Cry for the Moon

昨晩は0時過ぎに就寝して、6時に目覚ましをかけた。4時間前後の睡眠不足の日々が続いていたので、昨晩くらいは睡眠を分断しない方がいいという判断。5時半過ぎに、死者をも蘇らせるような凄まじい雷鳴が鳴り響いたのに叩き起こされて、そこからシャワーを浴びて、いまこれを書いている。

 中3の夏は大学病院に長期入院していた。だから、中2の夏のことになる。クラスの中で相対的により格好がついていてより色気がついている男女8人で、近くの島に一泊で遊びに行った。女子の母親ひとりが監視役で同行した。ところが、真夏の海へ遊びに来たというのに、何と、可愛らしい女子たち4人が一度も水着にならなかったのだ。

自分も含めて、中2の男子たちは憐れなほど落胆して、真夜中の砂浜でアルコールを飲みながら愚痴り合い、叫び回った。本当に莫迦だったな、中2の夏。あの子たちは可愛らしいだけでなく気立ても優しくて、おそらく或る周期的事情で水着になれない友人を置き去りにできなくて、全員が同じ平服を貫き、しかもそれが誰のどんな理由によるのかを莫迦な男子たちには秘匿したのだろう。

それを知らない男子たちは男子で、散々愚痴っているうちに、初めて大量に摂取したアルコールに翻弄されて、ふらふらになりながら砂浜を駆け回った。走っていると、行く手に巨大な砂の壁が立ち塞がって、あ、危ない、背走して逃げようとするが、砂の壁が自分へ向かって倒れ込んでくる、潰される!

そう心の中で叫んだ次の瞬間、自分は砂の壁に叩きのめされて砂まみれになっていた。酔っ払って足元がもつれて、自分が砂浜に倒れ込んでしまっただけだと気付いたのは、それから数秒たってからのことだった。

やがて、二手に分かれて打ち上げ花火を互いへ向けて撃ち合うスリリングな遊びが終わると、4人で砂浜に寝そべって話をした。この夏を忘れない、とか、20歳になったらまた同じメンバーで夏に集まろう、とか、月下の砂浜で、中学生が言いそうな子供っぽいことばかり喋っていた。

なぜこんな逸話を語ったかというと、Cry for the moon に「ないものねだり」とルビをふることを思い出したから。中学生の頃は、20歳になれば何でもやりたいことをできると信じていた。「幸福とはやりたいときにやりたいことをやれること」と定義する人もいる。例えば、話したい相手と話をするとか、書きたいことをブログに書くとか、休日に読みたい本を読み耽るとか、そういう何でもないことが自分に許されないのは、いったいどうしてなのだろう? それは本当に「ないものねだり」なのだろうか。

幸福はいつやってくるのだろう。それとも、その到来を永遠に妨害されつづるのだろうか。

「20歳になったらまた夏に集まろう」といった友人は、たぶん中学生が憧れがちな「大人の恋愛」のことを考えていたのだと思う。しかし、子供の考える夢想なんてたかがしれたもの。天才的な感性を持った稀有の心理学者に「夢」を語らせないと、話は面白くならない。こんな奇想天外な自伝と知っていたら、もっと早く読んでいたのに。どうして誰も語りたがらないのだろうか。

[引用者注:臨死体験をしてからの] この幾週間かは、私は不思議なリズムのなかで生活していた。昼間はいつも抑うつ的であり、憔悴し、みじめに感じ、ほとんど動こうとしなかった。(…)夕方ごろになると、私は眠りこんで、ほぼ真夜中まで眠り続けた。それから私自身に立ち返って、約一時間目覚めていたが、その間は全く違った状態であった。まるで私は恍惚状態(エクスタシー)にいるようであった。(…)このときだけ、私はなにかを食べることができ、食欲が進んで食事を摂ったので、看護婦はこの真夜中に、食物を暖めて運んでくれた。(…)私が彼女をみたときには、彼女の頭のまわりには、青い後光がさしているように思えた。私自身がバルデス・リモニム、つまりザクロの庭にいるように思え、しかもそこではティフェレト(栄光)とマルクト(王国)の結婚が行われていた。あるいは、私は律法教師(ラビ)のシモン・ベン・ヨハイで、来世におけるかれの結婚式が挙げられていると思えた。それはカバラ的伝統にのっとった、神秘的な婚姻であった。いかに素晴らしいものであったか、言葉では伝えることができないほどである。私はただ、「今いるのはざくろの庭だ。今、行われているのは、マルクトとティフェレトの結婚式だ」と考えつづけていた。その結婚式で、私がどういう役割を果たしているのか、はっきりしなかった。結局、結婚式が私自身であった。私の至福は歓喜に満ちた婚姻の至福であった。

