世界の終わりとアンジェリック・ワンダーランド
「ホールデン・コールフィールドみたいとかなんとか 言われて ご機嫌になるようなタイプ」
とか、そんな風に言われたことはないし、ご機嫌になったこともないけど、むしろどっちかっていうと「Happy Sad」に近いとか、言われたっけ? ま、そんなことは大事じゃなくて、少年饒舌体で打ち明け話をしようと思っただけのこと。ホールデン君のいうとおり、後悔するに決まっているけれど。眠いんならもう眠った方がいいよ、とか、言ってみたけど、きみ誰だったけ? 嘘。忘れたフリをしておくよ。村上春樹が『ライ麦畑でつかまえて』は語りかけている相手の you が大事って言っていて、本当にそうなんだな、you know. そんで、彼の『色彩のない多崎つくると 彼の巡礼の年』っていうのが、先行テクストにアイツがいるぜ、って誰かが噂していて、またその話か、と思ったというわけ。
アイツっていうのは庄司薫で、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の他に「黒」「青」「白」があるから、カラバリが似ているって話。でもさ、薫くんは、ずいぶんなインテリなんだぜ。何てったってアイドルな政治学者の丸山真男の「薫」陶を受けてるってんだから。ちがう、ちがう、ちがう、ってここは三回言っておかなきゃ。さっき言った小説とも似ていないし、薫くんとホールデンくんだって、ダチョウとカンガルーくらい似てないよ。ホールデンくんは中高一貫校を追い出された17歳、もっと俄然軽いんだ。
モラトリアムの男の子が女の子とデートしたり、大好きな妹と将来の夢を語ったり。会話するなら、きっとこんな感じ。
「え、ぼくの好きな女の子のタイプ? ほとんど考えたことないけど、強いて言うなら、PUFFYの真ん中のコかな」
「真ん中のコ? 二人組じゃなかったっけ?」
「え、きみには見えていないの。歌っている二人の後ろで、一心不乱に透明な白のパンダを並べているコ」
「…というか、いないでしょ、そんなコ。それに『透明な白』って矛盾していない?」
「そうか… きみももうすぐ見えようになると思うんだけどな。だって『透明な白』って天使の色だから。あ!」
(と小さく叫んで、彼女の肩のあたりを驚き顔で凝視する)
「なに? 私の肩に何か付いている?」
「…翼が見える! 『透明で白』の天使の翼が!」
と、だいたいこんなルーティンで、女の子を喜ばせようとしたり笑わせようとしてきたんだけど、不思議だな、上手くいったためしがないんだ。女の子全員にそんなこと言っているんでしょう!とか、この詐欺師、ペテン師!とか、罵倒までされたりして、もう踏んだり蹴ったりだ、と、妹のゆみりんに打ち明けると、あっけなく笑い飛ばされちゃった。
ゆみりんっていうのは、えみりんの妹分で二人は血はつながっていないけれど、Emi-Yumi の仲良し。ぼくにはもったいない妹で、あれ、全然うまく言えないや。いつも表情が屈託のない明るさで、ここで話したチコの実が最初に「それ!」って芽を出す感じの Best and Brightest な妹って言えばいいかな。はは、この場合は「最高輝度」って意味だけどね。
それ全然間違っている!って、ゆみりんはあきれて、駄目な兄を叱るわけだ。
「その言い草は確かに詐欺師っぽいし、ペテン師っぽい。そういうのって、本当に無垢な女の子にしか言っちゃダメなのに」って、これには参っちゃった。ぼくは大して取り柄もないから、女の子に何を話していいかわからない、ってここはもう軟弱まる出しで、ゆみりんに泣きついてしまった。すると、自分の良いところを自然に見せるのが大事なの、とか、これは母さんの口真似をしたご立派な訓示。ああ、もう、てんで駄目。まるで自信がないや、って顔で口をへの字にして泣きそうな顔でいると、兄貴はくしゃみの仕方が可愛いよ、って、おい、本当かよ。これは本人も初耳のチャームポイントだ。
確かに、「はっくしょん」とか「へっくしょん」とか普通の発声でくしゃみができなくて、「っくしょん」とか「っくちゅん」とか、どうしてもハ行が抜けてしまう癖がぼくにはある。何ていうのかな、ハ行は魔物っていうこと。蜷川幸雄演出の『身毒丸』最大の難関は「継母! 継母!」って絶叫するシーンで、そこで「ハハ!」をうまく絶叫できた天才少年は、今やキンキンに冷えた床に頬ずりする名俳優だ。
