Sky is the Limit

 瞠ける蒼き瞳を縫い閉じにいくごとく飛ぶセスナ機一機

 半年くらいの自分の短歌キャリアの中で、記憶している自作の歌はこれくらいだ。興味を持ってもらえるか不安だが、こんなわずか一首の学生短歌の背景にも、先行テクストが2つあるのが、作者の自分にはわかってしまう。

ひとつは、寺山修司の『田園に死す』にある一首。

地平線縫い閉じむため針箱に 姉がかくしておきし絹針

「瞠ける蒼き瞳」には、魚眼レンズで見たときの青空をイメージさせる狙いがある。このように瞳が自在に伸縮する発想は、「瞳」を主題にした詩を多く持つシュルレアリスムの詩人ポール・エリュアールに負うところがありそうだ。

それらを引き算しても残る、自分にとって固有のものがその歌には二つ隠れているような気がする。ひとつは「縫い閉じられた瞳」という身体毀損のイメージ。たぶんそれには、クリステヴァがよく論じる母体切り離しによる幼児の抑鬱状態が関係しているのだろう。

そして、もう一つは「ベクトルの垂直性」。自分は第二次ベビーブームの真っ只中に生まれた団塊ジュニア世代の一員で、ご丁寧にも10歳まで本当に大学教員向け官舎で育ち、しかもエレベーターなしの5階に住んでいた。何度高所から転落する夢を見たかしれない。(どこまで関係あるか自身はないけれど、このブログでも随分「垂直移動筐体=エレベーター」を主題にして文章を書いた)。

国や時代はまったく異なるが、フランスの低所得者層向けの集合住宅で育った移民の若者たちの閉塞感を描いた『憎しみ』が、冒頭に、集合住宅の屋上から?何かが垂直落下したあとに、路上の車がボッと燃えあがる場面を置いているのは、感覚的によくわかる。団地育ちのせいで、水平方向だけでなく垂直方向への空間感覚が発達していて、当然そこでは重力とどう戦うか、つまりは「転落への抵抗」が最初に刷り込まれる取り組み課題となる。あの映画も同じだったと思う。

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歌の中では、横たわっている「私」が真上に広がる青空を垂直に見上げつつ、その青空をセスナ機が飛行機雲を吐きながら横切ろうとしている風景と、自分の瞳が縫い閉じられる瞬間に針と糸とが視野を横切る「最後の風景」とが、重ね合わされている。

と、こんなことをふと思い出したのは、昨晩東温市の雪交じりの田園風景を、魚眼レンズ効果を使って撮影した写真群を見たから。15歳の夏、東温市にある大学病院に長期入院していたのを思い出したのだ。入院している子供たちは難病の子供ばかりで、自分も20代までの生命との事実上の宣告をもらっていた。レギュラーだったもののサッカー部の最後の大会には出場できず、試合当日には、サッカーのユニホームを着て病床で横たわっていた。

小児科で15歳と言えば、最年長の餓鬼大将だ。「手下たち」を引き連れて一番熱中した遊びは、紙飛行機を病院の屋上から飛ばすこと。紙飛行機と云っても、長方形の紙を折り畳んで数秒でできるものではなく、型紙を切り抜いてボンドで張り合わせて、ゴムカタパルトという発射装置で飛ばす高性能紙飛行機のことだ。

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 大学病院には精神科もあったので、当然屋上には自殺を防止するため高い防護柵が張りめぐらされていた。これでは、屋上から紙飛行機を飛ばすことはできない。屋上の一角、大人がやっとよじ登れるような梯子があるのを見つけて、屋上屋を架すがごとく建っている給水塔によじ登った。登ってみると、そこには柵も何もない。強風が吹けば転落死するかもしれない。そう思うと足が竦んだ。震える足で地面をしっかり踏みしめて、青空へ向けて紙飛行機を飛ばした。

真下へ墜落するもの紙飛行機もあれば、大学病院の敷地外まではるばる飛んでいく紙飛行機もあった。稀に、イカルスのように上昇気流に乗って、あれよあれよという間に太陽の周りにある眩しい光域へと昇っていき、遠ざかる機影がそのまま光の中へと溶け入ってしまうこともあった。「手下たち」は高所の恐怖でうずくまりながらも、口々に歓声を上げた。闘病仲間たちが次々に死んでいくので、自分たちもこの病院の敷地から永遠に出られないかもしれない可能性に、誰もが怯えていた。

