夜明け前の路上は雨

文章を書くのに「ダンモのズージャの伴奏」が欲しくて、Five Corners Quintetを聴いていた。より正確に云えば、FCQはモダン・ジャスの精髄を随所に生かしたクラブ・ジャズの範疇に入るアーティストだ。

その伴奏を背後に聞きながら書くとしたら、やはり「月」と「葡萄パン」になるだろう。その二つの短編に言及した博士論文にネット上で遭遇して、どうしても小文を書いた方が良いような気がして、これを書いている。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/30560/20141016175106566285/kbs_47_75.pdf

論文の要所は、二つの短編のうちの「月」にある。ピータアとキー子とハイミナーラの三人が深夜の教会に侵入して秘密パーティーを繰り広げる話。この短編のクライマックスに勝手に認定したキス・シーンは、この記事で引用した。

「そこで接吻(スーキ)してごらん」
 とハイミナーラが言った。
 キー子は目をつぶり、唇をうすくあけ、わざとらしく胸を大きく波打たせていた。ピータアは彼女が床の上にさしのべている手に触れてそれをそっと握った。(…)
「スーキもできないのか。純真なもんだな。十九の娘と十八の小僧が、ダンモのズージャの伴奏でよ、何て可愛らしいんだろう、とりあった手が慄えてさ」

しかし、博士論文の筆者(以下「博士」)はクライマックスをこの直後の最終場面に求めている。キー子相手に「スーキ」できなかったピータアが、地下室から教会の尖塔まで駈け昇って「お月様が見えるんだ」と言い張って、残る二人から「嘘つき」と言われてしまう場面。博士はその場面と、『豊饒の海』2巻『奔馬』の最終場面(深夜に切腹すると瞼の裏に赫奕たる日輪が昇る)を重ねて、「現実には無いものを絶対的存在として顕在させようとする三島の意識の萌芽」を読みとろうとする。

この論文で「いいね」を一番押したくなるのは、「葡萄パン」の読解の方にある。ドラッグでトリップ中の若い男女の性交を、友人である主人公が女の身体を支えて手伝ってやっている間、カレンダーを読み上げる場面。博士は博士らしく、そこに「敗戦記念日」が含まれていることを指摘し、主人公が「破裂した水道管のように、いたるところから、無意味がすさまじい勢いで吹き上げ」るのを感じる要因になっているだろうことを指摘している。

次に「いいね」を押したいのが、ビート族として群れ集ったときのエネルギーの放恣な発散と、孤独で冴えない現実生活者の顔とのヴィヴィッドな二面性のコントラストをきちんと拾い上げているところ。博士は「月」からこんな場面を引用している。

 キー子は毎週末をツウィストで躍り明かす。週日には、瘧が落ちたように、毎晩ぼんやりしている。

 自分が二面性について引用するとしたら、この描写が良さそうだ。

 「見ろ! 見ろ!」 とハイミナーラが、はるか礼拝堂の内部を指さして叫んだ。

 その暗い広大な空間に、自い翼がひらめいてすぎるのが見えたのである。

 真夜中の教会のがらんとした礼拝堂を、天使たちが飛び交わしているらしい。翼は次々と あらわれ、天井にひらめいたり、こわれた窓硝子のへりのギザギザに滞って消えたりした。(…) 

 そして三人とも、前以て、ちゃんと知っていた。あれは深夜の電車通りを走る無数の車の前燈が、むこう側のこわれない窓硝子から屈折して射し入って、つかのまにそこかしこへ撤き散らす光りにすぎないと。

 真夜中に輝くつかのまの「虚構」と、虚構がぶざまに崩壊してしまったあとの「現実」という二元論。前者が、三島自身が「月」で描いたと語った「疎外と人工的昂揚とリリカルな孤独」のうち、「人工的昂揚」に該当し、後者が「リリカルな孤独」に該当する。

起承転結にせよ、序破急にせよ、作品が短くなればなるほど、物語の継起的機序を織り込むことは難しくなる。五七五の俳句ともなると、事物を2つか3つ配置するだけで精いっぱいになってしまう。(例えば「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」)。

この短編の最後で、教会の尖塔へ駈け昇ったピータアの「お月様が見えるんだ」というありえない報告以前から、それを聞くキー子とハイミナーラは「梅雨雲はなお垂れこめて」いる現実の天気を知っている。そこにあるのは、博士が言うような『奔馬』最終場面の切腹にも似たピータア個人の劇的な感情の噴出ではなく、前出の二元論がまたしても手際よく書き込まれていると読みとる方が、有力なのではないだろうか。

