the COLORS that you bring

先日書いた『火花』論で、「先輩」の彼女にこんな台詞を言わせたら… なんていう出すぎたことを書いてしまった。一昨日届いた『劇場』を、いつもの癖で冒頭と末尾だけ読んだところ、『火花』での漫才コンビスパークス」のラスト漫才に如実に表れているように、「泣き笑い」が作者最大の偏愛主題らしいことがわかった。自分の新着想がさほど的外れではなかったらしいことに、少しほっとしている。 

 新着想を加えた文脈は、後段できちんと救い出したつもりでいるし、そもそも「ここはこうしたらこうなって面白くなる」というような着想は、テクスト自体が読者の自分を通して語ろうとしていることなので、それは小説に内在していると言える。だから小説が作者のものなら、そういった出版後のレクチュールの途上で発生した新着想の水面下のざわめきも、同じくすべて作者に属するということになるだろう。  

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(以下『多崎つくる』)は、個人的にはとても読み通しづらい小説で、それはこの小説がつまらないと感じるのとは逆に、自分に響く意味素があまりにも充満していて、冷静な精神状態で読み続けることができなくなるからだ。例えば文庫本をめくり始めて数ページの描写。

  四人とは高校時代の親友だったが、つくるは既に故郷を離れ、東京の大学で学んでいた。だからグループで追放されたところで日常的な不都合があるわけではない。しかしそれはあくまで理屈の上でのことだ。その四人から遠く離れていることで、つくるの感じる痛みは逆に誇張され、より切迫したものになった。疎外と孤独は何百キロという長さのケーブルとなり、巨大なウィンチがそれをきりきりと絞り上げた。そしてその張り詰めた線を通して、判読困難なメッセージが昼夜の別なく送り届けられてきた。その音は樹間を吹き抜ける疾風のように、強度を変えながら切れ切れに彼の耳を刺した。

 さりげなく織り込まれている「判読困難なメッセージが昼夜の別なく送り届けられてきた」という部分には、まるでここ14年間、そして現在の自分のことが書かれているような心地がして、くらくら眩暈がしてしまって、とりあえず目を瞑って本を閉じてしまうことになる。この小説を読むときだけ、自分は「関係妄想患者」に変貌してしまうらしい。 

その「関係妄想」の真偽はともかく、 虚構テクストを幾通りにも読むことができるのが、文芸批評の楽しいところなのは間違いなく、批評者を29人も揃えたこの企画本も楽しく読み進められるはずだった。しかし、困惑が尽きない。この小説を冷静に読めないせいで、自分はピンと来ていなかったが、どうも評判があまり良くないみたいなのだ。どうしてだか、これらの不評の根本原因が、自分が「月の二つある世界」にいるせいなのかもしれないという気がして、酷く責任を感じてしまう。何とかして、自分の個人史上最重要のこの小説を救えないものか。

前述した理由で、この小説をきちんと読めている自信はないが、「見る前に跳べ」式の飛躍的断言を積み重ねて、辿りつける場所もあるだろう。

上記の企画本で、一番の読みどころは豊崎由美大森望の対談で、ハルキストの中にはそのあけすけな物言いに眉を顰める向きもあるようだが、考えてもみてほしい。受容理論における「期待の地平」をここまで明確に可視化してもらえる作家は、世界を見回しても数えるほどしかいない。ハルキストたちは崇拝対象の作家の幸運を称えるべきだし、読み巧者の二人が張った期待の地平だって、村上春樹なら簡単に乗り越えられるものでしかないのだから、もっと楽しまなきゃ。

二人の抱いている根本的な不満は、①シロがつくるにレイプされたと冤罪をなすりつける理由がよくわからない、②完全な密室でシロが殺されて、犯人が悪霊だというのは納得がいかない、というところだと思う。

『多崎つくる』がポール・オースター『幽霊たち』を踏まえているという誰かの指摘が、この小説をどう読むべきかという問いを、かなり前へ進めてくれている。『幽霊たち』については、この記事で少しだけ言及した。

「ミュージシャンズミュージシャン」が存在するように、同じ小説家から支持される小説家「ノベリスツノベリスト」も存在する。一般の人々が逆立ちして読んでも面白くないロブ=グリエだが、オイディプス神話の脱構築的趣きのある『消しゴム』は、大西洋を渡ってポール・オースターのニューヨーク三部作へ影響を及ぼしている。 

 オースターの『幽霊たち』の内容はすっかり記憶から消えてしまったので、『消しゴム』のオイディプス神話の脱構築的趣きとは何かを、これも薄らいで消えつつある記憶に頼って、まとめてみる。

被害者Aが犯人Bに射殺された事件を引き受けた探偵Cが、被害者宅を検分していると、不意に死んだはずのAが銃を構えているのに遭遇し、探偵Cは反射的に拳銃を撃って被害者Aを射殺してしまう。犯人Bとは自分だったのだと探偵Cは悟る。

このような結構の布置に、『多崎つくる』の中心にあるレイプや殺人といった暴力事象を照らせば、上記のオイディプスパラドックスを暴力の世代間連鎖の比喩として読むことができることに気付くだろう。例えば、或る暴力事件を「すぐそば」で目撃していた人間が、その暴力によって精神的外傷を被ったことで、それがいつのまにか暴力加害行為に手を染める人間へと成長してしまう、といった。

