ザギン・シースー・クリス

「どうやって文章に落ちをつけるか」「どうやって文章をおしまいにするか」。

このようなブログの記事でも、最終着地点をどこへ持っていくかには結構苦労してしまう。「最後の一行が決まらないと書き出せない」とは意識家の三島由紀夫の愛用句だったが、もとより浅学菲才の身、最近は急いで書いていることもあって、話にどんな落ちをつけるか、記事にどんなタイトルをつけるかは、書きながら考えることが多い。

或る私大に通っていた頃、新設の劇団が旗揚げ公演をすると聞いて、観に行ったことがあった。「マングローブ」というタイトルで、芝居の始まりと終わりに女優が出てきて、ちょっとしたモダンダンス的な動きとともに、マングローブに関する台詞をモノローグで語っていた。なぜそんな詳細を語りたがるかといえば、のちの日本を代表する俳優の東京初舞台に立ち会ったことを光栄に思う気持ちからだ。

その劇場には「双数姉妹」という劇団もあって、自分はそちらの劇団の方が好きだった。かといって、自分の「双子の姉妹」好きは、その劇団名に由来したわけでもなさそうだ。

ふたりっ子』でお茶の間の人気者になったマナカナ姉妹の一方が、もう一方と街角で待ち合わせていて、ある方角を向いたときに、相手が現れてあっと大喜びで手を振ったら、相手も大喜びで手を振ってきて、その相手が鏡の中の自分だと気づくまでに数秒かかった、なんていう話には胸がキュンとしてしまう。双子の姉妹という存在に、どこか奇跡を感じてしまう。「ザギンでシースー」な感じの業界関係者の毒には、どうか染まらないでいてほしい。

知人のテレビ関係者からは、あんな言葉遣いはしたことがないとも聞いた。しかし、ビート族と呼ばれる若者たちは、確かにあのような言葉遣いをしたらしい。

ビートニクといえば、ケルアック、ギンズバーグバロウズの三人が通り相場で、私も小説の主人公を旅好きの「路彦」に設定したために、まずはこの三人を探査した。バロウズの代表作については、この記事で少し言及した。

そのバロウズも含めてビートニクの文学者たちには、自分が詩に求める繊細さが不足している気がして、どうもぴんと来なかったので、最終的には森山大道の写真集を携えて旅をする男として描き出した。

彼の身体の緊張が解けた。埠頭のコンクリート上を膝行すると、魔法めいた意外さで出現した自分のトランクの留め金を外して開いた。トランクの中には、一泊分の着替え、歯ブラシセット、一冊の本が整然と収まっている。本を手に取って開く。それは小B6版の小ぶりな路上写真集で、詩のわからない彼が、この前衛的な写真群に漂っている放浪のセンチメントにはすっかりいかれてしまって、若い頃あちこちへ旅するたびに、肌身離さず携行した一冊である。果てしない草原の消失店へ伸びる一本道が映っている。夜の闇の中で炎上する自動車が映っている。そして、荒涼たる夜の海の暗い波肌。…… 

ビートニク自体はアメリカ中心の文化現象で、日本に生息していたビート詩人や作家の話はあまり耳にしない。ギンズバーグばりの詩の朗読を、コルトレーンに捧げた白石かずこが、それに最も近い文学者だと言えそうだ。

それがビートニクなのかどうかはもはや不分明だが、コルトレーンに心酔した純文学小説と云えば、中上健次の『十九歳のジェイコブ』となるだろう。ジャズやドラッグ(睡眠薬ハイミナールなどに)まみれた若者たちに満ちていて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に近縁性のある世界が描かれている。ついでに付記すれば、村上龍の小説に「ケンジ」という登場人物が出現したときは、中上健次がどのようにどの程度に投影されているかを疑わなければならない。この疑似ブラザーの関係には要注意だ。

