Perfect Day は月曜日

チェット・ベイカー、イーディー・セジウィックシド・バレット…。

 自分は違法ドラッグに手を染めたことはないが、麻薬に耽溺する人間にひどく惹かれてしまうのがなぜなのか、まだ答えを出せずにいる。

答えはわからなくとも、「精神疾患のある女性に、男たちが集団で拉致や監禁や輪姦や殺害を加える」小説を書いたあの人が、青少年の性をより厳しく取り締まる条例を制定したらしいという噂が、たぶん冗談だろうということはわかる。いや、冗談ではすまなかったのかもしれない。

あまりにも反道徳的な『完全な遊戯』がセックスの方向へ暴走していたのに対し、ドラッグの方向へと暴走したのが、石原慎太郎の『ファンキー・ジャンプ』。対米自立型保守を自称する自分にとっては、彼の最高傑作はソニーの創業者盛田昭夫との共著『「NO」と言える日本』だが、モダン・ジャズを主題論的にではなく方法論的に扱ったこの短編も忘れがたい。

 文壇を始め世間を敵に回した『完全な遊戯』で、ほとんどただひとり擁護に回った三島由紀夫は、この短編にも熱烈な賛辞を送っている。

 次第に狂ほしくなつてゆく主人公が、麻薬の陶酔と苦痛の裡に、〈俺あ今 完璧に近いんじゃないか〉と自問する件りには、ひどくパセティックなものがある。表現への焦燥と表現との一致といふ、決して新らしくはない文学的課題が、かくも先鋭な神経的昂奮の頂点に、ありありと映し出されたのは新らしい

 麻薬中毒のジャズ・ピアニストが恋人を殺し、直後のライブ会場で壮絶な演奏を披露して息絶えるという筋書きは、どちらかというと平凡な発想の筋立てに入るだろう。しかし、麻薬中毒者が妄想に囚われて壊れながら転落していく様子に、リアリティと詩情があるとは言える。三島引用中の麻薬中毒者が求める「完璧な感じ」は、同じ種族の人間たちが繰り返し追い求めてきたものだ。

この数十年でたぶん一番売れたドラッグ・ノベルはスコットランド発のこれだったはず。映画化されて、「90年代最高の青春映画」に似た位置を獲得したので、ポスターだけは見たことがあるという人も、多いのではないだろうか。

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映画よりも小説の方が鑑賞し応えがあるのは間違いないが、ジャンキーたちのどうしようもない下品さに満ちているので、人には勧めにくい。ただ、映画で一か所だけ忘れがたいシーンがあって、アッパーとかダウナーとかいろいろあるにせよ、やはりトリップするとはこういうことなのだろうと、ドラッグを知らない人間にも納得を与えてくれた場面だった。

主人公が床に寝そべってトリップするさまを、不意にカーペットの床が沈んで、そこへ身体が落ち込んでいくことで、象徴的に表現しているシーン。〈俺あ今 完璧に近いんじゃないか〉という石原慎太郎の小説中の台詞と、かなり近い変性状態なのだろうと推測できる。

というのも、そこで登場人物たちが崇拝しているらしきルー・リードが流れ、しかも曲名が「Perfect Day」だからだ。(0:33から)

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Just a perfect day
Drink Sangria in the park
And then later, when it gets dark
We go home

まったく完璧なある日
公園でサングリアを飲んで
そのあと、暗くなったら
ぼくらは家に帰る

Just a perfect day
Feed animals in the zoo
Then later, a movie, too
And then home

まったく完璧なある日
動物園で動物たちに餌をあげて
そのあと、映画もみて
家に帰る

Oh it's such a perfect day
I'm glad I spent it with you
Oh such a perfect day
You just keep me hanging on
You just keep me hanging on

そんな完璧な日を
きみと過ごせて嬉しい
そんな完璧な日
きみのおかげで何とかやっていける
きみのおかげで何とかやっていける

Just a perfect day
Problems all left alone
Weekenders on our own
It's such fun

まったく完璧なある日
いやなことは全部忘れて
ぼくらだけの週末旅行
なんて楽しいんだろう

Just a perfect day
You made me forget myself
I thought I was someone else
Someone good

まったく完璧なある日
きみはぼく自身を忘れさせてくれた
ぼくがだれか別の人間で、
もっとましな人間だったらいいのに

Oh it's such a perfect day
I'm glad I spent it with you
Oh such a perfect day
You just keep me hanging on
You just keep me hanging on

