「レキシントンの幽霊」を読む

昨年の夏頃から、どういう理由からか、あまりよく眠れない。

本当は0時から7時に眠りたいのだが、それでは怠惰だと非難してくる人がどこかにいるような気がするので、最近は深夜までやるべきことにハング・オンして、4時から11時に眠っている。それでも怠けていると非難する人がいるらしい。自分は睡眠を充分に取らないと高度な頭脳労働に支障が出る体質だし、後者の7時間だと必ず早朝に一度起こされることにもなる。起こされている時間以外の時間も、あたかも「自殺追い込みスキーム」に不当に幽閉されているようなストレスが尽きず、必ずしもぐっすり眠れているわけではない。完全な眠りはどこにあるのだろう? 

そんなわけで、今晩は眠りの話。

自分は歯の浮くようなお世辞を言うのが苦手な性格だ。若い頃に直接話す機会のあった一流の文人たちにも、例えば26点の作品のある芸術家に「AもBもCも(…)YもZも、すべて素晴らしかったです」というような賛辞を伝えたことがない。「世評に逆らうかもしれないが、初期のFはこの観点から凄く面白く読みました」という種類の感想をよく伝えた。世には小説をまったく読まない or 読めないのに、権威に阿諛追従すべく、世評に迎合した内容のない賛辞を贈りたがる人々が多い。文人たち自身がそういう種族とのやりとりに飽き飽きしているのが、こちらにもわかっていたからだ。

上の記事でハルキストの友人に借りて、村上春樹を時系列に沿って読ませてもらったことを書いた。どれが一番良かったかと彼に訊かれて、圧倒的に『レキシントンの幽霊』だね、と自分は答えた。カポーティーの『夜の樹』に近いテイストで、ムラのあるカポーティーと違って完成度が上回っているところもあるから、きっとカポーティーの本拠地のニューヨーク辺りへ持っていけば評判になるよ、とか、いっぱしの批評家気取りで話した。それを聞いて、一人っ子のハルキストの彼が、ほとんど見せたことのないような嬉しそうな表情をしたのを憶えている。

あれはたぶん90年代の半ばくらいのことだったと思う。どのあたりで村上春樹の名声が世界的なものになったのかは、今から振り返ったのでは掴みにくい。その友人と付き合いのあった90年代前半には、そのような感触なしで話していた。今になって検索してみて、ニューヨークとか『夜の樹』といった固有名詞にまつわる自分の予測が、結果的に当たっていたことを知ったが、ハルキストたちはきっともっと正確に、この世界的作家の歩む道を予測していたことだろう。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 さて、作家論的限界についてこれまで何度か言及してきたが、文芸批評の世界にはニュークリティシズム的限界というものもある。ニュークリティシズムは、小説作品を批評するにあたって、小説を作者の伝記的事実や歴史的背景の「反映」としないところまでは「進化」したものの、小説を1つの有機的統合体とみなしたところに限界があったとする見解。その見解にも賛成だし、ロシア・フォルマリズムが初期構造主義的知見を得て、魔法昔話などのジャンル特有の構造へ、或る時代に共時的に共通する特有の構造へと、個々の小宇宙を踏み越えて発展していったとする見解にも賛成だ。

ただ今の自分はかなり難しい立場に置かれていて、より進歩的な文芸批評の手法について語ったりすると、どういう理由からか、自分の若い友人知人が攻撃されてしまうというカフカ的不条理の世界を生きているように感じられる。

昨晩も同じようなことを書いたが、いずれにしろ、生き延びなければならない。そこで、ニュークリティシズム的な小宇宙の線で、この短編を読んでみたい。好きな短編なので、どんなメニューの注文を受けても、メニューに合わせて楽しく料理できそうだ。

主要な登場人物は5人と1匹しかいないので、リストは短い。

・私:アメリカで売り出し中の日本人作家

・ケイシーの父:著書数冊が半ば古典になっているほどの著名な精神科医。素晴らしいジャズ・レコードの蒐集家でもある。

・ケイシーの母:夫より10歳以上年下の、美しくて聡明で誰からも好かれる女性だった。息子のケイシーが10歳の時にヨット事故で死亡。

・ケイシー:50代の建築家で未婚。すでに両親をどちらも亡くしている。クラシック音楽好き。雑誌社にファンレターを送って「私」の友人となる。

・ジェレミー:ピアノの調律師で、ケイシーと同居している。病気の母がいる。

・マイルズ:番犬。

 数え方にもよるが、主要な挿話は4つになるだろう。

(1) ケイシーとジェレミーの旅行中に、「私」は頼まれて屋敷に住み込み、犬に餌をやる留守番をする。その初日の夜、誰もいないはずの居間(ジャズ・レコードの素晴らしいコレクションがある場所)から、たくさんの人々が歓談する声、流れている音楽、グラスが合わせられる音などが廊下まで聞こえる。「私」はそこに集まっているのが「幽霊」だと感じる。

