螢と林檎と蜂蜜

今日は6月26日。半月前の6月12日に、何をしていたのかはもう思い出せない。何と言っても6月12日は「恋と革命とインドカリーの日」なので、恋や革命は無理だとしても、せめてカレーライスは食べたかった。

その記念日の由来は、「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」という太宰治の『斜陽』にあるのではなく、中村屋の創業者がインドの独立運動の亡命指導者を政府に隠れて匿い、逃亡生活を支えた創業者の娘が彼と結婚したことに由来するのだという。

創業者の相馬愛蔵は博愛と教養にあふれた文化人で、関東大震災の時には、被災者たちに格安でパンやお菓子を振る舞ったのだとか。企業家精神を扱った本で読んだことがある。100年以上暖簾を守っている中村屋をはじめ、何らかの形で公益にコミットした企業が、末永い繁栄を維持できるという事実も、その本に教えられた。

新宿中村屋 - 写真で見る中村屋

といっても、日本人に一番有名なカレーはおそらく別で、「リンゴと蜂蜜、とろーり溶けてる」と歌うCMが頻繁に流れる「バーモント・カレー」の認知度が一番かもしれない。

そのリンゴも蜂蜜も、安倍政権下で農薬の規制緩和が繰り返されたため、その安全性や生産の継続が脅かされているという。

上記の優良記事で推定されているように「大企業の利益を優先する」ためだけならまだしも、世界一の農薬大国、世界一の添加物大国、世界一の電磁波大国、世界一の遺伝子組み換え食品大国が同時に作られていった背景には、国民の心身を弱体化させて搾取しつづけようとする「植民地政策」が、「宗主国」アメリカによって遂行されている可能性を疑わなければならない。

滅びつつあるこの国の風景に触れて、危機感を持った人々が、しばしば「三島由紀夫の予言」として引用するエッセイを引用しよう。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。 

「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする」というところまでは凄く良い。完璧な正確さだ。ただ、「その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という箇所は、2017年現在、予言としては外れてしまっていると言っていいだろう。端的に言うと、現在の日本は三島の予言よりはるかに悲惨な状態だ。

1956年に「もはや戦後ではない」が流行語になったように、日本は「もはや経済大国ではない」という宣言が必要ではないだろうか。国連の発表による『総合的な富裕度報告書2012』では、2008年時点で1位を記録したものの、2010年時点では15位に転落。「ニュートラル」でも「中間色」でもなく、日本が「隷米」べったりで主体的な外交政策を未だに持てていないのは、周知の通り。

現代から振り返ると考えにくいことだが、商業雑誌の編集者の回顧録に拠れば、60年代の三島由紀夫は、10年代の木村拓哉に似たポジションのスターだったのだという。そのせいか、「三島が生きていたら」という条件節が、何度か人々の口にのぼるのを耳にしたことがあった。女子高生の援助交際が流行した90年代には、「三島が生きていたら必ず現場へ取材に行ってましたよ」と誰かが義憤を込めて発言していたが、宮台真司がフィールドワークを行い、村上龍が小説を書いたので、どの時代にも仕事のできる人はいたことになる。

では、三島由紀夫の文学はというと、あれは余人をもって代えがたいもので、三島にしか書けない次作を心待ちにしていた人々も多かったことだろう。しかし、あまり知られていないが、40代の三島は、自身の文学の可能性にいくらか行き詰まりを抱えていたらしい。それは主として文体の問題にある。

三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果なんです。

大江健三郎 講演「武満徹のエラボレーション」|東京オペラシティコンサートホール)

三島が存命中にも寺田透による文体批判があり、そこでは「文章の正確さを犠牲にして文飾上の感興を増そうとする」悪癖が批判されていた。自信家の三島はこの批判が結構こたえたらしい。その辺りの三島文体の現場での動きを、丹生谷貴志はこう説明している。

三島の文体には或る"感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのようなのである。

これは実感としてとてもよくわかる説明で、実は三島だけでなく、さまざまな作家の文章を読んでいるときに感じさせられる感覚をうまく捉えている。特に、文章の展開力の範列的な引き出しをあまり持っていない若書きの時代、若い作家の小説で頻出する言語運用だ。

