フレンチ天丼的目覚めを待ちながら

勝手気儘に書き流しているように見えて、このブログはさまざまな制約を受けながら、状況を打開するために書かれているものがほとんどだ。一昨晩の記事は「天使に魅せられて美バラードばかり引用せずに、秋晴れの爽快感のある記事を」との要望を受けて書いたものだし、ブログ記事の back number を振り返ると、この記事は「春を歌にして」というリクエストを受けたと思い込んで書いたもの。後で人気アーティストの曲名を勘違いしていたことを知った。

昨晩の記事の後、「もっとフレンチフライのようにからっと揚げてほしい」というリクエストが来たような気がする。OK。フレンチはどちらかというと得意分野だ。

昨晩の記事で渡部直己後藤明生論を取り上げた。批評の結末部分では、やはり論旨が1968年のフランスの五月革命へと接続される。自分の生まれる前の異国の事情には詳しくないが、翌年のフランスではこんなエロティックな歌が流行したはずだ。

グランドピアノにジェーン・バーキンを寝そべらせて、鍵盤に向かって煙草をぷかぷか吹かすものの、ピアノはまったく弾こうとしない。しかも、たぶん口パク。この最高度のお行儀の悪さは、不良中年の面目躍如というべきか。

一方、昨晩の記事では、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の韓国語翻訳者のこの書物にも言及した。若い頃の自分の「感情教育」の履歴上、前者の方がしっくり読めるものの、後者がつまらないと感じたわけではない。

 大陸で生まれ育った文学者のリストの中に、後藤明生だけでなく、安部公房天沢退二郎の名前がしっかり刻まれているのが好印象で、世界的な名作『砂の女』を代表作に持つ安部公房の「砂」が、元を辿れば満州由来であり、安部を導いた「砂漠について」を持つ花田清輝も、戦前に満州での長期取材経験があったことを語りたくなる。この「砂のカップル(上野俊哉)」には、引き揚げ者としての共通記憶があるのである。

しかし、今晩の注文は中華ではなくフレンチだから、話を天沢退二郎に戻さなくてはならない。実は天沢と蓮実重彦は東大仏文の同級生。二人とも、フランス系知識人の登竜門と言われる難関のフランス政府給費留学生に選ばれている。フランス政府が留学費用を負担してはくれるものの、当時の渡仏は何と一ヵ月の船旅だった。天沢のエッセイを引用しよう。

八月廿五日、数時間にわたる見送りの末に横浜からヴェトナム号で出港。疲労困憊の一日だった。一か月の船旅(…)のあと、マルセイユからひとり旅。(…)パリでの十五ヵ月については、ヘミングウェイの「もし誰でも運よく青年時代にパリに住んでいたら、残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは自分についてまわる。パリは、持って歩ける楽しい祭りなのだから」(『移動祝祭日』)という言葉を引用することで、一応、済ませておこう。

天沢退二郎が船でパリに渡ったのは、1963年。それより1年早く難関の留学生試験に合格した蓮実重彦の思い出話に、やはり「ヴェトナム号」が登場している。

新潮 立ち読み:2016年7月号 第29回 三島由紀夫賞【蓮實重彦・受賞記念インタビュー】小説が向こうからやってくるに至ったいくつかのきっかけ

では、天沢退二郎蓮実重彦はどのような仲だったのか。ゴシップ情報には興味がないし、その種の情報も流通していそうにない。記録として残っているのは、ロブ=グリエの或る作品を共訳したことと、蓮実重彦天沢退二郎に宛てた「モンスター書評」くらいだろうか。いや、本当に化物だ、あれは。

その前に、天沢退二郎の詩人としての転換点が、「天丼」にあることを確認しておかなければならない。かつて、日本のコクトーと言われた西條八十がやはり人生の転換点として天麩羅屋を開店し、先駆的な仏文学者である堀口大学らが通ったことは、ここに書いた。

天沢の転換点となったのは「創世譚」という詩。自分の偏愛詩編だ。

ある日新鮮なホンダワラ
少女の死体にとんできてからみつき
ぐいぐい街路に曳いて走りだした
陽はたちまち水分をなくして
ストンとポンコツ車の上におっこちた
アカリがなくちゃ堪らないからみんな
自分の娘の首ひっこぬいて戸に挿した
新聞いっせいに花のように美しくなった
家々は笑った道がはためいて
どんどん剥げた剥げて剥げて
町じゅうが痛みを歌にうたった

 

ある日新鮮なホンダワラ
おれたちの足首にとんできてからみついた
おれたちの胸いちどきにかたくなり
扇形にひらきながら海へ舞い上がる
おれたちを繋げてるのは敵の唾液
お Help! 死んだ少女の唇のへりから
ながながとたれている唾のひもよ!
そのひもを伝って再び血よ流れよ!
しかしホンダワラはいよいよきつく
おれたちの足首にくいこんだ
その緑の体液がみんなを養いだす
畜生! むしろ天どんをくわせよ!
(…)

