絞殺コンプラドールの国

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ここで『アルファヴィル』に触れたが、ゴダール監督という人物は、天才であると同時にきわめてエキセントリックな人でもあるらしい。青年時代は仲間の財布から小銭をくすねる「こそ泥」だったらしいし、アポイントを取るのに考えられないような煩雑な手続きを設けたり、インタビューで言葉を引き出すのがきわめて困難だったりと、謎めいた奇矯な人物像を語る挿話は尽きない。

かといって、何もかも自分の思い通りに運ばないと気が済まない暴君タイプかと言うとそうでもないようで、『アルファヴィル』の全能のコンピュータの声優をロラン・バルトに依頼して、あっさり断られたなんていう挿話も残っている。実際、映画創作当時のバルトの声を聴くと、全体主義の暗黒社会を司る「黒幕」の声としては、いささか優雅すぎるように感じられる。

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やはり映画のように、劇画めいた際立たせ方をした「暗黒感」のある声の方が断然良いように感じられる。

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(映画の冒頭、0:37くらいから全能のコンピュータ「α60」が話し始める)

時に奇矯とも思える言動をとるゴダールの映画に初参加して、初日で怒って帰ってしまったというガブリエル・ヤルドのインタビューをどこかで読んだが、ヤルドが怒ったのはゴダールに対してではなく、その配下にいた横柄なスタッフ二人組に対してだった。ゴダール本人はその衝突の経緯を聞いて、映画音楽の話をヤルドと直接やりとりするようになり、その指示は的確で丁寧だったというから、やはりゴダールは謎だ。彼ほどに選ばれた才能は、仕事相手を才能で選ぶということなのだろうか。

ヤレドの映画音楽で印象に残っているのは『愛人』で、かなり甘めの仕上がりだが、小説にしろ映画にしろ菓子類にしろ、高めの糖度を好む甘党の自分には好ましい。

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 私見では、映画のクライマックスは1:47:37くらいから。14才のフランス人少女が貧困のせいで身を落とし、現地人の金持ちの愛人になる話だっただろうか。14才の処女喪失時、痛みとともに初めて知った男の性器を「未知の黄金に触れた」と形容していたはずで、そんな閨房場面でも撓まないデュラスらしい文体の硬質さに感動した記憶がある。

自伝的長編と言ったが、もちろんヌーヴォーロマンの作家たちが一般的な意味での自伝を書くはずもなく、寺山修司のように出鱈目だらけの偽の自伝を書くというよりは、虚実綯い交ぜにして、どこまでが自伝でどこからが虚構なのか、読者に眩暈を感じさせるような書き方をしていたと思う。(「古義人」を主人公に据えた大江健三郎の作品群もそれに近い)。

その片鱗は映画にもわずかに顔を覗かせていて、この14歳の美少女についているナレーションでは、すべて「私」ではなく「彼女」という三人称が使われている。

というわけで、それはここで話した「①私が私を書くとき、書かれる私が他者になってしまうのはどうしてなのか?」という問いに直結している。
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 ヌーヴォーロマンの作家が自伝的作品へと「転向」したのには、上でバルトが話題にしている初期の『神話作用』から20年ほど後、『彼自身によるロラン・バルト』による影響が大きい。『嫉妬』で客観描写マシーンと化していたあのロブ=グリエでさえ、『戻ってきた鏡』(未邦訳)という意味深な題名の自伝的作品に回帰したのだった。 

デュラスをお気に入りの作家に挙げていた女流作家の或る作品に、『愛人』由来と思われる食事シーンがあることはどこかに書いた。経済的に優位に立つ男性と劣位にあるヒロインが恋愛関係にあって、男性が飲食代を負担している宴席で、女性と連れ立ってやってくる家族が食い意地の貼った食べ方をして、ヒロインが羞恥を感じるというシチュエイション。(『愛人』では1:08:36くらいから)。

冥土めぐり (河出文庫)

冥土めぐり (河出文庫)

 

 この女流作家もお気に入りの小説として挙げていたように、デュラスの『モデラート・カンタービレ』は、芸術好きなどんな人にもお勧めできる美しい短編だ。

「真実」から遠く、自分を他人としてしか書き得ない稀有の自伝作品と言えば、アルチュセールの『未来は長く続く』に指を屈することになる。

未来は長く続く―アルチュセール自伝

未来は長く続く―アルチュセール自伝

 

 以前に図書館で借りた時は、アルチュセールが妻を殺した「犯行現場の本人による推論」だけを読んで、そこに贖罪の表白がほとんどなかったために、厭な気分になって全編を読まずに返却した。いま「犯行現場の本人による推論」と書いたが、アルチュセールはそれが自分によるものではなく「夫婦をよく知る医者による推論」だと見え透いた嘘をついている。そして、その嘘の語り手が、異常な精神状態のアルチュセールが妻を絞殺した事件について、それが妻からの嘱託殺人だったり、妻の自殺幇助だったりする可能性などに留意すべきとの「自己弁護」を、縷々と続けるのである。

昨晩ざっとこの長尺の自伝に目を通して、何だか眠れなくなった。

殺人事件に直結したのは、ほぼ間違いなくアルチュセールの人格上の問題で、彼には、依存するか、突き放して分離するかの2つしか、女性との関係形成の選択肢がなかったらしい。それは自分が性的に完全な男性ではないという不全感と、それが露見してしまう恐怖から発していたようだ。激昂と抑鬱の両極をめまぐるしく往還する完璧主義者によくある人生。……