さらに俗耳に通りやすく言えば、味覚の飽和点まで料理の味を到達させるために、「三島は素材の味を無視して調味料だけで味付けしていく」と譬え直せるだろうか。若書きの作家なら好きな調味料しか使わないところ、手練れの美文家である三島はあらゆる調味料を適宜自在に使いこなすのだが、食材自体の味は料理から消えてしまいがちになるという弱みも持っている。しかも「美味い」ことには変わりがないのだから、評価の難しいところだ。

しかし、実は、この地点から先の道行きがきわめて困難なのである。その難路を前にして、自決を決める前の三島は、美文調の自身の文体を改造しようとする意志を抱いていたらしい。

詩人の髙橋睦郎は、自身が長い散文を書く予定があったので、誰の文体を参考にすればよいかを問うて、野坂昭如と『私の昭和史』の末松太平を、三島に勧められたと語っている。そこに三島自身の文体改造の意志を感じたとも。

え、野坂昭如!と声に出して呟いてしまう。野坂昭如の代表作「エロ事師たち」はこんな文体だ。

『わいこれで二度アゲられた。はじめは一万円、今度めは三万の罰金やった、次ぎはうまくいって体刑半年に執行猶予三年、四度目はなんぼ否認したかって弁護士つけて一年三カ月の懲役やろ。こらもう覚悟しとる、わいがひきうける。そやけど、これだけ覚悟する以上、わいも男や、人の真似してできあいのフィルム売ったり、エロ写真貼りかえたり、あるいは貧乏臭い女をコールガールにしたてるだけじゃつまらんわ。いっぱつバチーンと、これがエロやいうごっついのんを餓鬼にぶつけたりたいねん』
 顧客は貪欲な生徒であり、スブやんは教師だった。そしてこの生徒きわめて上達が早く、古ぼけた交媾の写真ながめ随喜の涙をながした男が、たちまちすれてカラーのブルーフィルムをあくびまじりに批評しはじめるまで一年とはかからぬ。(…)常に餓鬼の鼻面をひきまわし、一段高処にあって冷然と、いんぎんに笑っていられないのなら、どこに生甲斐があるんや。そら金もほしいわ、そやけど金だけとちがう、いわばこうシュバイツァ博士みたいなもんやろか、ヒューマニズムやで。

エロ事師たち (新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

 

 「もし三島が生きていたら」という条件節の後に「何を書いていたか?」と問い直したとしても、野坂的な卑俗な関西弁を操った作品はまったく想像できない。自分の反対物に自らを化身させたいという三島の欲望は、ほとんど狂おしいものだったと言えるのかもしれない。

人口に膾炙したという観点からは、先ほど書いた「野坂昭如の代表作」は訂正すべきだろう。毎年夏に放映されるこの映画の原作者だと紹介すべきだった。

1:24:15から、妹の遺体を焼いたあと、宙へ舞い上がっていく螢たちに何とも言えないうら悲しさがある。ここで引用した3.11の津波の中から浮かび上がって宙を飛んでいく「螢」と同じ浮遊体にしか見えない。

この手の映画を見てぼろぼろ泣いてしまうのは、自分にとってはいつものことだが、この映画だけは少し異なるところがある。虚構であることは知りながら、食べ物であれば何でもかまわない、例えば冒頭で語ったカレーライスをお腹いっぱい「せっちゃん」に食べさせてあげられたら、とつい切迫した思いに駆られてしまう。

人口に膾炙したという観点からなら、野坂昭如の第二の代表作は、冒頭で語ったバーモント・カレ-の「リンゴと蜂蜜、とろーり溶けてる」という作詞になるだろう。飽食の時代に人々にさらに食料を買わせるための宣伝工作の一部。……

もうすぐ「敗戦」記念日のある夏休みがやってくる。

極東の一角には、世界一の農薬大国、世界一の添加物大国、世界一の電磁波大国、世界一の遺伝子組み換え食品大国が辛うじて残っている。これだけの人々を殺され、これだけの人々を病気にされたあと、生き残っている日本人たちで、野坂昭如の第一の代表作と第二の代表作の間にある凄絶な敗北の歴史をじっくり考え直す自由研究に、取り組むのはどうだろうか。