凱旋門ではなく敗戦湾

 昨晩話した平田篤胤を、自分は永らく本居宣長の高弟だと思い込んでいた。実際は平田篤胤の夢に本居宣長が現れて、入門を許すので自分の研究を継ぐようにとの指名があったのだとか。幽界から帰還した少年や、輪廻転生前の前世を憶えている少年を研究対象とした平田篤胤らしい逸話だ。

現代の目で見ると、しかし、本居宣長について最も読まれているのは小林秀雄の晩年の大作『本居宣長』になるだろう。そしてその小林秀雄につづく系譜となると、白洲正子になるのではないだろうか。能や骨董や寺社仏閣への造詣が深い随筆家で、小林秀雄の遠い親戚になる。

自らジャパノロジスト(日本研究者)を名乗るアレックス・カーは、戦時中の日本研究書であるルース・ベネディクトの『菊と刀』の向こうを張って、『犬と鬼』という日本文化を考察した著書を、2001年にアメリカで発表した。9.11世界同時多発テロが起こり、「ショック・ドクトリン」による米国愛国者法の制定を皮切りに、アメリカの民主主義が大きく黒に塗り潰され始めた年だった。

犬と鬼-知られざる日本の肖像-

犬と鬼-知られざる日本の肖像-

 

その『犬と鬼』の書名の由来となったのは、白洲正子の自宅に飾ってあった「犬馬難、鬼魅易」という韓非子の故事だったという。皇帝が宮廷画家に「描きやすいものは何で、描きにくいものは何か」と問うたのに対し、「普段目にしている犬のようなものは却って描きにくく、想像上の鬼のようなものの方が描きやすい」と答えたことに由来する。アレックス・カーは、バラマキ型の行政によって「鬼」にも似た異様な「箱もの」が乱立している陰で、日本人があまりにも慣れ親しんでいるせいで「「犬」=美しき日本の残像」が消えていくのが見えていないと訴える。いつか日本型資本主義に墓碑銘を付けるときが来るとすれば、それは「茹でガエル」だろうという断言で終わる『犬と鬼』には、傾聴すべきところが多い。

戦後社会に頻繁に出現した「犬」たちの表象は、アレックス・カーの言う通り、確かにその意味の見極めが難しく、見失いがちなものではある。しかし、その「犬」たちの表象が物言えぬ戦死者たちであるにちがいないという論陣を張って、『心臓の二つある犬』という小説を書いた自分は、戦後の文化的空間に刻まれた「犬」の痕跡を、「都市」と「死」を鍵言葉に追いかけることとなった。

多ジャンル濫読が癖なので、どの小説家に影響を受けたかと訊かれても、明確なひとりを返すことは難しい。先日自作を再読していて、小説から少し離れた分野になら、影響を受けたと素直に認めざるをえないほど魅惑された著作家がいることに気付いた。それに気づいたのは、小説のこの辺り。

 その旅は都市から都市へと続いた。死海近くの古代都市の街路では、アスファルト上 を駱駝が歩いていた。イランーパキスタン間の街道沿いには、砂漠からの砂塵に侵されて、 廃墟群となった真っ暗な宿場町があった。車窓の向こうを、ネオンサインが明滅しながら過ぎる。光の箱を積み上げたオフィスビルが過ぎる。東京の夜の嘘のような明るさが、世界のごく限られた地域、ごく限られた時代のものでしかないことを、路彦は夙に知悉していた。遥か昔から、この街路を浸しては立ち去っていった夜々の数限りなさを、目裏の闇の中で反芻する。人の顔の中に圧縮された人生が息づいているように、街路にも圧縮された歴史が折り畳まれている。旅人は本能的にそれを知覚している。というより、その圧縮された歴史に触れるためにこそ、人は街々を旅するのだろう。

 視点人物の「路彦」は、29歳の理系の心臓研究医なので、あまり凝った文化批評を心中で思い描くことはできない。それでも、このような都市論的な記述の背後に、『死者たちの都市へ』という直叙的な書名の著作も持つ「日本のベンヤミン田中純の仕事群があることは、見て取りやすいだろう。

いま手元に『都市の詩学』がある。「犬の街」と題された章だけを読んでも、見事な記述で埋め尽くされている。

都市の詩学―場所の記憶と徴候

都市の詩学―場所の記憶と徴候

 

  ベンヤミンの『パサージュ論』の「パサージュ」が通過儀礼の「通過」とも重なっていることを強調した後、田中純は、ベンヤミンがそこで凱旋門の「通過」についての研究を引用していることに注目する。

 凱旋門を潜る行進によって、軍司令官は市外での戦争行為に対してのみ有効だった戦争指揮権を失う一方、殺戮戦における卑劣な行為や犯罪といった汚辱が軍隊から拭い去られ(…)軍隊はこれによって、彼らの後を追って迫ってくる、戦場で惨殺された敵たちの亡霊から逃げ去ろうとするのである。