この記述を含む自伝を書いたのは、フロイドの弟子であるカール・グスタフユング。自伝の後編は文章も平易だし、とにかく書いてあることがぶっ飛んでいて面白い。錬金術への没頭、夥しいシンクロニシティ臨死体験、死者との対話など。普通の人が簡単に「アッチの人」とラベリングして遠ざけるところを、自分はユングが「コッチの人」なのを、ほとんど祝福に似た僥倖と感じてしまうタイプ。特に、この14年くらい自分の周辺で頻発しているシンクロニシティの真相を見極めたいという気持ちが強い。

というわけで、さっき図書館へ行って期待していた本を手に取ったのだが、ここに書けそうなことはあまり見当たらなかった。同じ著者の前著『シンクロニシティ』は、遠藤周作が夢中になって読んで絶賛したらしい。

賢者の石―カオス、シンクロニシティ、自然の隠れた秩序

賢者の石―カオス、シンクロニシティ、自然の隠れた秩序

 

 訳者の解説が犀利なので、デーヴィッド・ピートが到達したところ(非ユニタリー性)と未達なところ(恣意的な科学知識の応用)をうまくまとめてくれている。自分が気になっているのは、量子力学の分野からどのようにシンクロニシティの解明へ肉薄しているか、だったが、量子論に充てられている章は、おおむね1927年のソルベイ会議での討論の時点とさほど変わっていない。(「シュレーディンガーの猫」など)。 

ソルベー会議 - Wikipedia

ちなみに、ソルベー会議は物理学の国際会議で、人文諸学の国際会議の名地はフランス北部のスリジー=ラ=サールにある。デリダやロジェ=グルニエの顔も見える。 

自分がいま一番知りたかったことだけに、失望は大きかった。結局一流の心理学者のユングと一流の物理学者のパウリの共著以来、シンクロニシティへの「科学的アプローチ」は前進していないということなのだろうか。

自然現象と心の構造―非因果的連関の原理

自然現象と心の構造―非因果的連関の原理

 

 失望したからといって、『賢者の石』に読みどころがないかというとそうではなくて、科学ジャーナリストとしての該博な知識をうまく取捨選択して、面白い読み物に仕上げている。冒頭で、ヒュー・ブロディの先住民のフィールドワークを応用して、現代人の地図と先住民の地図がどれほど異なるものなのかを、引用しているのも興味深い。

 ヒュー・ブロディのことを知ったのは、10年以上前にこの記事を書いたときのことだっただろうか。ヘミングウェイレニ・リーフェンシュタールの周辺を、何かを求めて探し回っていた。

 2017年の今なら、アメリカでは著名なこの文化人類学者のフィールドワークの成果を、You Tube で確認することができる。

先住民族の人々が、前半に民族と土地の結びつきについて、後半に民族の共同体的記憶の伝承について語っているのを記録しているようだった。

 先住アメリカ人の中には「頭の中に地図がある」と言う人がたくさんいる。その地図をたどれば、祖父母が経験したすばらしい旅まで再現できるという。そこには猟で通った道や、けもの道の記憶も入っている。それはまた、儀式や土地にまつわる四季折々の話であったり、種族の歴史や聖なる場所の情報であったりもする。子どもが火のまわりに座り、長老の話や歌に聞き入っていると、木々をわたる風や石のなかの声が現実となって現れる―――それが地図なのだ。

ある地点からある地点への順路を示す現代的な地図はデカルト座標的な空間概念の中にしかないが、いわば先住アメリカ人の地図には種族の歴史的記憶を伴った「時間軸」が加わっているのである。

言われてみれば、私たちはしばしば空間概念のはずの地図を、個人史の中に置きたがる。人生という旅をどのように歩むべきかという問いの答えを、地図の暗喩で考えることが多い。というか、地図のようなものとして考えるべきなのではないかと自分は思う。

先住民の地図から少し離れながら続けると、これはニーチェの云う永劫回帰をどのように「再生産」するかという問題に深い関わりがある。ニーチェは、いま生きている自分の人生が何万回も永遠に繰り返されるという考えに吐き気を催しつつも、その生を肯定する強度を持つことに重点を置いた。「差異と反復」の哲学者ドゥルーズは、それを永遠に反復されるものは差異だけであると、ほとんど正反対に読みかえてしまった。ジンメルニーチェ流の永劫回帰に就きつつも「同一反復されるので倫理的たれ」という定言命法を引き出し、ベンヤミンは異様に悲観的な革命家ブランキの永劫回帰解釈に影響されて、ニーチェから遠ざかった。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185403/1/dbk03900_%5B131%5D.pdf

