「九年前の祈り」を読む

チ、チ、チ。

舌打ちをしているのではない。「九年前の祈り」は三つの異なる色をしたチが、縦糸や横糸になって織りなされている小説なのだと思う。おそらく純文学を読み慣れていない人なら、主人公のシングル・マザーさなえが、どうしてこうまで「血」を通じている相手への思い入れが希薄なのかが、気になることだろう。

視点人物のさなえが離婚したカナダ人の元夫について、小説はその外国人の経歴を説明するだけで、なぜ二人が結ばれたのか、なぜ二人の仲が壊れたのかを語ろうとはしないし、二人の間に生まれた発達障害らしき息子に対しても、母として障害ごと愛を注ぐ場面はほぼ皆無で、誰かが手を引いて障害児を連れ去ってくれたらと望む場面の方はしっかりと描かれている。「血縁」の文脈がきわめて薄い色で織られているのが、この小説を読み進めていくとき、読者がまず目にする特異な横断線だ。

もともと、この小説の筋道自体が、かなり複雑な織り合わせで語られている。さなえの個人史と恋愛遍歴だけでなく、村の人々と集団で訪れたカナダ旅行の回想までが、自在に行きつ戻りつして断続的に介入しながら、知人の見舞いへ行くためにお守りを取りに行くメイン・ストーリーが着実に進められていく。そういった情報の糸の繰り合わせを巧みに統御していると思われるのは、作者が蓄えてきた「知」にちがいないのだが、その糸は裏糸なので、ほとんど目にすることができない。

目にできるとしたら、例えばこんな一文。

そのときさなえのなかに溢れ出し渦巻いていた言葉の群れをはたして祈りなどと呼んでよいものだろうか。 

この一文に露呈している文体論上の影響が、誰に由来するものかは明白だ。そういえば、元夫のカナダ人はフランス語圏のケベック出身らしかったし、彼が来日して書いた修士論文成瀬巳喜男がテーマだった。

成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する (リュミエール叢書)

成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する (リュミエール叢書)

 

しかし、小野正嗣は、しばしばこのような老獪な「知」の領域に逆らう形で、視点を子供化する嗜好を持っていた。ピアジェによれば、子供はしばしば、世界にある万象を擬人化したり、生命化するものだ。

例えば、かなりの筆力を傾注して書かれている最終場面を引こう。

いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている。悲しみが身じろぎするのを感じた。それは身をかがめると、さなえの下にその手を重ね。慰撫するようにさすった。不安は消えなかった。

「悲しみ」は擬人化されていて、その手で、さなえの手に触れてくる。

それよりも前にある別の場面を引く。

(…)海が鳴っていた。来るな、と海に行ってほしかった。岩場を撫でる波音がいくら穏やかでも、さなえの心が岩場のようにごつごつと割れているために、撫でてくれる手を引き裂いた。傷つくのは海のほうだった。傷つけばいい。

これらの擬人化されたアニミズム的世界観が救われているのは、前者が子供を抱き寄せる直前の描写であり、後者が、幻想の「みっちゃん姉」の背中を追いかけて、さなえ自らが胎内遡行に似た徒歩移動をする場面の描写だからだ。それにしても、35歳のさなえは、どうして子供帰りするほど、みっっちゃん姉の存在に引き付けられるのだろう?

小説を読んですぐにわかることもある。読まなくてもわかるくらいだ。この小説が「地」縁の因習的人間関係と物語性に満ちた小説であり、そこに中上健次やガルシア=マルケスやフォークナーなどの固有名詞を引いておけば、それなりに何か書いた気になれることは。

しかし、これは閉塞した地縁の路地に埋没していく子連れの出戻り女の話ではないのだ。

むしろ、地縁から飛び出す話、飛び出したはずが何かに後ろ髪を引かれて、振り返って地縁の何が自分を引き付けているのかを確かめる話だろう。後ろ髪を引いているのは、リアス式海岸の集落群にまつわる土俗的な物語の力ではない。

この小説にある「血縁」の薄さを補っているのは、「地縁」の暗い広がりの中で仄光る重責を背負う者たちの個々の姿だ。「地縁」を飛び出したものの発達障害児を抱えたシングルマザーとなったさなえは、ふと振り返って、みっちゃん姉の存在に不自然なほど強く惹かれている自分を発見する。ちょうど、丘に敷かれた何百枚もの太陽光パネルのうち、一枚だけが輝いて自分の目を射るように。その一枚だけ、一本だけの人間関係のもつ重みと悲しみと不安が、この小説の中心にある主題なのである。

そのシングル・ライン上で人と人がつながり、一方の人が離れ、一方の人がまた舞い戻ってくる。動きはどうあれ、そこには細いシングル・ラインしかない。主人公のさなえに障害児がいるだけでなく、みっちゃん姉には脳腫瘍の息子がおり、同級生の親友には末期癌の母がおり、職場恋愛の相手の男は父子家庭を持っている。

リアス式海岸に象徴されるような地縁的因習的人間関係から、この小説の中心主題が飛び出そうとする様子を、小説自身はこのように描写している。

二つの島は、陸地を振り切って大海原に飛び出そうとしているように見えた。逃がしてたまるものかといくつもの岬が、たがいの邪魔をしながら、島々に執拗に追いすがり伸びていく

リアス式海岸から飛び出した個々の存在をつなぐシングルライン上で、人と人がつながり、一方の人が離れ、一方の人がまた舞い戻ってくる様子は、陸地と島々の間で寄せては返す波の動きにも似ている。一見すると同じ波に見え、同じ潮騒に聞こえるあれらに、どれとして同じ波はなく、同じ潮騒はないことを想起しつつ、「差異化しつづける反復」「創造する変奏」といった概念を、「知」の領域から呼び出しておこうか。

リアス式海岸とその先にある島々に、打ち寄せては返す波。小さな風景画の中にある打ち寄せやまない海を愛せるかどうかで、この小説は読者を選んでいる。

 

 

芥川賞受賞時の選評は読み逃しているので、選考委員がどのような精緻な読みをしたかは視野に入っていない。上記の作品論では触れなかったが、この小説の中で最大のアクチュアリティを孕んでいるのは作品名だと思う。2014年発表の「九年前の祈り」が発表時の「祈り」と仮定すると、9年後の2023年には祈らずにはいられないようなことが惹起するとも読めるからだ。

それはもう始まっているといえるかもしれない。

「事故後、障害児の出生率は25倍に膨れ上がった」「健常児が生まれる確率は15%~20%」

発達障害よりもはるかに重度な障害児を抱える家庭が、この国で急増することはほぼ間違いない。そのとき、この小説は輝くのか、それとも霞んで消えてしまうのか。いずれにしろ、先に「ほぼ間違いない」と書いたことが、間違いであることを祈らずにはいられない。

九年前の祈り

九年前の祈り