Forget-me-not

環状4号線というとピンとこないが、不忍通りと書けばどの道か思い浮かぶ人も多いだろう。学生時代、その不忍通りを、終点の目白台から護国寺近くまでよく走ったことは、ここに書いた。

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目白台から護国寺に向けての緩やかな下り坂には目立った建物もなく、行き過ぎる車の擦過音が響くばかりで、人通りも少なかった。あれもGWのことだっただろうか。小雨のパラつく中、傘もささずに10代の女の子が立ち尽くしていた。場所は護国寺の境内を出て歩道橋を渡り終えたふもと。女の子は遺影を抱くようにメッセージボードを抱えていた。

てっきり宗教団体の信者だと思って、目を逸らして行き過ぎようとした自転車の自分は、すぐにブレーキをかけた。そのメッセージに聞き覚えのある人名が書かれていたからだった。メッセージボードにはこう書かれていた。

尾崎豊 あなたが教えてくれたメッセージを決して忘れない」

26歳で変死した尾崎豊の葬儀が、その日護国寺で行われていたのだった。ファンではない自分はすぐに行き過ぎたが、それでも、「葬儀の参列者が帰っても、ほとんど人通りのない場所で、雨に濡れながらメッセージを抱いて立っていたきみのことは忘れない」とまでは、心内で呟いたのだった。

学生寮に入ると一生の友達ができる」とよく言われる。自分の場合は予備校の寮だったせいで、友人たちはバラバラの進路をとって散っていったが、付き合いは濃密だった。友人間での本や漫画の回し読みや音楽の回し聴きも日常的で、自分はそこで初めて「少年ジャンプを毎週読む」という少年らしい通過儀礼を経験したのだった。

当時の東京大学後期試験は論文試験で、リテラシーだけは超高校生級だったおかげで、早々と全国一桁順位を得て、悠々自適の全授業欠席生活に入った。三島由紀夫全集を読破したり、地元の大学の劇団に参加したり、こっそり帰郷して後輩の女の子と遊んだり。それほど悪くないギャップ・イヤーだったように記憶している。

寮の友人の一人にオザキストがいて、審美眼を見込まれたのか、尾崎豊の生涯Best10を作るのを手伝ってほしいと頼まれた。当時までの全アルバムを聴かされて、自分が最高の楽曲に選んだのがこの曲。

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「女性に頼まれて花を摘んであげたものの川に流されて死んだ男が格好悪くて、尾崎らしくない」と、友人は勿忘草(英名forget-me-not)の由来が気に入らないようだった。一方「I love you」をリメイクしてそれを越えた名曲というのが自分の意見。いずれにしろ、まさかその数年後に、その歌手の死に数え切れないほどの花々を手向ける儀式が近所で行われ、「彼を忘れない」と訴える少女に遭遇するとは思いもよらなかった。

 あの少女の「忘れない」が気になっていたせいかどうかはわからないが、それから10年ほど経って、ふと気になって尾崎豊の変死の真相に迫った本を取り寄せて読んだ。

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裁判で敗訴したらしいが、このジャーナリストによる他殺の推論の方向性は正しそうだと感じた。最近になって、病院の医者+検視官+生命保険代理店が結託したネットワークが暗躍して、夥しい保険金殺人が横行しているとの噂を耳にして、ますますその印象は確信に近づいたが、これ以上は書かない。

forget-me-notの語源の挿話がcoolかどうかはともかく、花と死の結びつきは世界に普遍的に存在する。そして、それこそが「人類を滅亡から救ってやる美質」なのだと説いた珍しい小説があったことを思い出した。

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)

 

 人類を救おうとする人々と滅亡させようとする人々が衝突すると書けば、幼児向け番組から大人向けまで、多すぎる類似作品が思い浮かんで煩く感じるだけだが、この小説には地球防衛軍ウルトラマンも登場しない。三島の独創は、人類を滅亡させるか否かを、ハイデッガーの哲学用語を駆使しながら、ほとんどシャンタル・ムフ的な闘技的熟議でやってのけたことにある。

三島の生涯を追った或るドキュメンタリーは、「あの人はデカイ虚無です」と親しかった詩人が正鵠を射た発言をする場面で、そのノンフィクションを終わらせていた。三島はニーチェからハイデッガーに至るニヒリズムの系譜を内面化しているので、人類を滅亡させる側が投げつける主張や呪詛には、かなりの冴えがある。これでは人類を救おうとする側の反論が負けてしまうかもしれない、と読者が危機感を感じたところで、作者は人類を救うべき論拠をわずか数行にこう要約する。

「彼らは嘘をつきっぱなしについた」

「彼らは吉凶につけて花を飾った」

「彼らはよく小鳥を飼った」

「彼らは約束の時間にしばしば遅れた」

「そして彼らはよく笑った」

上記の第二項に関して、作者は登場人物にこう説明させている。

彼らは吉事につけ凶事につけ花を飾った。この萎みやすい切花のふんだんな浪費によって、彼らは幸福が瞬時であることは認めながら、同時に不幸も瞬時であってほしいと望んだ。

それらが人類を救うに足るほどの美質なのかは判断が難しいところだが、人類が自分を鏡に映して見た割には、何と可愛らしい「自画像」を描いたのだろうと、くすくす笑いが洩れてしまう。

さらに驚くべきことがある。出版から半世紀以上を経た今年、何と『美しい星』は映画化されるのだそうだ。再読して懐かしさが込み上げてきたので、小説の詳細については、どこかでもう少し書きたい。

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花と死。献花と追悼。全人類的なこの結びつきを、日本に限定すると、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」とする梶井基次郎が呼び出されることになる。

桜の樹の下には
 

 桜の花々を仰ぎ見ながら、その美しさを何への追悼と考えて鑑賞すればよいのか、いつの日か千鳥ヶ淵の満開の桜の下で、ひとりゆっくり考えてみたい。

千鳥ヶ淵 桜 - Google 検索

 

 

(5/26分)