blue out 直前の探し物

ここで分析した2014年出版の『九年前の祈り』は、「タイトル買い」で手に取る気になって、この記事で読み込んでみた。

2014年の9年前は、2005年。ちょうどこのブログを書いていた頃だ。せめてあのとき、「月が二つある世界」から抜け出せていたら、全然違う人生を歩めていたのに。そんな気がして、淋しくてならない。

同じく衝動的に「ジャケ買い」をして当たったと感じたのが、スティーナの処女アルバム。「色の記憶」があのように青く滲んで、海辺に少女がたたずんでいる感じに魅かれて、いつのまにか聞き込むようになった。

Memories of a Color

Memories of a Color

 

 もう四半世紀も前になるのか、嘘だろ。

これもほとんど嘘みたいな話だ。自分の心の中身がほとんどあの頃と変わっていないせいで、いま涙腺を幾分か震わせながら聞き惚れてしまった。

I've called you now a thousand times
もう何千回も電話した

I think I know now
もう私もわかっているはず

You're not home
あなたが家にいないことを

I've said your name a thousand times
何千回もあなたの名前を呼んだ

To be prepared if you'd be there
あなたがそこにいたら答えてくれる気がして

 

I wanted so to have you
本当に本当にあなたといたかった

And I wanted you to know
あなたに知ってもらいたかった

I wanted to write songs
私が歌を書きたがっていたことを

About how we're walking in the snow
私たちがどんなふうに雪の中を歩いているかをうたった歌を

 

You've got me slightly disappointed
あなたは私をすこしがっかりさせた

Just a bit and just enough
ほんの少しだけど

To keep me up another night
それだけで私を眠れなくさせるほど

Waiting for another day
別の朝を待つだけにさせるほど

 

The city's taking a day off
街は一日お休みで

The streets are empty
通りには誰もいない

No one's out tonight
今夜は誰も出かけない

My life is in another's hands
私の人生は別の人の手の中にある

 

I wanted so to have you
本当に本当にあなたといたかった

And I wanted you to know
あなたに知ってもらいたかった

I wanted to write songs
私が歌を書きたがっていたことを

About how we're walking in the snow
私たちがどんなふうに雪の中を歩いているかをうたった歌を

 

But there's no snow this winter
けれど今年の冬は雪が降らない

there's no words for what I feel for you
あなたへの思いを形にする言葉もない

It's not enough though it's too much
足りない こんなにもあふれているのに

Why must it always be like that?
どうしていつもこうなってしまうの?

 

The TV screen is lighting up my room
テレビの光だけが部屋を照らしだしている

The film has ended
映画は終わってしまった

Every inch of my skin is crying for your hands
私の肌の隅々が あなたの手を求めて泣いている

 

I wanted so to have you
本当に本当にあなたといたかった

And I wanted you to know
あなたに知ってもらいたかった

I wanted to write songs
私が歌を書きたがっていたことを

About how we're walking in the snow
私たちがどんなふうに雪の中を歩いているかをうたった歌を

懐かしい曲を聴きながら、若かった頃の自分に取り憑いていた強迫観念を思い出していた。少し前にこの記事に書いた。 

15歳の頃に長期入院して、20代までの生命だと宣告されたことが、少年時代の最大の事件だった。20歳の頃には、自分がどうしてここまでモローの絵に強く惹かれたり、「縫い閉じられた瞳」をモチーフに定型詩を作ったりするのか、よくわからなかった。理解できたのは、卒論の準備に迫られて、現代思想を読み込むようになった頃だっただろうか。

それらを引き算しても残る、自分にとって固有のものがその歌には二つ隠れているような気がする。ひとつは「縫い閉じられた瞳」という身体毀損のイメージ。たぶんそれには、クリステヴァがよく論じる母体切り離しによる幼児の抑鬱状態が関係しているのだろう。
そして、もう一つは「ベクトルの垂直性」。自分は第二次ベビーブームの真っ只中に生まれた団塊ジュニア世代の一員で、ご丁寧にも10歳まで本当に大学教員向け官舎で育ち、しかもエレベーターなしの5階に住んでいた。何度高所から転落する夢を見たかしれない。

上の記事で語った内容については、実はまだまだ補足が必要だ。「縫い閉じられた瞳」の背景には、たぶん(幼少の三島由紀夫が師事したという)川路柳虹のこの詩を引用しておく必要がありそうだ。手元でもネット上でも作品を参照できないので、記憶に頼って、後半の一部を書きつけることをお許しいただきたい。