でもさ、きみはどう思う。デート中に、男の子がハ行なしで可愛いくしゃみをしたとして、女の子の気持ちは揺れるものなの? ああ、こういう助言をされると、遊園地に連れて行って回転木馬に乗せてあげたくなっちゃう。まだ恋愛の機微を知らない子供なんだ、ゆみりんは。
でも、本当に無垢な子にしか言っちゃダメっていうのは当たっているから、天使の見分け方を勉強しなくちゃ。
- あふれる愛情の持ち主で、それを求める子供たちに愛を与えてあげられる
- 助けを求めている人の声なき声が聞こえる
- 感情感応力が強くて、涙をもらって、笑顔をあげられる
リストはまだまだ続きそうだけど、恋愛映画も研究しなくちゃということで、今度はノートがどんどん名台詞の抜き書きでいっぱいになっていく。絶対にどこかで使ってみたいなあ、って、これはきみは聞かなかったことにしてくれよな。
「安心した、どうやら人間みたいだ。さっきまで、ひょっとすると、天使じゃないかって心配してたんだ」
「君が空から降りてきた時、ドキドキしたんだ。きっとステキなことが始まったんだって」
『君の名は。』っていう人気アニメももちろんチェック済みで、そうか、二人は「偶然」東京の電車の中で再会するのか。つまり、東京で電車に乗って「偶然」を待てばいいんだな、って思いこんで、ずっと山手線に乗ってぐるぐる回っていたんだ、夢の中で、幾晩も。
待ちくたびれると、17歳向けのこんな現代詩を口ずさんだりもした。
舗石はときどき海よりも透きとおり
ひるがえりながらぼくはレールを跨いだ
見知らない停留所でぼくは電車を待った
うつくしい木枯らしが渦をまき
襟を立てたあなたとそこでわかれて
ぼくのさようならもひるがえし
あなたの燃える頬は襟かげにかくれ
ひとりぼくはひそやかな電車に乗った
それでもあなたにあえなかった
五行目で二人は会っているような気もするんだけど、天使って、いると思えばいて、いないと思えないないものだから、なのかな。それに、かといって、逢いたいときに現れてはくれない天使的気まぐれの持ち主でもある。そういうことを言いたいのかな、天使ってくしゃみみたいなところがあるもんな。そう思いながらその現代詩を読んでいた。
でも最終行の通りだった。天使らしき女の子にはちっとも会えなかったんだ。チッてやっぱり舌打ちしちゃうよ。夢の中なんだから、夢を叶えてくれてもかまわないじゃないか。神様はちょっと怠惰なんじゃないだろうか、まったく。
とこうするうちに、電車がどこかの駅に着いた。降りなきゃ。まだ未練たらたらのぼくは降り際、何が詐欺師だ、って毒入りの呟きを洩らしちゃった。最高の恋愛アニメだっていうからプラグマティックなアプローチで真剣に見たんだぞ、とか。むしろそっちこそが…と言いかけたとき、気まぐれなタイミングで、鼻が急にむず痒くなって、…テン師だ、って言っちゃった。いつものようにハ行が抜けちゃったんだ。
すると、背後の降車したドアの向こうで、誰かが振り返った感じがした。ぼくも振り向くと、可愛らしい女の子が不思議そうにこちらを見ていた。そうか、ひょっとしたら、ぼくは彼女の種族名を言い当ててしまったのかもしれない、と思いついたときには、電車のガラスの扉はもう閉まっていた。電車が無慈悲に動き始める。
その時の映像をぼくはスローモーションのようにはっきり覚えていて、「二人の生存の間を、一枚の透明なガラスが、無限の速度をもって、とおりすぎるのを彼は感じた」と、昔の小説で言い換えてもいいんだけど、どうしても付け加えておきたいのは、振り返った彼女の肩に「透明で白」の翼があるのがはっきり見えたこと。あ、と小さな声が出て、今だ、ここで使わなくていつ使う、と思って、「君が空から降りてきた時、ドキドキし…」と言いかけたけど、その声はあっけなく電車の音にかき消されて、ぼくはぼくで、っくちゅん、鼻のむず痒さがとまらずに、まずい、次のくしゃみで夢から覚めてしまいそう、覚めたくない。
っくちゅん。
と夢から覚めて、その天使といつかまた偶然会うことを願いながら、いまこの最後の注意書きを書いているところだ。
「この短編小説は -ction であり、実在の人物や団体とは一切関係ありません」