恐怖と希望と。太陽へ溶け入って消えていった紙飛行機を、そんな相反する感情を抱いて、自分も含めた難病の子供たちは見つめていたように思う。

現代の子供たちが夢中になって遊ぶとしたら、もはや紙飛行機ではなく、ドローンということになるのだろう。このドローンという新しい革命的ガジェットをめぐって、(裏)社会の動きから機敏にその意図を読み取って、「不正選挙の追及や原発事故現場の撮影をさせないために、まもなくドローンを使った「事故」か「事件」を裏社会が意図的に引き起こす」と予言して、見事に的中させてしまった活動家がいたのを思い出した。(引用者が引用部分の一部を分かりやすくしました)。

 もしドローン関係の事件、工作が起きたら「開票所でドローンを飛ばさせない為、真実を追求させない為の検閲である!」と叫びましょう。

上記の記事が書かれたのが、2015年4月13日。その直後の4月22日に、首相官邸の屋上にドローンが落下したので、「予言」は当たったことになる。ぞの事件を契機に、ドローン規制があっという間に制定されたのは周知の通りだ。首相官邸落下事件が自作自演だったかどうかについては、数多く投稿されたブログ記事を自分の目で確認してほしい。彼のような「裏真実界」の闘士のそれぞれにおいて、部分的に意見が一致しないことはよくあるが、このドローン事件への彼の鋭い解釈については、ほぼ完全に賛成できる。

ドローン | さゆふらっとまうんどのHP ブログ

社会はこのようにしてmanipulateされている。そして、それは1%グローバリストたちにとって「経済合理性」を満たした「操作」なので、実は超能力なしで予言できるほど読み取り可能なものなのである。必要なのは、情報リテラシーと経験だけだ。

少年時代、恐怖と希望を抱きながら、紙飛行機が太陽へ溶け入って消えるのを見ていたのを思い出すたびに、あの眩しすぎる機影と二重写しになる小説がある。

リリー、あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかじゃないぞ、あの町には人なんか住んでいないよ、あれは鳥さ。わからないのか?(…)鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ。リリー、どこにいるんだ、一緒に鳥を殺してくれ、リリー、何も見えないよリリー、何も見えないんだ。 

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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 ドラッグの幻覚症状の中で溢れてくる言葉。「この『鳥』をどのように解釈しますか?」という問いに、どうしても誘われてしまう小説の最終場面の一部だ。

読み直さずにこの場面だけで判断すると、おそらく「鳥」は「幻覚」か「現実」のどちらかで、前者なら、ドラッグは快美感だけでなく恐怖感も同時に増長させるので、この場面では幻覚によって拡大した恐怖の方に囚われていると解釈できる。後者なら、ドラッグによる変性体験でとうとう「真実」に到達したと感じていたのに、トリップからの醒め際、その「真実」を覆い隠すように、凡庸で鈍感な「現実」が自分の感覚に分厚くまとわりついてくる失寵感となるだろう。

後者の解釈に沿ってもう一歩踏み込むと、トリップ体験のさなかでは、しばしば知覚する複数の対象の分別が利かなくなって、複数の対象が溶融してしまうことがある。ここで、主人公のリュウにとって、街を覆うかのように感じられる鳥は、SFじみた巨大な翼をもっているわけではない。ここでは飛び去りやすい「鳥」と、飛び去った後の「鳥の不在」が溶融してしまっているのである。というか、より正確には、ドラッグの醒め際、あるい醒め際のバッドトリップ状態で、それに深く関わる「鳥の不在」を、すでに飛び去ってしまった「鳥」としか形容できないのだろう。試しに、上記の引用部分に頻出する「鳥」を、すべて「鳥の不在」と言い換えると、論旨はあっけないほどわかりやすく伝わってくる。「鳥の不在」は、リュウが「鳥」に仮託した何物かを完全に排除して覆い尽くす鈍重な現実なのである。

そして、その「鳥の不在」そのものが、卓抜なタイトル「限りなく透明に近いブルー」によってパラフレーズされていることにも、注意を喚起しておきたい。「鳥」が飛び去ったあとの「鳥の不在」=「現実」は、ほぼ完全に透明だ。ただ、ほとんど見極めがつかないほどの微かな「鳥」の残像を除いて。

いま「鳥」と「鳥の不在」を反転させて、入れ替えてみた。「限りなく透明に近いブルー」を入れ替えた「限りなくブルーに近い透明」は、青空そのものだろう。

裏社会の自作自演工作によってドローン規制が敷かれ、イギリスで開票所が撮影されたときのように、スコットランド独立投票の不正を撮影することは、少し難しくなった。しかし、自撮り棒で机上の票が読み取れるように撮影確度を確保してもいい。他にも有効な方法はいくつかありそうだ。

青空そのものをイメージしながら、Sky is the Limit と呟いておきたい。人々がそれを真剣に願い、真剣に考え、真剣に実践するなら、可能性がはばたく高度は無限だと信じて。