水を捧げる街

年下の親友に脳外科医がいて、ときどき部外者の知らない医療現場の話を聞かせてくれる。

言い知れない感動を覚えて、ほとんど聞いたままを小説に書き込んだのが、この挿話。

研修医として勤務したのが救急病院だったので、路彦は何度も患者の死亡に立ち会ったことがある。原因不明の昏睡状態で運ばれてきた50代の男性が、こちらが診断を下す間もなく息絶えていく間際、付き添った自分の手をきつく握りしめてきたことがあった。患者の意識はすでになかったはずなのに、瀕死の手は何を伝えようとして、あれほどきつく他人の手を握ったのだろう。手を離した後も、「最後の握手」の感覚はしつこく尾を引いた。出産直後の目も見えない赤ん坊には、鉄棒にぶら下がって自重を支えられるほどの握力がある。生きたいという生への執念は、手掌把握反射の形を取って現れるのかもしれない。

脳外科医は開頭手術ともなると、5、6時間は立ちっ放し。飲食不可で小用にも立てないそうだ。それどころか、手術へ集中するあまり、空腹や喉の渇きや尿意をまったく感じなくなってしまうのだという。

その現場の苛酷さからすると、心臓外科研究助手の「路彦」は軟弱だ。ただし、小説は嘔吐という主題に関連して、弱さから強さへ至る成長小説の描線を引いているので、この描写が直ちに駄目だというわけではない。

無名の犬の絶命後も尚、摘出された心臓が嬉々として艶めかしい鼓動を打っている。やがて開胸されてこの心臓と結合される別の犬の心臓も、同じただならぬ厭らしさで拍動していることだろう。嘔吐しない限り、嘔き気はすぐには治まらない。手術が終わるまで、二匹の犬の心臓の二重になった奇態な拍動に追いかけられるように、波打つ嘔き気が彼の胃や食道を繰り返し襲うだろう。水を、ください、と誰彼にともなく懇願したくなる気持ちを、彼は生唾を呑み込み、横隔膜を締めつけて、きつく抑制した。

そこで書いた「水を」という二文字は、誰にでも書ける二文字だろう。嘔吐に襲われた人間が貼りつきそうになる喉を潤す水を求めているだけ。特段の引っ掛かりもなく記しただのだが、このたった二文字で、消えてしまそうな国民的記憶を鮮やかに蘇らせた天才がいたのを思い出した。

パンドラの鐘』は「天才は忘れた頃にやっと狂う」と嘯いた野田秀樹の転換点となった傑作で、長崎生まれの野田の原点回帰となった戯曲だ。寺山修司における『田園に死す』のような位置づけの作品なのかもしれない。

地方紙のコラムが戯曲の魅力をうまく掴みだしている

主人公は死者を葬る葬式屋「ミズヲ」である。

 〈生まれてはじめての俺の記憶は、赤い風景。見渡す限りが、夕陽で赤くただれ、そして誰かが洪水ほど涙を流した。何故かは知らない。その日、何がおこったのか。気がつけば、俺(おれ)はみなし児だった〉

 物語の序盤、ミズヲは初めての記憶を語る。自らの名前の由来は思い出せない。

 ところが、タイムパラドックスをくぐり抜けた主人公は、覚えていないはずの記憶が蘇ってくるのを感じてこう叫ぶ。

 〈(…)思い出したぞ。未来のその日を。八月のとある一日を。俺の頭上でおこる、真っ白い光を。その直後に目に見えるすべてが、焼けたセルロイドのように、真っ赤に揺れていくのを。『水をくれ、水をくれ』。はじめて俺が覚えるコトバだ。赤く焼けたすべての人間が木が建物が風景が、俺のことをそう呼ぶ。『水をくれ、水を、水を』。それが俺の名前になる。誰もが、俺をそう呼ぶ。『ミズヲ、ミズヲ!』〉

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1955年の戦後生まれ。出生地が長崎であるとはいえ、野田秀樹は炭鉱産業の衰退により、わずか四歳で東京へ引っ越している。どの大人も4歳以前の記憶をほとんど持っていないように、彼も長崎をほとんど覚えていないことだろう。書物、つまりは死者の言葉に親しんできた人間には、覚えていないはずの記憶が蘇ることがあるのである。

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ここに書いたように、自分は舞鶴生まれの松山育ち。自分の生きてきた人生上の文脈で強く響くものを感じたので、ある賞の受賞記念講演に出かけた。

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 講演録がwebで読めるのは嬉しい。現場で拝聴したのとは若干内容が異なっている部分もあるが、そこで言われるように「実は、伊丹十三を論じた、まとまった批評的言説というものは、いまだ存在していない」というのは本当で、自分もいろいろと探したのに目ぼしいものが得られなくて困ったことがある。この講演録がその嚆矢となるに違いない。

これまでいろいろな講演の聴衆となってきたが、この内田樹伊丹十三論が、最も面白くて印象的な講演だった。自分がかつて書いた江藤淳の戦後の仕事への言及もあった。

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約10年を区切りとする世代論には、先行世代が必ず負ける宿命にある単調さと、賞味期限切れがすぐに来る古びやすさという短所がある。しかし、その世代の区切り目が戦争なら話は別で、ましてやその戦争が敗戦であり、敗戦が或る意味で半世紀以上途切れず持続しているとしたら、話は大きく変わってくる。

