アスファルトを剥がせば焦土

tabularasa.hatenadiary.jp

ここでふと呟いたランニングの掛け声が、映画やドラマになったのを思い出した。

がんばっていきまっしょい [DVD]

がんばっていきまっしょい [DVD]

 

 旅が好きといえるほど自分は旅行経験は多くないが、文芸のさまざまな領域を渡り歩いてきたことは確からしく、わずか半年ほどではあるものの、現代短歌の世界に入り込んで熱中した時期があった。特に熱心に読み込んだのは、前衛短歌の4人、塚本邦雄寺山修司、春日井建、岡井隆ライト・ヴァースと呼ばれる一群の歌人とは実際にお話ししたり、初心者の下手な歌を見てもらったりした。もともと自分が衰弱していた時期に飛び込んだ世界だった。歌の世界は面白くて興趣は尽きなかったが、やがて半年くらいが過ぎて心身が回復すると、31文字では足りない創作衝動を感じることが多くなって、そこから遠ざかってしまった。瞬間的な遭遇だったとはいえ、学生だった自分に丁寧に応対して、文芸の話を聞かせてもらったことが懐かしく思い出される。以下、思い出の記録として、順不同で引用。

たぶんゆめの レプリカだから水滴のいっぱいついた刺草を抱く

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

サキサキとセロリ噛みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず

チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月

 他にも有名無名問わずいろいろと読み飛ばしたせいで、誰のものともわからない歌の断片が、ふとしたきっかけで蘇ってくることがあって、或る時期「信号機の赤と青の箱の中にいる紳士が父に見える」という意味の歌が、脳裡に懸かっていた。57577の最後の7だけ記憶していて「父の肖像」ではなかったかと思う。

他にも20代のころ友人に誘われて、冒頭に掲げた映画の原作者と同じ同人誌に顔を出して原稿を寄せたこともあった。頼まれたのはリレー小説のある一回で、「歩く猫」のようなキーワードで探偵小説?を書けという注文だったと思う。

「あるくねこ」の中央の文字は、ひらがなではなく数学の不等号だから両辺に-1をかけて要素を反転せよ。すると「るあ>こね」が得られるから、ネポティズム的な縁故ではなく、ポストモダン的な疑似餌で局面を打開すべきなのだ!

とかなんとか急造ででっちあげて、次回のリレー小説担当にバトンを渡したのだった。ただその原稿の一隅には、自作の小説の構想の一端を書き込んでもいて、たぶんこんな感じだったはず。

ヒトラーは、カフカ『変身』の毒虫を国家全域に複製して拡散しようとした。あの国民車=フォルクスワーゲンのビートルを作るよう命じたのはヒトラーで、命じられたのはやがて独立ブランドを確立する以前のポルシェ博士だった。『変身』の毒虫よ! 疾走せよ!

www.carsensor.net

このような文学上の断片的な遍歴が、撒かれた無数の種になり、思いがけない形になって、自分の創作の中で形になっているのを感じる。それは、作者には制御不能の創造の力で、プルーストの無意志的記憶に似ているが、芸術創作の現場で起こっているのは記憶の蘇りではなく、無数の記憶の種が他と結びつきながら自らを変形し成長し繁茂していくさまだ。その驚くべき無意志的記憶の変貌の実態は、部分的には「置き換え・象徴化・圧縮」のプロセスと呼べるし、そうフロイト風に呼べば、芸術が部分的に夢に似ているのも腑に落ちるだろう。

 その夢の記録を引用する。

 車中に路彦の声が響いている。兜虫(ビートル)はフォルクスワーゲン製で… 作ったのは反ユダヤ主義のフォードに心酔していたアドルフ… あのヒトラー?… そう… ヒトラーが「国民車(フォルクスワーゲン)」を提唱して、ポルシェ博士に設計させた… 国民から大々的に前払いを募って… あまりにも独裁者らしい姦計…  預り金のすべてを軍用ジープの製造に流用した… 騙された国民は?… 時代は秘密警察(ゲシュタポ)のうようよいるナチス政権下だ… 直後、第二次世界大戦のドイツ軍による侵攻… 真新しいジープの群れが隣国との国境を走り越えていった… 

ヒトラーの詐欺に加担したフォルクスワーゲン社は、戦後の60年代くらいまでずっと訴訟を抱えていたらしいよ。戦時中に強制労働させた強制収容所の労働者や捕虜には、今世紀に入っても補償を続けている。まったくnot so long agoな話さ」

 食事時まで間があるので、あてもなく車を走らせている間、路彦が車中の沈黙を埋め るのに選んだのは、遠い異国の話だった。思えば、二人が恋人として過ごした時間のすべてが、外国の陸地や海の上だったのだから、自然にそんな話になったのだろう。頷きながら聞いていた琴里も、6年前の旅の記憶を呼び醒まされたらしい。交差点にある歩行者用信号を指差して、あのしゃちほこばった佇まいを見てよ、と陽気な笑い声をあげた。

