批評のリーチはどこへ届いているか

歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

 有名なマルクスの言葉には、続きをつけておく必要がある。「三度目以降は悲喜劇として」。歴史は何度でも反復する。ただし差異を伴って。

しばしば「時を越えて同一物が繰り返し回帰する」とされるニーチェ流の永劫回帰の概念を、ドゥルーズは恐るべき力でねじ伏せて転倒して見せる。時を越えて回帰するのは、差異化して生成するという同一過程だけであり、一度きりの固有の独創物は永劫回帰の循環の遠心力で吹き飛ばされてしまうというのだ。

このような「永劫回帰が生成変化しうるものだけを回帰させる」とするドゥルーズ流の永遠の差異の哲学の前で、自己の独創、権威、金に執着して右顧左眄する凡庸な書き手たちは、すっかり霞んでほとんど見えなくなってしまう。彼らとは遠く離れた高みにいたベケット安部公房のような世界水準の文学者たちが、晩年に多メディア適応性を発達させたことには、さらなる注目が必要だろう。

昨晩、「アクチュアルな文芸批評を他人に求める以前に、文芸批評がアクチュアルなのかどうかを批評できる思考力を、自らに求めるべきではないだろうか」と軽く吠えてみた。あれは吠えても無駄な bark at the moon だったかもしれないが、目下の自分の批評軸に合わせて、文芸批評上のひとつのアングルを提供するくらいのことならできなくはない。

それは、横光利一をその可能性の中心において、反復されるアクチュアリティとして読み直すことだ。

伊藤整が最高傑作とした短編「春は馬車に乗って」が、青空文庫で読める。

横光利一:春は馬車に乗って

妻は檻(おり)のような寝台の格子(こうし )の中から、微笑しながら絶えず湧(わ)き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣(けもの)だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛(たた)えている」
「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍から離れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは、檻の中の理論である」

「である!」。未完の遺作『旅愁』を中心に、横光利一の会話の生硬さにはマイナスの定評がある。同じ檻を扱っても、三島由紀夫の方が技術的な巧さが際立っているのがわかるだろうか。以下は、『鏡子の家』で、世界の破滅を信じているのに社内政略結婚をした清一郎へ、鏡子が友誼の言葉をかける場面だ。

「あなたは虜の生き方を選んだんだわ。檻の中へ自分から入ることで、自分が猛獣だということを証明しようなんて、あなた以外に思いつきそうもない考えね。あなたが猛獣だということを知っているのは、でも世界中にあなた一人なんだわ」 

川端康成と並んで、というより川端を先導する形で、横光利一は当時一流の知識人として「新感覚派」を牽引したのだが、戦後の名声は川端の陰でほとんどかき消えてしまった印象がある。しかし、破綻した遺作『旅愁』を丁寧に読み込んだ菅野昭正『横光利一』を通読して、あらためて感じるところがあった。

横光利一

横光利一

 

それは一文にまとめれば、「洋行」を通じて、西欧主義から日本主義へ回帰するという筋道なのだが、圧倒的な西欧主義に対抗すべく横光利一が用意するのが「古神道」であり、その「有機物と無機物を結ぶ六次元の世界の秘密」であり、その西欧対抗を止揚せんとする方向性は、同時期の悪名高い「近代の超克」路線とさほど変わらない。

自分が興味深いのは、横光の「純粋小説論」。これについても菅野昭正が詳細に分析して、(ヌーヴォー・ロマンの先駆である)ジッド『贋金づくり』を参照しているものの、実態は無関係になっているという意のことを述べている。

面白いのは、横光利一が「作家は四人称で純粋小説を書くべき」としているところ。「四人称」?と呟いて、首をかしげながら読み進めていくと、それは一人称と三人称を足し算したものらしいのである。おお、そこって積算できるのか。何という斬新なネーミング・センス!

しかし、可能性の中心に立って「純粋小説論」を読み直すと、それが一人称私小説の閉塞を、三人称で賑やかに書かれた通俗小説の側へ開いて、社会化する試みだったことがわかる。その社会化はとりもなおさず、経済的下部構造の強化(経済化)でもあった。当時「文芸復興期」とも言われた小春日和が過ぎて、次第に純文学もプロレタリア文学も急速に売り上げを落としつつあったのである。

まとめよう。横光利一が闘って敗れた往時の「西欧対日本」戦は、現代に置き換えれば、間違いなく「1%グローバリスト対日本」になるだろう。グローバリズムへの対抗意識を抱きながら、私小説的一人称+虚構的三人称(≒自伝フィクション)のスタイルで、娯楽小説の高い経済寄与性を純文学界へ波及させて生き残ろうとする試み。

西欧通ではあったものの、さして思想的学識が高くなかった横光利一が、苦闘しながら登り詰めようとしていた小説の位相は、現在の純文学小説に切実に求められているものが埋蔵されている場所と、さほど遠くないのである。鍬を振りおろそう。

ここまでこのブログを読んでくれた読者なら、それが私が試みようとしていることからも遠くないことを、理解してもらえるだろう。

抽象論ばかりでは退屈なので、反復される横光利一的アクチュアリティを備えているかもしれない小説を、ひとつ挙げてみたい。

佐藤友哉「夢の葬送」。単行本化されていないので未読だが、主人公の「放射能」が、原発から噴き出したあと、山から川を流れて水道水となり、赤ちゃんの体内に入って、内部被爆させる短編だという。

飛散した放射能は誰のものでもない「無主物」だから、東京電力はその放射能に対して何の責任も取らなくてもいい。

 このような原告敗訴の判決を聞いて、どうしてかくも莫迦げた「非倫理的」な裁定がまかり通るのだろうと怒りを覚えた人々も多いはずだ。政治―倫理的地平で小説を耕していこうとする誇りある作家なら、放射能を擬人化して主体性ある存在にして書かなければ、この国の文壇は嘘だな、と感じた。幸いなことに、純文学界にはまだ、『デンデラ』で新境地を拓いた佐藤友哉がいたということだ。

この記事を書きながら思いついたことだが、放射能を間男という設定にして、ある上級国民の貞淑な妻と、「非倫理的」ならぬ「不倫」の姦通小説に仕立て上げたら、滅法面白いのではないかと思う。

私は貞淑な人妻。でも2011年以来、どうしても忘れられない男がいるの。上級国民の夫がいる身なのに、執拗に自分に関係を迫ってくるあの男のことが、ちょっぴり怖くて、でも恋しくてたまらない。彼は、間男のように、ドローンに吊られて、屋上から私の邸宅に忍び込もうとするし、時には東日本産のワインの中に身を潜ませて、私の体内に入ってこようとする。本当は、決して結ばれてはいけない私たち。でも、いつか結ばれて、最終的には心中してしまうような予感がしてならない。それでも、あなたのことが好き。骨まで愛してちょうだい。恋は盲目よ。他の人々が何と言おうが、私はあなたに特別な感謝を抱いていることを、ずっと伝えつづけるわ。