屍を越えて旅する覚悟
昨晩「誤配可能性」について触れたこともあって、書き落としていたことがあったのを思い出した。太宰治「女生徒」の原型となった少女を救ってさしあげねば。
この記事で、台湾人の「博士」の助けを借りながら、「女生徒」は、太宰治が川端康成へ、「贈答品+縁切り状」として処女の自慰を贈った作品だと分析した。
けれど、有明淑という名の少女は、そんな秘めごとを仄めかした日記を、憧れの作家太宰へ見せるような女の子じゃなかったはずだ。手元に資料がないので、それが少女の筆によるのか、太宰の筆によるのかよくわからないが、短編を半ばまで読み進めていて、文学愛好者ならふと立ち止まるにちがいないのが、この一節。
「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。だんだん青味がかってゆくのです。ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。
美しく生きたいと思います。
「あさ、眼をさますときの気持は、面白い」という冒頭の常体から、ここで「ですます調」の敬体へと、文体が何の前触れもなく変化しているのにお気づきだろうか。なぜ急なギアチェンジが起こったのだろう。
それは、これらの言葉の宛先が、先頃亡くなった父だからだ。太宰による怨念のこもったあの「贈答品+縁切り状」とは似ても似つかない、心の澄んだ可愛らしい女の子なのだ、あの少女は。
自分が「女生徒」をブログ化して誘拐事件の小説にしようとしたのは、この「父の喪失」、日記ブログがゴースト・ライターを始め多数の更新者に書き換えられていく「テクストの複数性(幽霊)」、それがネット上にあることで生じる「誤配可能性」などに、強く惹かれたからだった。
いま思い返せば、当時の文芸批評や思想状況を、敏感すぎるまでに生かし切ろうとした小説だったようにも思われる。 しかし、2003年当時、一介のブロガーが真面目に批評や思想を読んでいたことが、どういう理由からか、…
…と、この先の顛末をいろいろと書こうとしていたら、たった今「それは隠してあげた方がいい」という示唆を年少の友人からもらった。OK。書くのは最小限の2点だけにとどめることにしよう。
当時も今も、自分は『吾輩は猫である』を書いた漱石が猫だと盲信する「漱石=猫」主義には与することができない。ちなみに、当時の最先端の研究も「漱石が猫ではない」ことを説得的に体系づけている。当然のことながら。
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当時も今も、自分はあらゆる構造分析を性器一元論的に還元することはできないという批評的立場をとっている。ウデイ・アレンの『人生万歳!』に、アメリカ南部の保守的で貞淑な妻が、ニューヨークで脳内革命を起こして、二人の男性と3人夫婦になる場面がある。しかし自分は、3人夫婦という性的マイノリティが存在することに異論はないものの、3階建て構造の住宅を設計したからといって、その建築家が3人夫婦としての性器運用者だとは短絡できないという立場だ。当然のことながら。
(…)
ウディ・アレンの映画と云えば『カメレオンマン』が、彼の初期のフィルモグラフィーの中では輝いている。 監督曰く、虚実入り混じった「フェイク・ドキュメンタリー」なのだとか。どんなシチュエーションでもその場にふさわしく変身するカメレオン男を追ったドキュメンタリー、もといドキュメンタリーもどきで、監督自身がそのカメレオン男を怪演しながら、求められてもいないのに自ら同調してしまうほど強い、人間の同調行動を揶揄している。
(冒頭、憧れのスーザン・ソンタグを見られるのは嬉しい)
あらゆる場に同調して、さもそこに実在しているかのように振る舞う架空の人物といえば、最近日本でもこんなインタビュー集が話題になっている。
(ダンサーの誰もが憧れるマイケル・ティヌのダンスが見られるのは嬉しい)
ウディ・アレンが、とにかくどこでも「同調してしまう人間」を描いて、アメリカの大衆の笑いをとっているのに対して、ロバート秋山はとにかく同調しない尖がった「クリエーター」の戯画を描いて、日本の大衆の笑いをとっている。大衆は自身から距離のあるものしか笑えないので、日本では sheeple を諷刺する機会がきわめて少ない。その状況がどうにも笑えない。
ともあれ、ウディ・アレンが提唱した「フェイク・ドキュメンタリー」を小説に置き換えると、 Auto-Fictionというジャンルが最も近い対応物であることは確かだ。20世紀末以降、最もホットな純文学ジャンルの一つだと言えるだろう。「自伝フィクション」という訳語が有力だが、まだ『自伝契約』ほどにはその内実が研究されておらず、wikipedia の記述も十分とは言えない。
フランスでいえば、『女たち』以降のフィリップ・ソレルスがリストにないのはどう考えてもおかしいし、日本でいえば、大江健三郎の名前がそこにないのはあまりにも意外で、そこに何らかの姑息な工作活動があるのではないかと疑いたくなる。
後期作品中に頻出する語り手「長江古義人」の「長江」が「大江」とつながっており、「われ思うゆえにわれあり」のコギトに漢字を当てた「古義人」が、「私」という強いコノテーションを持っていることが、一読してわからないはずはない。
「ヌーベル中央銀行賞」はもとより、ノーベル賞本体の権威にも、信頼しうる偉大さがないことが明らかな現在、大江健三郎は日本で最も過小評価されている作家だと言えるかもしれない。大江は依然として世界文学の最前線にいるのに。
その大江健三郎は別格として、日本の文学界に強烈な「自伝フィクション」を引っ提げて登場したアクティヴィストがいる。
最近、文芸批評を書けと頻りに催促されているような気がして、もしそうなら先に書いて見せてほしいと返信したい気がしている。1%グローバリストたちの謀略に満ちた世界の動きを把握して、それにアクチュアルな応答責任を果たしている純文学小説なんて、ほとんどお目にかかることはない。柄谷行人も言っていたように、政治的契機や倫理的契機を内包した批評に耐えうる小説の数が、圧倒的に乏しいのだ。アクチュアルな文芸批評を他人に求める以前に、文芸批評がアクチュアルなのかどうかを批評できる思考力を、自らに求めるべきではないだろうか。
いま早朝の6時。全編を再読したところだ。偶々いま自分が置かれている状況では、小説の内容が危険すぎてコメントできないのが残念だが、滅茶滅茶面白くて、再読なのにまたしても興奮しながら読み終えたことだけは、書きつけておきたい。
あと数年から10年の間に、日本の権力構成が大きく入れ替わったとき、「覚醒」が始まった起源は、あの一冊の「自伝フィクション」に克明に書かれていたと、人々が口を揃えるような衝撃的な「虚構事実」が書かれている。これは「自伝フィクション」のジャンルにとどまらない、10年代最高の「フィクション」だといっても過言ではない。
(この記事に自分のオウム事件体験を書いた)
純文学は大正最終年に画定された歴史的概念だ。昭和と同級生、三島由紀夫と同級生。昭和や三島が死んでからも、純文学はかつて純文学でなかったものを呑み込んで、自らを変質させて、何とかここまで生き延びてきた。
もし、これほどまでにアクチュアリティの横溢した「自伝フィクション」を、純文学として認められない人間が多数いるとしたら、彼らの信じる「純文学」は早晩絶命することだろう。そして、その屍を、覚醒した人々、生き残った芸術形態が、無慈悲に踏み越えていくことだろう。
自分は疾うに旅する覚悟はできている。