  この「天丼」詩には思い出話がある。高校時代、普段あまり話をしないヴィジュアル系マチュアバンドのヴォーカルが接近してきて、「作詞が難航しているので参考になりそうな詩集を紹介してほしい」と頼んできたのだ。天沢退二郎を貸すと、しばらくして思いつめた表情で「せっかく貸してくれたのに悪いんだけれど、俺はホンダワラは歌えねぇ」と返却してきた。なぜ。曲調次第で絶対にクールになるのに。そのあとに貸したボードレールの『悪の華』は気に入ってくれたが、彼のバンドは何かが足りなかったせいで評判にはならなかったようだ。きっと歌詞に海藻が足りなかったのだろう、という回想話。 

この「天丼」詩をターニングポイントにして、天沢退二郎の詩風は、「喉がとつぜん裂けて砂をふきだす」かのような革命と戦慄のイメージ群から、天丼的なユーモアを伴いつつ、人々の眠っている物語的記憶を呼び覚ます「語り部」の憑依そのものを、詩にしていくようになる。その転向は、端的に物語を意味する「譚」という詩名の頻用としても露呈することとなるが、その名も『譚海』と名付けられた詩集に寄せた蓮実重彦の書評が、何とも凄まじすぎるのだ。

え? 蓮実重彦の文章はもう読みたくないって? では、一文でいいから、書評の冒頭の一文でいいから、読んでもらえないだろうか。

 まさか北とは断言するものもいまい方位に向きなおった言葉のことさらえがらっぽいしわぶきの一瞬を不意撃ちしたと得意満面言いはるわけではないが、さりとてその該を擬したせきこみにもれる踵の記憶を嘘のための嘘だと白状したりもせずに、ただ紡錘形の防水装置に朝をあきないながら乾気と湿気を同じ仕草で引きながしていただけの言葉たちが、開くあてもない落下傘を幾枚も幾枚も宙に吊りそこねたときばかりはまぎれもない気温の変動を椅子から吸いあげて、そんな椅子の足はとってしまえ、とりはらってしまえと殺気だって車座となり、熟れた指さきの連帯を憂れえたというのだから、所詮は一拍おくれの拍子木だと多寡をくくる言葉たちが悲劇を笑うのも無理からぬことのいきおいというものだろうが、そんな言葉たちは、「七重の渦巻」に「指でふれ」たつもりになって、「時潰け」にされたという「宇宙」は「よみがえ」った「明日」とやらを、月曜日か ら律義に始めてほれ火曜、ほれ水曜、木、金、土曜とこともなげにたどったあげく、いざ日曜日の休息に軽く片足をかけたところで、事態が主人より前の「言葉たちに導かれてはおらず、まぎれもない「言語より前の『主人』たち」に従って進展してしまうさまに一瞬色を失うのだが、奪われたまま沈下するともみせぬその色彩(とは、だが、どんな?)に救われたと信じればもうしめたもので、おのれの一瞬の驚愕を甘美な錯覚と錯覚し、「……」としたたり落ちるわけもない言葉の汁にまるく両手をかざしてみたりもするのだろうが、そんな言葉を下敷がわりにする連中にとって、後生大事にうけとめられた種々は、いくぶんか塩味を含んだ日曜日の「温泉場」に白いうろこの腹を逆だてる「血の神話」であってくれさえすればそれでもう充分であり、あとはただ譚が譚として野菜の残酷さで譚化されようというものだ。

念のため再確認しておくと、これは書評だ。

何を言いたいのかさっぱりわからないというのが普通の反応だろう。自分は蓮実と天沢を同時に理解している絶滅危惧種であるとの自覚があるので、渾身の超訳を試みた。こんな感じだろうか。

悲劇的宿命として、詩人は常に詩より遅れてくるものであるはずが、天沢の詩は主人となっている詩人に支配されてしまっている。しかし、詩に満ちた文彩の豊かさがその欠点を救っており、それゆえその文彩の豊かさを「誤った神話」として崇拝すべく、エクリチュールの現場の厳しさを知らない休みっぱなしの頭脳と感性の持ち主たちが集まってくるだろうが、天沢の詩は残酷にも彼らを通り過ぎて、ただ「譚」化の道を疾走するだろう。

蓮実重彦がやはり化物だと思うのは、ポスト天丼的な天沢のユーモア志向や物語志向をしっかりと語彙レベルで感受した上で、それを使って詩ではなく詩論を展開し、かつ、『譚海』の詩群から語彙を拾って再構成しつつ、そこへ至る前詩集『血と野菜』などの詩的遍歴をも盛り込んでいる点だ。しかもわずか一文で。

これが同級生の東大仏文の「戦友」へ向けた蓮実重彦なりの友愛の表現なのである。

この書評の冒頭が凄まじいというのは、半分冗談を含んでいるが、東大学長を務めたからといって、(明らかに彼はその肩書よりはるかに巨大な存在であるのに)、反権威主義的なバッシングを浴びせたり、ただひたすらその実態を無視したり、存在しなかったかのように振る舞ったりする bashing-passing-nothing の一連の流れは、日本の文化全体にとってあまりにも不幸すぎる事態だと言わねばならない。