くちとくち
あわすあまさにわれはみる
きみがめにうつるあをぞら

そして、「ベクトルの垂直性」の由来には、母性愛のまなざしの垂直性を欠かすわけにはいかないだろう。

 いまこれを書きながら、そうだったのか、わかってしまった、と膝を打ちそうになった。或る小説の中に強く印象付けられた挿話があって、なぜそんな小噺に夢中になってしまったのか、当時はわからないまま放置していたが、今この文脈に置くと、それがなぜだったのかが手に取るようにはっきりとわかる。

その逸話は、クープランドの処女作に書き込まれていた。長くなりすぎないようにカットを入れながら引用する。

『あら、カーティス』(…)

『会えなくてさびしかったぜ、お人形ちゃん。今度会う前に、死んじまうかと思ってた』

 そのあとの数分は、幸福感でぼぉっとしている。でも間もなく、あたしが行かなくちゃならなくなった。お客が呼んでたの。カーティスがここで何をやっているか教えてくれたんだけど、細かいところがわからなかった――LAで役者の仕事がどうとか(あらま)。でも話をしているあいだも、首をあちこちに向けて、何だかわからないものに眼を向けてる。何を見ているか訊いたら、こう言っただけ。

『ハチドリ。たぶん今夜もっと話してあげる』

(…)

 カーティスは毛布の上に寝そべって、横にスコッチの壜を置くと、あっちの方での戦争でお金のために戦ったことを話してくれた。(…)でもね、誰の名前よりも、ある名前を言いはじめた。アーロという名前なの。アーロは、親友らしいもとは思ったんだけど、何かそれ以上のもの――男どもが戦争のあいだになるもので、それ以外のことは誰にもわかんない。

 とにかく、ある日カーテイスとアーロが”射撃に”出ていたら、戦闘が命がけの激しさになったんだって。二人ともカムフラージュに包まれて、地面に伏せるしかなくて、いつでも撃てる状態のマシーン・ガンを敵に向けてた。アーロもカーティスの横で伏せていて、二人とも一触即発で撃ちたくてうずうずしてた。突然、ハチドリが一羽、アーロの瞳めがけて飛んできた。アーロは払いのけたけど、何度でもまた突進してくる。やがて、それが二羽になり、ついに三羽になった。

『あいつら、何をやっているんだ…』

 カーティスが訊くと、アーロがこう説明してくれたんだって。ある種のハチドリは青い色に轢きつけられて、それを集めて巣作りに使おうと突進してくるもので、いまはアーロの瞳で巣を作ろうとしているんだって。

(…)

 ところが、鳥たちを眼から払いのけるアーロの動作が、敵の銃火を引き寄せてしまった。二人は攻撃を受けた。そのとき、弾丸が一発カーティスの股間にはいり、別の弾丸がアーロの心臓にはいって、即死させたの。(…)翌日、カーティスは負傷にもめげずに掃討隊に加わって、戦闘地点に戻って死体を集めてバッグに入れたの。ところが、アーロの死体を見つけたとき、みんな、毎日のように死体を集めている人間にしては、肝をつぶしちゃったんだって。銃創のせいじゃなく(見慣れたものだからね)、遺骸に加えられた恐ろしい冒瀆のせいー―アーロの瞳の青い部分が白眼から剥がされていたんだって。(…)カーティスはアーロの瞼を閉じてやって、それぞれにキスしただけ。ハチドリのことはわかっていたけれど、そのことは胸にしまっておいた。 

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

 

 さて、言及すべき材料はすべて揃った。次に恋愛小説を書くまでに、時間があったら考えておきたいと思っていた問いがある。それは、どうして恋愛はかくも頻繁に青と結びつくのだろう、という問い。

例えば、記憶で引用した川路柳虹の詩で、キスをする相手の瞳に青空が映っているとするイメージは、リアリスティックに考えればかなり奇妙だ。思春期の少年が窓ガラスを相手にキスの練習をしているのなら話は別だが、どんな体勢で恋人同士がキスをしても、相手の瞳に青空が映ることなどあるはずがない。それなのに、なぜ恋人たちの口づけに当然のように青が現れるのだろう。