少年時代に母に夢精の痕跡を指さされて「男になった徴よ」と性教育的訓示を受けると、アルチュセールは激昂して母が自分を「凌辱」して「去勢」したとまで告発する。一方で、「ルイ」という自分の名前が、戦死した母の婚約者と同じで、フランス語の「彼」という3人称にも通じていたために、自分の名前が呼ばれるとき他人が呼ばれているような錯覚がして、母の愛情と完全に同化できなかったことを深く悔やんでもいる。これはまさしく『恐怖の権力』を書いたクリステヴァ的な症例で、そこでの中心概念の「アブジェクシオン」そのままのようにも見える。

「アブジェクション」とはもともと精神分析の用語であり、主客未分化の状態にある幼児が、自身と融合した状態にある母親を「おぞましいもの」として「棄却」することを意味する。

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アルチュセールにおいて特異的だったのは、このような激昂と抑鬱のあいだの往還が、青年期に入ってからの女性関係でも反復されたことで、自分に求愛してくる女性は激しく嫌悪して退け、(性的放縦も含めた)自分のすべてを愛してくれる女性を自ら追い求めて、人生を捧げると言い切るまでの献身を示すのである。

 自伝を通読して驚いたのは、アルチュセールの妻エレーヌがとんでもない傑物だったという事実だ。ローティーンで父母を癌で失い、大学時代の無二の親友が処刑されてからも、活動家やレジスタンスとして盛名を馳せ、多くの活動仲間を死によって失い、その傍ら、ジャン・ルノワールのもとで撮影助手を務め、マルローやアラゴンやエリュアールと親交を結び、ラカンとも長時間語り合って「きみは素晴らしい分析家になれたのに」との言葉をかけられるほどだった、

そのように自分の先を走る偉大な年上の女性に、アルチュセールは恋に落ちた瞬間、ほとんど沸点にも達している熱情的な「一体化」の欲望を語っている。

エレーヌは(…)自分からはほとんど一言もしゃべらかった。自分の悲惨な境遇についても、戦争中ナチスによって銃殺された仲間についても語ろうとしなかった(…)それでも私はエレーヌに計り知れぬ苦悩と孤独を見てとったし、(…)この瞬間から私は、エレーヌを救い、エレーヌが生きていく支えになるという、胸の高鳴るような献身願望にとらわれた。私たち二人の物語が尽きるまで、至上命令とでも言うべきこの使命を、私は一度たりとも放棄することはなかったが、それは最後の瞬間になってもなお、この使命こそが私の存在理由でありつづけたからだ。

Too good to be true. あまりにも感動的すぎるこの愛の告白には、たぶん嘘がある。ノンフィクションではなくフィクションが含まれている。そこに嘘があることを知りながら、アルチュセールはこの一節を書いたのではないだろうか。「妻を救い、妻の生きていく支えになる」という至上命令は、どれほど控えめに見積もっても、「絞殺」の最後の瞬間には放棄されていたというほかないだろう。彼は最後の瞬間、妻を天国へと突き放したのだ。終わらない愛を誓い合った若き二人の輝ける日々は、終わらない深い夜に包まれてしまったのである。

ここまで書いて「輝ける闇」という語句がふと浮かんだのは、同じく「絞殺」を主題とする「フィクション」を想起したから。「痩せた男と太った男」というタイトルだっただろうか。

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 ポランスキーに同じタイトルの短編映画があるが、芸者を絞殺するという筋立ての「痩せた男と太った男」は、日本の政治家の生きざまを描いた「フィクション」だったような気がするので、この映画ではない。「痩せた男と太った男」+「首を絞めて」で検索すると、アルチュセールの闇が輝いて見えるほどの、深すぎる日本の闇に到達して慄然としたりすることもあるのだろうか。

CIA設立政党の所属でなくとも、諜報組織を持つことを許されていない日本では、3.11時の日本の首相が愛人宅を訪ねる様子がすべてアメリカに筒抜けとなったりもする。「絞殺コンプラドール」。致命的な醜聞をネタに脅迫されて、「心ならずも」売国奴となって、引き返せぬ道を歩んでしまう政治家だっているかもしれない。この国の人々を真実へ近づける情報が、もっと必要だ。

自分は物心ついて以来、どういう理由からか、右派的な人脈との縁が深いように感じられる。安保法案を合憲としたわずか数名の憲法学者のうちの一人とは、少年時代に面会する機会があり、「将来の日本を頼んだよ」というような言葉をかけられた記憶まである。

現在の自分は、リベラル経由の対米自立型保守の立場を取っているが、右翼⇔左翼の派閥抗争は1%⇔99%の真の抗争を隠すための1%による「分断統治」装置だという見解だ。しかも、右翼⇔左翼の双方に半島系外国勢力が浸透しているために、軽々にはどちらにも肩入れしにくい。この両建て構造を内破しうるとしたら、真の情報を拡散して、覚醒者を増やし続けることくらいだろう。そう感じて、ここでこうして書いている。

この国が少しでもましになるよう、少しでもこれ以上の酷い悲惨さに落ち込まないよう、つまりはこの国の「未来が長く続く」よう切望しながら歩きつづける人々と、それほど違わない方角に、夜明けの曙光が差し入ってくるのを見出せたらと願う。金融上のカタストロフと東アジア有事が不可避とも思える高まりの中で、その願いはほとんど祈りに近づきつつある。