自分が最も親近感を感じるのは、ヤスパース永劫回帰解釈。「偶然によって生じた限界状況」を引き受けることに「運命愛」を見出すという考えだ。小林秀雄も運命愛を肯定しているが、無数にありえたはずの異なる道が同時に存在しうるものだという認識が弱い。つまりは赤線を引いた自分の選んだ道以外の街路がぼやけて、赤一線しか見えづらくなっている。その赤一線の旅に運命愛で同化してしまうので、批評家なのに批評対象へ同化しやすく、名人芸であるとはいえ、「実感批評」とほとんど重なってしまうのが彼の難点だったのかもしれない。

自分が大切にしようとしているのは、世界大の地図の全貌を視野に入れられること。視野に入るだけの異なる可能性とともに生きること。ヤスパースのいう「限界状況の偶発性」は、それに近いのではないだろうか。

文芸批評で自分がよく口にするパラプロットとは、主人公などにとって、ありえたかもしれない別のシノプシスのこと。物語や小説に精通することによって、そこに書かれていないはずのパラプロットが見えるようになったことが、自分の存在論的なパースペクティブにも波及したような気がする。無数にありうるだろう可能性としての異なる自己が、見えるようなった気がするのだ。その平行自己は、別の平行世界にいるかのように空間的に分岐して存在している場合もあれば、時間軸に沿って輪廻転生して来世や過去世として存在する場合もありそうだ。最近の自分を賦活してくれていたのも、隣の隣くらいの近所にある平行世界で生きている平行自己だった。アイツがあんな嬉しそうな笑顔をしているのは、ほとんど見たことないな、とか、幸せになれよ、とか、そんな感想とともに、嬉し涙で目が潤んだりもしたのだった。

さて、ヒュー・ブロディやレニ・リフェンシュタールのアフリカには、ちょっとした零れ話がある。いま手元にはないが、写真集の概要はこんな感じなのだろう。 

nuba レニ - Google 検索

写真集『NUBA』の中の或る少女にいたく惹かれた日本人モデルの山口小夜子が、酷暑のアフリカでも崩れない化粧をあの美貌に施して、そのヌバ族の少女に逢いに行ったのだ。少女は中年女性へと成長していたが、テントの中へ案内されて山口小夜子を見た途端、唖然として恐怖で魂を抜かれたように完全にフリーズしてしまった。

山口小夜子 未来を着る人

山口小夜子 未来を着る人

 

 山口小夜子は70年代にパリコレ初のアジア人モデルとなった女性で、あたかも日本人形のような顔立ちが「オリエンタリズム」の文脈で受け入れられたモデルだっだと言えるだろう。ちなみに、エドワード・サイードの名著『オリエンタリズム』は、山口小夜子のパリコレ登場の6年後の著作だ。

文化的文脈が異なる人からは、同じものが違うものに見える。ヌバ族の女性からは、美白で細い釣り目の山口小夜子が、女神か悪魔かのどちらかに見えたのではないだろうか。そうとしか思えないような完全フリーズだった。 

 しばしば誤解されるように、サイードは西欧のエスノセントリスムを告発する民族主義者ではなく、文化のここそこの文脈に伏在する「政治性」を丁寧に拾い上げる繊細な手つきに、その美質の多くがある思想家だった。サイード自身は西欧のクラシック通のピアニストでもあった。いつだって、話はそれほど単純ではないのだ。

 サイードは2003年に亡くなり、山口小夜子も2007年に亡くなった。「小夜子」という好きな名前も、夜の中へ溶け入ってしまった。

月を見上げながら砂浜に寝そべっていたような気がしていた。今晩もとりとめのない話を長く喋りすぎたかもしれない。なぜそうしなければならないかもよくわからないまま話し出した百夜一夜物語の中で、またすっかり迷子になってしまった気分だ。

立ち上がって、背中についている砂を払おう。待っていてはだめだ。月のわずかな明かりを頼りに、迷子なら迷子らしく、彷徨いながら夜明けがありそうな方向へ、自分から自分の足で歩いていくことにしよう。今そう心に決めたところだ。

 

 

 

 

Deep is the midnight sea,
Warm is the fragrant night,
Sweet are you lips to me,
Soft as the moon and sand.

  

深みがあるのは真夜中の海
暖かいのは香り豊かな夜
甘いのは重ねる唇
その柔らかさは
今宵の月と砂のよう

 

Oh, when shall we meet again
When the night has left us ?
Will the spell remain?

 

夜が二人を置き去りにしても
いつかもう一度逢えるだろうか?
この魔法は解けずに残っているだろうか?

 

The waves invade the shore
Though we may kiss no more
Night is at our command
Moon and sand
And the magic of love.

 

波が浜辺に打ち寄せてくる
あのキスが最後だったとしても
夜はぼくたちの思いのまま
月も砂も
この魔法のような恋も