やはり三人は同じ夜の中にいるのだろう。その証拠に、キー子もハイミナーラも「真夜中に輝くつかのまの虚構」=「あるはずのない月」に対して、口を揃えてこういうのだ。

「嘘を言ってやがる」「いやな子ね。嘘つきもいいとこだわ」

ここで言われる「嘘」が「虚構」の別名であることは、論を俟たないだろう。

さて、三島は「月」に「疎外と人工的昂揚とリリカルな孤独」が描かれていると自作解題した。この前二者の深い関わり合いに、三島文学の精髄のひとつがある。

初期作品『盗賊』の最終部分は、或る女性に失恋した男性、或る男性に失恋した女性が人工的な紐帯をもとに、愛し合ってもいないのに結婚式を挙げ、その当夜に心中するというきわめて人工的な筋立てだった。

一昨晩言及した『黒蜥蜴』でも、1:14:31から、替え玉の「偽令嬢」と、女賊に愛されたいためだけに自らが剥製化されるよう「偽の言動をとった男」とが、二人の愛がいささかも本物ではないのに、死後に本物の愛の剥製になる可能性に恋心が燃えて、愛し合うようになる。凡庸な書き手が思いつきもしないような人工的なプロットだ。

ここから先はあまり詳しく語りたくない。この疎外と人工性の組み合わせの背景には、当時まだいくぶんかは反社会的属性とされていたホモ・セクシュアリティの問題系があることは間違いない。世間から、生来的に「偽の愛」を生きる種族だと後ろ指をさされ、しかしそう弾圧されるからこそ、「真の愛」へと到達できるのだという逆説。

この論点については、三島の屈折した性的自叙伝である『仮面の告白』に付されるはずだった「私は無益で精巧な一個の逆説だ」という序文を参照してもいいし、文壇登場時の三島に「マイナス120点」の採点をつけた中村光夫との対談での鮮やかな切り返しを引用してもいい。

三島はそこで、中村光夫の「現実はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、筆者の創作になって行くという性格を帯びてくる」というテーゼをひっくり返して、この裏返されたテーゼこそが、作家の勝利なのだとする。

虚無はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、現実になって行くという性格を帯びてくる。

 「疎外された偽ー人工の劇場で繰り広げられるニヒリズムと愛と死に満ちた劇の数々」。

このような要約を許しやすい三島文学の精髄の上演演目が、この「月」や「葡萄パン」でも、ここで語った三角形を描いていることだけ、最後に付け加えておきたい。「月」のキー子のモデルは、博士がしっかり調べをつけてあるように、堂本正樹だったらしいし、「月」に現れた愛する二人を見る一人という三角形は、友人の性交を手伝う「葡萄パン」でも、驚くほど同じ角度の描線によって同じ図形がなぞられているのである。

 別段批判すべきことではないにしても、三島文学をその自死から遡って作品に自死の萌芽を読もうとする批評は、すべて説話論的磁場に足を取られていると言っても過言ではない。しかし、その「説話論的磁場」という概念の発案者自身が、世間で考えられているより遥かに柔軟な批評的構えを取っていることを、どうして人は理解しないのだろうか。「どうして?」というシンプルな疑問符は、ここ何十年も中空に浮かんでいる。

 つまり、そうとは書かれていないのに、この文章を「作者は死んだ」と解読してしまうものたちがいて何の不思議もない説話論的な磁場の存在をあらかじめ否定していたのでは、『作者の死』という題名の文章を綴ることは不可能なのである。それはちょうど、戦争が勃発したとたんにその間近な終りを予言せずにはいられない人たちと、『失われた時を求めて』の作者が深い愛着と呼ぶもの以上の感性を介して馴れ親しみ、彼らの言動を高みから観察して批判していたわけではなく、その不自然きわまる自然さにほとんど共感していたことを想起すればたちどころに理解される事態であろう。プルーストは、「戦争は終るだろう」という大合唱を描写することで、それがこのとりわけ長い小説の終りに近づいたことの予言であるととられても不思議ではなかろうとさえ覚悟している。「終るだろう」、あるいは「もう終ってしまった」という断言ばかりがあたりに行きかっているとき、彼は終ることにふさわしい相対的な長さの概念を超えた「時」をごく身近に生なましい特続として生きていたわけだが、その環境の直接性を存在から遠ざけてしまう不自然さをも彼は肯定しているのだ。
 『作者の死』のバルトに恵まれているのも、そうした肯定的な感性である。

物語批判序説 (中公文庫)

物語批判序説 (中公文庫)