本人が影響を受けたと公言しているジャン=ピエール・リシャール(と未邦訳の誰か)についても、デリダによる完膚なきまでの批判からリシャールを救いたいとどこかで蓮実重彦が記していたことを知りつつも、彼は絶対にリシャールで割り切れるような存在でないとの確信は揺るがない。

まともな蓮実重彦論というのは未だに書かれたことがないはずで、怖がって誰も近寄ろうとしないのは本当に困ったことだ。蓮実重彦について、自分はどこかで「リシャールに影響を受けたというのは嘘」「ドゥルーズの『差異と反復』との関連を探ってくれ」と走り書きして、投瓶通信で流しておいたのだが、先日散歩しているときに近所の小川に流れずに沈んでいるのを見つけた。流れなければ、届くわけもないか。 

そんな失望とともに何年かぶりに昨晩『小説から遠く離れて』をパラパラと読み返していると、出会ってしまった。いつもドゥルーズ的遭遇とラブストーリーは突然だ。

誰もが知っている物語を語ってみせながら、なお人を惹きつけてしまう術を心得た人間を、われわれは名人と呼ぶ。だが、小説には名人など存在しない。語り口の魅力とは、もっぱら物語について口にさるべき褒め言葉だからである。石川淳がはたして優れた小説家かどうか疑わしいというのは、そうした理由による。彼は、何度でもその巧みな語りを再現してみせることができるだろう。だが、小説が再現されることなど必要としているはずがない。小説とはもっぱら反復されるべきものであり、反復が可能なのは、同じでないことが明らかな場合に限られている。われわれが擁護してみたいのは、再現ではなく、反復の対象としての小説なのである。

「同じでないこと」の「反復」がドゥルーズの『差異と反復』という書名そのままであることは明らかだが、この周辺については、ドゥルーズニーチェ流の永劫回帰をどのように読み換えたかという文脈で、すでにこのブログで確認していた。

しばしば「時を越えて同一物が繰り返し回帰する」とされるニーチェ流の永劫回帰の概念を、ドゥルーズは恐るべき力でねじ伏せて転倒して見せる。時を越えて回帰するのは、差異化して生成するという同一過程だけであり、一度きりの固有の独創物は永劫回帰の循環の遠心力で吹き飛ばされてしまうというのだ。

このような「永劫回帰が生成変化しうるものだけを回帰させる」とするドゥルーズ流の永遠の差異の哲学の前で、自己の独創、権威、金に執着して右顧左眄する凡庸な書き手たちは、すっかり霞んでほとんど見えなくなってしまう。彼らとは遠く離れた高みにいたベケット安部公房のような世界水準の文学者たちが、晩年に多メディア適応性を発達させたことには、さらなる注目が必要だろう。

というわけで、「リシャールに影響を受けたというのは嘘」「ドゥルーズの『差異と反復』との関連を探ってくれ」という走り書きには、未邦訳のフランスの文学者との影響関係も含めて、探索を続けていくべき道筋としての確かさがありそうだ。

本邦初、時代を画する括目の蓮実重彦論の書き手としては、フランス語が堪能で、フランスの現代思想に通じていて、文学にも一家言を持っている人物が最適のような気もするが、いかがだろうか、というのが、今晩のフレンチのメインディッシュだ。

蓮実重彦のもう一つの美質は、先行する文人に対して、自らの「気配」を消してインタビュアーに徹し、豊かな言葉を引き出せる包容力。大岡昇平中村光夫吉本隆明江藤淳らとも、蓮実節を密やかにしまいこんで、先人たちがその可能性の中心で輝くような文脈へ誘導するよう腐心しているのがわかる。翻って、フーコードゥルーズデリダな輸入ジャーゴン駆使系の後進に対しては、自前で世界水準の思想を叩き上げた吉本隆明をもっと真剣に読むように、と教育的指導を垂れることも厭わない。戦後の日本がほとんど持ったことのないような全方位的な偉人なのだ。

さらに後進を行く自分としては、何とかこれまでいただいた借りを返すべく、いや、まだ借り足りているわけないとの確信のもと、昨晩言及した前田塁のような俊英と「蓮実重彦勉強会」をやりませんか、と声をかけたくなる思いをすんでのところで抑えたのは、前田塁がすでに充実した著作を世に次々に送り出し、カリオカことラモス瑠偉のごとく借りを返しつつあるからで、そのような立場の格差がありつつ声をかけるのは立場が逆転していて失礼だとの思いから尻込みし、どこかで2017年こそが『色彩…巡礼の年』だと発言したことが脳裏をよぎって、あの二桁の数字を逆転させた96年は、やはりロマンティックな夢想でしかありえず、いや、いま見ているこれは夢なのか、それもとびっきりの悪夢に似た夢なのか、とひとりごとを言ったところで、いま切実に待たれているのは悪夢からの「目覚め」以外にはありえないと確信できたので、不安な心がつかのま安らかに鎮まって、断続的な日々の不眠ゆえ、ふたたび泥のような眠りに落ちるのだった。

ROMANTIQUE’96

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