先に知っておいてほしい。クープランドの小説にある挿話は、実はカーティスとアーロの戦場の恋愛譚だ。戦友を越えた特別な関係の二人が、一方は心臓を貫かれて戦死し、一方は性器を負傷する。それぞれの身体部分が、恋愛上きわめて重要な器官であることに注意したい。最終行でカーティスが、ハチドリのことを胸にしまうのは、二人の「秘められた愛」を象徴している。

そしてこの挿話でも、求愛の巣作りのために青いものを集めるハチドリに、(同じく青い目をしたカーティスは狙われないのに)、アーロだけがハチドリに襲われ、戦死したあと、青い虹彩を啄まれることになる。まなざしを遮断する青の表象。カーティスからアーロへの恋情は、青に遮られて終わったのである。

記憶にある自作の一首でも、青はそこへ走って立ち会いにきたかのように、まなざしを奪われる間際に登場している。どうして?

瞠ける蒼き瞳を縫い閉じにいくごとく飛ぶセスナ機一機

それは、昼の光がやがて black out するように、終わりを迎えた恋は blue out するから。

自分はそのように考えることにしている。

終わりの予感を伴わない恋であれば、キスしながら見つめ合えば、相手の瞳の中に自分が映り、そこに映った自分の目の中に相手が映り、という具合に、二人の愛の連鎖は無限に続き、ほとんど信じられないほどの微細さで、お互いの存在にお互いを書き込むことになる。世界を恋する相手だけで満たすことができる。

恋人たちがお互いがお互いを包含しあう至福の関係に、もし小説が嫉妬したとしたら、小説はメタフィクションに変貌することだろう。写真で譬えると、コーラの壜のラベルに、コーラを飲む女性モデルが映っており、その女性モデルが飲んでいるコーラの壜に、さら縮小された女性モデルが映っているというような無限連鎖。

スティーナのこの曲でも、最も美しい「あなたに知ってもらいたかった。私が歌を書きたがっていたことを。私たちがどんなふうに雪の中を歩いているかをうたった歌を」という部分は、歌い手が自分が歌う歌について歌うメタフィクションの形を取っている。ほとんどの人は気づかないかもしれないが、これはラブソングの場合、相手への恋情の強度を暗示する手法でもあるのだ。

しかし、それが無に変わるにせよ、愛に変わるにせよ、恋というものはいつか終わる。「私たちがどんなふうに雪の中を歩いているか」を歌うはずが、「今年の冬は雪が降らない」し「あなたへの思いを形にする言葉もな」くなってしまう。

このように、恋が不可視の壁に突きあたって立ち止まらずにはいられなくなったとき、恋を失いつつある少女はどこに立っているだろうか?

その場所が「記憶の色」と題されたこのアルバムジャケットの海辺だ。写真一面が、ブルーを基調とした心象風景で、少女は行き止まりで立ち尽くしている。

と、ここまで何とか書き切った。さきほど、昼の光がやがて black out するように、終わりを迎えた恋は blue out すると書いた。今この文章を書き終えた場所も、おそらくは何かが完全に終わってしまう一歩手前。ほとんどブルー一色だ。

そこここにあったはずの事物の輪郭さえ茫洋と霞んで、手応えのない青い霧の中を手探りするように両手を宙で動かしながら、少しずつ歩みを進めているような気がしている。どうして、自分はこんなところに流れ着いたのだろう。

それはひょっとしたら、「月の二つある世界」にいる自分を置き去りにして、あの小説が終わってしまったからなのだろうか。いや、終わってなんかいない。終わる間際、自分が強く追い求めていたものが確かにあったはずで、小説が終わっても忘れるはずのないものだったのに、何もかもが虚構だったような気がして、その最初の一文字が「青」だったことしか思い出せないのは、いったいどうしてなのか。

いつのまにか、自分が首をあちこちへ向けて、見えない何かを探し求めているのは、カーティスのように、blue out 直前の青に溶け入ってしまいそうなハチドリを見つけて、その鳥で傷ついてしまうのを恐れているのか、いや逆に、青いハチドリを追い求めているのか、それとも、何もわからないまま、そのハチドリを追えば「月の二つある世界」から脱け出せるという予感に堰き立てられているのか。すべてが、刻々に濃さを増していくほとんどブルー一色の中へ、塗り込められるように溶け入ってしまい、何もかもがわからない。