女神からの電話を待ちながら

きっと好きなことを好きなように書いているように見えるのだと思う。

しかし、このブログのここまでの記事には、さまざまな制約があって、①フルタイム勤務の傍ら1日に1エントリ書く、②(そうする必要があるので)純文学や文芸批評の専門分野で卓越性を顕示する、③10代後半から20代くらいまでの読者でも、興味や感情が動くような記事を書く、④純文学プロパーや現代思想プロパーの想定読者が「裏真実」界の貴重な情報や truther たちの情報源にアクセスするよう媒介する、といったそれなりに難しい条件の下で書いてきた。ただし、こういうスタイルの文章しか書けないわけではないという自負もある。

今日から自由に書いてもよいと言われている、とも風の噂には聞くが、結局のところ、上記の条件のいずれも、簡単には放棄できないような気がしている。これまでの経緯を考えると、「打開」が確固たる形にならない限り、何も信じられないから。どうして純文学の女神は電話をくれないのだろう?

「いろいろ書けるようだから、自分のスタイルとかアイデンティティをどう打ち出していくかを考えるように」との風の便りを聞いた。

自分の進むべき道を選ぶのは、目隠しされたままでは難しい。以前書いたこの部分を糸口にして、五月雨式に書き流すことにしようか。

1. ミドルマン(≒媒介者)

例えば、文芸批評の世界では、きわめて少数の一流の批評眼の持ち主であるためには、メタファー(暗喩)的であるかメトニミー(換喩)的であるかに、政治性を感受できなければならない。前者が「右」、後者が「左」 。後者についたのは、デリダラカン、バルト、クリステヴァ…。

ただこういった話は、エレベータのない5階建て建築の5階の話。自分の足でそこまで階段を登る人も少ないし、登れる人も少ない。

「大衆の原像」を愛する左派が、もっと低階の人々で賑わうフロアに波及する言葉を、さらに生み出しつづけると良いなと感じる。

 ここで語った「5階」の話は、本来は「2階の卓越主義」と呼ばれるべきものだ。

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 

 それを勝手に建て増ししたのは、情報の「ミドルマン」伝達段階論を織り込みたかったからだ。例えば、宮台真司内田樹東浩紀のようなスケールの大きな思想家は、知的到達度としては優に5階に達しており、そのまま5階に安住すれば、知的優位を最小の摩擦で維持できるのに、決してそうしない。足労を惜しまず、3階くらいまではダッシュで駈け下りて行って、市井の人々や若者たちに言葉をかけたり、対話したりする営為をたゆまず続けている。

運命によって自分が任されたポジションはおそらくミドルマンで、2~4階くらいを往還するのが仕事になるような予感がしている。

2. 5階の文芸批評と純文学へ

一方で、5階の文芸批評や純文学が自分を呼んでいるような気もしていて、 その声の背後にあるのは、例えば大江健三郎が「師にあたる人物?から助言を受けて、難書を読みつづける習慣を持続させてきたので、今ではスピノザも楽に読みこなせる」という意の発言。そのような孤独な研鑽を積んで、5階の難度の批評や思想に耐えうる水準まで、自分の筆力を高めたいという思いもある。この方向性がどの程度に強まるかは、数年前に書き上げた「心臓の二つある犬」という小説が、どのような社会的処遇を受けるかに懸かっている部分もありそうだ。

3. 来たるべき情報政治学のために

もう一点、どうしても外せないのは、情報政治学 infopolitics の分野を活性化し中心化する動きに寄与できないかという思い。現在の情報政治学が、政権や政党や政治家が流す権力者発信系情報の分析に偏り、ナチスゲッペルス宣伝相を取り上げるなど過去事例の分析に偏っているのは間違いない。

ジョゼフ・ナイの「ソフトパワー」論で以前から指摘されているように、民間の各主体や、(しばしば権力系主体による工作部隊である)匿名主体も含めて、情報の発信元総体の政治性を視野に入れた学問体系が、次世代向けに「教育」として伝承される回路を構築する動きに、何とか貢献できないだろうか。

この分野は、メディア・リテラシーと深い関わりがある。しかし、メディア・リテラシーが、しばしば「多メディアを使いこなす能力」だと矮小化され、本質的に「対抗政治性」を基盤としていることや、それがカナダで著しく発達したのは「アメリカ文化からの侵略」に対抗するためであったことが、作為的にすっかり脱政治化されてしまっているところに、大きな問題があると思う。植民地日本が生き残るために選ぶべき道はどっち? 

カナダのメディア・リテラシー教育

カナダのメディア・リテラシー教育

 

4. 純文学への返答

 次作は連作短編集の恋愛小説を書いて、「ポスト・ムラカミハルキ」と呼ばれうるような領域まで何とかして駈けのぼりたい。これは「有名になりたい」とか「本をたくさん買ってもらいたい」いうような世俗的願望ではなく、強いていえば自分の宿命を引き受けた上での「応答責任」に近い考えだ。きっと事情を知らない他人から見たら、妄想じみた強迫観念に見えることだろう。そう見られてもかまわない。

五月雨式に書いてきたこの記事も、振り返ってみれば、強度の高低はあるものの、実は 1.2.3. のすべてが 4.に含まれている。いつだって、次の小説が自分の片思いの恋人だ。ただ、今のところ準備は明らかに不十分なので、経済的時間的余裕がどれくらい確保できるか、という世俗的な諸条件の整備に、先に注力しなければならないだろう。

5. 最後に

運命の女神に謝意を。そして、ご支援いただいた方々に心より感謝申し上げたい。ありがとうございました。