内田樹が言うように、伊丹十三江藤淳がほぼ同い年だという事実には、誰もが意外な印象を感じるだろう。戦中派の二人のうち、逸早く俳優として世界進出した伊丹が、『ヨーロッパ退屈日記』という名エッセイで、戦勝国アメリカの「文化的父」であるヨーロッパを、日本人の青年が「退屈」と呼んだところに、敗戦国の人間としての矜持を読み取るという着眼が素晴らしかった。

戦前戦後のアノミーへの対処を強いられた戦中派の屈折が、戦後思想史の中で過小評価されているという直感が自分にはある。

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ここで「作家の中心」から「可能性の中心」へと三島読解を方向付けたが、「可能性の中心」は、戦後社会での戦中派の実存的あり方の諸相に見つかるのではないだろうか。そんな予感がしている。不評を被って三島が傷心に陥った大作『鏡子の家』を、同世代の論争相手だった橋川文三が、『日本浪漫派批判序説』の中で激賞していたのには、戦中派にしかわからない激情の噴出を見た思いがした。

他にも興趣の深い情報が盛り沢山なので、ぜひとも内田樹伊丹十三論に目を通してほしい。 

今回再読していて、あ、そう言えば、と想起したのが、ここで話した劇団の先輩に、急用で行けなくなった演劇講演のチケットを買ってくれないかと、かつて持ちかけられたこと。お金がなくて断ったのだが、喜劇志向の若手脚本家が凄い才能の持ち主なのだと聞かされた。まだその人がドラマで有名になる前の頃だったと思う。

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 その脚本家についてはここで言及した。

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生み出す喜劇の質の高さやわかりやすさ、頭脳明晰なのにとぼけた振る舞いを演じる演じるご本人のキャラクターなど、三谷幸喜はもともと人々から愛される特質には事欠かない。和洋問わず現在までの喜劇映画私的ベストは『マジック・アワー』だ。自分がさらに特別な思いをもって三谷幸喜の作品に接してしまうのは、彼が伊丹十三の或る部分を受け継いでいると感じるからだろう。

伊丹十三の遺作『マルタイの女』は、三谷幸喜が脚本を書き、それを伊丹十三が書き直すというプロセスで作られた。映画マーケティング上の総合的観点から見ると、伊丹映画の中で最も世界水準に近い作品だと思われる。封切時のキャッチコピーは、確か「伊丹映画はハリウッドになった」のような惹句だったはず。何度見ても、『マルタイの女』には、映画監督としても成功する直前の三谷幸喜のアイディアが、ふんだんに盛り込まれているように感じられてならない。

マルチクリエイターだった伊丹十三の多面体のうち、映画監督の側面を受け継いだ人がいることは本当に嬉しい。しかし、伊丹十三をそれで終わらせて良いものだろうか。そんま感慨も、自分の中には解きほぐしがたく残っている。

小説を書いているとき、ペンのすぐ先の白紙が透き通るような気がすることがある。錯覚かもしれないが、書物、つまりは死者の言葉に親しんできた自分にも、覚えていないはずの記憶が蘇ることがあるのかもしれない。勝手にそう解釈している。水面のように透過している白紙の深みの中に縺れている言葉があって、それを掬い上げては線状に解きほぐして、文章を書いているような奇妙な感じに囚われることがある。

「この犬の存在を… だから… ぼくは… 少なくとも『個人的』に…」と路彦が薔薇の茎を無理に呑み込むかのように、痛々しげに嚥下を繰り返す。喉元まで上ってこようとする悲痛な嗚咽の生々しい塊を呑み込もうとする。「せめて憶えておきたいんだ。痛みとともに」

 イタミ、と琴里が感受性の深そうな彫りの複雑な横顔で復唱する。彼女の言語感覚は、同じ音声を「悼み」という漢字に変換したのかもしれない。路彦はようやく胸の痞えを解きほぐすと、最後の言葉の塊を苦しそうに吐き出した。

「いや、憶えておくだけじゃない。どんな形でもいいから、とにかく、生かしたいんだ」

小説のクライマックスに置いたものの、特別なことが起きているとは傍目にはわかりにくい数行。しかし、この数行を書いた瞬間、ああ、この数行に遭遇するために、自分はこれまで散々苦労をして、散々な目に遭ってきたのだと、もつれあっていた心の蟠りがすっと腑に落ちた。「書けた」と感じ、「わかった」と思った。ここへ逢着するために、詩を書く女性をヒロインにして、しかし彼女の自作の詩は一行も書かず、ただ鍵言葉の重層的な響きを聞き取らせる役回りにさせたのだと確信した。

話を内田樹の講演録の冒頭へ戻す。「杉丘市」の歴史に疎い人は、そこで語られるている雑談を聞いて、どうして郊外にある「北斗」が接待場所に選ばれたのか訝るかもしれない。

北斗七星からは「北斗」を引き出せる。「七星」の英語をカタカナで書けば「セブンスター」となり、「七」は分割すれば「一六」となる。「一六本舗」の重役が、長いあいだ伊丹十三の補佐役として、「伊丹組」の屋台骨を務めてきた歴史が、この街には刻まれている。

誰もが知るように、北斗七星の星座線はひしゃくの形だ。

自分の中で、この街が、神へ、死者へ、水を捧げる街なのだと想像し直して、深夜の仕事帰り、星を見上げながら無人の街路を歩くことがある。同じ思いを抱いて、これからも歩いていくことだろう。

伊丹十三の本

伊丹十三の本