(2) ケイシーの一つ目の回想話。約40年前、ケイシーが10歳の時、母がヨット事故で亡くなってしまう。すると父が、母の葬儀が終わってから約三週間ずっと眠ってしまう。

(3) ケイシーの二つ目の回想話。約15年前、ケイシーの父が癌で亡くなると、今度はケイシーが約二週間ずっと眠ってしまう。

(4) 病気の母が亡くなったせいで、ジェレミーが人が変わってしまい、星占いの星の動きに、自分の全行動を合わせるようになってしまう。

 そして、読者への最大のメッセージは、ケイシーが長い回想話の締めくくりで言ったこの2文だ。

「つまりある種の物事は別の形をとるんだ。それは別の形をとらずにはいられないんだ」

一読すると、短編は典型的な「母喪もの」に見える。(2)(4)は、事故にせよ病気にせよ、母を失った悲しみの強さを表していると読める挿話だ。

しかし、作品冒頭で「数年前に実際に起こったこと」で「人物の名前は変えたけれど、それ以外は事実」だと強調されているのに、『居眠り先生』のモデルが罹患していた嗜眠症(ナルコレプシー)にも、「眠れる森の美女症候群」とも言われるクライン・レビン症候群にも、小説中にあるような数週間もの連続睡眠の症例は報告されていない。 

周到にも、登場人物のケイシーは「置き換え」というメッセージを読者に送っている。この長期睡眠が、何を、なぜ、「置き換え」たのかを考えるのが、この短編の最大の読みどころになるだろう。

子供時代のケイシーは一人っ子の核家族だった。かといって、短編がオイディプス・コンプレックスの発露だと早合点してはいけない。村上春樹のことだから、事態は遥かに複雑だ。ここにあるのは「『父による殺し』の子による殺し」で、「子による殺し」の現場で、ケイシーが精妙な二重の殺しを遂行しているというのが、自分の読みである。

ケイシーの父が妻を失って長期睡眠し、ケイシーが父を失って長期睡眠したことについて、ケイシー本人は「まるで特別な血統の儀式を継承するみたい」だったと語っている。ここで明敏な読者ならおかしいと感じることだろう。最愛の者を失うと長期睡眠に入る「血統」が流れているのなら、母を事故で亡くした時、10歳のケイシー自身も長期睡眠に入っていたはずだ。ケイシーと母との間には、それを禁じるような軋轢はない。

そのような疑念を抱きながら、短編の隅々まで目を凝らすと、不意に真夏の砂浜のビーチチェアに寝そべりたくなる。目を細めて太陽を見つめながら、「伏線がいっぱいだ」と幸せそうに呟きたくなる。(2:31から)

 

 ケイシーの母はヨット事故で亡くなったとされている。しかし、30代らしき女性がヨット事故に遭う確率はどれくらいあるのだろう。競技者としてヨットレースに参加でもしていない限り、事故死は滅多になさそうだ。

ここでも何かが何かに置き換えられている。激昂したケイシーの父が、母に暴力を振るい死に至らしめた可能性を、読者は考慮に入れなければならないのではないだろうか。洋上のヨットはある種の密室だ。美貌の俳優による人気映画の影響もあって、事故を装ったヨット上の完全殺人は、読者が最も連想しやすいところ。

確かに短編の中には、父の人格にも母の人格にも、諍いを生みかねないような属性は、一切描かれていない。あるのは、愛と思いやりに満ちた理想的な家族像だ。しかしそれが逆に、「妻殺し」説を補強しているとも言えなくもない。アメリカ国内、ひょっとしたら世界的にも有名な精神科医の父の名誉を守るために、ケイシーがすっかり「クリーニング」した情報を「私」に語っているだけなのかもしれない。「『父による殺し』の子による殺し」とは、そういうことだ。

「妻殺し」説に立つと、ケイシーの母が亡くなった後、父が経験した長期睡眠がこのように描かれている理由もわかる。父は3週間ほとんど「予備的な死者」のような状態になって、「罪」に服役しているのである。

