが、初めて教えられた「未知の単語」を自発的に使うあの場面を、自分は映画の中で一番美しい場面の1つに数えている。

www.youtube.com

(1:57くらいから)

気狂いピエロ』と同じ年に撮影されたこの傑作映画のそばに、花を活けるようにそっと置いておきたい。『密やかな結晶』はそんな世界水準の小説だと思う。

ところで「秘密警察的な何か」と書けば、『アンネの日記』を思い浮かべる人が多いと思うが、あれは本当のところノンフィクションなのかフィクションなのか。「工作員」の大活躍もあって、ネット上では真贋論争の行方がわかりにくくなっているが、本当のところどちらなのか。それが問われること自体、その問いがどの答えの上に落ちかかっているかを見ること自体に、信じられない思いもある。

同じく、『密やかな結晶』がフィクションなのかノンフィクションなのかも、私たちは真剣に問うべきだろう。

確かにかつてここにあったが、いま失ってしまっているのに、私たちが気づかずにいて、悲しまずにいる。そういった事態がありはしないだろうか? あるとしたらそれは何だろう? それが問われること自体、その問いがどの答えの上に落ちかかっているかを見ること自体に、信じられない思いもある。

海の向こうの大統領が本格的に不正選挙の調査に乗り出した今日、そんな暗澹たる問いがこの国の行く手に立ちはだかっているのを、私は立ち止まって凝視せずにいられない。