その「すぐそば」の位相は、ふつう「家庭内」で、加害者は親で被害者は親に心理的に依存している子供で、暴力の世代間連鎖は血脈を上から下へ流れてつながるのが通例だ。

『多崎つくる』の独創は、この垂直の暴力の連鎖を水平に展開したことにある。この小説では、「すぐそば」は溶け合うように仲睦まじかった学生時代の5人の共生に置き換えられている。親から暴力を受けた子供が「自分が悪い子だったのがいけない」と自虐的に錯覚しやすいように、シロが殺されたあと、クロもつくるも「シロが絞殺された晩、シロの部屋のドアをノックしたのは自分かもしれない」と自責の念を積極的に自分たちから表明しようとする。

暴力の世代間連鎖を、あえて同世代で小説にするなら、水平に可能性を並立させよ、とテクストが囁いているのが聞こえはしないだろうか。

わかりやすくするために凡庸な道具立てで書くと、例えば、絞殺事件の数年前に、つくるの玄関先に贈り主不明の花の鉢植えが置かれていたりするだろう。その下には合鍵が置かれている。どのドアの合鍵なのかも、そのときのつくるにはわからない。

実は、それはそののちシロが絞殺されることになるマンションの一室の鍵だ。この仕掛けによって、①はシロが救いを求めた叫びだったという解釈を前景化できる。②もやすやすとクリアだ。つまり、その合鍵が出現したことによって、つくるには、シロを救うこともできたし、シロを殺すこともできたという可能性が水平に並立することになる。しかも、シロには、大量に合鍵を作製した記録が残っていたにちがいない。アカやアオやクロなどの誰もが「自分は合鍵を受け取っていない」と主張するが、それが真実なのかどうかもわからない。合鍵を受け取っていない可能性、受け取っていたならシロを救うことができた可能性、同じくシロを殺した可能性が並立する。

「もう貸していない部屋だから」と不動産屋に内見を断られたつくるは、シロのマンションに独りで向かう。合鍵を差し込むと、部屋の扉が開く。忍び込んだその部屋で、つくるはきっとシロの幽霊にようやく逢えるだろう。つくるはシロと話すべきことを話すだろう。

…と、16年間のどこかで、謎の合鍵をつくるが受け取っておけば、読者の「期待の地平」に陥没を起こすことなく、暴力の共依存的な忌まわしい伝播力を、きれいに展開しきることができるだろう。デリダ東浩紀が言うように、幽霊がシロを殺したのではなく、誰がシロを殺したのかについて、複数の可能性が同時に存在すること自体に、幽霊が住まっているのである。『多崎つくる』というテクストが、そのようなエクリチュールとレクチュールを求めているように聞こえて仕方ないのだが、繰り返しておくと、それは私の声ではなくテクストの声だ。

ここからは、ごくごく個人的な着想になる。

幽霊のシロはつくるに、「私(の死)を理解してほしい」という言葉を投げかけるだろう。つくるは彼女が、雨粒の軌道のような揺らいだ垂線の束になって、目の前にあるのをありありと感じ、そこにあまりにも深く強い悲しみが漲っているのを全身で知覚して、涙を流すだろう。(シロと沙羅が、どれくらい遠いか近いかは別として、何らかのつながりがあるという伏線を小説前半に張っておいた上で)、シロは「どうして沙羅さんを選んだかを考えてほしい」とつくるに告げるだろう。

二つの台詞を統合して解釈したつくるは、シロが沙羅に自分の死を理解してもらいたがっていると思い込み、(だから沙羅にシロが発端となった「絶交」事件に直面するよう仕向けられたと勘違いして)、沙羅に必ずきみの思いは伝える、と約束するが、しばらくして卒然と思いあたる。そこにも並立した解釈可能性の幽霊が付きまとっていることに。

シロが、自分の死を理解してほしいと感じていた相手は、(小説冒頭で自死の可能性に思いをめぐらせていた)つくるなのかもしれない。それは真には望まざる形で至ってしまった「死」というものが、どれほど深く強い悲しみを生むものなのか理解してほしい、というシロの悲しみに満ちたメッセージだったのかもしれない。

「どうして沙羅さんを選んだかを考えてほしい」というシロの言葉は、つくるがまだそれと充分に知らずに恋愛相手として「38歳」の沙羅を選んだことの意味を、この16年間の仲間からの隔離を解きほぐしきったのちに、一新して生き直すべき人生の新たな意味として、捉え直すよう求める言葉だったのかもしれない。

そんな終わりのない着想が、泡のように次々に浮かび上がてくるのに晒されながら、いつのまにか何度目かの夜明けを迎えさせてくれるような不思議な力を、この小説は自分に及ぼしてくれる。生涯稀有のこの小説を与えてくれた作者に、感謝せずにはいられない。

「今、話してもかまわないかな?」とつくるは尋ねた。

「もちろん」と沙羅は言った。「だって午前四時前でしょう。何でも好きなことを話せばいいわ。誰も聞き耳なんか立ててはいない。みんな夜明け前の深い眠りについている」

(…)

「起こしちゃって悪かった」

「いいのよ。午前四時にもしっかり時間が流れていることがわかってよかった。もう外は明るいのかしら?」

「まだだよ。でもあと少しで明るくなる。鳥たちも啼き始める」