和菓子ドラの箱の底には

黄金週間に広島へ一泊二日の旅行へ出かけた。久々にゆっくり読書ができるかなと期待していたが、当日早朝までこのブログを書いていて、睡眠不足のまま長距離ドライブ。広島での一泊は睡眠調整のようなものだった。ほとんど読んだり調べたりしないまま矢継ぎ早に書くのは、人生初の経験だ。良いものが書けるはずないとも思うが、いつか加筆修正ができる日が来ることを願って、今日も書き飛ばそうと思う。

広島の夜の話だった。ラウンジで普段飲まない酒を舐めるように飲んでいると、誰かがフランス語を話しているのを、久々に聞いた。広島は欧米系の外国人にとても人気のある街だ。

フランスの作家と云えば、これはもう誰もがマルセル・プルーストを筆頭に挙げるほかない。プルーストの独訳をしたベンヤミンが「翻訳に必要なもの以外は、プルーストを一行も読みたくない。さもないと、自分がずぶずぶに惑溺してしまい、そのせいで一行も書けなくなるだろうから」とその忘我の魅惑を語ったり、収監されていたジュネが『花咲く乙女たちのかげに』を読んで陋巷のプルーストたらんとして処女作『花のノートルダム』を書いたり、ベケットやウルフにも似たような挿話があるのはわかるにしても、日本研究者のアメリカ人アレックス・カーまでがまえがきにプルーストを引用して、その支持者の列に加わると、なかなかの壮観というほかない。

 自分もちょっとだけプルーストを引用したことがあるが、あの歴史的巨編を正面から受け止めることは、並大抵の力技ではできない。世に出るプルースト関連本のかなり多くが、美食や絵画や音楽やに話題を限定しているのも、そのせいだろう。 

 上記の2005年の記事で言及したのは辻口博啓の自由が丘のケーキだった。

文学史上にはかつて、第一次戦後派、第二次戦後派、第三の新人内向の世代、というグルーピングがあり、その後は消失したが、つまるところ、それらは戦争を「原点」として、戦争からの時間的懸隔が小説にどのように波及したかが基準になっていたように思う。

パティシエにも世代論的なグルーピングがあることを最近知った。1946年生まれのブールミッシュ創立者の吉田菊次郎が第一世代、フランスのコンクールで大活躍をした辻口博啓(67年生)や鎧塚俊彦(65年生)が第二世代、76~80年生の第三世代もすでにホテルや独立店の第一線で活躍している。

その第三世代のパティシェがアルザス地方の伝統的なケーキに現代的解釈を加えたのが、こちらの「フォレ・ノワール・モデルヌ」(浅見欣則)。

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la foret noir - Google 検索

しばしばホールケーキで作られる現地のケーキ画像と比べてみればわかるが、形象上の洗練のされように垢ぬけた美しさがある。洋酒が薄くしてあるのは残念だが、こんなケーキにフォークを伸ばしながら、そのケーキ名の語源「暗い森」に似たベルトルッチの大好きな映画を見られたら、どんなに幸福かと思う。アルザス地方は、豊かな森や自然の中で神託を聞いて旅立ったジャンヌ・ダルクの生誕地ともかなり近い。

暗殺の森 Blu-ray

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 「暗い森」のような存在を都市の中に置き直せば、「暗い建築」になるだろう。その建築が暗いのは、1925年の大正最終年の古い設計であり、かつ石造りであるせいで、採光が十分でないことに由来するものではない。その建築の暗さは、原爆ドームと同じく、被爆の歴史を建物が記憶しているからだ。

商業施設には不向きな戦前の洋風建築を、広島のランドマークとして生き残らせるために、買い取って小ぶりなデパートにまで発展させたパン屋が好きで、広島を訪れたら必ず寄ることにしている。

地元に不可欠な記憶資源を生かしつづけようとする志もさることながら、客がトングでパンをつまみあげてレジへ運ぶ、あの典型的なパン屋の販売スタイルを確立した革新性や、7年かけて開発したパン生地の冷凍技術の特許を、パン文化の普及のために惜しげもなくライバルのパン屋に公開した社会貢献意欲にも、格別な素晴らしさがあると感じる。

しかし、不味い話を聞いてしまった。アンデルセンではなく教科書検定の話だ。

 小学生向けの道徳の教科書で、「パン屋」では「郷土愛」を教えるのに不十分だとの検定意見がつき、教科書会社は「和菓子屋」に置き換えたという。

 さっそくネット上では、銭形警部が「待てー、ル和菓子、ル和菓子!」と猛然と走っていく姿が報告されたらしい。「さすがは昭和一桁、仕事熱心だこと」。

こちらの冗談はこれくらいにするので、そちらの冗談は本当にもういい加減にしてくれないかと叫ぶように呟いてしまう。

1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本が独立した後も、子供たちの給食は「米」から「パン」に置き換えられたままだった。表では、「白米は発癌性があって健康によくない」などのプロパガンダが流され、キッチン・カーという野外調理専用車に全国キャラバンをさせて、日本人の食を欧米型のものに置き換える宣伝工作が行われた。裏では、自民党お家芸の裏金まみれ。世襲好きの或る政治家の政治と金について、アメリカ側にこんな記録が残っているという。

