モディとハルキのあいだに薔薇を置けば

英語の if を意味する日本語にはいくつかバリエーションがあって、「もし」「もしも」「もしや」くらいが相場だろうか。「もしや」はやや古めかしい感じがして、どれくらい古いと感じるかというと、武者小路実篤が長い名字を短縮して「ムシャ」と呼ばれていたくらい古い気がする。武者小路実篤が愛人に猫撫で声で「ムシャ~」と呼ばれている情景を想像すると可笑しくなるが、愛人がいたかどうかは伝記的事実を参照しなければならない。いなかったのであれば modify する必要があるだろう。

長い名字を短縮した愛称を持っていたムシャの同時代人と云えば、アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ。愛称は「モディ」だ。長い顔、長い首をしたあれらの肖像画を知らない人はいないだろう。

モディリアーニ モンパルナスの伝説 (ショトル・ミュージアム)

モディリアーニ モンパルナスの伝説 (ショトル・ミュージアム)

 

 画家のモディリアーニ同じく「モディ」の愛称を持ち、「Modianesque」(モディアノ中毒)という意味の造語まで生み出したフランスの作家がいる。パトリック・モディアノで、画家のモディリアーニとは遠い親戚。2014年にノーベル文学賞を受賞した。

90年代前半にモディアノを読んでいた頃、どんな作家かと友人に問われたので「フランスの村上春樹みたいなものだよ」と答えた。「え、そう言われているの?」「いま僕がそう言っているだけ」「何だ、それだけか」とその会話は続いた気がする。他人の話にはもっとまともに耳を傾けなきゃ、まったく。

2010年代の現在、同じような形容をしてモディアノを紹介する人は多いらしい。失われた何かへのまなざしやリリシズムや自分探しのモチーフなど、小説主題上の共通点も多いが、他の純文学作家を大きく引き離して、それぞれの国民に圧倒的な読者を持っているという社会現象が、何よりも似ている。言い換えれば、モディアノはフランスの村上春樹なのだ。

ノーベル賞の発表の時期になると、年中行事のように村上春樹が受賞するかどうかが主流メディアで大騒ぎになるのは、あまり娯しめない祭りだ。1%グローバリストの影響下にある「世界的権威」にああまで盲従している様子が、この国の人々の洗脳耐性の低さとそれが招き寄せる不幸な未来を予感させるからだ。「ノーベル経済学賞」は存在せず、あるとすれば「ヌーベル中央銀行賞」にすぎないことは、ここに書いた。

もう少し頭を使って、この世界が出題している難問に取り組んでみよう。世界はこんな誘導問題を最初につけてくれている。つまり、「モディアノが受賞できて、ハルキが受賞できないのはどうしてか?」 両者に共通する資質があるから、却って比較はしやすいはずだ。両者を読んだことがある人も少なくないだろう。読み比べればわかるが、村上春樹の方が文学的創造性が優っているのは明らかだ。

では、どうして受賞できないのか?

モディアノと村上春樹のそれぞれの小説は、彫刻を展示する美術館のように、水平な展示台の上に置かれているわけではないのだ。そんなとき薔薇の花を両者の間につい置きたくなってしまう。ただし、その薔薇は大野純一が撮影した薔薇でなければならない。

芸術というものが、社会のどのような文脈を得て存在できているのか。そんなあまりにも基底的な政治性すら読めないほど、無知な芸術家が多い中、大野純一は少し前にやめてしまうまで、際立った光彩を放つ聡明で繊細なツイッタラーだった。いま検索をかけても、変に絡まれた痕跡しか残っていないのは残念だ。

記憶だけで話すと、豊富な渡欧経験のある大野純一は、日本特殊的な後進性や閉鎖性に敏感だったと思う。日本とフランスの比較に話を戻せば、センター試験の国語とバカロレアの哲学の比較をして、「自分の頭を使って考えること」を基礎におくことの重要性に注意を喚起していた。

フランス版センター試験の哲学は、「自分の頭を使って考え」なければ手も出ない、かなりの難題だ。

 ■理数系

1.政治に関心を持たずに道徳的にふるまうことはできるか
(Peut-on agir moralement sans s’intéresser à la politique ?)

2.労働は自意識を持つことを容認するのか
(Le travail permet-il de prendre conscience de soi ?)