 

日本語最高峰の難度とも評される蓮実重彦の批評は、若い頃に夢中になって読んだ愛読書でもあった。今晩夜明け前に読み返してみて、こんなにわかりやすかっただろうかと感じられるほどに、どこか自分が成長したという錯覚を与えてくれたことにさえ、またしても読恩を憶えずにはいられない。

読み返して感動的だったのは、蓮実重彦によるバルト擁護の繊細さだった。「肯定的感性」「浅さ」「犠牲」等々の概念で、誤解の泥にまみれやすかったバルト像を綺麗に拭き上げて、思いもよらない表面の模様を浮かび上がらせる手腕は、やはり「見事」という紋切り型の一語に尽きるだろう。しかし、同時に、その論旨はバルトについてではなくバルトを使って語られており、サルトルの「終わりを語りたがる紋切り型の欲望」からフーコープルースト、バルトとつなぎつつ、バルトの果たした「犠牲」という概念を梃子に、構造主義的言説群が共通して持つ「始原を語りたがる紋切り型の欲望」へ論じ至るさまは、世界的知性だけが描きうる知的高峰へと到達しているように感じられる。

と、ここで冒頭のFCQに立ち戻ろうとすると、文脈の接合が明らかにおかしいように感じられることだろう。

もちろん、FCQの首謀者のニコラ・コンテが、しばしば話題になるモダン・ジャズとクラブ・ジャズの対立のはざまにありながら、(その対立がまた小説家と批評家との対立にも似ていて興趣をそそりやまないが)、クラブ・ジャズの側からギターを持って溝を跨いで生演奏に加わるだけの革新性を備えていたおかげで、モダン・ジャズから文化的記憶の断片を豊かに引き出したヨーロピアン・ニュー・ジャズという新ジャンルを創始できたことをまずは称えて、必ずしも蓮実重彦のような世界的知性ではなくともできるはずなのに、小説と批評とを同時に書くという文学者の営為がなぜ乏しいのか、と、「どうして?」というシンプルな疑問符を書きつけてもいい。

しかし、語るべきでない文脈は語るべきではない。文脈をあえてつながないまま、「ダンモのズージャ」のスイッチを消すと、雨。

真夜中の戸外では、この地方都市には珍しく、激しい雨が降っている。屋根や路上に落ちた雨は、雨樋や排水溝に集められて、いくらかの土砂とともに川へと注ぎ込み、下流へと流れていく。

 それはこの国のどこであっても同じ風景であるはずだが、東京の有名河川の近くに住む知人が原因不明の病気になって愚痴をこぼしている席に連なったとき、異常事態が陰で進行しているのを感じた。「白内障になったんだ。眼科へ行ったら、ボクシングをしましたか?って訊かれたんだけど、40代後半でするわけないよね」。原因がよくわからないのが不安だと彼は訴えていた。この人も何も知らされていないのだ。

白血病白内障や心臓病は、放射能被爆によって罹患する代表的な病気だ。

被爆を避けるには、空気、食事、水に気を付けなければならない。特に水が盲点になりやすい。福島と同程度以上の汚染が確認されている(!)東京では、飲料水だけでなく、シャワーや入浴の水道水にも手当が必要だ。

夜明けまでに帰宅しようと思って、建物の出入り口まで降りてきた。路上ではまだ激しい雨が降りつづいている。雨が弱まるのを待って、しゃがみこんで腰を下ろしていると、路上を叩きつづける雨が水煙を立てているのが、行き交う車のヘッドライトに浮かび上がっては消えるのが見える。

卒然と、西欧の小洒落たクラブ・ジャズに耳を奪われている場合ではないなと感じた。しかし、伏流する文脈に触れたせいで、あまりにもうら悲しく、どちらへ歩き出せばよいのか、方向感覚がうまく働かないような気がする。中学生の頃に読んだ坂口安吾の小説の一節ばかりが、脳裡をめぐりつづける。

私は汽車を見るのが嫌いであった。特別ゴトンゴトンという貨物列車が嫌いであった。線路を見るのは切なかった。目当のない、そして涯はてのない、無限につづく私の行路を見るような気がするから。
 私は息をひそめ、耳を澄ましていた。(…)いずこへ? いずこへ? 私はすべてが分らなかった。

それでもかまわない。雨がやむまで、どの道を歩いていくかを思い定めるのに、もう少し時間はあるはず。もう少しだけ夜が明け白むのを待ったってかまわないだろう。曙光が、同じ方向へ歩いていく人々の姿を見分けられるほど、路上を薄明るくするまで。