 凱旋門が兵士たちにとって再生の通過儀礼なら、遊歩者は「門=道を逆の意味で進んで行く」とベンヤミンは言う。それは「子宮内の世界へと入り込んでいく」こと、田中純の言葉で云えば「未生と死後が揺れるように浸透し合う時間へ入り込んでゆくことにほかならない」。

このようにパサージュ論の一部を噛み砕いて展開したのち、それが森山大道の写真家としてのキャリアの推移を、遡る形で綺麗に裏書きしていることを示されると、読者はすっかり痺れてしまう。

森山大道は自分が存在論的に「犬(≒遊歩者)」であることを隠していないが、彼による「目のまえの実際の風景が、次第にイメージの風景と重なり合い始め、もう何所を見ても、此処が生れた場所ではなかったかという奇妙な錯覚に捉われてしまう」という遊歩者の陶酔に似た発言を引用した後、田中純の卓越した批評精神は、森山大道の処女作へと遡って、《パントマイム》の写真群を読者に想起させる。何と、それはフォルマリン漬けの胎児を写した連作写真なのである。

 いま「卓越した」と書いたが、自分がよく使うこの語彙は、元を辿ればピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』に由来する。同じ語彙を使う思想家の「最終講義」を読んでいると、案の定、ブルデューが登場した。

街場の文体論 (文春文庫)

街場の文体論 (文春文庫)

 

 といっても「エクリチュール」についての解説が、管見の限りでは、ブルデューの「ハビトゥス」やフーコーの「ディスクール」に近いように感じられたので、自分の知識が不安になったところで、ブルデューが登場してほっとしたというだけの話。例えば「ディスクール」ひとつとっても、バンヴェニストフーコージュネットでは、それぞれかなり違う内容が指されている。「エクリチュール」という概念をブルデューに寄せたのは、内田樹の創見なのだろう。

その辺りのターミノロジー上の細かな異同は、実はどうでもいい。文体論というより、さらに広くさらに深く「書くことの魅惑や不思議」を学生向けに噛み砕いて語った本書は、人文系教養課程の必読書だと思う。

個人的に衝撃を受けたのは、終章の村上春樹論だった。内田樹がどこかで語っていた「村上春樹の世界性がどこに由来するか」という問いに自分も興味を引かれたので、上の記事で少しだけ考えてみた。『街場の文体論』を昨日読了して、そうか、「正解」はもう出ていたのか、と感じた。

内田樹は、村上春樹エルサレム賞受賞時のスピーチから、父にまつわる部分を抜き出している。

私の父は昨年、九十歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の姿が漂っているのを感じたように思います。父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。

さらに「中国行きのスロウ・ボート」で何の邪気もないまま中国人を傷つける青年を描き、『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハン事件を描いた村上春樹が、別にどういう個人的な意味があるわけでもなく、中華料理を一切食べられないとぴう事実を援用して、内田樹はこのような結論に至る。

 自身がトラウマ的経験をしている作家はいます。幼児期の精神外傷が人格の暗部を形成したという作家はいます。でも、自分が経験しなかった経験についての記憶の欠如、「言葉にできない経験」を遺贈された作家、「虚の経験」をおのれの根拠に抱え込んでしまった作家はもしかすると、あまりいないのかもしれない。それが村上春樹の世界性の根拠をなしてきたのではないかという気がします。

 これを読むまで、村上春樹について、自分はいくつかわからないことを抱えていて、(例えば長谷川四郎の「阿久正の話」に、かなり穿った読みを施してアパセティックなものを読み取ろうとする応接など)、膨大な数の「謎解き本」を一冊ずつ読んでいくつもりだった。ところが、このわずか数ページの村上春樹論が、その疑問のいくつかを溶解させるほどに、誤解や無理解を削ぎ落とす鋭い鉈のように働いて、春樹文学の核心への見通しをかなり透き通ったものにしてくれたように感じられた。いろいろあって、読むのを後回しにしていたことを後悔している。

鍵言葉は「中国からの復員兵」だったのか。気付かなかった。

古代ローマの戦勝軍は、凱旋門をくぐることで「禊」を得て「再生」した。大陸や半島や南方に散っていた敗残の日本兵たちは、どこをくぐったのだろうか。

四国の地方都市育ちの自分にとって、「ここが生まれた場所ではなかったかという奇妙な錯覚に捉われてしまう」のは、大陸からの引き揚げ港の舞鶴だ。いや、正確には、戸籍上の本籍地も舞鶴市のままで、わずか1歳のときに四国へ移り住んだせいで、あの港町で生きた実感がないというだけのことだ。

それでも、父方の祖父だけでなく、母方の祖父も舞鶴市出身だったせいもあり、幼少の頃から神戸行きのフェリーに乗って、年に数回舞鶴へ帰郷したものだ。現在では、舞鶴引揚記念館が整備されていて、戦地へ出征して帰らない息子を30年以上待ち続けた『岸壁の母』の資料が展示されている。涙脆いせいで、現地では涙腺を刺激されてしまった。