■経済社会系

1.我々は国家に対していかなる義務を負うか
(Que devons-nous à l’Etat ?)

2.認識を欠いた場合、解釈できるか?
(Interprète-t-on à défaut de connaître ?)

■人文系

1.言語は道具でしかないのか
(Le langage n’est-il qu’un outil ?)

2.科学は事実の証明に限られるのか
(La science se limite-t-elle à constater les faits ?)

これらの問いのうちから1つを選んで、試験時間の4時間のうちに解答を書き上げなければならないという。哲学好きの自分でもちょっと怯んでしまう。文化的文脈が異なれば、人文社会学で何を優れているとするかは、ここまで異なるのだ。

モディとハルキのあいだに薔薇を置いたまま、文化的文脈だけでなく、さらに政治的文脈にもある大きな格差を追いかけてみよう。

村上春樹はノーベル賞をとれるのか? (光文社新書)

村上春樹はノーベル賞をとれるのか? (光文社新書)

 

一読して感じるのは、ノーベル文学賞ってこんなにアンフェアだったのか、という失望。 生前授与が原則なのに、スウェーデン人の元選考委員なら堂々の死後受賞。一人授賞が原則なのに、スウェーデン人の元選考委員なら二人受賞OK。

最大の差別は作家の母語に基づいた差別で、2016年現在、西欧語を母語とする受賞者が全体の92%を占めており、非西欧語の受賞者は8%しかいないのだという。その9人のうちの2人が日本人の川端康成大江健三郎、もう2人が中国の高行健莫言だ。

 モディと春樹のあいだに置いた薔薇の花瓶があっけなく倒れてしまい、薔薇が散乱してしまっているのがわかるだろうか。注意深く見ると、その場所はガタガタで、まったく水平な場所ではないのだ。

 川村湊によれば、フランス人作家への順当な受賞ローテーションが5~6年で、日本人作家への順当なローテーションは約25年。ただし、その25年おきにめぐってくるのは「東アジア枠」らしい。中国や韓国の有力作家も加わってくるので、日本人作家の受賞ローテーションは短くても半世紀に一回くらいになると推定できそうだ。

いくらなんでもフランス文学と日本文学の間に、10倍の格差があるとまでは考えにくい。要するにここにあるのは、単なる人種差別的なアンフェアネス。たとえ文学的価値の観点からはモディ<ハルキであったとしても、ノーベル賞受賞の可能性はモディ>>>ハルキのままで、残念ながらそれは今後も変わりそうにない。ハルキストは世界の現実を知らなければならないし、作家を本当に愛するなら、そのアンフェアな現実に憤らなければならない。

この新書で面白かったのは、ノーベル賞の選考が笑ってしまうくらいにいい加減なものであることが、高度情報化によって世界に知られつつあることだ。さすがは、三島由紀夫を左翼だと誤認して落選させた人たち。仲間内の選考委員へなら、お手盛り受賞をためらわない人たち。

 ノーベル賞選考委員の一人マルムクヴィストが、中国の文芸評論家の曹長青に執拗に問い詰められて、その舞台裏を垣間見せてくれている。

 そこで曹は率直に高行健の受賞についての疑問をぶつけている。つまり、中国本土の有名作家(…)を差し置いて、あえて高行健を選んだことに何か意図的なものがあるのではないかという疑問である。(…)マルムクヴィストは、最初はもちろん作品本位、その文学的達成度かによって選んだと答えていたが、だんだんその返答は歯切れの悪いものとなる。曹は、莫言や鄭義といった作家たちの作品をちゃんと読んで、比較した上で高行健を選んだのかと、かなり執拗に、非礼ともとれる質問を繰り返す。その遣り取りから読み取れるのは、スウェーデン・アカデミーで中国語を読めるのはマルムクヴィスト一人であり、他の委員はそのスウェーデン語訳か英訳を読んだだけであり、マルムクヴィスト以外には、他の中国人文学者の作品と比較して読んだという者はいないようだ。つまり、実際にはたった一人の委員が、高行健の受賞を決めたということだ。

 しかも、マルムクヴィストには収賄疑惑まで囁かれているのだから、文学的達成度なんて二の次だったと批判されても仕方ないだろう。では優先されたのは何なのか?