空気の淀んだ真っ暗な部屋の中で、まるで呪いをかけられた眠り姫みたいに、こんこんと眠っていたんだ。

その呪いは、あれほど母を愛していたのに、父を告発しなかった息子のケイシーにも及び、父の死に際して、より軽微な2週間ではあるものの、「罪の服役」たる長期睡眠に陥るよう誘うだろう。

しかし、大人になったケイシーは抵抗する。世間に洩れ出なかった「父による殺し」を、自分の中でも、抜かりなくもう一度殺そうとする。激昂して暴力行為に及びかねない自らの「血」を絶とうとする。ケイシーは生涯を通じて、妻も息子も持とうとしなかったのである。

ケイシーは、最後の台詞で「いつもの穏やかなスタイリッシュな微笑」を浮かべながらこう言う。

「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕のためにそんなに深く眠ってはくれない」

この最後の決め台詞は、小説を表面的に読む人にとっては、最愛の人を失った時に生じる「長期睡眠」は、愛され足りない自分の周囲には生まれようがない、とする自嘲めいた冗談に聞こえるだろう。

しかし、あの長期睡眠が「罪への服役」でもある可能性を読みとれる人にとっては、自分の「罪」への当然の報いとして、自ら「暴力の血」を完全に断ち切ったことを、暴力の犠牲者たる母へ伝えたがっている台詞のようにも読める。暴力の連鎖は終わった。ケイシーは血脈を絶つことによって、「父による殺し」を真の意味で殺し切ったのである。「穏やかな微笑」はそれに由来するのだろう。

ここまでケイシーの話をしてきたが、それが「私」の話でもあることを、数々の伏線が語っていることにお気づきだろうか。

 一読して、(2)(3)の長期睡眠の挿話と(1)の幽霊の挿話の有機的連関が乏しいと感じるかもしれない。よく読んでほしい。結び目はここにある。

(引用車註:母の死後、父が長期睡眠に入ったため)すごく怖かったことを覚えている。僕はあの広い屋敷の中で、まったくひとりぼっちで、世界中から見捨てられたように感じた。

 10歳のケイシーが置かれた状況は、留守番している屋敷で一人ぼっちとなった40代?の「私」の状況と酷似している。平仄を合わせるかのように、同じ構図を反復した理由は何だろう。「父による妻殺し」は10歳の「私」が体験したことだったのかもしれない。その状況証拠を、作者は短編の終わりに丁寧に書き込んでいる。

ときどきレキシントンの幽霊を思い出す。(…)でもそれらはみんなひどく遠い過去に、ひどく遠い場所で起こった出来事のように感じられる。ついこのあいだ経験したばかりのことなのに。

(…)考えてみればかなり奇妙な話であるはずなのに、おそらくはその遠さの故に、僕にはそれがちっとも奇妙なことに思えないのだ。

 暦の上では「ついこのあいだ」のことであっても、ケイシーの体験が「私」の体験の「置き換え」であれば、そこにある30年ほどの懸隔が時間的「遠さ」を感じさせ、アメリカと日本との地理的「遠さ」を感じさせ、「ちっとも奇妙でない」と感じさせるのも自然だろう。

もちろん、作中の「私」の父が妻殺しを犯したという意味ではない。それに置き換えられるような暴力にまつわる何がしかの置き換え前の「事実」があったと推測できるという意味である。「私」が短編の冒頭で「これは(…)実際に起こった」「事実」だと書いていることを思い出そう。

これまでの読みに、一定程度の信憑性を感じられた人には、この短編が「私」の魂の遍歴を描いた成長小説としても読めるはずだ。幼少時に父(作中では思わせぶりにも精神科医だ)から母への暴力で精神的外傷を被り、父と同じ暴力の血を絶つことによってそれを克服し、父を媒介として豊かな文化アーカイブ(その多くは死者たちによるものだろう)を彷徨い、遂には「幽霊」を感じられるまでに達した作家の魂の遍歴。この短さの中に語られているものは、あまりにも豊かだ。

Kよ、最高の短編を読ませてくれて、ありがとう。

 

 

実は、個人的な問題がまだ一つだけ残っている。同じ作家には数々の傑作長編があるのに、自分がなぜ「レキシントンの幽霊」に偏愛を寄せてしまうのか、という問いである。昨晩の記事とのつながりから、うっすらと想像はつくが、明確な答えは今の自分にはわからない。自分で考えていくしかない問題だろうから、答えを探して、いつか「置き換え」ながら文章にできたら、と考えている。