同じくモダン・ジャズを大音量で背景に流し、ドラッグでラリった若者たちを描いた傑作短編がある。三島由紀夫の『月』と『葡萄パン』だ。後者は英訳までされている。

 ジャックは二十二歳で、透明な結晶体だった。自分を透明人間にしてしまおう、とつねづね思っていた。

 英語が得意で、アルバイトにSFの翻訳をしていて、自殺未遂の経験があり、痩せて、美しい白い象牙づくりの顔をしていた。どんなに殴ったって、反応を示しそうもない顔だから、誰も殴りはしなかった。
「あいつに向って、ぴゅっと駆け出していってぶつかったらよ、知らない間にあいつの体を通り抜けちゃってるような気がするぜ、ほんと」
 とモダン・ジャズの店に来ていた一人がジャックを評した。

 この「葡萄パン」からの引用部分が、村上春樹に似ているとの指摘もネット上にはある。しかし、短編全体を読めば似ても似つかないもので、同じ「ビート族」(三島がそう命名したらしい)を扱った「月」は、個人的に三島文学の中で最も好きな短編だ。書き出しからして、持っている本が震えてしまうほど可笑しい。

「みんなうるさい。藷ばっかりだ、奴らは。三人で教会へ呑みに行こう。しんみりとな」

 とハイミナーラが言った。

「しんしんみりみりとまいりましょう」

 とキー子が言った。

「蝋燭を買わなくちゃ」

とピータアが言った。

「ハイミナーラ」とは、トリップ目的でビート族が濫用していた睡眠薬の名前が渾名になった青年のこと。三人目の「ピータア」のモデルになった人物が、三島との交流を記した本を見つけて、今朝ひといきに読了した。

呵呵大将: 我が友、三島由紀夫

呵呵大将: 我が友、三島由紀夫

 

 ビート・カフェで大音量のモダン・ジャズに身体を揺らしながら、初対面のピータアは三島由紀夫にこんな文学談義をぶつけたという。

ピエール・ガスカールの『種子』という小説(…)が見事な日本語になっていたのは確かで、洒落のめした日常の詩のような感じを受けたんです。あの頃、大江健三郎の『飼育』や『芽むしり仔撃ち』を読んだ時も(…)同じ翻訳日本語調の香りを感じたんだよなあ。

 おっと、吃驚。危険ドラッグでラリっている現代の巷のジャンキーは絶対に知らないexcellentな教養だ。自分は不幸にして、初期大江へのガスカールからの影響を知っている人にはほとんど会ったことがない。それは良いとしても、『取り替え子』以降も続々と凄い小説を書いているのに、大江健三郎がこの国の人々にあまり読まれていないことの不幸は、看過しがたいなと感じる。(ちなみに大江健三郎にも、ジャズのあり方に「抵抗性」を読み取った好エッセイがある)。

『呵呵大将』の中には、何人かの往時の芸能人の逸話がイニシャルで出てきた。純然たる勘でいうと、Kという美しい女優はこの人だったのではないだろうか。(『月曜日のユカ』で相手役を務めた若いハンサム男優は、現在「ねじねじ親分」の異名をとるあの人)。 

さて、文学に話を戻そう。純文学の衰退が叫ばれて久しい昨今、純文学における名台詞をリストアップして、どんどん日常生活で使っていく運動を展開していかなければならないとの責任感に、勝手に自分は駆られている。

 以前、太宰治の『斜陽』にある台詞のやり取りの一部が、日常生活で何を食べようか提案するときに使えることをどこかに書いた。

「しくじった。惚れちゃった」

とその人は言って、笑った。(…)

「しくじった」とその男は、また一言った。「行くところまで行くか」

「キザですわ」

 ひとこと、「ピザですわ」と言い換えればよいだけなので、誰でも応用できるほど簡単だが、応用できる場面が少なすぎるのが難点だ。

 三島由紀夫の最高傑作『春の雪』からは、聡子との禁断の愛に敗れた清顕が、病死していく間際、親友の本田に輪廻転生を予言する名高い台詞をノミネートさせたい。

今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で。

 これは、応用できる場面が多いので問題なさそうに見えるが、応用によって生じる興趣やおかしみが全くないことが障害になりそうだ。

例えば、妻に「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。自宅の天井の下で」といったところで、妻は無表情に「そうでしょうね」と呟くだけだろう。