川村湊は新書をこんな文章で締め括っている。

 [ノンフィクションの『チェルノブイリの祈り』でノーベル賞を受賞したアレクシエーヴィチのように] 村上春樹が"フクシマ人”となった現代の日本人の声にならない声を、祈りにならない祈りの声を、文学的表現として提出するとき、村上春樹が「世界文学」の名にふさわしい(ノーベル文学書を受賞するのが当然な)作家として、世界において認知されることになると考えるのである。

この辺りまで来ると、自分とはかなり意見が隔たっていると感じざるを得ない。先ほどの中国人作家のノーベル賞受賞騒動でも露見していることだが、ノーベル文学賞は文学性よりもその政治性が優先されることが少なくない。2000年当時、欧米社会は中国の台頭を危険視していたので、他の中国在住の有力作家ではなく亡命者の高行健を選んで中国を牽制する材料にした可能性が高い。2008年のリーマン・ショックバブル崩壊危機を、中国経済をバブル化させることで延命に辛うじて成功した欧米社会が、G7を中国を招き入れたG20へと発展させたのも2008年。これらの国際情勢の変化を受けて、東アジアの本来のローテーションよりずっと早く、2012年に中国の莫言が受賞した。高行健とは対照的に、莫言は中国の体制寄りの政治的立場で知られている作家だ。

個人的には大好きな作品ではあるものの、『チェルノブイリの祈り』のアレクシエーヴィチは出版点数が少なく、そもそもジャンルがノンフィクションであり、文学的達成度としても、必ずしもノーベル賞級の技量があるとは言いにくい。それなのに、ノーベル文学賞を受賞したのは、欧米社会と対立していた旧ソ連の不名誉な事故を扱った主著を書いていたからにちがいない。

ここでフランスのバカロレアの一問目を少しアレンジして、もう一度考えてもらいたい。

1.政治に関心を持たずに表現者としてふるまうことはできるか

 4時間をかけた長文の模範解答は書けなくとも、その結論がNOであることは明らかではないだろうか。

フクシマに関しては、過酷事故を招いた安全装置の事前撤去と、イスラエルの警備会社への原発警備の委任という、コンプラドールたちの狂気じみた売国政策が背後にあったことが、すでに主流メディアでさえ明らかになっている。

それらの「裏真実」へどの程度まで肉薄するにせよ、仮に誰かが「フクシマの祈り」を書いたとしても、(核開発と原発を同時に手掛ける)軍産複合体を中心とする1%グローバリストたちの歓心を得て、その作者がより高いノーベル文学賞受賞の可能性を得られることなんてあるはずない。

村上春樹エルサレム賞受賞時に、有名な「壁と卵」演説で、パレスチナ支持を暗に打ち出した。それだけでも可能性が薄まったところを、カタルーニャ賞受賞時のバルセロナでは、原発批判まで行った。普通に考えて、これはノーベル賞受賞の可能性がほとんどなくなってしまったと考えるべき状況だ。そして、当然のことながら、市民虐殺反対にせよ、反原発にせよ、それらのメッセージを多くの人々の心に届けることに成功した作家が、1%支配層の作為的権威や杜撰さに満ちた賞から遠ざけられることは、その小説を愛する人々にとって、誇るべきことなのだ。

毎年あの時期になると、ハルキストたちがカフェに群れ集ったりして、信奉者のノーベル賞受賞を、まるでモディリアーニ肖像画のように首を長くして待っている光景は、あまりフォトジェニックじゃないと思う。歴史を見よ。アレはこの国の人々が信じ込んでいるほど美味い酒ではない。愛する作家と同時代を生きることの幸福は、作家がぶちあたって対峙している壁が何であるかを共に見つめ、共に考えるという思考体験の中にしかないのではないだろうか。

そうやって同時代のthinkerたちに先導されて、世界のでこぼこな瓦礫の上を歩いていくとき、もし足元に散乱したる薔薇を見つけたら、その一輪を拾い上げてポケットにしまっておいてもらえないだろうか。世界や社会の基底にある偏向や障害物を見通せるようになったら、つまずくことなく遠くまで行けるだろうし、「もしや」たとえわずかでもフェアネスに満ちた水平な地面がどこかに見つかれば、そこに薔薇を挿し木して蘇らせて、後から続いてくる人々に向けた目印にすることもできるから。