 彼女が指しているのは、信号の「止まれ」を表している像で、2階建ての箱の上階に棲んでいる直立不動の真っ赤な紳士である。

旧東ドイツのアンペルメンフェンとは大違いよね。あんな可愛らしい男の子に通せんぼ されたら、誰も信号無視できなくなるのにね」

「交通ルールの普遍性を伝えるのに、大人の威厳を使うか、子供の愛橋を使うかの違いだね」と路彦が同調して応じる。「そんなところにも、ある意味では見えない壁がある」

 壁の暗喩に話が及んだのは偶然ではない。ユーラシア横断旅行の途上で、旧東ドイツ の首都に立ち寄ったとき、べルリンの壁の痕跡を辿るのに苦労したのを彼は思い出していた。当時すでにべルリンの壁はほとんどが撤去されていて、どこが旧西ベルリンでどこが 旧東ベルリンなのか、旅行者にはまるでわからない。そんなとき手がかりになったのが、 旧東ドイッの歩行者用信号像のアンペルメンヒェンで、3頭身の彼のあどけない通せんぼが、そこがかつて東ベルリンであったことを教えてくれたのだった。

「ベルリンでは歩きに歩いたわね。まるで遠足みたいに」

と琴里が共通の記憶に触れて懐かしむ。

「丸太みたいにかちかちになった脚とドイツビールの後を引く苦味。この一つしか記憶に 残ってない」と路彦が大架装に溜息をついてみせる。

「あの頃から振り回されてばかりね、真哉くんには」 

www.utravelnote.com

 三点リーダの頻用は、セリーヌソレルスからの引用で、自分の中では叙述のテクニックの一つ。場面の進行に加速をかけたいときに使っている。話題はここから旅の記憶を遡っていくが、ここまでを読んだだけで、あらかじめ準備していた主題の断片が、作者にもほとんど制御できない形で、完全に変貌しているのがわかるだろう。

カフカや「父の肖像」は消えてしまったが、個人的には自然な文脈で not so long ago というひとことを入れられたのが気に入っている。若い人々がこれを読んだときにあの写真を想起してくれたら、というささやかな希望がそこに織り込まれているからだ。

高校英語の教科書に載っていたあの写真。検索すると、凄い場所で見つかってしまった。

「焼き場に立つ少年」と題する写真 - 宮内庁 

少年が背負っている赤ん坊の弟は病死している。死んだ赤ん坊を焼き場に葬りに来たのだ。その少年の背筋の伸びた立ち姿がこちらの心を揺さぶってくる。

高校英語をきちんと勉強した記憶はないが、仲間とランニング中に掛け声を合わせた「頑張っていきましょい」の方はよく覚えている。学校の勉強とは違うことに、夢中になり通しだった三年間、勉強よりも独自の課外活動に駆けずり回っているときに、内心呟いた激励句だった。

四半世紀以上前の話だ。その頃はまだ、夏目漱石が教鞭をとったその高校にも、文学的な伝説が語り伝えられていた。曰く、「地理の授業中にどうしても読書をやめようとしないので、机ごと廊下に放り出された」とか、「図書館のすべての本の貸し出しカードに『大江健三郎』という名前が書いてあった」とか。

 30代で書いた『万延元年のフットボール』は大江健三郎の最高傑作ともされ、又吉直樹が推薦本に挙げてもいたので、若い読者が増えることを期待したい小説だ。その出版とほぼ同時の1968年、フランスでは若者たちを中心とした五月革命が勃発したので、そういった世界的な革命の意識と共振した傑作小説とも評されているからである。

パリ五月革命 私論?転換点としての68年 (平凡社新書595)

パリ五月革命 私論?転換点としての68年 (平凡社新書595)

 

自分が生まれる前の五月革命については、知らないことの方が圧倒的に多いが、カルチェ・ラタンの学生たちが敷石を剥がして投石し、唱和すべきモットーとして「敷石を剥がせば砂浜」と叫んでいたことが心に残っていた。詩的なー句が物語っているのは、旧体制(アンシャンレジーム)への、若者たちからの鮮烈な異議申し立てだろう。

ベルリンの壁の痕跡を辿る記述にも、敗戦国日本の文脈を紛れ込ませずにはいられない自分は、45年以降n度目の局地的敗戦を経て、ますます属国化の進むこの国の方へ、振り返ってまなざしを向けずにはいられない。小説の冒頭に、こんな一句を書きつけずにはいられなかった。

アスファルトを剥がせば焦土」