そんな完璧な日を
きみと過ごせて嬉しい
そんな完璧な日
きみのおかげで何とかやっていける
きみのおかげで何とかやっていける

You're going to reap just what you sow
You're going to reap just what you sow
You're going to reap just what you sow
You're going to reap just what you sow...
きみは報いをうけるよ
きみは報いをうけるよ
きみは報いをうけるよ…

「You = 麻薬」説も有力だが、ドラッグ中毒の主人公に女がいて、彼女はそれを知らない、という解釈も成り立つ。「You」は麻薬と彼女のダブルミ―ニングで、前者だと解釈すれば、「just a perfect day」の「just」は「まったく(完璧な)」というトリップ状態の強調語となり、後者だと解釈すれば、「just」は「単なる」となって、単なる他愛のない日々でもきみと過ごせれば完璧だ、ドラッグ中毒の自分ではなく「自分がもっとましな男だったらいいのに」と、意味がつながるように書かれているのではないだろうか。

いずれにしろ、歌詞の最後はドラッグ中毒が「報い」を受けることを暗示しており、『トレインスポッティング』の主人公が沈んでしまった空隙も、他の何よりも棺に似ている。神々の言葉に耳を傾けておこう。

natalie.mu

「謎以外の何を愛せようか」とジョルジュ・デ・キリコは語ったが、謎に魅せられるのは誰も同じで、十年以上前から謎めいていると感じて忘れられない批評家が、自分にはいる。

d.hatena.ne.jp

この記事の註の最終行で、わずかに言及している間章

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映画は完成したが、7時間半という途方もない長さになってしまったこともあって未見だ。しかし、青山真治に7時間半という長さのフィルムを費やさせたというのは、もはや事件と呼んでよい事態だろう。カットを許さない存在だったのに違いない。

間章の主要な批評領域は、ジャズ批評やロック批評。ロックの領野では、ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンド)に向けられている言葉の数が圧倒的に多い。

僕はランチにでかける―ロック・エッセイ (Oak books)

僕はランチにでかける―ロック・エッセイ (Oak books)

 

 夜が続いている。しかし一度だって本当に朝が訪れたことなんてあったのだろうか。

 ただ夜だけが続いてきた。その夜の底を伝わってすべての秘かなことが受け入れられ、そして持続されてきた。
 ありとあらゆる殺意が、愛が、残酷が、あわれみが、生成が、亡びが、憎悪が、やさしさがその夜のなかを生きてきた者たちによって〈今〉と〈ここ〉へまで渡ってきたのだった。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド試論」と題されながらも、 こんな感じでずっと仏文ノワール調の饒舌が続き、一向にルー・リードが登場する気配はない。

しかし、別のエッセイでルーリードに言及したとたん、批評の電圧はマキシマムへ到達してしまう。

『Metal Machine Music』は断じて実験ではない。それは現代の霊のある際立ったところによってロックが生みだしえた現代の霊的な音楽なのだ。もちろんこの音楽が持つ毒と危険さを知った上で、私はロックがルー・リードという存在を経てひとつの霊的な次元にたどり着いたのだということをはっきり受感した。アナーキーといえばこれほどアナーキーな音楽はない。このアナーキーはしかし逆理的に豊かな反映としてあるのだ。現代の孤独な人間の迷える魂とそれゆえに開かれた窓の……。

そこに散見される「霊」という鍵言葉に注目してもらいたい。32歳で夭逝する直前、最終的に間章が到達するのは、仏文ノワール系代表作家のセリーヌではなく、シュタイナーの神智学なのである!「ロックの霊的次元」について語りうる人間が、彼のほかにいただろうか。

そして一方、ダウナートリップに耽溺しているときの彼は、ぼろぼろに傷ついて倒れ込んでいる捨て犬のようでもある。

めくらがいる。めくらの音楽で満ちあふれているこの世にあって、ルーは本当に貴重な存在である。そのことを知っている者だけが今は僕の仲間だと思う一日がある。
 とてもつらく、とても幸せな日々が続いている。何度か自殺の誘惑にかられた。
 そしてそのたびに生きていることの大切さと喜びをかみしめるのだ。

 謎めいた間章の全貌を捕捉すべく、死後約40年がたったつい先頃、3冊の著作集が刊行された。 

時代の未明から来たるべきものへ (間章著作集)

時代の未明から来たるべきものへ (間章著作集)

 

 