小麦戦略を裏で積極的に推し進めたアメリカ西部小麦連合会のリチャード・バウム(前出)はアメリカ農務省に宛てた手紙(1955年10月)で河野のことを「農林大臣の河野一郎氏は、日本一の政治力を持つ男として知られ、まったく冷酷で、そして大変野心家であるとの風評が高い。信頼すべき実業家の話によれば、河野氏は自分の地位を利用しては、彼個人のふところや自民党に入る利得を稼ぐのが常であるという」と評している。

「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活

「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活

 

当時はCIAから自民党への資金提供が続いていた時期だ。間が悪いことに、そのような売国奴の暗躍がアメリカの公文書で公開されそうになると、90年代に日本政府が公開阻止を働きかけ、そう働きかけたことまで、信憑性の高い情報源が証言してしまった。パンドラの箱から災厄はあふれだしたが、神話の通り、底には希望が残っていた。

日本がどのようにして国策として食の欧米化を推進していったかは、鈴木猛夫『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』が最大の文献のようだ。ネット上でもかなりの部分が読めるのがありがたい。

通読して勉強になったのは、熾烈な「脚気原因論*1」や「胚芽米論争」の果てに、戦後すぐ、不自然な経緯で「白米」が法定米となったことである。後者で論争となった「胚芽米」や「七分づき米」と比べて、実は「白米」は健康にかなり有害で、国民食として日本政府が推奨すべき理由はない。というか、だからこそより健康的な国民食を求めて「胚芽米論争」は起こったのだった。日本の法定米を栄養不足の「白米」にすることによって、パン(給)食の推進を有利にする狙いがあったにちがいない。人間は子供のときの方が味蕾細胞が多いので、12歳までに食べたものを一生食べつづけるという。アメリカによる占領政策の狡知よ。

日米間の政治的動向はともかく、本当に健康に良い食事は何なのかという問いが、心の中で大きくなってきた人もいるかもしれない。

二つの有力な回答がある。

一つは、近藤正二『日本の長寿村・短命村』で、白米を大食する村は短命であり、いわゆる「まごわやさしい」食材を摂取する村が長命であることを、膨大なフィールドワークによって実証している。もう一つは、マクガバン報告。「精白しない殻類を主食とし、季節の野菜や海草や小魚副食とする」のが最も健康に良いとするアメリカの報告書である。この両者の主張に共通性があることが説得力を高めている。

一方で、西欧化した食生活が健康に良いとの説得力ある報告は見当たらない。なぜ日本の食文化は拙速に欧米化されねばならなかったのか。

食の安全保障の観点から見ても、パン食の原料の90%を輸入に頼らねばならない一方、衰退を余儀なくされた米農家の平均年齢が、とうとう70歳(!)に到達してしまった日本の現状は、惨憺たるものというほかないだろう。

「郷土愛」のまったくない自由民CIA党の売国奴たちによって、日本の主食が「米」から「パン」に置き換えられた史実を前にして、同じ党による政権の一端が、道徳の教科書の「パン屋」を「和菓子屋に」置き換えよとは、笑止! 不正選挙が一掃されさえすれば、売国政治家は愛国政治家に確実に置き換えられるだろうとだけは予言しておきたい。

広島のアンデルセンの話をしていたのに、莫迦莫迦しいニュースに言及せざるをえなくなって、何だか後味が悪い。

口直しに甘いものを食べたい。一流の美味な菓子を口にするなら、中四国では、同じ広島アンデルセンの中にある*2ジャン=ポール・エヴァンのチョコレートが絶品だ。パティシエ本では必ず名前の挙がるショコラティエの店で、高級ブティックの趣きがあるチョコレート店。風味の高いホット・チョコレートも飲める。

フランスの文豪プルーストが通った「アンジェリーナ」は、あのモンブラン発祥のパリの老舗カフェ。松山三越の地下に支店がある。美味だが糖度がかなり高いので、初めての人には半分のデミサイズを勧めたい

このブログもいつのまにか50エントリを越えた。いろいろな制約があって、制約の中でしか書けない文章になってしまっているが、もし読んでくれている人々がいたら嬉しい。Donnez moi un gateau.

*1:ちなみに、軍医でもあった森鴎外は国民病の脚気の原因が細菌であるとの謬説を支持した

*2:2016年1月に建物の改装のため移転したようです