『君の名は。』を観る

ずっと観たい観たいと思っていたのに、多忙で観られなかった恋愛映画を、ようやく見ることができた。

涙腺の脆い自分は絶対に泣くにちがいない。そう確信していた通り涙することができたし、30枚近いレンタル棚に1枚しか残っていなかったほどの大人気通り、面白くて可愛らしい映画だった。この映画をずっと見たいと言っていた高校生を知っていて、可哀想なことに、やはり多忙で数か月も観に行けないらしかった彼は、観に行けただろうか。どんな感想を持ったのだろう。  

君の名は。

君の名は。

 

 この映画は敷居(閾)を内へ、あるいは外へと跨ぐ映画なのだと思う。

奇を衒うところの一切ないオーソドックスで丁寧に描き込まれた画面で、唯一敷居をすべるドアだけが、ネズミ目線ともいうべき超低アングルで描き出される。そこを跨いで外へ出たり、内へ入ったりしてはすれ違う運命のうら若き男女が、最終的に出会うラブ・ロマンスだ。思春期の高校生たちが夢中になるのもよくわかる。

どこかで「パラプロット」という造語を使った。一つのテクストは、パラディグマティックに平行する複数のプロットを潜在させており、自分はどんな映画を見ていても、鑑賞中に次々にパラプロットが浮かんできて、その自作パラプロットで泣いてしまうことがよくある。どこかでも語ったように、それは「自分ならもっと上手くやるのに」というように卓越性を顕示したいからパラプロットを語るのではなく、テクスト自身が顕在化した本筋と潜在化した平行プロットの両方を孕んでいるのだ。自分はそれらすべてを同時に鑑賞する作法を重んじているというだけのことで、ゲームのマルチエンディングに馴染んでいる人もきっと同じように鑑賞するはずだ。

鑑賞中に、こんな平行映画が見えた。

確かにそこにあったはずの愛を求めようとする欲望は、幼児期の異性の親の愛情の代償として、思春期に恋愛という形をとるのが一般的だ。その観点からは、滝くんの母親がいないのなら、三葉の(母ではなく)父が早逝しているなどの設定にして、入れ替わり映画としてのシンメトリーを、さらに完全にしたい。多くの田舎の政治家が長老格で占められているように、町長は父ではなく祖父が務めていそうだ。

「入れ替わり」「かはたれどき」「口噛み酒」など、超自然発生契機が盛り沢山なのは、そういうのが好みな自分には気にならない。ただ、かはたれどきが終わっていき、ご神体の近くで出会った二人がお互いがお互いを見失い、一種の譫妄状態の中でお互いの名前を忘れていく場面は、もっと精細に見たい気がした。身体の境界線を記憶が跨いで出ていくのだから、アニメならではの身体感覚に愬える描写ができそうだ。

実は必要があって、映画を見る前に、かなりの情報収集をしていた。或る評論家が「タイムパラドックスを使って自然災害をなかったことにしてハッピーエンドというのは、東日本大震災などを逃れがたく体験した人々にどう響くのか」といった批判を述べていた。そのような真っ当な発言を自分は重く受け止める性格だ。

映画を見ているうちに、ああ、そうか、あの批判を打ち消すのにはこうすれば良いんだな、と思いついたことがあって、それは主人公の男女を不和家庭の出身にして、滝くんの亡母と三葉の(上記パラプロット上での)亡父が不倫先、もしくは駆け落ち先で別の disaster で亡くなっており、そのことを両家がひた隠しにしているのを、二人それぞれが探求していくミステリーも、同時にプロットに織り込めばいい。そう感じたのである。

映画の冒頭、土建屋の息子にエヴェレットの多世界解釈に言及されて吃驚したが、平行宇宙に3年間のねじれを組み込んで造型できる手腕のある作者なら、自然災害で死んだ人と生き残った人の並行宇宙をうまくねじり上げて、二人の血筋に織り込むことなど朝飯前だろう。そうすれば、災害による父母の恋愛不成就→父母の災害死を忘れない→災害回避による若い二人の恋愛成就、というウェルメイドにできる。

となると、必然的に映画は長くなり、長くなればダイレクトに製作費が跳ね上がることになるが、初期の宮崎駿のアニメが持っていたほとんど偏執的なプロット密度の高さを思えば、この映画はまだまだ映像の流れに隙間があるような気がする。プロット密度を高めて、観客たちのリピート視聴を誘う余地は、映画に、そしてこの監督の素晴らしい才能の中に、まだまだありそうな予感がしたのだ。

上記は、映画を見ている間に思いついた戯言で、自分でもすぐに忘れてしまうような泡の数々なので、なるべく読み流してほしい。

個人的に胸にぐっと迫ってきたのは、例によって普通の観客ならほとんど何も感じないような場面。自然災害から町民が残らず生き残ったハッピー・エンドの世界で、観客はもう残るは運命の二人が出会うだけだとわかっているのに、滝くんがなぜかしら湖のある田舎の風景に強く魅かれて、スケッチをする場面。

自分を取り巻く世界は平和なのに、可能性としてありえたかもしれない何か、失われてしまったかもしれない何かに衝き動かされて、スケッチの鉛筆を走らせているさまに、強い感銘を受けた。それが虚構を紡ぐ創作家の、一瞬だけ現れた自画像のように見えたのだ。

自分が平和な世界にいて、落ち着いた精神状態で虚構の制作に打ち込める状況にあったのは、もうずいぶん昔のことのような気がする。

何が起きているのかまったくわからない。どうしていいかもまったくわからない。誰か早く自分の人生を映画にして、この14年間に何が起こっていたかを教えてくれないだろうか。