間章著作集II 〈なしくずしの死〉への覚書と断片

間章著作集II 〈なしくずしの死〉への覚書と断片

 

 

間章著作集III さらに冬へ旅立つために

間章著作集III さらに冬へ旅立つために

 

 近くの本屋の棚に奇跡のように3冊並んでいたので、思わず手に取った。表紙も黒なら、ページをめくるとき指に触れる小口まで真っ黒。『夜の果ての旅』が好きだった著者が喜びそうな装丁で、月曜社の perfect な仕事ぶりに、またしても敬服してしまう。ただ、欲しくてたまらないが、気安く買える値段ではない。

なぜこんな値段になってしまうのか。そんなところにも硝煙の残滓を嗅いでしまう。とうとうあの「グーグルゾン」が日本の出版シーンに襲来してきたのだ。月曜社のブログに、本好きならどうしても気に懸かる記事が書かれている。

urag.exblog.jp

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専門用語も飛び交っているので、門外漢がまとめるのは簡単ではないが、引用に大いに頼りながら、要約してみる。詳細はぜひ引用元記事を確認してほしい。

・「アマゾンから日販に日々飛んでいるバックオーダー(既刊書補充発注)」が6月30日に終了する予定。これは事実上、アマゾンが躍進時に掲げた「ロングテール」系の書籍の販売を放棄したに等しい。

・このアマゾン側の仕掛けは、ロングテール系書籍を出版している零細出版社がアマゾンと直取引をするよう促すのが狙いらしい。

・しかし、小零細出版社は「ヤマトや佐川が運賃値上げするのに、アマゾンの各拠点への分散小口納品などできない」ので「アマゾンと一挙的に直取引になる可能性は低い」だろう。
・アマゾンは、自社と積極的な契約を結んだ出版社のみに「集中的にマーケティング支援う」など、プラットホーマーとしての圧倒的優位を濫用した「版元カースト制度」を展開してきたので、「多くの出版社の経営者が、危機感を覚えている」。

・「「日販=大阪屋栗田=日教販=出版共同流通」というまとまりと「トーハン=中央社=協和出版」というまとまりがそれぞれ一体化へと向かう可能性」が高まり、「アマゾン包囲網」が「加速するかも」しれない。

・「今後の業界再編に繋がるヒント」がいくつかある。徳間書店を買収したCCCは「SPA(製造小売業)をやらなければアマゾンには勝てない」として、「雑誌・書籍や関連グッズを、グループ向けのオリジナル商材として開発する」らしい。注目すべきは「SPAそのもの」で、「「アマゾンにはない、ここにしかない」というオリジナル性で差別化」を図る戦略が、「書店と出版社」が将来的に「一体化や強い製販同盟へと行き着くかどうか」という重要な分岐点に、深く関わっているかもしれない。

グーグルゾン」が話題になったのは2004年のこと。そこから派生した「フロント企業」「イネーブラー企業」というネーミングの概念化が流布されているのは、プロパガンダなのではないだろうか。素人目にも、構造的に商行為を制御できるのはグーグルゾンだけで、グーグルゾンだけが enabler という命名にふさわしく、残りは使い捨ての「バック企業」ばかりにしか見えない。

企業家としてのジェフ・ベゾスには魅力もあるが、政治家や官僚なども含めて、とりわけ組織的な権能を多く持った場合、「卓越者の公的貢献動機が疑わしい」*1というか、巨大化する私企業にせよ政治・官僚組織にせよ、それらが公共インフラに接近すればするほど、公共性を失い私利私欲の最大化を昂進させるという逆説を、私たちは厭というほど目の当たりにしてきた。

しかし自分にはその病の処方箋を描き上げる力がない。書物の文化をどうやって守ったらよいのか考えあぐねて、途方に暮れるだけだ。

それでも、暮れ落ちていくのは自分の半径1mだけだと考え直すことにしよう。いつのまにか目深にかぶりすぎた帽子の中で眠ってしまい、やがて目覚めたときの錯覚から、笑って抜け出るときのように。

目覚めた瞬間は、思わず誤って、こんな麻薬中毒者めいた莫迦な台詞を口にしてしまうかもしれない。

「目の前が真っ暗だから、誰か電気をつけてくれないか?」

けれど、帽子を取れば世界はまだ夕暮れだ。日が暮れないうちに本を積み上げて勉強すれば、良いアイディアが見つかるかもしれない。

明日も本を読もうと思う。

*1:宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』