見よ。あれらに触れよ。

とりとめのない連想を追っているうちに、ふと我に返ると、波のように連動して押し寄せていた連想のつながりがすっと引いていって、波打ち際に磨かれたガラス片が残るように、ひとつの語句だけが残ることがある。

「甘い手紙」という言葉が心に残っていて、なぜそんなことを考えていたのかわからない。手紙に捺す封蝋から蜜蝋へ連想が飛んで、さらに花芯にとまる蜜蜂の名前を思い浮かべて、何となく「ミツバチのささやき」を聴いている気分でいたのだろうか。

いずれにしろ、それは辛すぎる日々からつかのま逃避するための甘い幻想にすぎなかったのだろう。これまで、甘い手紙が来たこともなければ、助けを求めるメールへの返信もほとんどもらったこともなく、ジャーナリストに直接会いに行ったり、弁護士に相談しに東京へ飛んだりもしたが、面会を拒否されたり、そ知らぬふりをされたりしただけだった。いつだって孤立無援。

孤立無援でも、ひとりで充実した時間を過ごすなら、名画鑑賞がいい。ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」は私的生涯ベスト10に入る名作だ。

発表当時のスペイン映画界は検閲が厳しかったらしく、政治的暗喩を家族関係に織り込んで脚本化された可能性が高いとも聞く。そのような読み取りができなかった20代、自分は「愛」というものの最も原初的な形が、「未知に触れること」なのだということを、この映画で学んだような気がする。森できのこに触れ、近づいてくる汽車の遠い振動をレールに耳を当てて聞き、人民戦線敗残兵に林檎を差し出す。少女の愛らしさは、顔立ちにあるのではなく、そのような未知へとおそるおそる触れる初めての行動体験にあるのである。

 この「ミツバチのささやき」の映画名やコンセプトが、ノーベル賞作家メーテルリンクの『蜜蜂の生活』に由来すると聞いて、やはりそうだったか、と呟いてしまった。 

蜜蜂の生活

蜜蜂の生活

 

 いつからか、こういう非文芸作品の方が読んでて圧倒的に楽しくなってしまった。記憶だけで話すと、「分封」という蜂の群れが巣別れをする日は、蜜蜂たちが一切攻撃をしなくなる。女王蜂の周りに蝟集するさまは、さながら祝祭のようだ。

おそらくまだカメラが追跡したことはないだろう。確かこの本には「結婚飛翔」という一章があって、そこでは空高く垂直に飛翔する女王蜂を追って複数の雄蜂が飛翔し、一匹だけが交尾に成功する儀式についても描かれていた。そして、結婚飛翔の翌朝、雄蜂は働き蜂たちによって皆殺しにされるのである。蜜蜂たちの不思議な生態を、生彩に富んだ筆致で描いた興味深い本だ。

メーテルリンクノーベル賞受賞は、代表作『青い鳥』に負うところが大きい。メーテルリンクを未読でも、「青い鳥」が幸福のメタファーだと言うことは、多くの人々が知っていることだろう。

では、3.11.東日本大震災後に書かれた「青い花」は、小説の中で何のメタファーとなっているだろうか? あててほしい。遺憾ながら「幸福」ではない。

青い花

青い花

 

 「青い花」とは、戦後のヒロポンのごとく、国民をドラッグ漬けにする「ポラノン」の宣伝イメージなのである。

わたしはあるいている。線路をあるいている。デデレコデン、デデレコデンデン。テレビ、ラジオは連日、ポラノンのCMソング「明日は咲く」を流している。この歌は爆撃被災地復興支援や祖国防衛戦争協力をかねており、宝くじソングもうたっている顔の大きな有名歌手だけでなく、俳優、スポーツ選手、漫画家、詩人、お笑いタレントらによってもノーギャラでうたわれ、それぞれがニッポンジンであり、たがいにおもいやり、たすけあうことの満足、抗わないことの幸福を、聞く者すべてにかんじさせていた。わたしはあるいている。ポラポラ。しかし、ごく一部ではあるけれども「明日は咲く」をけぎらいするひとびともいるにはいたのである。かれらは反社会的性人格障害や敵性思想傾向をうたがわれ、それとなく所属組織や社会から監視されている。 