 そこでお勧めしたいのが「月」の中に出てくるこの台詞。黒幕を気取ったハイミナーラが「虹のような思考」をめぐらせて、年下の男女2人に愛し合う恋人ごっこをさせようとして失敗したときの言葉。

「そこで接吻(スーキ)してごらん」

 とハイミナーラが言った。

 キー子は目をつぶり、唇をうすくあけ、わざとらしく胸を大きく波打たせていた。ピータアは彼女が床の上にさしのべている手に触れてそれをそっと握った。(…)

「スーキもできないのか。純真なもんだな。十九の娘と十八の小僧が、ダンモのズージャの伴奏でよ、何て可愛らしいんだろう、とりあった手が慄えてさ」

 ダンモの… ズ-ジャ… 三島由紀夫という不世出の憂国の作家の偶像を打ち破るような破壊力が、その逆さま言葉にあるような気がして、一瞬ではあるものの、くらっとよろめいてしまう。尤も、三島は几帳面に行ったビート族への取材を、小説に律儀に反映させているだけだ。「藷とは、あの馬鈴薯と同じ藷か」とか「どうして髙木をギイタカにように逆さまに呼ぶのか」とか、取材はビート族の生きざまの細部にまで行き渡ったらしい。

ただ、このハイミナーラの台詞が、「純文学名台詞日常化運動」において、決定的な切り札になることは間違いないだろう。「お寿司を食べに行こう」と言って断られたら、「何だよ、スーシーにも行けないのか、ダンモのズージャの伴奏でよ」と切り返せばいい。応用編として「ちょっと本を取って」と頼んで取ってもらえなかったら、「何だよ、ホトチョもできないのか、ダンモのズージャの伴奏でよ」と捨て台詞を吐けば、せいせいするだろう。もはや、その場面の背景でモダン・ジャズが鳴っているかどうかは、さしたる問題ではない。

と、ここで冒頭の問いに逢着してしまった。「どうやって文章に落ちをつけるか」「どうやって文章をおしまいにするか」。どうしよう。

無論、考えがまったくないわけではない。 さしあたり、今晩のこの記事でだけ、やたら無理をして笑いを取りに行こうとしたことの excuse として、「これを読んでいるはずはないけれど、どこかの仲良し姉妹を何とかして一瞬でも笑わせたくて」と書く。その後に、「月」の中で登場人物たちが濫用していた「スリク(=クスリ=ドラッグ)」に彼らが病死や入院に至るほどの「クリス(=リスク)」があったことに触れて、「ザギン・シースー・クリス」を示唆する資料を示せばよいだろう。取扱いにかなりの機微を要する情報だが、わかりにくい隠語で示唆しているだけなので、どの方面へも決定的な傷をもたらすことはないはずだ。

いくら、海洋汚染に鈍感な人でも、これを見たら認識が変わる!太平洋・日本海・オホーツク全てでSr-90検出。特に東京湾の放射能汚染状況はすさまじい!【海上保安庁・日本近海放射能調査結果26年3月】

しかし、どう書けばよいのか。わからないことだらけだ。

さらに、「ザギン・シースー」的な伝統物を愛する種族に絡めて、歌舞伎の新作の演目を最後に書いたのが三島由紀夫であることを書き加えた方が良いのか、それとも必要ないのか。「ザギン・シースー・クリス」に絡めて、アメリカのビートニクが日本文化へ影響したのとは逆方向に、「クリス」という名にちなんで、日本文化がアメリカ人へ影響したというベクトルを引けば良いのか、必要ないのか。

さらには、必ずしも明確でない因果関係をもとに、他人の人生に容喙するつもりはまったくないことを表明しつつ、ただ、たとえ一方が発症平均年齢57.4才の乳癌に30代前半で罹患したとしても、誰よりも仲良しで知られる二人姉妹が、少なくとも二人の引退までは二人姉妹でありつづけることを見届けたいという傍観者の勝手な祈りを、実はこの文章を書き始めた時からずっと抱いていたことを告白すれば、心が「落ちつく」のか、文章をお「しまい」にできるのかどうか。

 

 

 

(この記事を書いて7日後に、妹さんが亡くなりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)。