母方の祖父は、元々は滋賀の出身だったが、戦後になって舞鶴市に住居を定めたのだと聞いた。その理由が祖父が亡くなって何年も経った今、わかるような気がしている。

祖父は海軍の水兵で巡洋艦に乗り組み、その昔でいう信号兵として、手旗信号の発信を担当していたのだと聞いた。マストに登る機会も少なからずあったのだろう。「大きい船に乗ったら、地球が本当にまるいのがわかるぞ」と、小学生の私に水平線のまるみを教えようとしたこともあった。祖父の乗船した巡洋艦は撃沈され、海に投げ出されて数日泳いだという。何度も自殺しようと心に決めて海へ深く潜ったが、どうしても身体がぷかりと浮かんで死ねなかったらしい。フィリピンのマニラで捕虜になったと聞いた。

舞鶴の思い出は、盆正月が来るたびに、将棋盤を囲んで祖父と対戦したこと。小学校低学年の間は勝てなかったが、内藤国雄の空中戦法を本で学んだ辺りから、私の連戦連勝となった。祖父は小学生の孫との対局でも、気を抜かずに真剣に挑んできて、時々気合いを入れるために「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」と鼻歌を歌った。その曲が「蘇州夜曲」と同じく西條八十の作詞で、内藤国雄の師匠をモデルにした「王将」だと知ったのは、ずっと後になってからのことだ。

自分の小学生時代は、今から30年以上前。覚えていることはそれほど多くないが、私が「飛車」や「桂馬」が好きだと言ったのに対して、祖父が好きな駒は「歩」だと言ったことはよく憶えている。あんな弱い駒がどうして好きなのかと訊き返したような憶えもある。小学生は莫迦だ。何もわかっていないのだ。

戦後、舞鶴市で裸一貫で生き直すと決め、祖母と結婚し、私の母を設けた後も、高等小学校卒の祖父の苦労は絶えなかったらしい。八百屋を始めたがうまくいかず、苦手な勉強を積み重ねて不動産屋に転身した。やがて懸命な働きが実って、東舞鶴一番の取引をする不動産屋になり、テレビや自動車を、舞鶴ではかなり早い時期に購入できるまでになったそうだ。

現在も舞鶴市には自衛隊の海軍基地がある。祖父が舞鶴を第二の故郷に選んだのは、軍艦が見られる港町だったからなのだと思う。海軍だったので「歩兵」は存在しないが、「歩」に偏愛を寄せたのは、海軍の位階で底辺にいた水兵の自分をなぞらえていたからだろう。その存在が「吹けば飛ぶよな将棋の駒」のようだと感じていたかはわからないにしても。

舞鶴湾も含め、リアス式海岸の広がる若狭湾は、霧の発生しやすい海域でもある。

お天気Q&A|気象予報士・伊東譲司のオモシロ天気塾

舞鶴から見て、西には日本三景天橋立があり、東には高浜、大飯、美浜、敦賀の「原発銀座」が広がっている。「信号兵」にとって霧は天敵だ。同じ若狭湾沿岸に、祖父とほぼ同い年の「伝説」の政治家がいたことを最近知った。祖父が彼のような人間のことをどう考えていたのか、訊いておけば良かった。誰であれ、返答は同じようなものになるとも思われるが。

大陸の戦死者たちが遂に辿りつくことができず、敗残の日本兵のみが帰郷してきた若狭湾には、今や、凱旋門よりも遥かに巨大で、遥かに数の多い、十数基の原発が立ち並んでいる。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 

 寺山修司のこの歌にあるような逡巡を憶えなかった戦死者は、むしろ稀なのではないだろうか。霧にさえぎられて見えなくなっているのは、日本が独立国家ではなく従属国家であるという厳然たる事実だ。日米原子力協定がある限り、日本人は国内の原子力発電をどうするかを主体的に選択することすらできない。

 

 凱旋門ではなく敗戦湾。

霧はあまりにも深いが、一本のマッチの火を蝋燭に点ずれば、その蝋燭の火を、もう一人の蝋燭に灯すことができる。そしてまた、もう一人…。

そのとき燭台となるべき書物は、誰にでも読めるわかりやすさで属国の病巣の根源を浮かび上がらせた、この一冊だろう。前書きには「3・11後、日本人は大きな謎を解くための旅をはじめた」との記述もある。そう、私見では3.11は5度目の敗戦だった。原子力関係の技術者の中には、次に過酷事故の可能性が高いのは「美浜」だとの声も聞かれる。さあ、旅に出よう。日本の圧縮された被支配の歴史を学び、真の独立を勝ち取るための旅を始めよう。

次の原発事故が起こってはじめて、日本が変わろうとするのを待ちたいという人以外は。