 小説はこの調子で、始めから終わりまで、一度も改行がない。野坂昭如セリーヌなどの小説に近く、途中「ロラン・バルトは気障」のような高踏的な思弁も入るところは、ロラン・バルトの年少の友人ソレルスに多少似ていると言えなくもない。

 東日本大震災をノンフィクションではなくフィクションとして扱うなら、どのように創造的諷刺を仕掛けるかが勝負になる。上記の固有名詞を呼び寄せるよ純文学的技量もさることながら、中心に置かれた『青い花』という諷刺が、この国の暗部にしっかり根を下ろしていることが、この小説の成功を花咲かせていると言えるだろう。

ご存知のように、ポラノンならぬ阿片でぼろ儲けした金で、政治家としてのしあがって戦犯となり、戦後にスパイとなって日本を植民地化していった血脈が、いまもなおこの国で「死の商人」に振りつけられたタクトを振るっているのだ。 

辺見庸芥川賞受賞作『自動起床装置』は芥川賞小説のお手本のような好編だった。適切な主題が適切な手法で各章に切り分けられ、盛り付けられているさまは、まるで小さな几帳面な弁当箱のようで、しかも美味だった。しかし、その小説が野心作とは対極の場所にあったのも事実だ。

ところが、四半世紀経つと作家はこうも変貌するのか。上記の『青い花』もとびっきりの文学的野心に満ちた傑作だし、その副読本ともいえるこの新書も充実した筆致で、時代の問題意識を孕んだ真剣な思考が読者を大いに引き込んでくれる。参考文献には、現代思想ドゥルーズボードリヤールの名前まである。 

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

 

 現在の辺見庸は右半身不随だとも聞くが、書かねばならない衝動に押された、まさしくひとり気を吐いているともいえる魂の気迫があるので、両作品とも間違いなく震災後文学のアンソロジーに含まれることになるにちがいない。

それが蛇足でないことを願いつつ、上記新書で金子みすゞ「こだまでしょうか」のサブリミナル効果に言及されている箇所の余白に、それが子宮頸がんワクチン普及(=日本人少女不妊化工作)の「陰謀」があったことをピンでとめておきたい。

同じ新書の冒頭で、辺見庸はハリウッド以上のシミュラークルの大津波が、剥き出しのリアルとして東日本に襲いかかってきたことを、ボードリヤールが生きて目撃したら、どんな感想を持つか聞いてみたいと書いていた。ここも勝手に数行を書き加えることを許していただきたい。

たぶんボードリヤールなら、この動画を引用して、こう述べるのではないだろうか。

海外の動画では3回の爆発音がそのまま放送されたのに、どうして日本のメディアは爆発音を消去した「シミュラークル」しか国民に伝達しなかったのかい?

ところで、充満した水素が爆発したのなら、爆発は一回のはず。なぜ三回も同じ音量、同じ音質の爆発音が連続したんだい?

私たちはこう答えるほかない。

すみません。日本人の私たちにはまったくわかりません。原発が爆発すれば国が亡びますが、原発の安全管理は、外国勢力に丸投げしていますので。

ボードリヤールであれ、誰であれ、上記の「丸投げ」の台詞を聞いた後に、まともな人間が何と答えるかを、私はぜひ聞いてみたい。

「日本人がほとほと嫌になった」 日本の古典文学を研究しているカナダ人の友人は、そういって長く住み慣れた東京を去っていった。「放射能が危ないって、ちゃんとわかっているの?」「なんで何も考えないの?」 

 『震災後文学論』のあとがきで、木村朗子は友人が立ち去って行った顛末を、そう書いている。

震災後文学論 あたらしい日本文学のために
 

私たちがふと我に返ると、波のように連動して押し寄せている陰謀のつながりが、決して引き潮になることもなく、繰り返し繰り返しこの国の波打ち際に打ち寄せているのがわかる。波打ち際で寄せては返す透明な波の下で、磨かれたガラス片がいくつも転がされてはまた引き戻され、波に翻弄されているのを透かし見ることができる。

見よ。あれらに触れよ。あれらが、私たちの死者だ。